おお、愛しうる限り愛せ(下)



 Wednesday 13:08

 昼休憩になるやいなや姿を消したダニエラが羽毛のようにふわふわした金髪の小さな子供を抱えて現れたのを見てカイは絶句した。物も言えずに硬直するカイに、ダニエラは神妙な顔を向ける。

「説明させて」
「いや……いいや、いい、説明はいい。多分キースの子供だから俺はもう何も言わない。おまえも何も言うな」

 面倒事はごめんだ、とカイが顔をしかめると、ダニエラは子供を抱えたまま立ち尽くした。立ち姿がいかにもぎこちない。大きなTシャツを着ている、というよりくるまれた子供をまるで大きくて重い紙袋を抱えるように抱いている。一児の父親としては物申したくなる拙さだ。

「キースの子じゃない」
「それは……大問題だな」

 大問題である。ダニエラの男運の無さは署内でも定番ジョークになるほど筋金入りであったが、少なくともカイの知る限りキースは良い男だ。
 キースと付き合ってからダニエラは目に見えて溜息の回数は減ったし、憂鬱そうなことも少なくなった。NEXTの精度も上がっている。ついでに顔色もいい。
 カイとしては、ダニエラがキースと別れることにデメリットはあってもメリットはない。長続きしてほしいものだ。少なくともダニエラが自分とペアを組んでいる限りは。

「キースなの」
「……何が?」

 ダニエラは困ったように青褪めた顔を抱いた子供に向ける。不穏な空気を感じたのか子供がぐずりだして、ダニエラはいっそう顔を引き攣らせる。

「この、小さいの」
「小さいのっておまえ、そんな言い方」
「キース・グッドマン本人」
「……やっぱり聞かなきゃよかった」

 ぱやぱやの金髪の男の子が、青い目をくるくるさせながらダニエラの胸元に頬を寄せ、あーと短く言葉を発した。ダニエラは小さくて柔らかそうなぷにぷにの手を摘まみ上げると、それをカイに向かって無感情に振る。

「任意聴取のお時間でしゅよー」

 ダニエラの目が完全に据わっていた。


 Wednesday 13:27

「やっとまともな男と付き合ってるって聞いたのに、相手はガキだったのか」
「将来性高いでしょ?」

 ドウェインの軽口にダニエラはにこりともせずに答えた。海兵隊あがりの厳つい大男に間髪入れずに言い返せる胆力には恐れ入る。
 元はといえば、先日発生したNEXTの暴発による性別反転騒動の件でキース・グッドマンには少し話を聞かせてもらう予定であった。それがなぜか、ダニエラが幼い男児を抱えてドウェインに相対していた。ドウェインも困り果てた様子で目を見開いた。

「なんだこれ、一歳児検診か」

 思わずカイが呟く。ドウェインも溜息をついて剃り上げた頭を抱えた。

「女になったってときも相当びっくりしたけど、子供っていうのも……なんというか困る。私、こんな小さい子供の扱いなんて全然分かんないんだけど」

 そう言いながらダニエラはそろそろとキースをカイの方に差し出した。ついいつもの癖で抱き上げてしまうと、キースはバラ色の頬を歪めて泣き出しそうな顔をした。

「カイ、あなた現役じゃない」
「俺の腕はうちの可愛いプリンセスを抱っこするためにあるんだよ。間違っても同年代の男を抱くためじゃない」
「昨日は男のパンツを脱がせる羽目になってたし、忙しいわね」
「パンツは脱がせてないぞ」

 キースが細く声を上げて泣き出したので、カイはその柔らかく小さな背を撫でながらダニエラにキースを抱くように促す。

「キースだって俺のうっすい胸よりダニエラの方がいいだろ」

 そう言うと、ダニエラは片眉を上げて笑った。

「胸ならドウェインの方が豊満よ」
「勘弁してくれ。うちの子は9歳と7歳だし、二人が赤ん坊の頃は海外派兵でずっと留守にしていた。もう少しで女房に逃げられるとこだった」

 存外にハードな過去を聞かされ、カイはそれに曖昧に返事をした。SBPDの人間は話のネタには事欠かない。
 ダニエラは採用試験を受ける直前まで野良NEXTであったし、家庭環境も複雑。うっすらと話を聞く限り養父の家業はなんとなくグレーな気もするし、カイは常々「こいつよく採用されたな」と思う。ヒーローのなりそこないくらい可愛いものだ。
 それが組織が寛容であるからか、人材不足で猫の手も借りたい有様であるかは意見が分かれるところだが。
 カイはキースをダニエラに抱かせる。ダニエラは渋々ながらキースを膝の上に抱いた。なんともぎこちない。

「それじゃあでかいナマズを釣り上げたみたいだぞ」
「子供もナマズも似たようなものよ」
「世界中の親に怒られろ」

 悪態をつきながら子供の抱き方を教えてやる。不器用に行ったり来たりするダニエラの手を取ってキースの体を支えるように導いてやると、マーブルのような青い瞳と目が合った。ぱちくり、とまばたきするキースの頭をカイは溜息交じりに撫でた。

「昨日までは女の姿だった」

 ダニエラの言葉にドウェインは書類を示した。

「その話は聞いてる。調書もとった。俺は最初からおかしいと思っていたんだ。他の被害者と違いすぎる」
「刑事の勘?」
「そんな大層なものかよ。見れば分かるだろ」

 ダニエラは肩をすくめて笑った。

「昨日、昼過ぎくらいに元の姿に戻って、今日は普通に出勤したみたい。彼の同僚から連絡があって、午後の予定もあったし迎えに行ったらこのザマ」

 うー、と同意するようにキースは呻く。カイは眉をひそめた。

「待て、もしかして意識ははっきりしているのか?」

 どういうこと? とダニエラは首を傾げる。

「そのくらいの歳の子供なんてもっと意味わからんぞ。大人しすぎるだろ」
「そうなの? 私は十分意味わからないと思ってたけど」
 
 赤ん坊にしてはだよ、とカイは呆れて息を吐く。

「キース、俺の言っていることは分かるか? イエスなら首を縦に」

 むう、と唸ったキースがことんと首を横に傾げた。ダニエラが眉尻を下げてカイを見上げた。

「え、なに、どっち?」
「身体能力が赤ん坊並みなら――」

 言い終える前にキースが火のついたように泣き出した。ダニエラがおたおたと立ったり座ったりする。

「や、やだ、なんで泣くの? パパ! パパ! パス!」
「おまえのパパじゃない! キースのパパでもない!」
「意識あるって本当に!? こんなおぎゃおぎゃ泣いてるのが恋人って、私のほうが泣きそう!」
「知るか!」

