ばかな子ほどかわいい



 噴水が見たい、とダニエラが言った。なぜそんな話になったのかは覚えていない。前日に観ていたドラマに噴水が出ていたとか、そういう他愛もない話であったように思う。
 キースが思い浮かべたのは、マンションの近所にある公園だった。気候のいい時季、週末には家族連れやカップルがストリートパフォーマンスや季節の草花を楽しみながらそぞろ歩きをしている。ジョンの散歩ルートにもなっている美しい公園で、大きな噴水があった。
 
「いいね、行こう。噴水を見に行こう」

 キースが言うと、端末の向こうからダニエラのつやのある柔らかい笑い声が聞こえる。キースは彼女のベルベットのような笑い声が好きで、そのためなら何だって出来ると思っている。それじゃあ、また、と名残惜しく通話を切ろうとすると、ばいばい、と囁くように返された。

 公園の入り口に現れたダニエラは、白いワンピースを着ていた。最近バイクに凝っている彼女は丈夫なデニムか革のパンツスタイルを好んでいる。活動的なその姿がキースは好きだったが、スカート姿のダニエラを見るのが初めてで否応なくテンションは上がった。動きづらそうなほどタイトなワンピースがよく似合っていれば猶更だ。
 ぼんやりと突っ立ったままのキースを見て、ダニエラはサングラスを下にずらし、苦笑いする。

「わかってる。昼間の公園デートにしては気合入れすぎた」
「そんなことはない! あんまり素敵で言葉が出なかっただけだよ!」
「……ありがと」
「目眩がするほど綺麗だ。跪いて君の膝にキスしたいくらい」
「それはダメ」

 ダニエラは一歩後退ると、羽織っていたカーキのMA-1の前を掻き合わせた。それからちょっと笑って「ここではダメ」と付け足す。キースはその意味深な笑みにぴんと来ず、眉をひそめた。

「ここ以外? どこでならいいんだい?」
「……階段の踊り場とか?」
「なるほど、わかった!」
「多分わかってない」

 ダニエラは呆れたように肩をすくめたが、すぐに笑ってキースの背中を撫で上げる。

「これ着てきてよかった。喜んでもらえて嬉しい」
「私も、君が素敵な洋服を着て歩いていると嬉しい。君を羨望の目で見る全ての人に、君が私の恋人だと自慢してもいい?」
「……確認させて。それ誉め言葉として比喩で言ってる? それとも本気で言ってる?」
「もちろん本気だよ!」
「絶対にやめて」

 ダニエラはキースの手をやや乱暴にひくと、公園の中へ向かう。ボルドーのパンプスが公園の石畳を軽やかに打つのを見て、キースは嬉しくなった。
 出会った頃の彼女は、常に制服を着ていた。「男避け」や「NEXTを肯定するため」と彼女は言ったが、キースにはそうやって自分を罰し続けているように見えていた。いつでもどこでも制服を着るのをやめ徐々に色々な服を着るようになったダニエラはどんどん生気に満ちていって、キースにはそっちが本来の彼女に見える。だから、キースはダニエラが華やかに装うのが好きだ。
 キースはダニエラの手をそっと握りなおす。パンプスと同じ色の爪に軽く口付けた。

「本当に嬉しいんだよ。私は君が君の好きな恰好をしているのが好きなんだ」
「ほんと? 下着が着けられないんじゃないかってくらいぴっちぴちのタイトスカート穿いてもいい? しかもレザーのやつ」
「もちろん。きっととてもよく似合う」
「じゃあ、ヒールのすごく高いパンプスは? キースより背が高くなっちゃうくらいの」
「背の高い君も好きだよ。並んで歩いてほしい」
「途中で足が痛くなって歩けなくなるかも」
「そのときはおぶってあげよう」

 問われるままに答えていると、ダニエラは赤い頬を両手で覆った。

「なんでそんなパーフェクトなの……」
「何が?」
「なんでもない」

 ふいと顔を背けるダニエラのサングラスのテンプルを、キースは指先でつつく。

「外してくれないか。君の目を見ていたい」
「眩しいもの」
「木陰を歩くから」

 おねがい、と言うと、ダニエラはサングラスに手をかけ、少し鼻の方にずらす。リムの上から覗く琥珀色の瞳がどうしてか不機嫌そうで、キースはたじろぐ。

「どうして怒ってるんだい?」
「怒ってない。恥ずかしくて死にそうなだけ」

 ダニエラは結局サングラスを外さなかった。
 キースはほんの少しだけがっかりしながら、先を行くダニエラの後を追う。ふわふわと所在なさげな指先に後ろから触れると、ダニエラはごく自然に指を絡めてきた。それがひどく幸せだった。

「だいたい、男なんて大抵道行く女を見てるものよ。それにいちいち自慢しに行くの?」

 ダニエラはくすくすと笑う。キースは首を傾げた。

「そういうもの?」
「気付いてないと思っているのは本人だけ。――あんたの好きなタイプ当ててあげようか?」

 ダニエラはそう言って、悪戯っぽく唇に笑みを浮かべる。

「私は道行く女性をじろじろ見たりしない!」
「淡いブロンドのショートカット」

 ダニエラの言葉につきりと胸のあたりが痛む。言葉を失うキースに、ダニエラは目を細めた。

「白っぽい服。目立つ赤のアクセサリーがあればなお。ティーンみたいに華奢で細身。なんとなく倖薄そうな感じ。――キース、いったい誰を探してるの?」

 からかうような軽やかなその言葉に、キースは無意識に目を伏せた。そうだ。ここは彼女と出会い、待ち続けた公園だ。そう古い話ではないのに、まるで遠い昔の話のように思い出す。鮮やかで美しく、だが疼痛を帯びたそれを、キースが忘れることはない。

「あ、別に本気で聞いたわけじゃないからね。あんたの好みは分かりやすいって話」

 立ち止まったキースを、ダニエラは怪訝そうに振り返った。奇しくも件のベンチが目に入り、キースはそこから動けなくなる。

「ダニエラ、少し、そこに座ってもいい?」
「いいけど……どうしたの? 怒ってるわけじゃないわよ。ちょっとからかっただけ」
「わかっているよ。ただ、――聞いてほしいんだ、私の話を」

 キースの真剣な声音に、ダニエラは何も聞かずに頷いた。そういうところは彼女は本当に大人で、時折申し訳なくも思う。
 並んでベンチに座り、キースは何から話し始めるか逡巡した。

