おお、愛しうる限り愛せ(上)
Sunday 5:30
ささやかなアラームが鳴るのと同時に止められる。ベッドが軋み、ダニエラが上体を起こそうとする。キースはそれを抱きしめて押しとどめた。
「……おはよ、キース」
短くそう言われる。キースはダニエラの腹に顔を押し付けた。寝起きのダニエラのひんやりとした指がキースの髪を梳く。
「おはよう。昨夜は――」
「お互いコールの無い夜は最高」
ダニエラは毛布とキースを押しやると、寝間着を脱ぎ捨て下着とランニングウェアを身に着ける。朝のロードワークは夜勤のない日のダニエラの日課だ。それはキースと迎えた朝でも変わらない。
「ジョン借りていい?」
「ああ、もちろん」
すでに期待に瞳を輝かせているジョンがリードを咥えてダニエラの足元に纏わりついている。ダニエラはあくびを噛み殺しながらジョンからリードを受け取り、ふさふさの頬を両手で撫でた。
キースはそれをベッドから夢現に眺める。ダニエラはバスルームに慣れた足取りで行き来していた。水の流れる音と裸足の静かな足音で、またうとうとと眠気が襲ってくる。玄関ドアのロックが開けられる音がし、犬の爪がタイルをかつかつと叩く音がその向こうに消えていった。
体温の残るシーツに頬を寄せる。
ダニエラは愛情深く優しい女性であるが、それを露骨に表しはしない。一見すると素っ気なくさえ見える。彼女の愛情を疑ったことはないが、少し寂しく思うことはある。
本当は「五分だけでも手を握っていて」と言いたいのだが、彼女の邪魔もしたくない。そう言えば彼女はきっとそれを断ることはなくて、だからこそそんなことは言えなかった。
Sunday 17:19
小さな帽子が宙を待っていた。あ、と小さな声を漏らした少女がそれを追う。キースは転げていく帽子を拾い上げ、少女に差し出す。
「どうぞ、レディ」
ありがとう、と嬉しそうに微笑んだ少女は、跪いたキースの耳に小さな桜色の唇を寄せた。飾りの一つもついていない耳にひそひそと何かを囁き、その後で少女はキースの頬にキスをした。ダニエラはそれを「最近の子はませてるな」などと思いながら眺める。
キースは破顔し「ばいばい、そしてさようなら」と手を振った。少女はにっこりと微笑むと、レディさながらにワンピースの裾を摘まんで一礼し、走って家族の方に戻っていった。
週末の夕方、家族連れたちは帰り支度を始めている。キースと仕事帰りのダニエラはジョンを連れて公園でぶらぶらしていた。気の利いた店に行くのも好きだが、こうして意味もなく一緒にいるのが楽しい。ジョンがいればなおさらだ。
ダニエラはさっき少し気になっていたことを尋ねてみる。
「ねえ、さっき帽子を捕まえるのに能力を使った?」
「いいや、使ってないよ。どうして?」
「なんとなくそんな気がしただけ」
Monday 14:22
「――驚かないで聞いてほしいんだけどな」
おずおずと告げる虎徹に、電話越しのダニエラの溜息が刺さる。これ何度目だ? と虎徹は心の中で数える。まだ三度目だ。いや、もう三度目か。
「警察に親しみを持ってくれるのは歓迎だけど、もし良ければ911してほしい」
「ちょっと……大変なことが……」
ダニエラの声に疲労が滲んでいる。
「大変? こっちは朝から性別を反転させるNEXTのいたずら被害が相次いでて本当に忙しいんだけど」
「ああー……キースがその餌食に」
「Whiskey Tango Foxtrot」
「……フォネティックコードで悪態つくなよ。何かと思うじゃねーか」
ごめんな、と虎徹は思わず謝罪の言葉を口にする。よく携帯端末を投げなかったな、と内心で拍手しておいた。なんだかんだ彼女は辛抱強い。それくらいでないとキングオブヒーローの恋人は務まらないのだろうか。
制服姿のまま会議室に現れたダニエラはパイプ椅子に座ったキースの姿を見て「ふわ」と奇妙な声をあげたきり凍り付いてしまった。虎徹が何から説明したらいいか分からず呻く。
ダニエラに心配をかけたくないと渋るキースを押しとどめてダニエラに連絡したのは虎徹だ。パートナーに迷惑を掛けたくない、格好悪いところを見せたくないという気持ちも分かるが、二人とも大人なのだ。必要なところでは頼りあったほうがいい。
電話での対応から虎徹はダニエラが呆れたり、キースの不注意に怒ったりするかと懸念していた。だが、ダニエラは一瞬困ったような顔はしたが、すぐにちょっと笑っていつもよりずっと小柄になったキースの傍らに膝をついて手を取る。