 わ、とダニエラが短く悲鳴をあげてよろめいた。何かと思えば抱いていたキースが一回りも二回りも大きくなっている。年の頃は五、六歳であろうか。まばゆい金髪に碧眼の、絵画の天使のような美少年だ。よく落とさなかったものだ。
 キースは涙目でダニエラを見上げた。

「ダニエラ、すまない、お、おてあらいに……」
「え、なに、なんなの?」
「おてあらいに、いってもいいかい?」
「意味わかんないけど、ちょっとトイレ行ってくる」

 キースを小脇に抱えてダニエラはドアの向こう走って消えて行った。「子供を抱えて走るなよ危ないな」という気持ちと「あのくらいの子供を抱えてよく走れるな体力あるな」という気持ちが綯い交ぜになる。
 半開きのままのドアを眺めていたドウェインが、書類の角をそろえながらカイに視線をやった。

「あれくらい肝が据わっていればいい海兵隊員になれる」
「あいつに惚れた奴は除隊だな。九割方クズだから」


 Wednesday 19:12

 疲労困憊状態のダニエラは自宅のリビングのソファに小さなキースを座らせた。ワンピースにもならないほどにぶかぶかのTシャツを着せたままにしているのは、いつ元に戻るのか分からないからだ。サイズの小さすぎる衣服を着ているときの不快感は、先日身をもって知った。
 女性から男性に変わっただけでひどい目にあったのだ。子供服を着ていた場合など考えたくもない。
 あの後、性別変化について診察を行う予定であった病院にキースを連れて行った。女性化したはずの男性を診察するはずであった医者は、警察官に手を引かれて現れた少年に目を丸くしたが、プロらしく淡々と診察を進めた。
 彼女のプロ意識には圧倒される。ダニエラも先日は男性の体になり、口に出来ないような場所まで観察され、あらぬところまで触診された。「なるほど、男の身体はこういうふうに扱うのか」と他人事のように感心した。
 
「ダニエラ、すまない」

 しおらしく俯くキースに、ダニエラは無言でジョンをけしかけた。ジョンはいつもの三分の一程度の力でキースにじゃれついたあと、初めて入るダニエラの部屋のにおいをあちこち嗅いで回っている。

「ずっと赤ん坊のままなら投げ出してた。少なくともコミュニケーションがとれるのは重要」

 医師の診断は「おそらくなんらかのNEXTの影響を受けていることは確実。身体を変質、変形させるもので、何がトリガーかは不明。健康状態には異常がないので、要経過観察。この手のNEXTは作用時間に限りがあるものなので、それを待つか、能力者を捜索するかは任せる」とのことだった。
 些細ないたずら事件から厄介ごとに巻き込まれたドウェインは「こんな報告他にないからどうにもならん」と呻いていた。
 そもそも交通局のカイとダニエラは業務上関わりのある話でもないので「あとはよろしく」と半笑いで言い残して、定時でさっさと退勤した。カイは娘を預けて奥さんとディナーらしい。仲が良いことで何よりだ。
 ダニエラはといえば、とにかく何があるか分からないということでキースを家で面倒を見ることになった。そうなるとジョンを放っておくわけにもいかないので、ドッグフードと散歩用品を運び、ジョンを連れてきて、とばたばたしていていた。
 ダニエラはソファに倒れこむ。ジョンが心配そうにダニエラの頬に湿った鼻先を押し付けた。べろべろと耳を舐められて悲鳴を上げる。飛び起きた拍子にソファから落ちそうになった。

「やめてジョン! キースの部屋ほど広くないのようちは!」

 分かっているのか分かっていないのか、ジョンは神妙そうな顔をしてダニエラの足下にお座りをした。よし! とその頭を撫でる。
 左手でキースの頭を撫でながら右手で携帯端末を操作した。ニノンに電話をかけると、すぐに通話が開始した。

「はあい、今から帰るけどどうしたの?」

 明るい妹の声が聞こえる。背後がざわざわと騒がしい。クラブ活動か、カフェにでもいるのだろうか。

「ごめんニノン今日から数日犬と子供がうちに泊まるあと出来れば夕飯買ってきて」

 ダニエラがそれだけ一息に言うと、ニノンはしばらく黙った後「……え?」と言った。

「い、いぬとこども……?」
「実は……ああ、いいや、帰ったら説明させて」

 電話を切り、ソファに体を預ける。所在なさげなキースの体を抱き寄せ、天使のような頬にキスをした。

「そんなに落ち込まないの、おちびちゃん」

 からかうように言うと、キースは頬を膨らませた。いつもより淡い青い瞳がダニエラを見上げる。意識は大人のものでも身体能力は子供のものだ。どうしても舌足らずな話し方になるのを気にしているのか物静かだった。
 ダニエラは浮かない顔のキースに飛び掛かると、小さな体をくすぐる。キースは悲鳴を上げて手足をばたつかせた。

「わあ、あ、あはは、やだ、ダニエラ、く、くすぐったい……!」
「ちっちゃな手足でじたばたしたって効かないわよ。ほら、本気で逃げなきゃ」

 ソファの上で丸くなるキースを抱え上げ、ぷにぷにのお腹をくすぐる。暴れすぎて前の家から持って来たソファが大きく軋んだ。壊れないかと不安になりながら、キースを羽交い絞めにする。