「ジェイク事件のことを覚えてる? ジェイク・マルチネス」

 唐突に希代のテロリストの名前を口にしたキースに、ダニエラは胡乱げな顔をする。

「ええ、忘れようにも忘れられない。私は自宅待機という名の軟禁状態で、仕事をすることも妹を探しに行くこともどこかに避難することもできなかった。NEXTだから、彼らに賛同する可能性があると思われてた」

 大なり小なりあの事件はNEXTの心に疵を残した。それは彼女も、己も例外なく。キースはダニエラの手を握る。あのときあれほど難しかったその行為が、今はこんなにも容易い。

「私はあのあとひどく――自信を喪失していて、何をやっても上手くいかなかった」

 それから、ぽつぽつとたどたどしく彼女の思い出を辿る。自分が感じたようにダニエラにも感じてほしくて、懸命に記憶を手繰り言葉を選ぶ。それに注力していたから、キースはダニエラがどういう顔でそれを聞いていたのかに気が回らなかった。

「――だから、私は彼女を探してしまうんだと思う。ありがとう、と伝えたくて」
「本当に? 本当にそれを伝えたいだけ?」

 声音は硬く冷ややかだった。彼女に出会ったばかりで迷惑を掛け通しだった頃さえ、そういう声をかけられたことはない。キースがはっとして顔を上げると、黒いレンズがキースを無感情に見つめていた。レンズの曲面に、戸惑う自分の顔が映っている。

「それは、どういう……」

 戸惑うキースをダニエラはじっと見つめ続けた。永遠にも思える時間のあと、ダニエラはゆるゆると首を横に振る。

「――ごめん、なんでもない。ごめんね」

 抑えた声が掠れている。

「私は、――」
「ごめん、あんたの思い出を勝手にほじくっちゃって。私、ほんとそういうとこあるから」
「君に聞いてほしくて――」
「分かってる。分かってるわよ、あんたはそういう人だし、その気持ちも分かるけど――」

 平静を保っていた声音が震え滲んだ。黒い硝子の下から透明な滴が頬をするすると伝う。キースは心臓を握りしめられたようになり、血の気がひいて一瞬気が遠くなった。

「なんで私に、そんな話するかな……」

 涙声でそう言われ、キースは何も言えなくなって茫然とその姿を見ていた。ダニエラはキースの手から己の手を引き抜く。それを止めることさえ出来なかった。
 ダニエラは淡々と手の甲で頬を拭くと、あれほど楽しみにしていた噴水に乱雑な視線を向ける。深く数度息をして、それから「やっぱりサングラスしててよかった」と言った。

「すまない、私は――」
「謝らないでよ、余計みじめになるでしょ」
「君を傷付けるつもりは――」
「違うの、傷付いたわけじゃなくて――」

 ふ、と言葉が途切れ、またぼろぼろと涙がこぼれる。ダニエラは小さく呻いて顔を覆った。

「ごめんなさい、泣いちゃって……なんだろ、最近涙もろいの。責めてるわけじゃなくて……、だってそもそも私が蒸し返したの。――ただ、……ごめん、ちょっと、一人にしてほしい。考える時間、ちょうだい」

 指の間から聞こえるひび割れた声が痛々しい。白いワンピースの胸元にぽつぽつと染みが出来る。
 ダニエラは顔を伏せて立ち上がると、濡れた指でキースの頬に触れて息を引き攣らせながらキスをした。

「今日は楽しかった。本当よ。たくさん褒めてくれてありがとう。愛してる」

 それだけ言って、来た時と変わらない足取りで彼女は去っていった。キースはその後姿に声をかけることも出来ずに見送った。彼女の涙が頬に残っていた。ふとそこに触れると彼女のものではない涙が伝っていて、そこでやっと自分も泣いていることに気が付いた。

 ――泣かせてしまった

 キースは慌てて立ち上がり、どうにも出来ずまた座り込む。穏やかな陽光は暖かく、和やかに談笑する人々が往来しているはずなのに、体はひんやりとして何も耳に入ってこない。

「泣かせてしまった」

 自分の呟く声だけが聞こえて、キースは一層胸が痛む。
 しばらくそのまま常と変わらぬ女神像を眺め続け、肌寒さを感じた頃にベンチを立った。重い体を引きずるようにしながら、ジャスティスタワーに向かう。
 取材や撮影が無ければ勤務時間はそこにいるのが常だった。それに、体を動かし汗を流せば痺れたように上手く働かない頭も晴れる気がする。
 そのはずであったのに、いつもと同じ負荷のトレーニングマシンは重く、ランニングマシンは息苦しい。早々に普段通りのメニューを諦めたキースは「やっぱりちゃんと謝ろう」と思い立った。
 謝らないで、一人にさせて、という彼女の言葉がぐるぐると頭の中を巡る。行かない方がいいのだろうか、顔を見せることでまた彼女を傷付けはしないだろうか。彼女の家に向かいながら、そんなことを考える。
 あたりはもう暗くなっていて、キースは閉店間際の花屋で小さな花束を買った。
 彼女の部屋の窓から細く灯りが漏れているのを見て、在宅を確認する。そっとドアベルを押すと、しばらくした後に覗き窓から薄い青色の目が覗く。
 細く、ドアが開いた。

「ニノン――」

 言いかけたキースを、細く開けたドアの隙間からニノンが唇に人差し指を当てて制止する。ニノンはキースが黙ったのを確認すると、唇に人差し指を当てたままそろそろとドアを開け、
外に出てきた。後ろ手にそっとドアを閉め、ついて来いとキースを手招きする。
 部屋の前から離れた非常階段の下で、ニノンはやっと口を開いた。

「喧嘩したの?」
「い、いや、そういうわけでは……――彼女は、泣いていた?」
「泣いてはないけど、もうぐっちゃぐちゃ。ぼーっとしてて、オムレツの卵は三個も握りつぶしちゃうし、グラスとスープボウルを割っちゃった。シャワーを止め忘れてて、私が気付いたからよかったけど、部屋を水浸しにするとこだった。溜息ばっかりついてて、かと思ったら無理に明るく振る舞ったりして、見てらんない」