「怪我はないようでよかった。気分は悪くない?」
大きな青色の瞳を丸くし、キースは頷く。
「ああ、気分は……どうだろう、戸惑っている」
「それもそうね」
ダニエラは肩をすくめると、キースは椅子の上で身を縮こまらせた。丸みを帯びた肩を長い金髪が滑り落ちる。ダニエラはその髪を一房取り上げた。
「分かってる。大変な事態よね。産まれてこの方男として生きてきたのに急に女の体になっちゃって戸惑うわよね。こんなこと言ってる場合じゃないって思う。でもどうしても言わせて。すっごくキュート」
「え?」
「んんっ?」
キースが首を傾げ、虎徹は仰け反る。ダニエラだけがうっとりとキースのふっくらとした頬に優しく触れた。
「まつ毛金色でふっさふさ。マスカラ使わないの?」
「マ、マラカス……?」
「ちょっと試してもいい?」
「……戻った時に大変なことにならないだろうか?」
「マスカラくらいなら大丈夫よ。あ、あと軽くベースメイクして眉毛描いてアイメイクとチークだけしていい? 薄い色のリップも使っていい? 出来ればちょっとシェイディングさせて」
「私は女性の身だしなみには詳しくないけど、それってほとんどフル装備じゃないのかい?」
ダニエラは舌打ちをし「ばれたか」と笑った。それからキースの足下に跪き、ぶかぶかのデニムパンツの裾をロールアップする。キースは不安げにそれを見下ろした。
「こ、このまま戻らなかったら……」
「シュテルンビルトは同性婚出来るから」
「だって……私は君との子供が三人は欲しい……」
「そんな話は初耳ね」
「まだ言っていなかったから」
「……まあ、それは要相談で」
虎徹はそれをぼんやりと眺めていた。不安そうな顔をするブロンドの女の足下に、呆れたように笑うブルネットの女が跪いている。なんだか倒錯的な光景に見えた。
「失礼します、さっきアニエスさんが、……何をやっているんですか?」
ドアを開けたバーナビーが室内の光景を見て、怪訝そうに眉を顰める。完全に二人の世界になりかけていた室内で窒息しかけていた虎徹は助かったとばかりにそちらに顔を向ける。
ダニエラはにっと唇の端を上げ、キースにハグすると濃い金色の巻き毛にキスをした。
「あんまり可愛くって、つい」
「そうは思えませんね。元は男性だと知っているので」
「そう、残念」
あのバニーちゃんをよくもああ煽れるな、と虎徹は自分のことを棚に上げてそう思う。バーナビーはキースの方に視線を向けた。
「アニエスさんが、今日は帰ったほうがいいと。元に戻るまでは自宅待機だそうです」
「そうか……ありがとう、バーナビーくん!」
にこり、とキースが笑う。バーナビーがわずかにたじろいで唇を引き結んだ。ダニエラがにやにやしながらキースの腰に腕を回す。
「ちょっとこのカワイコちゃんは予約済みよ?」
バーナビーは何も言い返さずに鼻を鳴らしただけだった。
帰宅のために荷物を取りに戻るキースを見送り、虎徹は険しい顔でキースの背中を見ていたダニエラに視線をやった。視線に気が付いたダニエラはすぐに虎徹に目を向ける。
「なんであの人ってあんなに……巻き込まれ体質なの? ヒーローってそんなもん?」
「ああー……あいつの特性だな」
虎徹が答えるとダニエラは肩をすくめた。虎徹は何から言うか迷い、帽子越しに頭を掻きながら言葉を選ぶ。
「あのな、これは真面目な話なんだが、あいつは本物のキングオブヒーローなんだよ」
虎徹が言うと、ダニエラは怪訝そうに眉を顰める。
「それは何かの比喩?」
「ちげえよ。――つまりな、ああー……なんて言ったらいいかわかんねえ……」
誰かを支え、勇気付けることの出来るあの男は、誰かに助けられることに慣れていない。
「明るくて、いつもにこにこしてて、ポジティブで、天然ボケで、たまにどうしようもなく空気読めねえし……や、いい奴なんだけどな」
「何の話?」
虎徹は咳払いし、ダニエラの目を見つめる。
「あいつを支えてやってくれな。……余計なお世話かもしんねえけど」
ダニエラは一瞬目を丸くし、次いで少し困ったように微笑んだ。
「ああ……どうかな。私も彼に助けられてばかりだから」
「たまには甘やかしてやってくれよ」
「そうね、それくらいなら出来るかも」
Monday 16:23
ドアを開けると室内の照明がいっせいについた。そういうつくりだと分かっていても少しぎょっとする。カウチで昼寝を決め込んでいたらしいジョンが、いつものように出迎えに駆け寄ってきたが、キースの足下で怪訝そうにしつこくにおいを嗅ぎ始めた。