「ダニエラ、ほ、ほんとに、ひっ、く、ふふふっ、くす、ぐらないで、やだぁ……!」
「ほらほら、笑いなさいよー」
「あ、ははは、やだやだ、やめて、くすぐったいよ!」

 普段は全体重を使って押さえつけてもどうにもならないキースを片手で思うままに蹂躙出来るのが楽しくて、相手が子供――子供? ――というのも忘れてむきになってしまう。けほけほけほ、と苦しそうな咳をキースがしはじめたので、ダニエラははっとして手を離した。

「あ、ごめん。やりすぎた」

 くすぐられ疲れたキースがソファにぐったりと横たわている。頬は紅潮し、ふわふわの金髪は汗で額にはりついている。空色の瞳がとろんとダニエラを見つめた。その顔が「おあずけ」をくらったときの顔そのもので、ダニエラは思わず両手を挙げてソファから後退った。

「ちょっと、わきまえなさいよ! 精通もまだでしょ!」

 ダニエラの理不尽な叱責に、キースはくたりとしたまま首を傾げる。

「栴檀は双葉より芳しって?」
「ダニエラ?」
「私にペドフィリックな趣味はないんだけど」
「なんのはなし?」
「……あんたが元に戻ったら縛りあげて息が出来なくなるくらいくすぐり倒してやる」

 キースは困ったように眉尻を下げた。

「それは、どういう……?」
「気を失うまで許さない」
「な、なぜ……!?」

 中身はキース・グッドマンそのもので、しっかりと――キースがしっかりしているかはこの際おいておくとしても――大人であると分かっていても、外見がこれでは問題がありすぎる。そういう気分にもならない。
 ジョンだけが「遊んでいるの?」とでも言わんばかりにソファの周りをぐるぐる回った。ダニエラは短く溜息をつくとキースの隣に座った。いつものようにジョンも膝の上に足を掛けてきた。

「見くびらないでよ、いまさら血の繋がらない弟が一人増えたってどうってことない。だからそんなに落ち込まないで」

 そうダニエラが笑うと、キースはにこりと笑った。とろけそうなほど可愛らしい。汗ばんだ髪を掻き上げてやると、玄関のドアが開いた。近所の中華料理屋の袋を下げたニノンが、どこか慌てた様子で部屋に入ってくる。

「ねえ、犬と子供ってどういう――あ、犬と子供だ」

 リビングの様子を見てニノンはそう呟いた。


 夕食を食べながら一通りの説明をうけたニノンは「へええ、」と生返事を返しながら、器用に箸を使ってスプリングロールを齧る。プラスチックのフォークでチキンと悪戦苦闘しているキースを横目で見て「ダニエラが産んだのかと思った」と片眉を上げた。
 冗談でもやめて、とダニエラは呻く。

「これでも成長……成長? まあいいわ、成長したから助かったけど、最初は本当に赤ん坊だったからどうしようかと思った」
「わたしもこまってしまった。ひとりではといれにもいけないのだから」

 ニノンはおぼつかない手つきでフォークを操るキースを見てけたけたと笑った。

「えー介護じゃん」
「それシャレにならないわよ」

 ダニエラは顔をしかめる。しかし、少なくとも狼狽されたり怯えられたり心配されたりするよりは気が楽だ。

「しばらくはうちで様子見るから。この姿じゃ犬の散歩も出来ないでしょ」
「キースのとこ泊まればいいじゃん」
「ニノン、友達呼んでパーティーはすぐバレる。ご近所さんはみんな同僚よ」
「バレたか」

 えへへ、とニノンは笑った。


 Thursday 5:28

 朝早くに目が覚めたのは、昨晩早く眠ってしまったからか、ダニエラとキースと、夜中にそっとベッドに入ってきたジョンでいっぱいのベッドが狭かったからか、どちらだろうか。
 キースはジョンの後ろ肢をどかそうとするときに、自分の手が昨日よりは少し大きいことに気が付いた。そっと体を起こし、ジョンの背中に頬を寄せながら寝息をたてるダニエラの髪を払いのけ、その額にキスをした。声を漏らしながらダニエラが小さく身動ぎする。
 事故とはいえ己の都合で彼女に迷惑を掛け続けてしまうことを心苦しく思う。だが一方で、ダニエラが常に気にかけ思いやってくれるのは嬉しい気もした。
 ダニエラと同じ性別の姿で彼女とキスをしたことも、無力な子供の姿で彼女にくすぐられるたことも、得難い経験だったように思う。後者に関してはなぜか叱責されたが。
 枕元でアラームが鳴る。彼女にしては珍しく、アラームが鳴ってしばらくそれを止めなかった。やっとベッドから身を起こし、うるさそうにアラームを止める。
 ダニエラは目をこすりながらキースの姿を見止めると、短く「おはよう」と言った。「今朝は早いのね」とも付け足される。

「目が覚めてしまった」
「うちのベッド寝心地悪いから」
「そんなことはないよ!」

 言葉もかなり明瞭だ。キースが自分の手のひらを見つめてからダニエラに視線をやると、ダニエラは「ああ」とあくび交じりの声を上げた。

「成長期ね」
「今はどのくらいの年齢だろう」
「さあ、ジュニアハイくらい? 一緒にベッドに入るのは躊躇するくらいの年齢」

 キース本人として扱うには子供過ぎるが、子供として扱うには育ちすぎている。
 ダニエラの言にキースがショックを受けていると、ダニエラは気の抜けた笑みを浮かべた。寝起きの彼女は普段の姿からは信じられないほどぼんやりしていて可愛らしい。普段から早起きして、彼女の起き抜けの姿を眺めていてもいいなと思った。
 ダニエラは髪を掻き上げながら、ふとキースの方に目を止める。