 キースは項垂れ、小さく頷く。

「実は……」
「やめて! 私聞かないから! 私、こういうことではダニエラの味方しかしないって決めてるの。だからキースからは聞かない」
「ダニエラは、君に話すだろうか?」
「わかんない。話さないかも。今もバレてないって思ってるかもね」

 ニノンは部屋着の裾をいじりながらキースを見上げた。

「私、キースのことは好きだけど……でも……」
「すまない、君の大切なお姉さんを泣かせてしまった」
「……うん。……許せないけど、でも、早く仲直りもしてほしい」

 ふい、とニノンは部屋の方を見る。

「ダニエラね、男運が悪いの」
「それに私も入ってしまうだろうか」
「それは……それは分からないけど……でも、ダニエラは今まで浮気されたり、ひどいこと言われたり、元カレの元カノに刺されそうになったりしたこともあったけど、それに対してあんなに落ち込んだことはなかったよ。少なくとも、私が知る限りでは」
「……ど、どういうことだい?」

 ぺちん、とニノンに頬を殴られる。少し怒ったような瞳がキースを睨んだ。

「それくらい、自分で考えなよね」

 キースはしばらく俯き「わかった」と答えた。それから、握りしめてラッピングがくしゃくしゃになった花束をニノンに差し出す。

「これ、彼女に。何も伝えなくていいから」

 ニノンはつんと顎を上げた。

「怒ってる女に意味もわからず花を送るのは一番やっちゃ駄目なんだよ? キース、知らないの?」
「し、知らなかった……」
「信じらんない。よくダニエラはキースと付き合ってるよね」

 そう言って、ニノンは力なく笑う。

「ああなった姉ちゃんはもうしばらく誰の話も聞けないから。今日はもう帰ったら?」

 キースが頷き踵を返すと、ニノンはキースの背中に「花の次に贈っちゃ駄目なものわかる?」と問いかけた。

「わからない、いったい何なんだい?」
「ケーキ」
「……有用なアドバイスをありがとう、本当にありがとう」

 今まさに明日ケーキを買って謝りに来ようと思っていたキースは、顔を青くしてお礼を言った。


******


「おい、さっき回した書類どうした?」

 カイに問われ、ダニエラはゆるゆると視線を上げる。

「え、なに? なんの話?」
「さっき回しただろ。サインして上回すやつ」
「……え、いつ?」
「ついさっき……おまえぼーっとしてるけど大丈夫か?」

 訝しげなカイの視線から逃げるように、ダニエラはいつもより広く見えるデスクの上を眺める。

「……対処する」
「あ、そ。ところで、話は変わるけど、キースとは上手くやってるのか?」

 話変わってないじゃん、とダニエラは内心で毒づく。表情の読めないカイの顔からは、それがわざとかどうかは推し量れなかった。
 ダニエラは溜息をひとつ零す。

「拗ねなくて、仕事に文句言わなくて、言い負かそうとしてこなくて、避妊に協力的で、着るものに文句つけなくて、女らしくしろって言わなくて、女らしくするなって言わなくて、騒がなくて、金遣い荒くなくて、些細なことで怒らなくて、浮気もしなくて、浮気も疑ってこない男と付き合うのってすごく楽」
「……大きな気付きがあったようで何より」

 カイは呆れた顔を隠そうともしない。

「でも、私は意外と面倒くさい女だったかも」
「何かやらかしたのか?」
「やらかした。言いたくない」
「じゃあ聞かねえけど」
「デート中にいきなり泣きだして帰っちゃった」
「言うのかよ。……待て、おまえがか? え、ええー、おまえが? それは……それは本当に意外だ」

 そんな素直に驚かないでよ、とダニエラは苦笑いする。カイは無言でダニエラのデスクにチョコを置いた。

「これ、いつからポケットに入れてるの?」
「忘れた」
「ぬるくて柔らかくなってる……」
「いい頃合だろ?」

 ダニエラはそれをひとつ口に入れる。べたつく表面が手を汚す。ぬるいチョコレートはすぐに溶けて消えた。

「まあ、そういうこともある」

 カイはダニエラの隣の席の椅子を勝手に引き出し座った。ダニエラのデスクに肘をつき、事も無げに言う。
 ダニエラは甘い匂いの息を吐く。

「あってたまるか」

 カイは面白そうに目を細めた。
 いい歳をして、元カノ――とも言えない、惹かれただけの人の話を聞いて泣いてしまうなんて、恥ずかしくて誰にも言えない。
 ダニエラはチョコレートの包み紙を細く折る。次は対処できる。泣いて帰ってしまったことを謝って、いつもどおりに振る舞える。
 キースに悪気がないことを、ダニエラは分かっていた。ただ彼は自分の美しい思い出を自分と共有したかっただけだ。なぜなら彼は私を愛しているから。それが分かっていてなお、ダニエラはどうにもならない激情に負けてしまった。
 どうして泣いてしまったのか、ダニエラは自分でもよく分からないでいた。平気で昔好きだった人の話をしてしまう無神経さに呆れたから。デートコースを使い回されたから。いつも目で追っていた偶像が実在と知ってしまったから。記憶の彼女には張り合うことも出来ないから。彼女が彼を教え導いたから。記憶を語る彼が見たこともないような表情をしていたから。考えられることを全て考えて、どれも正解な気がしたがどれもぴんと来なかった。

「目眩がする」
「風邪か?」
「車酔い」
「え、おまえ車酔いするんだ」

 ダニエラは他のファイルに埋もれていた書類を引っ張りだし、中身を確認する。
 どうにもならないことだから、どうする必要もない。ほとぼりが冷めるのを待って、キースに謝って、あとは素知らぬ顔をしていればいい。
 それで痛い目を見続けてきたのも忘れて、ダニエラはそう思う。
 書類にサインをしてカイに押し付けた。


******


 トレーニングセンターのロッカールームで、キースは携帯端末の呼び出し音を祈るような気持ちで聞いていた。その音が途切れたときに、ほっとして涙腺が弛みそうになる。

「はい、ダニエラ」
「ダニエラ……、電話に出てくれてよかった」

 声色はいつもと変わらず、柔らかで優しい。それが一層キースを不安にさせた。

「出られるときは出るわよ。いつもそうでしょう?」
「…………もう、口もききたくないかと」
「あー……ごめんね、この間は。一人で帰っちゃって」
「私が……、 私が君を――泣かせてしまった……」
「違う。私が勝手に泣いたの」
「それは……」
「気にしないで。それで、何か用?」