「私だよ、ジョン」
そう呼びかける声も女性のものだ。ジョンは納得したのかしないのか、不思議そうな顔をしながらキースの顔に鼻先を寄せた。それを見てダニエラは肩をすくめる。
「なんだか変な感じ。あなたの目が私より低い位置にある」
「私も変な感じがするよ」
眉尻を下げて笑うキースの唇にダニエラはキスをする。キースは露骨に狼狽え、手にしていた上着を床に取り落とした。ダニエラはキースを腕の中におさめる。
「ちいさい」
「そう言われるとちょっと……嫌な気分かもしれない」
「ごめんなさい、つい」
ダニエラは苦笑して手を離す。
先ほど署に残っていたカイから苛立ちまじりの電話が来た。性別を反転させるNEXT能力者は確保された。どうやら現れたばかりの能力が暴走しただけで、悪意のある行為の結果ではなかったらしい。どちらにせよ被害者にとってはいい迷惑に変わりはないが。
本人の言葉を信じるならば、通常は数時間で効果は切れるらしい。
「こんなこと言うの、本当に申し訳ないんだけど」
ソファに座りジョンの頭を撫でているキースの傍らに座りながらダニエラはおずおずと申し出た。元から良い男だとは思っていたが、女性となるとなんというか破壊力が違う。
健康的で、溌剌として、はちきれそう。日焼け止めのCMに水着姿で出てきそう。自分より年上のはずなのに、この可愛らしさはなんだろう。肌は綺麗だし、筋肉のついたしなやかな体はつい触れてみたくなる。
キースは口角をきゅっと上げて首を傾げた。かわいい。育ちのいい犬みたい。
「せっかくの機会だし……ああ、いや、こんな言い方はおかしいけど、ええと、体触ってもいい?」
「え? ――えっ? え、……恋人同士だし、いいんじゃない……かな?」
困ったように眉を垂れながらキースが言う。恥ずかしそうに目を伏せられた。
ダニエラはそろそろとデコルテのあたりに触れる。いつもは逞しく分厚い体が、どきどきするほど頼りない。
「ダニエラ、くすぐったいよ」
「ごめんね」
両方の口角に親指を当てて、ふにふにと押す。頬が柔らかい。髭もない。変わらぬ空色の瞳が不安そうにダニエラを見上げた。
「つかぬことを聞いてもいいかい?」
ダニエラはサイズの大きすぎるTシャツを直に押し上げる胸に布地越しに触れる。きゃん、と尾を踏まれた犬のような悲鳴が上がった。ダニエラは柔らかい体をたゆたゆと弄びながら、完全に片手間に返事をした。
「どうぞ」
「わ、あっ、ダニエラそれはちょっと……!?」
言いたいことはそれ? とダニエラは眉をひそめる。真っ赤な顔でキースはダニエラの手を阻む。どこか遠慮がちに突き出された手に、ダニエラは指を絡める。別に突き飛ばしたっていいのに、と思った。今のキースならばじゃれあいで済ませられる。いつもだったら壁まで吹っ飛ばされそうだが。
「聞きたいんだが、その、ダニエラは、女性も好きだったりするのかい?」
ほっそりとした円錐形の指を握ったり緩めたりして遊んでいたダニエラは、ぴたりと手を止める。思い切り眉をひそめてキースを睨んだ。
「なに?」
「だって、あんまり戸惑ってないようだから」
言いよどみながらキースが言う。ダニエラは溜息をついて柔らかな胸に頬を寄せる。キースはなんとなく居心地悪そうに身じろいだ。心臓の鼓動はいつもと変わらない。
「あのね、こっちはプロなの。犯罪被害者や巻き込まれた人物への接し方はプログラムも受講してるし実地経験もある」
「そのプログラムにはこんな淫らな内容が……!?」
青褪める頬をダニエラは平手でぴたぴたと叩く。
「それは機密事項」
厚めの唇に口付けた。わななく手がダニエラの手を握り返す。
「ダニエラに、どう思われるかと、少しだけ不安だった」
「毎度毎度性懲りもなくわけのわかんない事件に巻き込まれてばかじゃないの。あんたなんて顔と体と性格がよくなかったらさっさと捨ててるのに――って思ってるけど」
「……わお」
キースはちょっとだけ頬を膨らませた。
「そうじゃなくて、私が女性になってしまったら、愛されないんじゃないかと思って」
小さくなる語尾を聞きながら、ダニエラはキースの薄くそばかすのある鼻を摘まむ。
「ああー、うん、そうねえ……確かに、自分でも驚くほど抵抗感はないかも」
自分はバイセクシャルだったのだろうか。今更確かめようとも思わないが。