「わお、成長ホルモンに振り回されてるって感じ」

 キースは自分がTシャツしか身に着けていないことを思い出した。昨夜は床に引きずりそうなほど大きかったそれは、今はひどく心もとない。キースは捲れあがったTシャツの裾を引っ張って下半身を隠した。

「ダニエラ、これだけは伝えておきたいのだけれど、いつもの私だって夜間陰茎勃起現象は起こしている」
「……知ってるしどうでもいい」

 ベッドから降りようとするダニエラの手を握る。ダニエラは「なに?」という顔だけをした。散歩の気配を察知したジョンがベッドからいち早く飛び降りて、興奮したように鼻を鳴らしながらくるくると回る。

「今日、仕事は……?」
「午後から。夜は遅くなるけど、ニノンに早く帰ってきてもらうから」
「ダニエラ」
「うん?」

 キースは握った手を引き寄せる。

「五分だけ、一緒にいてくれないか」
「五分だけでいいの?」

 ダニエラはいたずらっぽくそう言った。キースは淡く笑って「五分だけでいんだ」と答える。ダニエラはキースの頬を抓った。

「私は五分じゃいや」

 頬から離れた手が首筋をくすぐる。思わず腕を上げると、脇腹をくすぐられ、飛び上がったキースはクッションと毛布とともに床になだれ落ちた。ダニエラのおさえた笑い声が頭上から聞こえてくる。

「パンツ穿いたら?」

 それだけ言い残して「ジョン、行くよ」の声とともにダニエラは部屋を出ていく。キースはベッドに上ると、ダニエラの体温と香りの残るシーツで二度寝を決め込んだ。


 Thursday 7:38

 パンの焼ける香ばしいにおいとばたばたと行き交う足音で目を覚ます。キースはベッドから降りると、ダニエラのクローゼットから自分のシャツとジーンズを取り出した。めったに泊まりに来ることはないが、ダニエラの勧めで一組だけ置いてある。
 サイズアウト気味でほとんど穿かなくなっていたジーンズであったが、今の体にはまだ大きかった。
 ダイニングの方に行くと、ダニエラが立ったままコーヒーを片手にトーストを口にしている。行儀の悪い姿を見られたからか、ばつの悪そうな顔をしながら「おはよう」とダニエラは苦笑した。

「おはよう、ダニエラ」
「パンが焼けたら起こそうと思ってた」

 ダニエラが言うのと同時にトースターからトーストが押し出された。最近見ないほどレトロなトースターだ。
 ダニエラはトーストを皿に取り、ハムと目玉焼きを乗せてキースに手渡した。

「好きなとこ座って。……二席しかないけど」

 小さなダイニングテーブルのどの席に座るか迷い、手近な方の椅子を引く。

「あ、そっちはニノンの席」

 ダニエラに言われ、キースはもう片方の椅子に座った。トーストを半分に折り齧ると、半熟の黄身がパンの間から溢れた。
 慌ただしい足音とともにダイニングに入ってきたダニエラが、カーディガンに袖を通しながら「おはよう」と短く挨拶をした。

「おはよう、ニノン」

 冷蔵庫からフルーツジュースの紙パックを取り出したニノンが、それをグラスに注ぎながら目を丸くする。

「わっ、成長してる!」

 それにキースは笑って応えた。ニノンはキースの皿を覗きこむと、にやりと目を細める。

「朝から料理してるの? キースが来てるからって気合入りすぎじゃない?」
「……うるさい」

 ダニエラはニノンには焼いただけのトーストを押し付けると、キースに「何か飲む?」と尋ねた。

「コーヒーをもらってもいい?」
「牛乳いる?」
「入れてくれると嬉しい」


 Friday 00:07

 寝室のドアが細く開いて軋む。ジョンが一度だけ尾を振った。
 マットレスが揺れ、その人がシーツの中に入ってくる。キースがうっすらと瞳を開けると、人影がキースの目蓋をそろりと撫でた。何か囁かれた気がしたが、音を脳に通す前に再び眠りについた。



 Friday 09:52

「どうしてこうなるかなあ」

 ダニエラはハイティーンほどの年齢の姿になったキースの金色の毛の生えた大きな垂れ耳を指先で摘まんだ。神経が通っているのか、キースは身を縮こまらせる。Tシャツの下から伸びた金色の尻尾が不安げにぱたりと揺れる。

「あんたはいったい何に進化しようとしてるの? チューバッカ? フロド?」
「わからない」

 しょんぼりと頭を垂れるキースをこれ以上責めても何も面白くない。ダニエラはソファで項垂れるキースを見下ろす。傍らに座るジョンが「うちの弟分がどうもすみません」というような顔をしてダニエラの顔を覗きこんだ。

「私としてはこのまま順当に成長して元に戻ることを期待していたんだけど」
「それは私もだよ」

 ダニエラは手慰みにキースの頭を撫で、大きな垂れ耳を弄ぶ。むう、とキースは呻き、尻の据わりが悪そうな顔をした。

「だいたい、あんた一回完全な犬になってたじゃない」
「そうだったね」
「二番煎じ。しかも下位互換」
「そんなことを言われても」

 しお、と尾が垂れる。

「どうせならもっと小さい子のわんわん姿が見たかったわ。一昨日のキースなんて本当に天使みたいだったのに」

 今のキースはいつものキースとほとんど背丈も変わらない。顔立ちが幼く、体が薄いくらいだ。
 キースはダニエラの指を絡めとる。

「私は君を抱き上げられる体に戻ってよかったと思うよ」
「この年頃の男が一番タチ悪いのよね」

 手を引かれ、ダニエラはキースの脚の間に座る。耳の後ろにキスをされた。尻に硬いものが当たる。

「……キース」
「すまない、だって、ずっと……してなかった」
「言うほどずっとじゃないわよ」

 ダニエラはいち、にい、さん、と指折り数える。六日か、いや、五日か? この騒動が起きてからその程度しか経っていないと思うとぞっとする。もう二百年くらい経っている気分でいた。
 キースの息が首筋にかかる。抑えた細い息は苦しげだ。

