Chapter 4



 天気は快晴。穏やかで優しい風が吹いている。こんな日は人の心も穏やかになるものか、午前中に万引きの通報があっただけでおおむね平穏であった。軽食の屋台が出ているセントラルパーク周辺をセダン型のパトロールカーで流しながら、ダニエラは陽光にきらめく噴水に目を取られた。

「ダニエラ、よそ見すんな」

 助手席のカイにそう咎められ、ダニエラは素直にそれに従う。

「なあ、ルーシーの写真見るか? これ見せたか?」

 舌の根も乾かぬうちにそんなことを言うので、ダニエラは運転中と素っ気なく答えた。カイはそれを無視して先を続ける。

「いやこれは見てないって、すげー可愛いから」
「昨日見た」
「今朝撮ったやつだ。よし、見せてやる」

 カイは路肩に車を停めるように指で合図する。「コーヒーおごるから」と言われ、ダニエラは「ハニーラテ、ミルク多めで」と答えた。車を停めると、カイはコーヒー、コーヒーと口遊みながら車を降りて行った。ダニエラはシフトレバーをパーキングに入れ、サイドブレーキを引いた状態で車内で待っていた。コーヒーを買ってきたカイが出てこいとばかりにボンネットを叩いたので、ダニエラはドアを開ける。あたたかい風が頬を撫でた。
 コーヒースタンドで買ったばかりの熱いコーヒーを受け取りながら、ダニエラは「アイスにすればよかった」と呟く。

「今日は暑いくらいだな。俺は冷たい飲み物は腹壊すから飲まないけど」
「……氷のNEXTなのに」
「それとこれとは別の話」

 能力と人物というのは案外相関がない。昔は人種や家庭環境や性格ごとに発現しやすい能力があるという説もあったらしい。今ではほとんど与太として扱われている。ただ、攻撃的な能力を持つと攻撃的になる傾向はあるようにダニエラは思っている。一警官としての経験則に過ぎないが。
 カイは無遠慮にダニエラの鼻先に携帯端末をつきつけた。小さな子供が顔をくしゃくしゃにして泣いている。

「今朝は俺が保育園に送ったんだけど、行かないでって泣くんだよ。いや参った。保育士さんに「ママの時は泣かないのに、パパが大好きなんですね」って言われちゃって」

 正直、昨日見せられた写真と何が違うのかよく分からないので曖昧に返事をしておく。彼の撮る娘の写真は、大抵泣き顔のアップだ。

「ミアは元気?」
「元気元気。今日も元気に俺の三倍は稼いでるよ。あ、今度おまえに遊びに来いってさ」
「考えとく」

 ルーシーがお腹にいた頃に、ナーバスになったカイの妻がカイとダニエラの関係を疑い騒動になったことは今は笑い話だ。誤解がとけほっとしたカイの妻はそのまま破水し、ダニエラが二人を警察車両で病院まで送り届ける羽目になった。
 なあ、おい、と声をかけられ、ぼうっとしていたダニエラは顔を上げる。

「頭大丈夫か?」
「え、なに? 私、同僚に正気を疑われてる?」
「まあそういうときもある。でも今聞いたのは頭痛のことだよ」
「だいぶ良くなった。ありがとう」

 それは嘘ではなかった。ここ数日は痛みがあったことすら忘れていた。カイはポケットから小さなチョコレートを一粒取り出し、口に放り込んだ。それを熱いコーヒーで洗い流す。

「それで、ダニエラの頭痛の種は?」

 ダニエラは盛大に溜息をつく。

「給料は上がらないし仕事はハードだし、NEXT絡みだとどこにいても呼び出し入るし。馬鹿みたいに広いだけの家の維持費は高くて、掃除もままならない。妹は学校を休みがちで、男を家に連れ込んでる。わけわかんない男に付き纏われて、愛車のボンネットはべっこべこ。フロントガラスも割れた」
「あのパイアか? ありゃもう寿命だろ」

 そんなことは言われなくても分かっている。車については自分の方が詳しい。パーツを交換しながら使い続けているが、部品も次々製造中止になっている。今までかけた整備費でちょっといい中古車が買えるだろう。

「さっきから気になってたんだが、何度も鳴ってるぞ」

 カイがダニエラの携帯端末を指し示す。頷いたきり携帯端末に触れようともしないダニエラを見て、カイは目を細めた。

「男か」
「すぐそういうこと言う」
「男だな」
「どうしてそう思うの?」
「おまえの抱えるトラブルは大抵男絡みだろ」

 自明とばかりに言い切られ、ダニエラはさすがに身の振り方を考える。

「今度はどこのクズを引っ掛けてきたんだ?」
「引っ掛けたわけじゃない。勝手に引っ掛かってきたの」

 今回ばかりは防ぎきれぬ事故だ。キースに連絡先を渡してから二週間は音沙汰がなかった。さすがに諦めたのかと思ったのだが、昨晩急に長文のメッセージが入っていた。どう返事をしたらいいか分からない代物だったので返事を保留していたのだが、今朝から数時間おきに謝罪のメッセージと通話の着信が来る。