完全にサイズが大きすぎるベルトは、一番小さなホールで留めても余っている。ウエストを引き絞られたデニムパンツは不格好なしわが出来ていた。それを片手で外すと、キースは甲高い悲鳴をあげた。
キースの手がぶかぶかのデニムを必死で掴んでいる。
「ストップ! ダニエラ! それは……それはいけない! そしていけない!」
「いやだ?」
「……抵抗がある」
「そう、わかった。ごめんね」
ざんねん、と囁きながら首筋にキスをする。嫌がるキースに無理強いできないのは、キース自身が決してダニエラに無理強いすることがないからだ。優しくなったものだなあ、とダニエラはキースの耳元で笑う。キースがくすぐったそうに声を漏らした。
キースの腕が背中に回される。ダニエラはふと笑った。
「ダニエラは優しい」
「私が優しいのはあんたが優しいからよ」
ダニエラは柔らかな巻き毛を撫でると、ソファから立ち上がる。
「あくせくしたってしかたないもの。夕飯を食べて、お茶でも飲んで、とりあえず寝ちゃいましょう」
Tuesday 5:30
アラームとともに目を覚ます。動物として駄目になりそうなほど寝心地のいいマットレスから身を起こした。体を支える手が柔らかく沈む。傍らで寝ていたキースが深く息を吸い身動ぎした。
「おはよう、ダニエラ」
少し掠れた高い声が名を呼ぶ。いつもならば体にフィットしているTシャツが笑ってしまうほどオーバーサイズだ。戻っていない。ダニエラは不安を感じたが、それを表情に出さないように、いつもどおり挨拶を返した。
キースはのろのろとダニエラの腰に腕を回そうとし、その腕が細く、手が小さいことに気が付き固まってしまった。
「……戻っていない」
ダニエラはキースの宙ぶらりんの手を握る。
「そうね」
「困ったね」
ダニエラの手をゆるく握り返しながら、キースは困り顔で笑った。ダニエラはふと昨日虎徹が言っていたことを思い出す。彼は「何と言ったらいいか分からない」と言ったが、なんとなく言いたいことが分かった気がした。
ダニエラは細い指に口付ける。
「私は困らないわよ。別に、あんたがどんな姿でも――」
言ってから「いや、違うな、こうじゃない」と思った。だが一度吐き出した言葉は戻ってこない。ダニエラは目を瞑り額を押さえると「待って、今のナシ。もう一回……」と呻く。その先を続ける前にキースに飛び掛かられ、マットレスに背中から突っ込む。ベッドの上でなければ命に係わる怪我をするところだった。
今のキースは自分より背も低いし腕力も大したことがないと思っていたのだが、思いのほか力が強い。
「ありがとう、そしてありがとう」
「あ、それ、女の声で言われるとぐっとくるかも」
胸元に顔を押し付けてくるキースの髪を撫でる。寝乱れた巻き毛は絡まりあってくしゃくしゃになっていた。
「ダニエラ、今日、仕事は休みだったね?」
まだ少し眠たげな青い瞳に見上げられる。あー、とダニエラは頬を掻いた。
「ごめん、件の性別反転NEXTの件で呼び出されてる」
NEXTが若い女性であったらしいのだが、特に事情聴取に反抗的なわけではないのに供述が要領を得ないらしい。何かを隠しているのではないかということで、明朝NEXTの女性警官による聴取を、という運びだ。署内に女性のNEXTはダニエラとあと一人きりで、どちらかとなったがダニエラに白羽の矢が立った。
「一人にさせちゃうけど、大丈夫? 多分昼前には帰れるとは思うんだけど」
「平気だよ。ジョンと遊んで待っているから」
そう、と呟きダニエラは覆いかぶさっているキースの首に手を回した。
「もし散歩に行くなら私の服貸すけど」
「……ありがたい申し出だけど、もし途中で戻ったら大変なことになるからやめておく」
Tuesday 8:42
先にデスクに着いていたカイに先日までの調書の写しを手渡される。マリーア・ヴィスコンティ、19歳。NEXTの登録はなし。発現したてか、隠し続けてきたか。本人曰く、こんなことは初めてで、自分がNEXTということも知らなかったと供述している。被害者は届け出があっただけで――キースを含め――6名、うち男性が4名、女性が2名。身元引受人は勤務先のキャバレーの店長。
不貞腐れたような困惑したような顔写真を眺めた後、ダニエラは溜息をついた。それを聞いたカイが肩をすくめる。
「気持ちは分かるが、おまえのついでで呼び出された俺の前で溜息はナシだ」
「恋人が被害者よ? 溜息くらいつかせてよ」
書類の角を揃えて立ち上がると、担当刑事のドウェインがドアの向こうからダニエラに合図をする。ダニエラはそれに応えて立ち上がった。カイに書類をひらひらさせて見せる。
