Chapter 3



 眼下に人工光を見下ろして、スカイハイは全身に風を浴びる。喧騒に満ちたシュテルンビルトの夜の街も、空は静かだ。アドバルーンや飛行船のさらに上方を飛びながら、スカイハイは日課のパトロールに精を出していた。
 星の名を冠しながら眩いネオンで星の光の届かないシュテルンビルトの夜を、スカイハイは愛している。パトロールはヒーローとしての己に課した使命でもあり、大切な一人の時間でもあった。
 ふと彼女のことを思い出す。彼女もあのオルトロスに乗ってこの街をパトロールしているのだろうか。そう思うと、なんだかとても心強い気持ちになる。
 キースが普段は行かないような店に足を踏み入れたのは、店の前にオルトロスが停まっていたからだ。武骨な警察車両が、まるで引き寄せるように二人を引き合わせてくれた。感謝してもしきれない。
 そんなことを考えていると、がくんと急に飛行姿勢が崩れた。何者かの攻撃を受けたのかと身構えたが、どうやらジェットパックの故障のようだ。ジェットパックはスカイハイの飛行能力を補助するものだ。これがなくては飛べないということはないが、高速で安定した飛行をすることは出来ない。
 しかたがない、どこかに不時着しよう、とあたりを見回す。ジャスティスタワーの付近に、と考えたが、あのあたりは人通りも車通りも多く、高いビルが林立している。万が一の事故は避けたい。
 キースはなるべく明かりの少ない郊外の方を目指して方向転換した。すでに高度は下がり、スカイハイの姿を見つけた市民が嬉しそうに手を振っているのが見えた。非常事態を気取られぬようそれに手を振り返しながら不時着位置の目処をつける。車通りも少ないし、事故の起こりそうな建物はない。
 風を操り落下速度を緩めながら地面までもう少しというときに、車のヘッドライトがキースの顔を照らした。一瞬目がくらみ、体のバランスが崩れる。こちらに向かってくる車の運転席に座る女性と目が合い、キースは完全に風のコントロールのことを忘れてしまった。
 鋭いブレーキ音とともにキースの体はボンネットに叩きつけられ、フロントガラスに激突する。そのままごろごろとアスファルトに転がり落ちたスカイハイは仰向けのままぼんやりと夜空を眺めていた。
 車のドアが開き、運転手がキースのもとに駆け寄ると、頭を抱えて空を仰いだ。

「嘘でしょ!! またあんた!?」

 スーツに内蔵された人工知能がスーツとキースの損傷具合をチェックする。大した損傷はないようだった。キースはゆっくりと上半身を起こす。

「す、すまない……また私なんだ」
「私への嫌がらせか何か!? あのとき轢いたのをそんなに根に持ってんの!? 助けたつもりだったんだけど!」
「いや、そういうわけでは……」
「じゃあどういうつもり?」

 どういうつもり、と問われ、キースは首を傾げて「偶然のめぐり合わせ……?」と答える。彼女は溜息をついてキースに手を差し伸べた。キースはおずおずとその手を取り、立ち上がる。グローブ越しにかすかに感じる体温にスーツを着ていたことを少し惜しく思ったが、スーツなしでは打撲で済まなかっただろう。

「怪我は? 痛むところはない?」
「ない。ありがとう」
「すごい、そのスーツ警官にも支給してほしい」

 彼女はそう言うと肩をすくめた。そのとき、スーツの異常を感知したポセイドンラインの技術部から連絡が入った。「失礼」と一言断って通話を開始する。

「スカイハイ、どうした!」
「ジェットパックが故障したようなんだ」
「ジーザス! なんてこった! おれのせいか!? ああ、すまないスカイハイ!」

 スーツの完成度と整備に人一倍自信を持つメカニックが通信の向こうで頭を抱えて身悶えする気配がした。そのおかげで彼女にもう一度会うことが出来たから、彼を責める気にはならない。

「私は無事なんだが、一つ問題がある」
「なんだ?」
「不時着した先で民間人の車両を破損してしまった」

 メカニックが呻き声をあげた。 

「とりあえず上に報告するから、スカイハイはそこで待機していてくれ」
「了解」
「あ、そうだ。警察は呼ぶなよ、ややこしくなるから」

 呼ばずとももういるのだが。彼女の方に「警察は呼ぶなと言われた」と伝えると、彼女は鼻を鳴らして「もういる」と答えた。

「あっ、もしかしてそこに車の持ち主がいるのか?」
「ああ、ここにいる。待ってもらっていたほうがいいかな?」
「そうしてくれ。あと、車のナンバーと持ち主の名前を教えてくれないか」