「ずっと我慢してた」
「ちがうでしょ、一度はあんたが拒否した」
「それは……それはしかたがない!そして致し方ない!」

 どうかな、とダニエラがキースを押し退けようとすると、腕と、脚まで使って抱きすくめられた。腹のあたりに勃起した物が押し付けられる。NOに腕力で抵抗されたのは初めてかもしれない。

「若い私は怖いものなしだね」

 自分でも戸惑っているような声音でキースは呟いた。そうね、とダニエラはキースの頬をぴたぴたと叩く。

「おまけに、けだものだもの」

 オスって感じ、とダニエラは自由の効かない体で呻いた。キースはダニエラの首筋に顔を埋める。ぱたん、と焦れたように尻尾が振られた。

「自分が高校時代にどうだったかな。こんなに辛かっただろうか」
「日に三度はオナニーしてたタイプ?」
「そんなにはしていない! していないよ!」

 キースはダニエラの耳朶にキスをし、頬と胸元にキスをする。いつもより性急な感じがした。ちょっと悪くないなと思った。だが、目の前にあるキースの顔はどうにも幼くて、倫理感がブレーキをかけてくる。

「あんたがどう思おうと、私の目の前には妹のボーイフレンドに相応しいくらいの坊やしかいないの。勘弁してよ、児童性的虐待じゃない。私、一応警察官なんだけど」

 無言で抱きしめられる。難しい顔で床を見下ろしているキースは、おそらくダニエラを説得しようと色々考えているのだろう。そこまでしてセックスがしたいか、とダニエラは少しだけ呆れる。
 しかし、気持ちは分からなくもない。次にセックス可能な姿になれるのはいつか分からない。このままだと次は完全に犬にでもなりそうだ。それは想像すらしたくない。

「ダニエラ、私はいつだって君の気持ちを尊重したいと思っているし、無理強いなんてしたくない。でも、今だけは、どうか、おねがいだ」

 めったにない本気の懇願に、ダニエラの気持ちもぐらつく。ダニエラは溜息をついた。

「わかった。いいわよ」

 言うやいなや尻尾を激しく振りながら唇にキスしようとするキースを、手のひらで制止する。

「でも、もし私がティーンの我慢汁まみれガチガチ思春期ちんぽに夢中になって、元のキースで満足出来なくなっても許してね」

 その瞬間、キースは雷に打たれたような顔をした。耳も尻尾もしおしおに垂れてしまう。雷に打たれた人を見たことはないが。
 背中に回されていた両腕が、そろそろと離れる。泣きそうな瞳がダニエラの瞳を覗き込んだ。

「そんなことを言わないでくれ……」
「分かった。もう言わない」
「わ、私は……」
「ああ、そういえば、ニノンがうちに連れてきたクラスメイトの子に、やたら私に話しかけてくる子がいたわね。背中を向けると穴が開くくらいおしりを見てるのが分かるの」
「ダニエラ…………」
「ちょっとカワイイ感じの赤毛くん」
「……まだ我慢できると思う」
「よろしい」

 ダニエラはキースの腕を逃れて立ち上がる。これ以上やっていると流されそうだからだ。いつもより強引で必死なキースは少しだけ魅力的だ。

「元に戻ったらいくらでも付き合ってあげるから」
「嬉しいが、今は……今はやめてくれないだろうか。想像してしまう」


 Friday 15:18

 フラストレーションの溜まった体を持て余して、キースは黙々と筋トレに励んでいた。ソファに座ってコーヒーを飲みながら、優雅にその姿を眺めるダニエラと目が合う。
 ダニエラは目元を意地悪く細めて、ひらひらと手を振った。

「トレーニングしてる男ってセクシー」
「……ダニエラ」
「邪魔してごめんね、続けて」

 ダニエラはカップに口をつける。キースは弧を描く唇から目を逸らした。

「ダニエラ」
「なあに?」
「面白がっていないかい?」

 ダニエラは何も言わずに微笑む。ダニエラはたまにものすごく意地悪だ。
 床でプッシュアップをしていたキースの肩に、ダニエラのミュールサンダルを履いた爪先がかけられる。うっかりそっちを見てしまうと、ショートパンツから伸びる内腿が目に入り、キースは慌てて目を伏せた。
 体から力が抜けてしまい、キースは息を吐きながら床にぺたりと座り込む。理性と関係なしに尻尾が床を叩く。

「手伝おうかと思ったのに」

 くすくすとダニエラは笑った。キースは顔を両手で押さえて呻く。
 高校生の性欲を舐めていたかもしれない。自分が高校時代のことを思い出そうとするが、いくらなんでもここまでではなかったような気もする。油断するとダニエラの体を舐めるように見てしまう。トレーニングと関係ない部位に血流が行く。
 思春期の体に成人の自意識は色々とキツいものがある。ダニエラもダニエラで、気を遣ってくれるのかと思えば全力で煽ってきていた。

「ダニエラ、ほんとに……」
「我慢するって決めたんでしょ?」
「き、決めた、けど……」

 ダニエラは心底楽しそうな顔をした。見るからにいきいきとして、瞳が輝いている。からかわれているのは分かっているし、辛いことは辛いのだが、ダニエラが楽しそうだからいいだろうか、とキースは思う。
 キースはダニエラの隣に座る。ダニエラは「コーヒーいる?」と首を傾げた。いらない、とキースは首を横に振る。

「ダニエラ、キスしてほしい」

 思わずそう呟くと、ダニエラはキースの頬にキスをした。

「頬じゃなく、」

 ダニエラの体をソファに押し倒す。コーヒーが床に少し溢れた。ああ、とダニエラは苛立たしげな声を上げる。キースはダニエラからカップを受け取り、サイドテーブルに置いた。