「どう思う?」
「少なくとも「これが初めて」ってのは嘘だな。初めてにしては能力が完成されてる」
「同感」
聴取室は特殊なガラス張りになっていて、中からは外が見えないようになっている。前室でドウェインとカイが待機、ダニエラだけが聴取室に入ることになった。
「悪意があったとは思えないが、どうにも引っ掛かる。無差別に発動するNEXTではなさそうだ。詳しい話を聞けるか?」
「やるだけやる」
ドウェインから質問リストを受け取り、目を通す。聴取室のドアを開けると、マリーアが疲れきった顔をダニエラの方に向けた。
ダニエラはなるべく威圧的でないよう、口の端に笑みを浮かべた。
「巡査のダニエラです。朝早くからご協力に感謝し――」
話し始めたダニエラに、マリーアは怯えたように顔を歪める。
「あ、おねえさん、だめ――」
「え?」
瞼の裏に青い光が瞬き、目が眩む。ダニエラは床に膝をついた。手をかけたパイプ椅子が音をたてて倒れる。
前室からカイがドアを蹴破るように入ってきた。ドウェインがマリーアにその場を動かないよう能力を発動しないよう強い口調で指示する。
彼女の能力が暴発したのだということは分かった。矛先が自分であったということも。だが、ダニエラは自身の姿を確認する余裕もなかった。ダニエラは胃袋が引っくり返るような痛みと圧迫感に身悶えする。スラックスを留めるベルトがきつく腹に食い込んでいた。
「う、うえっ、くるし、これ取って! 半分になりそ……」
「取ってやるから暴れるな!」
「むりむり、いたいいいたいいたい! うええ……」
ぴっちぴちの制服を着た男のベルトを外そうと奮闘する男の絵面を見て、ドウェインはなんとも言い難い顔で呻いた。マリーアが青褪めた顔で「BLじゃん」と呟くのを聞いて、ポロシャツに首を絞められ呼吸困難に陥っていたダニエラは「あとで覚えてろよ」とマリーアを充血した目で睨んだ。
Tuesday 9:17
結局、制服はハサミで切ることでしか脱げなかった。カイにポロシャツとスラックスを切って脱がせてもらうしかなかった。靴のサイズも変わり、足下は裸足にサンダルを履いている
借り物の制服を着たダニエラは差し出されたコーヒーを受け取り、口をつけた。差出人であるカイが、自身のカップを片手にダニエラの傍らに座る。
「落ち着いたか、色男」
「だいぶね、ありがとう」
答える声が低い。本当に自分で答えているのか混乱する。不機嫌そうなダニエラにカイはげっそりと溜息をつく。
「同情はするが、これだけは言わせてくれ。セクシーなレースの下着からはみ出たヤロウのブツ見た俺の気持ちがおまえに分かるか?」
「やめて言わないでやめて」
お気に入りの下着は伸び切り、やはり切り裂いてしか外すことが出来なくなった。さすがにそれは自分でやった。おまけに腰にはレースと同じ柄の蚯蚓腫れが出来ている。さいあく、とダニエラは呻いて顔を手で覆った。
「女から男に変わると体のサイズの問題があるのね」
「他の女性被害者は比較的余裕のある服装だったみたいだな」
「……変なもの見せてごめん」
「ああ、ああー、いや、……正直キッツイ」
「ごめんって」
お互い乾いた笑いをこぼしながら溜息をつく。急ぎ足で二人のデスクまで寄ってきたドウェインがダニエラの顔を一瞥した。
「おい、サーファーくん、マリーアがあんたになら話すって言ってる。来てくれ」
「その前に言うことがあるんじゃない?」
「お、そうだな。その見た目でその話し方はキモイぞ」
ダニエラは癖で前髪を掻き上げようとし、そこに何もないので短い前髪を少し指先でいじった。鼻を鳴らしてドウェインの後を追う。
背がだいぶ伸びたので歩幅も広いし視界も良好だ。それは少し爽快だった。聴取室の重いドアがさして力を入れずに開く。男の体は便利だ。
「マリーア、さっきはどうも。ダニエラです。おかげさまで」
さすがに棘のある口調になる。通信用のイヤホンからドウェインが「おい」と窘める声がした。
マリーアはおずおずと微笑み、肩をすくめる。
「ごめんなさい、怪我はなかったですか?」
ダニエラは下着の件を言ってやろうと思ったが、マリーアの様子があまりにしおらしいのでそれは飲み込んだ。よく考えれば妹と数歳も変わらないのだ。
「ええ、なんとか」
「ごめんなさい、あたし、本当に悪気はなくって……」
明るい色のネイルをした手を組みながら、マリーアは俯く。