 問われ、キースは言葉に詰まる。絶対にそんなことはないのに、ダニエラの語尾が冷たく鼓膜を揺さぶった気がした。

「分からない。……でも会いたい」
「うん……うん、じゃあ、どこにする?」

 咄嗟に思い付かず、あの公園の名前を出してしまう。ダニエラは一瞬黙り込み、そうだねと小さく答える。

「条件付けされないように、もう一度行って泣かずに帰ってこないと」
「ダニエラ……」
「言っておくけど今のはジョーク」

 珪砂を零したような笑い声が聞こえて、ばいばいと囁かれる。通話の切れた端末を手にロッカールームのベンチでぼうとしていると、人の気配がしたのでキースはそちらに顔を向けた。
 ロッカーの影から半分姿を覗かせるイワンが、気まずそうに目を宙に向けている。

「すみません、聞くつもりはなかったんですけど……」
「折紙くん」
「ほんとに、ただ、出るタイミングがなくて……」
「折紙くん、聞いてくれ! そして聞いてくれ!」

 キースがイワンに駆け寄りその肩を掴むと、彼は「ひ、」と小さく声を漏らして後退ろうとした。

「ダニエラを泣かせてしまった!」
「へ、だ、誰? ダニエラ?」
「私の大切な人だ」
「えっ、こ、恋の相談……? 人選間違いすぎてませんか?」

 いや、君でいい! 君がいいんだ! とキースはイワンの手を握る。イワンはたじろいで身を仰け反らせた。
 尊敬するキースの助けにはなりたいと思うが、イワンは己を相談員には不向きだと思っている。それは彼特有の後ろ向き思考であるが、おおよそ事実から大きくかけ離れたものでもない。

「僕なんかより、ファイヤーエンブレムさんとか、ブルーローズさんのほうが」
「いや、その二人には「そんなことしたの!? ありえない! 最悪!」と立ち直れないほど怒られてしまう!」

 キースのネイサンの真似が意外に似ていてイワンは目を丸くする。

「怒られるようなことしたんですか?」
「…………してしまった」

 彼に似合わぬ深い溜め息とともにキースは両手で顔を覆う。その姿があまりにらしくなくて、イワンはどうしていいか分からず「聞くだけ聞きます」と言った。

「ええと、まず、私には素敵だと思っている人がいたのだけど――」
「ダニエラさん?」
「いや、ダニエラに会う前に出会った子なんだ」
「んっ?」
「私は彼女に焦がれたのだけれど、もう会うことは出来なくて」
「は、はあ……」
「そのあと出会ったダニエラと、その子と会った公園に行って」
「へ?」
「その子の話をしたら」
「ふぁっ!?」
「泣かせてしまった」

 イワンは言葉を失い口を開けたり閉じたりした。ただ善良そうに肩を落として思い悩む目の前の男を見つめる。

「す、すみません、予想以上にありえなくて最悪でびっくりして声も出ませんでした」
「折紙くんはたまに辛辣だ」

 そして真摯だ、とキースは眉尻を垂れる。

「……その場でフラれなくて良かったですね、としか僕には」
「でもね、私は彼女に私のことを知ってほしかったんだ」
「昔好きだった人のことまで?」
「うん。駄目だろうか?」

 イワンは困ってしまって床を見つめた。

「それは……僕にはわかりませんけど……。でも泣かせてしまったのなら、駄目だったんじゃないでしょうか?」
「折紙くんの言うとおりだ。やっぱり私は彼女に謝りたい」
「……多分謝った方がいいですよ」

 謝って許してくれるかは分からないが。
 キースは後悔と痛みを滲ませながら小さく微笑む。

「彼女は優しいから、私に悪気がなかったのを分かっていて、傷付いてはいけないし怒ってもいけないと思ってる」

 だが、悪意がなくても人は傷付く。それはおかしなことでも、責められることでもない。

「私はダニエラに叱られたいんだ」
「……いきなり特殊な性癖の話をされてます?」
「えっ?」


******


 ライトアップされた噴水の縁に、ダニエラが足を組んで座っていた。仕事帰りのために制服の上に革のジャケットを羽織っている。なめらかな光沢に色とりどりのライトが反射していた。
 近付いてくる人影に気が付いたダニエラは顔を上げ、目元に笑みを浮かべる。

「長居は出来ないの。この後ニノンと映画を観に行くから」

 最後に見た泣き顔が嘘だったかのように、ダニエラは平然とそう言った。座っても? と尋ねると、ダニエラは唇の端を上げて己の隣を示す。噴水の縁に座る。夕焼けで温められた名残だろうか、石がデニムごしに少し温かい気がした。

「ダニエラ、この間は――」
「謝らないでよ、謝ったら一生許さない」
「……どうして?」
「プライドの問題」

 ダニエラは肩をすくめる。

「可愛くない女なの、ごめんなさいね」

 キースはとっさに彼女を抱き締める。レザーと、レザーオイルのにおいがした。冷えた首筋に唇を当てる。

「君を傷付けてしまった」

 キースが言うと、ダニエラは細く息を吐く。ゆるりとキースの胸を押し返し、ダニエラは痛みを堪えるような顔をして笑った。

「傷付いてない」
「でも、泣かせてしまった。私は、君を――」

 ダニエラはキースの手を取り、指先を握った。しばらく手遊びのようにその手を握ったり緩めたりし、ふとキースを見上げる。

「あんたは悪くないもの。怒ろうにも怒れない」
「怒ってほしい。悪気はなくても、私は君に嫌な思いをさせてしまった」
「怒らないわよ。私、怒るの嫌いなの」

 ダニエラは怒らない。ダニエラが怒らないのは己の怒りを認めたくないからだ。己の怒りを認められないのは、傷付いていることを受け入れられないからだ。
 キースはダニエラの手を握りなおし、己の口元に当てる。消極的に逃げようとする手を強く握った。

「君は残酷な人だ。私に後悔すら許してくれない」

 ぽつり、と呟く。平静を装っていたダニエラの瞳にさっと怒りが滲み、キースは一瞬「言うべきではなかった」と思った。謝るつもりがさらに怒らせてはどうにもならない。
 だが、ダニエラの怒りは発露することなく、呆れと驚きに塗り替わる。押し込めたというより「一周回って」という顔をして、ダニエラはキースに唖然と目を向けた。