「唇に、してほしい」
「いいの?」

 ダニエラは笑ってキースの唇を指先でくすぐる。いいの、と言われ、キースは迷う。

「もっと辛くなるんじゃない?」
「……もう、かなり辛い」

 ダニエラはあやすようにキースの背を撫でる。キースが本当に子供の姿であったときでさえ、そんなに優しく撫でられはしなかった。
 ダニエラは二度指を鳴らし、ドアの方を指差す。

「バスルーム」
「さすがに人の家でそれは出来ないよ!」
「あらそう、頑張ってね」

 キースはダニエラの首筋に顔を埋める。しっとりと温かく、甘いにおいがする。背筋がぞわぞわした。

「いぢわるだ、君は」

 はあ、と短く息を吐く。頭上からダニエラの笑い声が聞こえた。

「好きなくせに」

 破裂しそう。どこがとは言わないが。
 キースは体を起こし、ダニエラの肩に手を置く。

「このままだとザーメンが脳まで回って爆発して死ぬかもしれない! ダニエラは私がそんなことになってもいいのかい!?」

 キースは割と真剣にそう訴えたのだが、ダニエラはソファの上でおもちゃのニワトリのような声を上げた。そのまま堪えきれないように身を捩って笑い出す。

「んぐっ、ふひっ、あははは、あははははは、いいよ!!!」
「よ、よくないっ!」

 全然よくない。
 キースは半泣きでダニエラに縋りつく。ダニエラはばしばしとキースの背中を叩く。

「ふふっ、うふふふっ、ザーメンで爆発して死ぬキース見たいなぁ」
「そんな死に方、私はいやだよ!」

 ダニエラの指がキースの垂れ耳を摘み上げ、先端からふにふにと揉む。あう、と情けない声が漏れて、キースは唇を噛んだ。

「も、もう……無理矢理してしまいそう……」
「けだもの」

 けらけらと笑われる。

「自分で言ったこと、破っていいの?」
「だめ、だけど……」

 キースはそろそろとダニエラのシャツの下に手を入れた。指先に温かい肌が触れて、それだけで頭が痺れる。
 今回ばかりはしかたがないのではないか。事故だし、それゆえの生理現象だ。キースは深く息を吸い、吐き出す。
 いいや、だめだ。自分で宣言したことも守れなくてどうする。

「ダニエラが魅力的なのが悪い」

 キースがむくれて呟くと、ダニエラはごめんなさいねと鼻で笑った。

「ねえ、ダニエラ」

 キースは違うことを考えようとぐるぐると思い悩む。

「さっき、元の私で満足出来なくなっても、と言ったけど」

 思い悩んだ末、結局戻ってきてしまった。もうこの手のこと以外考えられないのではないだろうか。怖くなる。

「――言ったけど?」
「ということは、今まで元の私には満足していた?」

 そう尋ねると、ダニエラはしばらく考えた後にちょっと顔を顰めた。

「今そんな話する?」

 もっともだ。
 だが、キースはダニエラに詰め寄る。古びたソファが軋んだ。

「すごく嬉しい」

 キースが言うと、ダニエラは微笑んでキースの頬を撫でる。

「そう?」

 彼女はあまり自分の気持ちを明け透けに口にする方ではないから、それを知れたのは本当に良かった。それだけでこの騒動が差し引きゼロでまあいいかと思えるくらいには。

「だって、君は終わるとすぐ寝てしまうし、退屈させているとばかり思っていた」
「え、ええ……そんなことないでしょ」
「いや寝るよ、すぐ寝る」
「そうかな……」

 ダニエラは目を泳がせて天井を眺めた。

「言ったことはあっても、言われたのは初めてかも」

 そのとき、サイドテーブルの携帯端末が鳴動する。ダニエラはそれを手に取り、耳元に当てる。職場からの電話のようだった。おそらく自分に関することだ。普通であれば直接連絡が来るのであろうが、電話を取ることの出来る姿でいるか確証がないのでダニエラが仲立ちになっていた。
 電話を切ったダニエラはキースの体を押し退け、制服を探し始める。

「NEXT登録者から、それっぽい能力の該当あり。今から行ける?」
「もちろん!」

 制服から頭を出しながら、ダニエラはパーカーとキャップをキースに投げた。

「パーカーは腰に巻いて。そんなハロウィンパーティーで浮かれたアホみたいな格好で一緒に歩きたくない」

 アホ……と呟きながらキースは言われたとおりにする。そういうふうに思われていたとは知らなかった。キースの尾がしょんぼりと垂れたのを見て、ダニエラはふと手を止めた。言いにくそうに、立てた人差し指をくるくると回す。

「気持ちいいマッサージとか受けてると、そのままとろーっと眠くならない?」
「なるね」
「それよ」

 それ? と考え、思い至ったキースはぱっと顔を上げる。アホと言われたのもどうでもよくなった。

「気持ちいい?」
「まあ…………そりゃ多少は……、ちょっと! そんな嬉しそうな顔しないでよ!」

 さっきまで着ていたシャツを投げつけられる。キースはそれをキャッチし、きちんと畳むとソファに置いた。


 Friday 17:06

「フィオナ・ベジャール、…………四歳!?」

 登録証を見せられたダニエラは絶句した。先を読み進めて眉をひそめる。

「能力欄が空だけど……」
「備考を読め。幼すぎて能力が安定してないんだ。おまけに、どうにもいたずらっこでな」

 ドウェインが剃りあげた頭を撫であげる。

「ところで、おまえのカレシはなんであんな……一昔前のスケートボーダーみたいな格好をしてるんだ?」
「腰のパーカーとキャップのことなら、ちょっと事情があって。その他なら、彼の趣味」