「多分力になれる。だから、本当のことを話して」
マリーアはぽつぽつと話を始めた。能力が現れたのは13歳の時で、触れたものの性別を変えられるNEXTだった。攻撃性の高いNEXTでもなく、今まで暴走したこともなかったため、家族以外には隠しながらまあまあ上手く能力と付き合ってきた。しかし、数日前に恋人と破局。そのショックのせいか能力のコントロールが不安定になり、不意に触れてもいない相手の性別を変えてしまうようになったらしい。
「――私の経験上の話でしかないけど、コントロールについては数日して落ち着けば元のようになると思う。安心して。あとは、変わってしまう相手の傾向に心当たりはある?」
ダニエラの問いに、マリーアは目を泳がせる。あるらしい。だがマリーアは「ない、です」と目を伏せた。
「マリーア、今も戻れなくて困っている被害者がいるのよ。私もそうだけど。あなたに悪気がなかったのは分かってる。刑事罰は受けない。でも、あなたには責任がある。不本意なのは分かるけどね」
ダニエラの言葉にマリーアは意を決したように顔を上げた。
「こ、好みのタイプの人を見ると勝手に能力が発動しちゃうんです!」
イヤホンの向こうでドウェインとカイが火のついたように爆笑し始めた。こちらに聞こえていないからいいが、もし声が漏れていたら警察の信用に関わるぞ、とダニエラは内心毒づく。
「あ、ああ、そう。……被害者には男女どちらも、」
「あたし、バイだから」
「……なるほどね」
答えにくいことを話させてしまっただろうか。
「昨日、刑事さんに女性警官と話してほしいって言われたときには、まさかこんな人がくると思わなくって! ほんっとうにごめんなさい!」
「それは……光栄だわ」
ダニエラはそれを聞きながら手元の資料を繰る。そう言われてみると、被害者は共通点が多い。黒から焦げ茶の毛髪。年齢は20代前後。人好きするとは言えないキツい印象を受ける顔つき。
ダニエラはふと眉間にしわを寄せる。
「この人に覚えは?」
一人だけ――文字通り――毛色の違う男の写真を差し出す。金髪に青い瞳。口元には柔和な微笑みを浮かべている。絵に描いたような良き隣人だ。
マリーアはその写真をちらと見ただけで「ないです」と答えた。そうだろう。ダニエラは駄目押しで一応尋ねてみる。
「好み?」
「あんまり……ごめんなさい」
「別に謝らなくてもいいわよ」
ダニエラとて人のことは言えないのだから。資料に目を落としていると、頬のあたりに穴の開きそうなほど視線を感じる。片眉をあげて「なに?」と言うと、マリーアは目を輝かせた。
「あの、もう一回言ってくれませんか?」
「何を?」
「別に謝らなくてもいいわよ、って」
ダニエラは一瞬面食らったが、何がしかの許しを得たいのかと早合点して優しくゆっくりと「別に謝らなくてもいいわよ」と言った。
マリーアは小さく喜色に満ちた歓声を上げる。
「控えめに言ってさいこー」
「待って、何が? 何の話?」
「いえ、なんでも」
ダニエラが困惑気にガラスの方に視線を向けると、笑い疲れたドウェインがイヤホン越しに「ぶっ、ふふっ、続けてくれ」と言った。なんとなく釈然としない。
「医療機関の受診と一定期間ソーシャルワーカーの指導が義務付けられるかもしれないけど、それは受け入れてくれる?」
「はい。――一つ質問いいですか?」
「もちろん、どうぞ」
「タトゥーしてます?」
「…………なに?」
ダニエラは被害者の中に目立つタトゥーを入れている者が数人いたことを思い出し、こめかみに手をやる。
「マリーア、これに関係のある質問にしか答えられない」
書類を指で二度突きながら答えると、マリーアは露骨に肩を落とした。
「私からは以上になるけど、何かまだ話していないことはある?」
「大丈夫です。親身になってくれてありがとう。それから、その、ごめんなさい。多分半日くらいで元に戻るので」
「ええ、大丈夫。トラブルは慣れてる」
ダニエラは苦笑いし、それから声をひそめて続けた。
「警察官としてでなくて個人的な忠告になるけど、恋人にするなら危険な感じの男――いや男に限らず、ワルっぽい人より、優しくて穏やかで真面目な人間をおすすめする。これはマジな話」
マリーアは目を丸くしたが、こくこくと数度頷く。ダニエラは片眉を上げてそれに応えた。マリーアはおずおずとダニエラに視線を向ける。
「あ、あの、連絡先聞いてもいいですか?」
イヤフォンの向こうでまた二人が声も出せないほど笑っていた。笑うなよ。