「え? ……えっ? 私が悪いの!?」
「違う! そうじゃない! ただ私は君に謝りたいのに……!」
「その本人がいらないって言ってるのに!? 聞き分けなさいよ!」
「絶対にいやだ! 私は絶対に君に怒られる! そして君に謝る!」
「な、なにそれぇ……」

 キースの手の中で強張っていたダニエラの手が脱力した。

「あんたって私に平気なふりもさせてくれないの!?」

 どっちが残酷なのよ、とダニエラは毒づく。それから、ライトを映しこんだ瞳でキースを睨んだ。

「あんたはおっとりぽやぽやのほほんとしてて、たまにとんでもなく無神経でデリカシーがない」
「おっとり、ぽやぽや、のほほん……」

 子供向け番組のキャラクターみたいだな、とキースはふっと全く関係のないことを考えた。聞いてんの!? とダニエラの叱責が飛び、キースは背筋を伸ばす。

「絶対に謝らせない。昔好きな人がいたから何? あんたはデート中にその子に似た女の子を目で追ってて、その話を嬉々としてされた挙句デートコースを使い回されたことも――よく考えるとめちゃくちゃひどい」

 ダニエラは茫然とキースを見上げた。面目ない、とキースは項垂れる。謝罪の許可が出ていないのでまだ謝れない。

「あんたじゃなかったらとっくに噴水に突き落としてる。この外道、謝ったくらいじゃ許さない」

 ダニエラは深く長く溜息をつき、ライトアップされた女神像を見上げた。

「その子ともここで夜景を見た?」

 ぐ、と言葉に詰まるキースにダニエラは鼻を鳴らした。みてない、と嘘をつこうとしたが、喉のあたりが張り付いたようになって上手く言葉が出て来ない。

「み、みて……」
「見たのね」
「み、――」
「見たんでしょ」
「…………見ました」

 ダニエラは呆れたように笑った。

「気の利いた嘘のひとつもつけないんだから」
「……はい」

 普段の堂々とした姿からは想像もつかないほど萎れたキースを見て、ダニエラはほんの少し気がまぎれる。

「……怒ってない。ただムカついてはいる。だってあなたの話があんまり美しいから」
「それは……」

 怒っているのではないだろうか。だが、キースは賢明なことにそうは言わなかった。

「でも聞けてよかった。どうせあんたは嘘がつけないし、いつかはバレてた、絶対に。何かの拍子で知ってしまうより、今あんたの口から聞いてたほうがダメージは少ない」
「……ダニエラ」

 キースがダニエラの頬に触れようと伸ばした手はあっさりと叩き落される。

「でもムカつくことはムカつく。それとこれとは話が別」

 ダニエラが立ち上がり、スラックスについた埃を払う。それからすいと顎を上げると、キースを見下ろした。

「花が欲しい」
「――え、」
「その子には赤と白の薔薇の花束を用意したんでしょう。彼女の服と、好きな色に合わせて。私も花が欲しい。それで納得がいったら――考える」

 踵を返そうとするダニエラにキースは慌てて立ち上がる。

「ま、待ってくれダニエラ、もし……もし納得がいかなかったら……?」

 ダニエラは肩をすくめて笑うと、何も言わずに去ってしまった。その意味が分からないほどキースは鈍くはない――わけではないのだが、キースは本能的に「納得させないとまずい」と感じた。


******
 

 ダニエラが青い顔をしているのは恋人との仲が上手くいっていないからではなく、今見た映画が血吹き肉乱れるスラッシャーホラーだったからだ。警察官のくせにだらしない、とニノンはダニエラの青い横顔を見る。
 映画館の前には映画館から出ていく人と待ち合わせをする人でごった返していた。映画の感想を語り合いながら楽しそうにしている人の中で、腹の痛いような顔をしているダニエラは目立った。
 口を開きかけたニノンを、ダニエラが手で制する。

「待って、言わなくていい。警察官なのに、って思ってるでしょ」
「警察官なのに」

 うるさい、とダニエラは呻き、今にもポップコーンを吐き戻しそうな顔をする。もっとも彼女はほとんどポップコーンに手を付ける余裕もなかったが。
 姉がその手のものにあまり強くないのは知っていた。その一方で驚かし系オカルトホラーは全く平気なのがよく分からない。ニノンはその逆だ。作り物と分かっている傷や血は平気だが、驚かされると素直に驚いてしまうからオカルトホラーは苦手だった。

「ダニエラ、夕飯どうする?」

 どこかで軽く何か食べていくか、などと話していたのだが、この様子では無理そうだ。

「私は別にこのまま帰ってもいいけど」

 気遣うニノンに生返事を返しながら、ダニエラは映画館の入っているショッピングモールの案内板を眺めている。

「ちょっとどこかで何か飲みたい」
「大丈夫?」
「映画くらい彼氏と観に行きなさいよ」
「えー、だってこんなの彼氏と観に行くもんじゃないよ」
「姉と観るものでもないでしょ……」

 げんなりとした様子のダニエラが面白くて、ニノンはにやにやしながらダニエラを見上げた。
 ここ数年ぎくしゃくしていたダニエラと仲良く出来て、ニノンはほっとしていた。最初こそお互いにどう接していいか分からない部分もあったが、ダニエラの恋人であるキースが姉妹の仲をいい具合に取り持ってくれた。もっとも本人にそのつもりはないのかもしれないが。
 今では二人で出掛けることも多い。

 スタンドでクランベリージュースを買ったダニエラが、フードコートの席を選びながら「あんたは?」と言う。時間帯的にあまり混んでいないコートではすぐに良さそうな席を見つけることができた。

「やっぱりお腹空いた。ピローク食べていい?」

 ダニエラは黙ってニノンに10シュテルンドル札を差し出す。遠慮なくそれを受け取り、飲み物と小さく切り分けたパイのしょっぱいのと甘いのを一つずつ買った。
 席に戻ると、ダニエラはクランベリージュースをストローで掻き回しながら席につくニノンに視線をやる。ニノンはチーズ入りのパイを示す。