「深夜のテンションでラブレターを送っちゃった男が必死で取り繕おうとしている姿を笑うなんて、ひどい男」
「ラブレターなんて、おまえの周りにいる男にしては殊勝じゃないか。なんて書いてあったんだ?」
「もう一度君に轢かれたい」
「…………この話はやめよう」

 カイは両手で顔を覆って項垂れてしまう。自分から聞いておいてその態度はないだろう。

「一つだけ聞いていいか? おまえその男を轢いたのか?」
「二回ね」
「……何かの比喩か?」
「質問は一つだけ」

 カイはちょっと芝居っぽく首を横に振って見せる。ダニエラは苦笑して額にかかる後れ毛を払う。前から気になっていたハニーラテは少し甘すぎた。一番小さなカップの中身がなかなかなくならない。

「悪い人ではないんだと思うんだけどね」
「ああ、おまえ、そんなだとまた押し切られるぞ」
「好みじゃないもの」

 そう言って、ダニエラはふと彼の屈託のない笑顔や素直すぎる受け答えを思い出し「まあ、ちょっとはカワイイけど」と付け足しておく。カイはカップをボンネットに置いてダニエラの顔をまじまじと見つめた。

「男を見る目がないダニエラの好みじゃないってことは、ものすごくいい男なんじゃないか?」
「無礼すぎて言葉も出ない」

 冗談かと思えば、カイは仕事中でもあまり見ないような真剣な表情である。職場に色恋沙汰を持ち込んだことはないのに、どうしてそんなに信頼が無いのだろう。
 ダニエラ自身は男を見る目がないという自覚はあまりない。過去に関係を持った中には問題のある男もいたが、金銭を騙し取られたり暴力を振るわれたりということはない。だがよくそう言われるということは、傍からはそう見えるのだろう。

「確かに、私はカイをすごくいい男だと思う。不本意な仕事でも真面目に働いて、ミアを愛していて、ルーシーの面倒もよく見てる。NEXTに溺れないし、少し無駄口は多いけど優しくてよく気が付いて寛容。やるときはやるし正義感があって勇敢」
「お? アヤマチ犯してみるか?」
「でも全く惹かれないの。不思議」
「……言うねえ」

 カイのカップが空になったのを見計らって、車内に戻る。甘いラテはカップホルダーに放り込んだ。
 あとはしばらく既定のルートを回り、署に戻って書類を片付ければあがりだ。何事も起こらなければ、の但し書きがつくが。
 パトロールカーをゆっくりと前進させ車の流れに乗せると、ダッシュボードの携帯端末が明滅する。ちらとそれを見て進行方向に視線を戻す。カイが素早くダニエラの携帯端末を取り上げた。

「ちょっと!?」

 取り返そうと手を伸ばすダニエラの腕から逃れてカイは通話ボタンをタップする。

「はい、こちらダニエラの携帯。ダニエラは運転中。俺か? 俺は同僚」
「ちょっと、カイ! やめて!」

 ダニエラの瞳が淡く光る。ダニエラはハンドルから手を離し、携帯端末を取り返そうと身を乗り出す。

「NEXTを濫用すんなよ」

 言いながらカイはダニエラの両手首に氷の枷をはめた。

「ああ、いや、こっちの話」

 カイが端末に向かって言い訳する。
 みしみしと音を立てて窓ガラスが凍り付く。そこからつららのように伸びる氷がダニエラの体に絡みつき座席に拘束した。カイは悠々と後部座席に移ると「前は見とけ」と言い、座席の間に氷の壁を作る。
 こうなってはもうどうにもならない。ダニエラは車内の暖房を全開にして、仏頂面で運転を続けた。   
 頭の後ろから何か楽しそうに話す声がするが、内容までは聞き取れない。時折笑い声も聞こえた。いったい何の話をしているのだろう。飄々とした同僚は悪戯好きだが、分別はある。それは信用しているのだが、どうにも居心地が悪い。

「ほらよ」

 三十分程して氷の壁にあいた穴から携帯端末を差し出される。初めて話す相手とそんなに盛り上がることがあるか、とダニエラは思う。
 氷を蹴破りながらカイが助手席に戻ってきた。