「…………署で警察官をナンパするの流行ってるの?」
「え?」
「なんでもない」
ダニエラは溜息をつき、交通課に繋がる電話番号を手帳に書きつけた。能力を隠し続けてきた彼女には信頼できるNEXTの友人がいないのだ。その気持ちは、同じく能力を隠していたダニエラには痛いほど分かる。
NEXT専門のソーシャルワーカーは、自身もNEXTであるとは限らない。むしろ人口比率上、そうでないことのほうが多い。
「もしも能力のことで……能力のことだけよ? 困ったことがあったら相談して。クビになっていなければそこにいるから」
破り取ったページを差し出す。マリーアがそれを手に取る寸前でそれを取り上げる。マリーアの指先が空を掻いた。
「困ったときだけ。オーケー? この電話の内容はすべて記録されるし、不用意に何度もかけてくる相手は警察にマークされるからね」
「……はい」
その返事を聞いてから、ダニエラはその紙片を彼女に手渡した。
もしも彼女が本気なら警察署に花束片手に乗り込み尿検査を受け、走行中の乗用車の上に墜落してくるくらいのガッツが必要だ。別に見せてほしいわけではない。そんな相手はもう十分すぎるほど間に合っている。
「あとのことは担当刑事に聞いて。顔はちょっと怖いけど、きっと親身になってくれる」
「はい、ありがとうございます!」
ガラスの方に合図して席を立つ。ドアを出る直前に声を掛けられた。
「良い彫師知ってるんですけど……!」
「タトゥーはしない。痛いのは嫌いなの」
Tuesday 12:22
ダニエラが男性になってしまったらしい。らしい、というのは電話越しにそれを聞いただけで、まだ実際に会ってはいないからだ。
キースがダニエラからの電話をとると知らない男の声がしたので動揺した。「誰なんだ」「なんなんだ」「どういうことなんだ」をそれぞれ一回は口にしたと思う。混乱するキースに、電話口の男は懇切丁寧に経緯を説明してくれた。そして、身体検査を受ける必要があるため帰宅が少し遅れることを伝えられた。そろそろ帰ってくる頃だろうか。
まだ女性の姿から元に戻らないキースは、そわそわとソファの上で膝を抱える。ジョンがキースの膝の上に顎を乗せ、気遣わし気に見上げてくる。キースは笑ってその頭を撫でた。
「きっと大丈夫だから」
自分に言い聞かせるようにそう呟くと、ジョンはくうんと鼻を鳴らす。
そのとき、オートロックのキーが動作する音がした。キースとジョンは同時に立ち上がり玄関に早足で向かう。明るいグレーのドアが開く。警察官の制服を着た青年が「ああ、開くんだ」と呟いた。静脈認証のことを言っているのだろう。
「ダニエラ?」
キースがおそるおそる尋ねると、青年は眉尻を下げて琥珀色の目を細めた。
「ご明察。どう? クール?」
ダニエラは短髪を掻き上げてウインクした。驚くほど様になっている。
「ああ、とっても素敵だよ」
キースが答えると、ダニエラは苦笑をこぼした。
「それはそれで複雑ね」
ドアを閉め、ダニエラはキースの腰に手を回しかけ、はたと動きを止める。
「見た目がこれだけど、キスしても大丈夫?」
「もちろん」
ダニエラはキースの腰を抱き寄せると、軽くキスをした。爪先立ちになって上を向くキスは初めてで、少し戸惑う。
「ただいま」
「おかえり」
ダニエラはふと真顔になった。
「キース、ごめん、パンツ貸して」
「構わないが、なぜ?」
ダニエラは無言で提げていた紙袋からボロボロの布切れを指先に引っ掛けて取り出す。
「男の私はちょっと体格がよくって」
それが無残な姿になった下着だと気が付いたキースは「ああ」と呻いた。ということは彼女――彼? は今下着を身に着けていないのか。
確かに男性になったダニエラは身長も高く、肩幅も広い。鍛えた大人の男の体をしている。
「背が高いね」
「6フィートと少しあった」
むう、とキースは唇を尖らせる。自分より3インチは高い。なんとなく腑に落ちない。キースはぺたぺたとダニエラの肩や腕に触れる。おそらく己よりは薄い。
「なにそんな可愛い顔してるの?」
ダニエラは笑ってキースの頬に口付け、制服を脱ぎ捨てるとキースがパジャマにしていたTシャツを拾い上げて着た。短く「借りるわよ」とだけ言われる。
「洗濯したものがあるよ」
「いいわよ、多分もうすぐ戻るもの」
彼女はそう言ってソファに溜息とともに崩れ落ちた。寝そべりながら指で「おいで」と合図される。キースが歩み寄ると、ダニエラは無言で両手を広げた。躊躇するが、今は彼女のほうが体が大きいことに気が付く。