「食べる? ほうれん草とサーモンとチーズの」
「一口」

 ダニエラはそれを皿から取り上げ、一口かじる。パイ生地がぼろぼろとこぼれた。

「キースとは仲直りしたの?」

 なんとなく機嫌が良さそうなのでそう尋ねると、ダニエラはストローを齧った。

「……私、喧嘩したなんて言った?」
「言ってないけど」

 ダニエラはべ、と舌を出しストローを口から落とす。クランベリージュースで舌が赤紫になっていた。

「そんな他人に気を遣ってばかりだと私みたいになるわよ」
「うっわ、それはイヤ」

 ニノンがわざとらしく鼻に皺を寄せると、ダニエラはクランベリージュースを指先につけてニノンに飛ばすふりをする。

「喧嘩なんてしてない。そもそもキースと喧嘩って相当難しくない? あれは……喧嘩にならない」

 なんとなく言いたいことが分かって、ニノンは「むう」と唸った。明朗快活温厚篤実が服を着て歩いているようなキース・グッドマンだ。感情的に声を荒らげるところなどちょっと想像も出来ない。
 この二人では感情をぶつけ合う事態にはそうそうならないだろう。きっと喧嘩になったとしても、ダニエラがきりきり一人で怒り、キースがおろおろするだけだ。

「ただ……こんな話あんたにするのもなんだけど、キースにね、昔すごく好きだった人と出会った場所に連れて行かれて、その人の話を詳細にされたのよ。普通に信じられなくない?」
「それは……それはないわー。でもキースならやりそうー」

 ニノンは想定していた事態よりぶっ飛んでいた事実に目を丸くする。彼は善良で思いやりのある好青年だが天然ボケすぎて時折やらかす。傍で見ている分にはニノンはキースを「面白くて良い人」と思っているが、ダニエラはたまに大変そうだ。初対面もキースは全裸だったし、とニノンは思い出す。
 ダメ男どもに鍛えられたダニエラの忍耐強さがたまたま良い方向に働いて、二人は上手くやっていた。
 ダニエラはストローの袋を細かく千切りながら、溜息をつく。

「なんかね、飼い猫がグロテスクな虫を捕まえてきて、枕元に置いて行ったときみたいな気持ち」

 悪気がないのは分かっているが悲鳴の一つもあげたくなるし、腹立たしいが無下にも出来ない。当の本人は褒めてとばかりにこっちを見ている。その分かりやすい喩えに、ニノンは思わず笑ってしまう。

「でもやっぱりムカつくから、その子に贈ったみたいに私にも花束を寄越せって言ってみたの。ねえ、ニノン、キースは何を持ってくると思う?」
「うーん、赤い薔薇の大きい花束とか?」
「ベタすぎ」
「でもキースはベタなの好きそう」

 ふ、とダニエラは眉間に皺を寄せる。

「でも薔薇は彼女に贈ろうとしてたから、何色だろうと薔薇を持ってきた時点でアウトね」


******


「やっぱり薔薇じゃないかしら……」

 カーチャは目の前の好青年にそう提案した。
 カーチャがパートをしている花屋に、数日前から通っては苦悶の表情でガラスケースを見つめている青年がいる。それが彼であった。
 路地の花屋は、基本的に幸せな人が花を買う店だ。お祝い事や、贈り物や、たまにお詫びも。だが花を贈るような詫びごとは、つまるところ幸せなものでしかない。
 それを明日世界が滅びると聞いたような顔でガラスケースを凝視する男が連日花屋に現れれば、非常に目立つ。
 パート仲間と「あれ、どうする」と目配せしあっていたが、一番勤務歴の長いカーチャが代表して今日やっと彼に声をかけることになった。
 話を聞けば、恋人を怒らせてしまい花を要求されているのだという。どのような花がいいか、何色がいいのか、大きさは、予算は、ラッピングは。ブーケ、アレンジメント、それとも鉢物。全ての問いに男は困ったように「わからない」と繰り返す。痺れを切らしたカーチャは無難に「やっぱり薔薇……」と提案したのだ。

「薔薇……薔薇がいいのだろうか」

 よく見れば青い瞳の美しいハンサムである。薔薇の花束でも持っていけば、自分ならば大抵のことは許してしまう。

「ちょっとキザだけど、あなた格好いいもの。真っ赤な薔薇は? グリーンを入れると上品だし予算も抑えられてボリュームも出せるわよ。あとは、こういうピンクの薔薇なんかも可愛らしいでしょう?」
「とても素敵だ」

 ガラスケースに陳列されたピンクの薔薇を見て、彼は微笑む。でも、と困ったように続けた。

「彼女の趣味ではないかも」
「あら、そう。どんな子なの?」

 花選びの参考にならないかと尋ねると、青年は嬉しそうに笑う。

「強くて美しくて優しい人だよ」

 そういうことを聞いたのではないのだが。

「あー……写真か何かがあれば、彼女の雰囲気に合わせてブーケを作れるかも」
「なるほど! それはいい考えかもしれない!」

 青年は上着のポケットから携帯端末を取り出した。しばらく手元で操作し、笑顔で画面をカーチャに見せてくれた。カーチャは画面を見て一瞬絶句する。
 巨大なワニのような厳ついバイクに寄りかかるハードな革ジャンの女がサングラス越しにカメラを睨んでいる。

「……すごいバイクね」

 とりあえずそれだけ言った。画面の中のマフィアの情婦のような女と目の前のにこやかな好青年を、バレないように何度も見比べる。
 騙されていない? 大丈夫? とお節介を焼きたくなってしまう。
 青年は嬉しそうに笑い、それから少し悲しそうに肩をすくめる。

「彼女は車やバイクが好きなんだ。私は彼女の運転がとても好きなんだよ」
「う、運転が……」

 運転が好き、とはどういうことだろう。ますます分からなくなってきた。

「彼女は警察官で、パトカーや白バイを運転しているところが、凛々しくて、颯爽として、綺麗で――」
「け、警察官!?」

 どちらかといえば取り締まられる方に見える写真を見下ろし、カーチャは声を上げた。

「あんまり花を欲しがるようなタイプには見えないわね……」

 そうなんだ、と言いながら青年は画面を操作する。そっと手元を覗くと、女性が大きな犬の首に腕を回し頬を寄せ笑っている写真が見えた。おそらくバイクの女性と同じ人物だが、サングラスを外し白いブラウスを着た姿は思いの外笑顔が穏やかだった。おや、とカーチャは思う。少なくとも騙されているわけではないようだ。
 というか、そっちの写真を見せて欲しかった。