 内部資料はキースには見せられない。ダニエラは一通り目を通し、フィオナの顔写真を見て視線を止めた。どこかで見た気がした。彼女とキースの接触はダニエラと一緒にいたときに起こったのだろうか。
 ダニエラはファイルを閉じる。今回の聴取は刑事局の女性警察官が行う。四歳の女児に話を聞くには、ドウェインは強面すぎた。それにフィオナの両親と、児童心理カウンセラーが立ち会う。
 前室の特殊ガラスから取調室を覗き、ダニエラはあまりの大所帯に眉を上げた。

「昔、父さんが水槽でグッピーを増やしすぎたときのことを思い出す」

 ダニエラが言うとドウェインは鼻を鳴らして笑う。
 ガラスの向こうで女性警察官が優しくフィオナに話しかけた。楽しそうにきょろきょろしていたフィオナが、女性警察官に笑いかける。

「こんにちは、フィオナ」
「こんにちはー!」
「今日はね、聞きたいことがあって来てもらったの。とっても困ってる人がいて、助けてほしいのよ」

 うん! と元気よくフィオナは頷く。母親が不安そうに父親に目配せした。

「この人、見たことあるかな?」

 差し出された写真をちらっと見ただけで、フィオナは「知らなぁい」と軽い感じで答えた。ドウェインが溜息をつき、ダニエラの方に目配せした。

「害のあるNEXTではないんだがな」
「書類に「知らなぁい」って書かれるのね、楽しみ」

 ガラスの向こうで、よく見て、わかんなぁい、ほんとうに?、知らなぁい、というやりとりが続いている。埒が明かない様子を眺めていたダニエラは、幼い彼女への既視感を思い出し「あ、」と声を上げた。
 ドウェインが眉をひそめる。

「どうした?」
「思い出した。あの子、会ったことがある」
「本当か?」
「キース入れて。確認させたい」

 ドウェインは廊下に首を出すと、外にいた職員に別室待機していたキースを呼ぶように指示した。
 ダニエラはドウェインに尋ねる。

「彼女はどういうNEXTなの?」
「色々と調査中ではあるようなんだが、ざっくり言うと他者に一時的にNEXT能力を付与する能力だと思う」
「……それ、使いようによってはすごく凶悪じゃない?」

 地域によってはNEXT能力者が高値で取引されることもある。任意の人間に任意の能力が付与できるとしたら、これ程恐ろしいことはない。
 ドウェインは苦笑いする。

「成長次第ではな。今のところ、報告されているケースでは、髪の毛を虹色に変えられるようになる、鼻からピンクのコットンキャンディーが出るようになる、手のひらから花を出せる……そんなのばかりだ」
「……彼女がそのまま善良に育ってくれるといいわね」
「それから、基本的にNEXTにしか作用しない。現時点では」

 ドアが開き、職員に促されたキースが入ってくる。姿が元に戻っていて、キャップとパーカーを脱いで手に持っていた。見慣れた顔に少し安心する。

「元に戻った?」
「多分。でもまた何かになるかも」

 前例があるので油断は出来ない。ダニエラはガラス窓から聴取室の中を示す。

「ねえ、あの子、先週末に公園で会った子じゃない?」

 キースは彼女を見るなり頷いた。

「ああ! 帽子の小さなレディだね!」

 ドウェインは女性警察官に日時と場所を通信機越しに伝え、両親に確認を取らせた。女性警察官からの問いに、父親が戸惑いながら首肯する。

「それじゃあ、NEXTを解除してもらうか?」
「出来るの? あの子に?」
「今までは無理だった。だが、あの年齢の子供は日進月歩だぞ。俺のときも――」
「海外派兵なんて期間家を空けていたら、私だってかなり変わるわよ」

 ドウェインは笑いながら「違いない」と肩をすくめる。ダニエラがどうする? とキースに視線をやると、キースはにこりと笑った。微笑みかけたわけではない。どうするか目配せしたのだが。

「直接話す?」
「そうだね。試してみよう」

 ダニエラはドアを開けてキースに中に入るよう合図した。不意に入ってきた男に、フィオナは不思議そうな顔をする。

「やあ、こんにちは。実ははじめましてじゃないよ。前に一度会っている。覚えているかな?」
「池のある公園の?」
「覚えていてくれてありがとう! 帽子のレディ!」

 キースが言うと、フィオナははにかみ、椅子の上で身をよじった。

「ぷれれんと、したの」
「プレゼント? ああ、君が言っていたね。帽子のお礼、と」

 ガラス越しに聞いていたダニエラは、それは初耳だった。

「ありがとう。でも、――実は少し困ってる。元に戻らなくなってしまって」
「こまるの?」
「少しだけね。私は月曜日に女の子になってしまったんだよ」
「わあ! あははは!」

 フィオナはキースの言葉を聞いて、手を叩いて喜んだ。その屈託のなさにキースも笑う。
 ダニエラははらはらしながらそれを聞いていて、カイの「このくらいの子供なんてもっと意味わからん」という言葉を思い出していた。これからは世の親をもっと尊敬しよう。

「それで、火曜日に元に戻って、水曜日に赤ちゃんになった」
「ええー!」
「そのあと、今の君くらいの年齢の子になって、木曜日はジュニアハイで、なんと今日は半分犬になったんだ!」
「はんぶん? 上? 下?」
「あ、ああ……、いや、耳と尻尾が生えた」

 上半身だけジョンになったキースを思い浮かべてしまい、ダニエラは噴き出して笑ってしまう。ドウェインが呆れたような目をダニエラに向けた。
 フィオナはにこにこと笑った。

「すてきね」
「ありがとう、でも、そろそろ元に戻りたいんだ。どうすればいいかな?」

 フィオナは「どーしようかなー」と笑っていたが、母親に「フィオナ!」と叱られ、唇を尖らせ首をすくめた。椅子から下ろされた足がぷらぷらと揺れる。

「もうもどってるよ。だっておねがいごとが叶ったから」
「おねがいごと?」
「おねがいごとが叶ったらもどるの。おにーちゃんは、おねがいごとが叶ったのね」

 よかったね、とフィオナは微笑んだ。おねがいごととはいったい何だろうとダニエラが考えていると、ガラスの向こうのキースは呆気にとられた表情をし、それから真っ赤になった顔を両手で覆った。