おっかなびっくりダニエラの胸の上に手のひらを置くと、吐息とともに抱きしめられた。逞しい腕がキースを力強く引き寄せる。振る舞い自体は普段と変わらずとも威圧的な長身でそれをされるとかなり印象は変わる。
琥珀色の瞳に見上げられ、キースは身じろいだ。背筋が妙な感じでぞわぞわする。ダニエラは無言で自身の唇を指で示す。その仕草が色っぽくて、キースは思わず目を逸らした。
自分は男性で、ダニエラは女性で、ただしダニエラは今は男性の姿で、その姿が妬けてしまうほどに様になっていて、自分は男のはずなのに男の姿のダニエラに怖いくらいに惹かれている。キースは目を回しそうになりながら、ダニエラの唇に唇を重ねる。何度も優しく口付けられ、キースがふと逃げようとすると、抱きしめられたまま体の位置をぐるりと上下反転させられた。
男のダニエラは、少し強引だ。
キースは鼓動を早くする胸を押さえて、ダニエラを見上げた。面白がるように己を見下ろす瞳に、手の下がきゅうと疼痛を帯びる。空気に流されそうになり、キースははっとしてダニエラの体を押し返した。
「待ってくれ! このままだと私は身も心も女の子になってしまう!」
「……は?」
「ダニエラのせいで! 私は!」
「わ、私のせい? 少なくとも身については濡れ衣」
「心だけは……! 心だけはせめて……!」
力説するキースに、ダニエラは鼻白んだようにソファを降りた。ちょっとからかっただけじゃない、と唇を尖らせる。それから、真剣な面持ちでキースに向き合う。
「ねえ、キース。これは真面目な話ね。あなたの姿が変わったのは、私とは違う原因の可能性がある」
キースは首を傾げた。それはどういうことだろう。ダニエラは言葉を続ける。
「だからその件も含めて、明日警察に来てもらえる?」
「それは……構わないが」
「そう、――」
ダニエラは何か言いかけて、手をつく位置を間違えたのかつんのめってソファの下に落ちた。大丈夫だろうかと慌てて身を起こし、ダニエラに手を差し伸べようとすると、いつもどおりの長い髪が床に広がっている。床に仰向けになったダニエラはなかば呆然とキースを見上げた。
「こ、こんな唐突に戻るのね。びっくりした」
言いながら、のろのろと体を起こす。大きすぎるTシャツが片方の肩からずり落ちた。
キースはそれを直してやろうとダニエラの襟元に手を伸ばし、その手が大きく骨張った男のものであると気が付き「あ、」と声を上げる。その声も男のものであった。
ダニエラは目を丸くする。キースは体をあちこち触り、どこもおおよそ平らであることを確認する。
「戻っている?」
おそるおそる尋ねると、ダニエラは「戻ってる、と思う」と答えた。
「よ、よかった……!」
「私としては、もう少しくらいあのままでもよかったのに」
「なぜそんなことを言うんだい!」
「だって可愛かったもの」
ベルトではどうにもならないほどサイズの違うスラックスを脱ぎながらダニエラは笑う。目を細めてキースの頬を指先で撫でた。
「嘘よ、戻ってよかった」
Wednesday 11:47
ここ数日トラブルに見舞われていたダニエラは溜まりがちであった仕事を順に片付けていた。
メールをチェックし、その中の一通を見て思わず笑ってしまう。何笑ってんだ、と隣席のカイに問われ、ダニエラはマウスホイールをいじりながら答える。
「四年前の車両火災で、私について二度の能力使用って記録が残ってるんだけど、いつどのような目的で使用したか覚えているかって」
「あ、それ俺にも来てたぞ。覚えてるわけないよなあ」
「完全記憶能力のNEXTはいるけど、NEXTが全員記憶力抜群なわけないのに」
言いながら「覚えていないし記録もない」という旨を丁寧にメールに仕立てていく。
上着のポケットで私用の携帯端末が鳴動する。ダニエラは点灯する画面にK.T.Kaburagiと表示されているのを見て、いやな予感がした。無視してしまおうかとも思ったが、予感どおりならそういうわけにもいかない。
ダニエラは渋々通話ボタンをタップする。
「……はい」
「ああー……ダニエラ、……ひ、久しぶりとは、言えないよなあ」
「そうね。笑っちゃうわね」
「笑っちゃうか……そうだな」
「もうさっさと言ってちょうだい。心の準備は出来てる」
端末の向こうで虎徹が溜息まじりに「驚かないで聞いてほしいんだけどな、」と言った。