 キースはヘルメットの下で口をへの字にした。こんな形で知りたくはなかった。

「君の名前を教えてくれないか? 向こうに伝えるから」

 言うと、彼女はしばらく疑うように黙っていたが、ぶっきらぼうに名前を教えてくれた。それをそのままメカニックに伝える。

「オーケー、伝えておく。本当に申し訳ない、スカイハイ。怪我がなくて本当に良かった」
「ありがとう、君の整備はいつだって完璧だった。帰ったら原因を探そう」

 通話が切れる。

「ダニエラ」

 彼女が名乗った名前だった。彼女にぴったりの美しい名前だ。キースが呟くと、ダニエラは思い切りキースを睨みつけた。キースは一歩後ずさる。

「この状況でいきなりファーストネームを呼び捨て? いい度胸してる」

 それだけ言い残すと、ダニエラは踵を返して自分の車の方に向き直った。スチールグレイのボディのSUVは、年式の古いものではあったがよく手入れされ大切に乗られているのが分かる。そのボンネットが大きくへこみ、フロントガラスにはロングクラックが入っている。
 ダニエラはクラックを指でなぞり、眉間にしわを寄せた。

「修理代は必ず払う」
「これ保険でカバーしてくれるのかな? ヒーローが空から落下してきた場合の特約なんてつけてないんだけど」
「私の保険から支払われると思うし、会社の方からも何らかの補償があると思う」
「ラッキーと喜べはしないけど、まあ最悪ではないかな」

 ダニエラは車両を道の脇に移動すると、腕を組んでへこんだボンネットに寄り掛かる。その姿があんまり様になっているものだから、キースはつい引き寄せられるように彼女の傍らに立った。

「あんたは触らないで」

 ぴしゃりと言われ、キースは慌てて両手を肩の位置まで上げ、車から離れる。

「も、もちろんだ」

 微妙な立ち位置のまま、気まずい沈黙が落ちる。彼女は腕を組んだまま目を伏せ、何度も時計を確認するようなしぐさを見せた。

「また会えて嬉しい」

 ぽつり、とキースが呟くと、ダニエラはキースをじろりと睨む。

「修理代の支払い減額されてもいいから、一回だけぶん殴ってもいい?」
「す、すまない、不適切な発言だった」

 キースが頭を下げると、ダニエラは苦笑いのような表情を浮かべた。

「あんたって悪い人じゃないんだろうけど……」

 と、そこまで言って首を横に振って黙り込んでしまう。その先が聞きたいような聞きたくないような、キースは考えて聞くのはやめておいた。
 ダニエラは呆れたように肩をすくめる。

「テレビで見るスカイハイはもっと格好いい」
「……がっかりさせてしまった?」
「別に。ヒーローに夢見る年頃でもないし。でも妹には言えないかな」

 キースはヘルメットの下で瞠目する。彼女が自分のことを話すのは初めてだった。

「妹がいるんだね」
「スカイハイの大ファンだった」

 過去形で言い、切なげに目を伏せる。まさか、とキースは思うが、彼女は「今はヒーローよりボーイフレンドに熱を上げてる」と笑った。

「妹が小さい頃にヒーローになってって言われてた」
「目指してたのかい?」
「まさか。……いや、どうかな。NEXTの子供なら一度はヒーローになりたいって思うものじゃない?」
「私は能力が現れたのが18歳の頃だったから」
「ああ、そうなんだ。私が小さい頃は、NEXTの仕事はヒーローくらいしか知らなかったし……多分、無かった。それは今もそんなに変わらないけどね」

 皮肉っぽく唇の端を上げる。キースは何と声をかければいいか分からなかった。
 それきり口を噤んで、ダニエラは携帯端末で暇潰しを始めようとした。キースは慌てて会話の糸口を探す。

「ヒーローは……嫌いかい?」
「いや、別に。前に言ったこと気にしてるの? 冗談よ。私が子供の頃はワイルドタイガーのデビュー直後で、私も大ファンだった」

 キースは虎徹が彼女のパトカーに乗ったということを思い出し、もやもやとした気分になった。

「そういえば、前、ワイルドタイガーを乗せたの。規定で警察官はヒーローにサインとか写真撮影をお願いしちゃいけないことになってるんだけど、こっそりお願いすればよかった」
「私なら君のために何枚でもサインを書く」
「一枚でいい。妹用に」

 素っ気なくそう言われ、キースは肩を落とす。ダニエラはふとキースの顔を見上げた。

「それ、外さないの? 苦しくない?」

 ダニエラは自身の顔のあたりを指さす。スカイハイはヘルメットに触れた。

「ここで外すわけにはいかない。誰が見ているか分からないから」

 答えると、彼女は眉を跳ね上げて「へえ、大変」と言った。

「それされてると、どこ見て話したらいいか分からない」
「え!? あ、ああ、この辺を見ていてくれ! ちょうど目だから!」

 自分の目のあたりを指で指し示しながら身を乗り出すと、ダニエラはうるさそうに体を仰け反らせた。

「言っておくけど、話って修理代の交渉のことね」
「ああ、そ、そうか……いや、それでもこのあたりを見ていてほしい!」
「忘れなければ。ねえ、人が来るまでどのくらいかかる?」
「分からない」