「叶ったよ。君のおかげだ。ありがとう、そしてありがとう」
「それ、スカイハイのまねっこ!」
「はは、そうだよ。スカイハイは好き?」
「ふつー」

 本人を目の前にしていると露知らず非情に答えるフィオナに、キースは楽しそうに笑った。


 Friday 19:12

 警察署前の広場のベンチに腰を下ろし、ダニエラはため息まじりに温かいお茶に口をつけた。よく分からない屋台で買ったよく分からないお茶だが、味も香りも悪くない。肌にいいらしい。それを売っている男の肌は煤けてしわくちゃであった。
 熱い茶を飲み下し、ほ、と短く息を吐くと、同じものを飲んでいたキースが「不思議な能力だね」と言った。そうね、とダニエラは答える。

「NEXT能力者に新たなNEXTを付与する能力らしいよ」
「そうかな? 私は、彼女の能力は……多分もっと幸せなものだと思うよ」

 どういうこと? とダニエラは眉を上げた。上手く言えないけど、とキースは肩をすくめる。

「そういえば、おねがいごとってどういうこと?」
「えっ!? それは……」

 言い淀むキースにダニエラは詰め寄る。

「言えないような内容?」
「そういうわけでは……」
「あのね、このおかげで私は今週毎日出勤してるの。休みゼロ。滅多な理由だったらほんっとうに怒るかもしれない。それを踏まえて、話せる理由? 話せない理由?」
「……ど、どちらかというと話せない」
「じゃあ聞かない」

 ダニエラはキースの肩に頭を寄りかからせる。

「元に戻って良かった」
「うん、ありがとう」

 キースの腕がダニエラの肩を抱いた。逞しい腕が、まるで薄すぎる硝子細工かふわふわの小さな生き物を扱うように触れてくることにも、だいぶ慣れた。

「好きだよ、ダニエラ。私のために奔走してくれてありがとう」
「あんたが私を好きなのは、私があんたのために奔走するから?」
「ち、違うよ! 私が君を好きなのは、君が――」
「それなら余計なことは言わないで」
「――愛しているよ、私の大切な人」
「最初からそう言いなさいよ」

 お茶を飲み干したダニエラが立ち上がると、キースが慌てたようにダニエラの手を握った。

「今日は……泊まりに来てくれるかい?」

 指を絡ませられ、目を見つめられ、ああ、とダニエラは呻いた。そういえば、そんな約束をしていた気がする。
 だが、こうも真正面から来られると、躱したくなるというかなんというか。少し意地悪をしたくなる。

「キース、私、今週はあなたのおかげで毎日欠かさず出勤してるって言ったわよね」
「……言った」
「私は明日も出勤で、おまけに朝早いの。キースが取るべき行動はなんだと思う?」
「君と我が家でゆっくり美味しいディナーを楽しむ」

 即答された。ダニエラは思わず笑ってしまう。

「ちがう。私を家に帰して、ゆっくり寝かせる」
「……それは無理かもしれない」
「そう。私、明後日は休日なんだけど、そっちで休むことにしようかな」
「ダニエラ」
「選んでいいわよ。今日、これから早急にセックスだけ済ませるか、明日の午後から明後日までずっと一緒にいるか」
「……どちらもは?」

 ダニエラが無言で唇の端を上げると、キースは項垂れた。
 ダニエラはキースの背中に腕を回す。

「私はあなたと休日を過ごしたいな」

 キースは一瞬言葉を詰まらせ、ダニエラの背中にそろそろと腕を回した。頭が肩に置かれる。耳のあたりを柔らかな金髪がくすぐった。

「私を試してる?」
「そうね、大人のキースはどのくらい我慢強いかしら?」

 キースは一度ダニエラを強く抱き締めると、体を離した。

「まだ少し我慢できる」


 Saturday 14:42

 ドアが開く音がしたので、ジョンと共に跳ね起きた。スタート位置の差でジョンに先を越されたが、キースはダニエラを抱き締める。
 何か言おうとしたが、気の利いた言葉は何一つ出てこなかった。ダニエラの腕が腰に回される。ふと目が合うと、優しく唇にキスされた。

「ただいま。カスタードプディング買ってきちゃった。食べる?」
「ぜひ! コーヒーをいれる?」
「お願い。私はいまだにこの家のコーヒーマシンの使い方がよく分からない」

 ダニエラは小さな紙袋をがさがさ言わせながらガラス容器を二つ取り出した。コーヒーの準備をしながら、キースはその様子を眺める。
 おねがいごとが叶ったのね、と少女は言った。キースはダニエラにもう少し甘えたいと思っていて、だがそれを言い出せないでいた。彼女に迷惑をかけてしまうと思っていた。
 だが、キースは結果的に自分の言う程度の些細な我儘など、ダニエラにかかれば本当に取るに足らないもので、キースが想定していたより遥かに上手に転がしてくれることを知ったのだ。つまり、その程度には大切にされているし愛されている。
 上機嫌でコーヒーメーカーを操作するキースに、ダニエラは怪訝そうな目を向けた。

「ねえ、一つ確認したいんだけど」
「なんだい?」
「あんたのおねがいごとって、まさか私のセックスへの満足度を知りたいってわけじゃないわよね?」
「違うよ!! それは絶対に違う!!」

 よかった、とダニエラは笑う。

「そうだったら下らなすぎてぶっ倒れそう」
「く、下らないかな?」

 キースにしてみればそれなりに大きな問題だ。今回はそれを願ったわけではないと思うが。キースは少し不安になる。もしかしてそっちだったのだろうか。
 ダニエラはスプーンを用意しながら、テレビで映画の配信サービスをチェックし始める。

「何を観るの?」
「決めてない。何がいい?」
「とびきりロマンチックなものがいいな」