「花屋がこんなこと言うのもあれなんだけど、花じゃない贈り物はどうかしら?」

 たとえば花モチーフのアクセサリーとか、とカーチャが言う前に、青年ははっとした顔で「それだ!」と言う。

「アドバイスをありがとうご婦人!」

 それだけ言い残して慌てて帰っていく青年の後ろ姿を見て、カーチャはぽかんと立ち尽くす。なんとなく嫌な予感はした。


******


 今から行く、という電話を入れたのは、ダニエラが夜番明けの日の昼過ぎのことだった。午前中はきっと眠っていたであろうから、こんな中途半端な時間になった。
 細く開けたドアの隙間から、洗い髪のままのダニエラが顔を覗かせる。久しぶりに会った気がする。パトロール中や事故現場に走る警察車両を見て、あそこに彼女もいるだろうかと思ったことはあったが。

「早かったのね」

 口調が眠たげなのは、電話した時まで寝ていたからであろうか。

「その……入っても?」

 ドアが閉まる。一瞬キースは息を呑んだが、ドアはチェーンを外す音とともにすぐに開けられた。

「どうぞ」

 開いたドアから室内に入り、キースは手にしていたものをダニエラに差し出す。ダニエラは目を丸くし「え? なに?」と言う。

「ダニエラに。花――ではなくなってしまったのだけれど」

 差し出された箱に、ダニエラは言葉を失った。紫の塗装の金属製の箱で、一泊二日の旅行カバンほどの大きさがある。

「待ってキース、何それ? どういうこと?」
「……受け取ってもらえないかい?」
「だってそれ、工具箱じゃない」

 取っ手のついたボックスタイプのツールセットだ。以前ダニエラが使っていたものは家を手放したときに置いてきてしまった。もう自分には不要だと思っていたし、古く大きなプロユースのツールセットはそう簡単に持ち出せなかった。
 キースが持っているのはダニエラの父が使っていたものと同じブランドのロゴが刻印されたツールボックスだ。古い家で使っていたものはボックスタイプではなくキャビネットタイプで、色も紫ではなく赤であったが。
 ダニエラが目を丸くしたままぴくりとも動かないので、キースはおろおろと事の経緯を説明する。

「すまない、ダニエラには花と言われていたけど、どうしても思いつかなかった。だって、私が何の花を贈っても、きっと君は彼女に贈ろうとした花と比べてしまう。私も、そればかり意識してしまって、何を贈ったらいいか分からなくなってしまって……」
「だからって工具箱!?」
「きっと喜ぶと……」

 妙な声をあげて崩れ落ちるダニエラに、キースは慌てて駆け寄る。卒倒するほど外してしまっただろうか、とキースは青褪めたが、ソファに蹲るダニエラは息も出来ないほど笑っていた。
 キースは困惑してダニエラの背中に手を置く。

「どうして、どうして笑うんだダニエラ!? 一生懸命考えたのに!」
「ひぃっ……待って、無理……!! い、意味、分かんない……! ば、……ばかだなー!」
「そんな……」
「は、はなって、はなって言ったのに……! レンチは花じゃないわよ! ちょっと茎っぽいけど!!」
「そんなことは分かっているよ!」
「わ、わか……ごほっ、げほげほげほ」

 噎せ返り痙攣するようにソファで笑い転げるダニエラを、キースはどうしていいか分からずに呆然と見下ろした。突き返され追い出されなかっただけ望みがあるだろうか。

「やだやだ私を見ないでよ笑っちゃうから……あはははは!!!」
「ダニエラ……」
「ひひっ、ごめ……んふっ、ごめん、ごめん、でも、ちょっとあっち向いてて……!」
「…………分かった」

 ソファに座り素直にそっぽを向くキースに、ダニエラは何が面白いのか吹き出して笑った。ソファを伝わってくる振動が徐々におさまり、ひい、ひい、とダニエラが息を整えているのを背中で感じる。
 背後から耳のあたりににゅっと腕が伸びてくる。そのまま頭を抱きかかえられる。笑いすぎていたためか早い鼓動が、耳の裏のあたりでととくと規則正しく打っていた。

「あの子には薔薇の花束で、私にはラチェットとスパナ?」
「もしダニエラが本当に花が欲しいなら、これからいくらでもプレゼントするよ。誕生日でも、クリスマスでも、バレンタインデーでも、何でもない日にも。だけど、あの子にしたみたいに、と言われると困ってしまう。だって、あの子と君は違う。私はあの子のことを何も知らなかったから、花を贈ることしか出来なかった。ダニエラのことはたくさん知ってる。花以上に君を喜ばせられるものも」
「ねえ、だからって工具セットってあり?」
「嬉しくない?」
「嬉しいけど……なんかちがう。それならアクセサリーの方がよかった」

 目の前にあるダニエラの手首に、ゴールドのブレスレットがゆらゆら揺れているのを見て、キースは「ああ」と呻く。

「それは……思いつかなかった」

 耐えきれないようにダニエラはまた笑い出した。 

「本当は、工具を花みたいに包んで渡そうと思ったのだけど……」
「や、やめて、そんなことされたら笑い死にしちゃう……!」
「そのボックスが、紫色だったから」

 ダニエラはキースの肩甲骨のあたりに顔を押し付け、笑いすぎて出た涙を拭う。

「ここのメーカー、大抵赤か黒のカラーリングなのに珍しいとは思うけど。それが?」
「紫は私のイメージカラーだから」
「え、青い服ばかり着ているイメージだったけど」
「紫はスカイハイのイメージカラーだよ」
「ああ、だからニノンは紫が好きなのね」
「君にそれを使ってほしい。私は車やバイクを大切にする君が好きだよ。そして愛してる」

 こんなの好きじゃないと言いながら、車を扱うダニエラの目は輝いていた。たとえそれが呪いだったとしても。きっと彼女も、機械いじり自体は嫌いではないのだろう。もう車はしばらくいい、などと言いながら、すぐに中古のバイクを購入していた。

「楽しいことをたくさんしてほしい、ダニエラ。私は楽しそうな君を見ているのが一番楽しい」

 しがらみがなくなった今、ダニエラには気兼ねなく機械いじりを楽しんでほしい。
 ぐす、と鼻をすする音がする。どうしてかダニエラがまた泣いていて、キースは遠慮がちに首に回された手を撫でた。