 キースにしてみれば、まだ来なくてもいい。何かの手違いがあって一晩このまま放置されないだろうか。いや、一晩は不埒だ。せめて2時間くらい。
 キースの願いも虚しく、ダニエラが走ってきた方向から車のヘッドライトがこちらに向かってくる。スカイハイはその車の方に渋々合図をした。
 シルバーのセダンから二人の男が降りてきた。一人はポセイドンラインのヒーロー事業部の部長、一人はポセイドンラインの顧問弁護士である。
 二人はまっすぐにダニエラのもとに向かうと、名刺を渡し、挨拶をした。それから部長がすぐに本題に入る。

「このたびはまことに申し訳ございませんでした。ヒーローが市民に危害を加えるなど、あってはならないことです。ダニエラ様には非常に恐ろしい思いをさせてしまいました」
「いえ、彼に怪我がなくてよかった」
「こちらといたしましては、ダニエラ様にご不便なく不利益なくことを進めさせていただきたいと考えております」

 そこで弁護士にバトンタッチする。補償はするから一切訴訟を起こすな。このことは口外するな。ということを、専門用語を交えて長々と説明される。
 根気強くそれを最後まで聞いたダニエラはあっさりと首肯した。

「ええ、もちろん。お互い不幸な事故だし、こちらとしては車が直れば文句はありませんから」
「それでは、また後日書類を作成いたしますので、ご連絡先をいただいてもよろしいですか?」

 ダニエラは差し出された書類に連絡先を記入した。キースはそれを覗き見たい衝動に駆られたが、さすがに理性でそれを押しとどめた。

「ありがとうございます、ダニエラ様。建設的な話し合いが出来てよかった」
「こちらこそ、迅速に対応していただけてよかった」

 ダニエラは言うと自分の車に戻ろうとする。顧問弁護士がそれを押し止めた。

「こちらで代車を手配していますので。もうすぐ到着します」

 手際がいい。さすがポセイドンライン。キースはヘルメットの下で感心してしまうが、ヒーロー事業部の部長に横目でアイコンタクトをされ、これは厳しく注意を受けるなと覚悟をした。

「ああ、別に条件っていうわけではないんですけど一つお願いがあって……」

 ダニエラが思い出したように言うと、部長と顧問弁護士の間に緊張が走る。それを気取られぬように顧問弁護士が「聞きましょう」と答えた。

「スカイハイのパトロールを辞めさせたりはしないで欲しいんです。今回はお互い……不運と不注意が重なってしまいましたけど、でも彼のおかげで救われる人もいるから。お願いします、私、彼の大ファンなんです」

 ダニエラは口元にちょっと意地の悪い笑みを浮かべてキースにウインクする。
 部長が「お、おお……」と安心したように息を吐いた。

「そうでしたか、彼のファン。応援してくださってありがとうございます。ほら、スカイハイも」
「君、私の大ファンだったのかい!? 初耳だ!」
「そうじゃないだろう!」
「あ、応援ありがとう……?」

 決め台詞が出ないキースを部長は睨みながら、彼の背中をぐいぐい押す。

「こんな機会ですが、どうですか写真撮影でも?」
「いやそれはいら――」
「さあさあ、スカイハイ、肩組んであげて!」
「えっ、ふ、触れてしまいますけど!?」
「何言ってるんだ君はさっきから! 頭でも打ったのか!?」

 部長に強要され、キースはどうにでもなれと彼女の肩に腕を回す。あまりに動転していてほとんど抱き締め――というより、裸絞のようになっている。

「はいこちらを見てくださいねー、はいチーズ。ではこれは現像してスカイハイのサインを入れてお送りしますので」

 そこに代車に乗った業者が現れた。部長と弁護士がそちらの対応をしている間に、キースはほっと息をつく。裸絞をされたままのダニエラはキースの腕を抜け出すと、ジャケットから手帳を取り出し何かを書き付けた。
 それを千切ったものを手渡される。彼女の名前と連絡先が記されている。キースは幻覚かと己の目を疑った。

「それ、私の連絡先。いい? それあげるから、警察署に来るのは禁止。車の上に墜落するのもやめて。書類から連絡先を盗み見ようとするのもナシ」
「連絡してもいいのかい?」
「職場で花束渡されて愛車のフロントガラス割られるよりはマシ」

 キースは二人に聞こえないよう声をひそめる。

「私はジョークが分からないし、本気にしてしまう。知らずに暴走して君に迷惑をかけてしまうかも」
「自覚があったのね、少し安心した」

 ダニエラは片眉を上げて笑った。キースはちっぽけな紙片がまるで大切な宝物かのようにしまいこむ。

「あんたが何かしようと思ったら、その前に連絡して」
「絶対に連絡する、絶対に!」
「ああ、なんか噛み合ってない気もするけど」

 ダニエラは「じゃあね」と言うと、ひらひらと手を振って代車のキーを受け取った。ポセイドンラインが用意した小洒落たクーペに乗り込む後ろ姿がなんだか楽しそうで、キースはぼうとその姿を眺めていた。