「すまない、また何かおかしなことを……」
「あんたはおかしなことしか言わないじゃない」

 涙声が笑みを含んでいる。キースはおそるおそる背後に向かって尋ねた。

「プレゼントは気に入った?」
「42点」
「あ、赤点は回避できてよかった……」
「面白ポイントで100点、キースらしさポイントで200点。合計342点」
「それは何点満点で?」
「100点満点」
「高得点じゃないか!」

 キースが大喜びで振り返ると、ダニエラは目の周りを赤くして、呆れたように笑っている。キースはダニエラの手を取り、指と手の甲に口付けた。

「謝っても?」
「どうぞ」

 キースは深く長く震える息を吐く。

「本当に、すまなかった。君に嫌な思いをさせてしまった」
「ええ、そうね。絶対に許さない」
「えっ?」

 そんな、と硬直するキースにダニエラはまだ少し湿った髪を払いのけながら唇の端を上げた。

「だってもう知っちゃったもの。忘れられない。あんたはこれからずっと、常にその子より私を大切にしなきゃないのよ。あんたの美しい記憶より大事にされてないと少しでも感じたら、私はあんたなんかいつだって即効捨ててやる」

 キースはダニエラの手を強く握る。

「約束しよう」
「あんたってあほねぇ、言わない方が楽だったのに」
「でも、君に知ってほしかった」
「あほちゃんね」

 あほちゃん、と両手で頬を挟まれ、キースは広い肩をすくめて泣き笑いのような顔をした。我慢出来ずにダニエラを抱きしめ、顔中にキスをする。睫毛に露のようについた涙がしょっぱかった。
 キースはダニエラの首筋に鼻先を押し付ける。着けたばかりの香水のトップノートが鮮やかに香った。

「ダニエラ、ニノンは……」
「学校。今日は友達一家にディナーに招待されてるから帰りは遅くなるって」
「ダニエラ……」
「ここじゃダメ。私の部屋」
「君の部屋はまだダンボール箱だらけかい?」
「まあね」

 キースはダニエラを抱き上げる。浮遊感にダニエラは小さく声を上げた。キースはダニエラの部屋に向かいながら、ダニエラの額にキスをする。
 抱き上げた体に違和感があった。

「ダニエラ、少し痩せた?」
「どうかしら、最近忙しかったから」
「3.7ポンド?」
「……ジャスト」

 なんで分かるのよ、こわい、とダニエラは呻く。体調管理はヒーローとして重要な業務だ。タイトなスーツと飛行のために体重管理が必要なスカイハイならなおさら。
 さっきまで使っていたのだろうシーツは少し乱れていて、キースはダニエラをそっとそこに下ろした。ダニエラの腕がキースの首に絡みつき、掬いあげるように一度キスをされる。

「私が悲しませてしまったから……」
「ちがう、ちがう。だってあんた細っこい子が好きだから、ちょっと体重落とそうかなって、」

 思って……、とダニエラは恥じらっているのか悔しがっているのか分からない顔で歯噛みしながらキースから視線を外す。
 キースはダニエラに覆い被さり、柔らかな胸元にキスをした。そんなことをキースは思ったことがない。ESUとして訓練され、引き締まってカーブを描くダニエラの体が好きだ。

「君が好きなんだよ。君の精神も、そして肉体も」
「に、にくたい!? なんかイヤな言い方しないで!」

 ばしばしと胸を叩かれる。キースは笑って腕の中にダニエラを閉じ込めた。二人分の体重に据え付けの古いベッドが軋む。

「髪を切ってホワイトブロンドにしてやろうかな、これは当てつけだけど」
「きっと似合うよ。もちろん今の君もクールでエレガントで私は素敵だと思う」
「いやだから当てつけ……まあいいや。あんた私が何しても褒めるんだもの、あてにならない」

 キースはダニエラの髪を指で梳いた。白いシーツに暗い色の髪が広がっている。好きな光景だ。

「だって君は完璧だから」
「完璧なら思い出に嫉妬して泣かない」
「君が泣いていて、びっくりしてとても申し訳なく思ったけど、でも今は少しだけ嬉しい」

 ダニエラはものすごく嫌そうな顔をしてキースを押しのける。厚くて重いキースの体はびくともしないが。

「やめて、言わないで」
「そんなに私のことを好きでいてくれるなんて」
「いいい言わないでって言ってるのに!」

 ダニエラは両手で顔を覆ってしまう。キースはダニエラの手の甲に、赤くなった耳に、さらされた喉に口付けた。

「本当に嬉しい」

 ダニエラの足の爪がキースの足の甲をひっかく。

「ばか」

 手のひら越しに囁かれた。

「反省が足りない」
「そんなことはない。もうしない。約束する」

 ダニエラは手のひらを顔から離し、キースの頬に触れ、額に触れ、前髪を掻き上げる。琥珀色の瞳が鋭くキースを見上げた。

「ねえ、もしその子がふらっと現れたらどうする?」

 頬を張られたのかと思うほどの衝撃に頭がふらふらした。え、と言葉に迷うキースに、ダニエラは冷ややかな視線を向ける。

「私にしたみたいに、平気な顔でその子に「恋人が出来た」と言うの? それとも、またその子に夢中になる?」
「そんなことは――」
「考えたことがないわけじゃないんでしょう? だってあなたはいつもあの子を探してる」

 キースはダニエラに覆い被さった姿勢のまま、しばらく考え込んだ。ダニエラの視線が痛い。

「仮定の話は私には難しい。でも、今、私が一番愛しているのは君だよ」
「そこは嘘でも何があっても私だけって言いなさいよ」

 ほんとに嘘がつけないんだから、とダニエラは笑った。それから、ダニエラはするするとキースのシャツの下に指を滑らせた。
 ダニエラは鼻を鳴らしてキースを見つめる。琥珀色の双眸にきつく睨まれ、キースは陶然とそれを見下ろした。

「もしもの話、その子が現れても、正直私は負ける気しないわ」
「それは頼もしい!」
「こっちはあんたのタマ握ってんのよ。美しいだけの思い出なんか腹も膨れない」

 ん? とキースが首をひねっている間に、ダニエラはキースの腰のあたりに脚を回し、ベッドに引き倒した。キースのシャツはとうに奪われ、ベッドの下に放り投げられている。

「……ダニエラ? 今日は私にリードさせて――」
「百年早い」