「ひどいことする」
「ひどいのはどっちだよ。ものすごくいいヤツっぽかったぞ」

 ダニエラは言葉に詰まった。ちらとカイの方を見ると、珍しく目元に怒気を滲ませている。ダニエラは気まずくなって目を逸らす。

「おまえな、無駄に気のある素振りして男をもてあそぶのやめろ」
「そんなこと――」
「やってる。おまえにそのつもりがないからタチが悪いんだよ。だからおまえのまわりにはしょーもない男ばっかり残るんだ」
「……はい」
「アホひっかけて遊ぶのが好きなら文句はないが、善良な男にはやるな。その気がないならきっぱり断ってやれ」
「……うう」

 うっすらと身に覚えがあってぐうの音も出ない。
 全く身動きがとれない状況のままダニエラは項垂れる。カイはそこでにやりと笑った。

「ということで、俺がクソビッチに代わって今夜会う約束しておいたから。今日、18:00にエル・ムンドな」
「は?」

 ダニエラは目を丸くする。車体ががくんと揺れた。おい、運転に集中しろよ、とカイがダニエラを窘める。というか今クソビッチって言ったかこいつ。

「な、なんで!?」
「俺が代わりにきっぱり断ってやろうかとも思ってたんだが、話してみたら好青年っぽかったから」
「好青年っぽかったからなに!?」
「今日ちゃんと会って話してみろ。たまには誠実な男とデートしたっていいだろ。それでやっぱり全くその気にならなかったら、きちんと断ってやれ。いいな?」

 噛んで含めるように諭され、ダニエラは不承不承頷く。バディを組んでいるカイ・リャンのことを、ダニエラは信頼しているし尊重している。いつもは不必要にプライベートに踏み込むようなことをしないカイが言うのだから、ダニエラは最大限それを受け入れることにした。

「ねえ、氷がとけてきて冷たい」
「そりゃ災難」
 

******


 結局、交代時間のぎりぎりにちょっとしたトラブルが起きて、ダニエラは慌てて署を飛び出すことになった。
 湿ったままのSBPDのロゴが入ったポロシャツの上に私物のジャケットを羽織り慌ただしく走るダニエラを見て、カイが「付き添ってやろうか?」とからかってきた。「本当に付き添ってくれるの?」と聞いたら「ばかやろう」と笑われる。
 店についたダニエラはぐるりと店内を見渡した。HEROTVが流れ続ける液晶から離れたカウンターに、青いジャケットの後ろ姿が見えた。ダニエラは少しその場で逡巡し、グラスがしまわれたキャビネットのガラスに映った己の姿を見ながら髪を直す。
 なるべくゆったりと見えるように店内を横切り、その後ろ姿に声をかけた。

「同僚がごめんなさい」

 ぱ、とキースは顔を上げ、破顔という言葉がぴったりの笑みを浮かべてダニエラを見上げる。

「来てくれて嬉しい、とても嬉しい」

 うう、とダニエラは呻く。カイの言葉が脳裏をちらつく。そんなにひどいことをしているだろうか。そうでもないだろう。
 いやしかしこの笑顔を見ると無闇にやましい気持ちになる。何故かは分からない。
 ダニエラはなんとなく落ち着かないまま水のボトルとオープンサンドを注文する。何か言ったほうがいいだろうかと口を開きかけたダニエラを遮るようにキースが身を乗り出した。

「君に謝らなければならないと思って」

 ダニエラはふと思い出す。

「夜中の長文メッセージのこと?」
「そうだ。……読んでしまったかい?」

 眉尻を下げながら首肯するダニエラに、キースは肩を落とした。

「気にしてない。まあ、少し……変な文章だったけど」
「本当は、私は君が同じ夜をパトロールしているだけで満足していたんだ。ただ、昨晩急に――堪らない気持ちになって」

 ダニエラはその発言をいつもどおり流して先に進めようとしたが、カイへの義理立てのためにも後学のためにも掘り下げることにする。

「ごめん、ちょっと聞いていい? 同じ夜をパトロールするってどういうこと?」

 唐突な問いに、キースはどうしてそんな当たり前のことを聞くんだという顔をして数度瞬きした。

「シュテルンビルトの夜を、お互いパトロールしているだろう? 君は地上から、私は空から」
「ええ、それで?」
「それってとても素敵なことだ。そうは思わない?」

 ダニエラは「ああ」と「うう」の中間あたりのどっちつかずな返事をした。こういう態度が駄目なのだろうか。だが、これ以外の返答が思いつかなかった。大抵の巡査は当番制で警邏をしているがそっちは無視していいのか。
 ついでに言うと昨晩は夜勤ではない。だが、にこにこと笑うキースにはそれを言えない。

「最初は、あのオルトロスを運転している人に会ってみたいとだけ思っていたんだ。実際に会って、とても魅力的だと思った。君は君の運転みたいに、強くて美しい人だったから」
「あ、ありがと……」

 べた褒めである。ダニエラは青空のような瞳に見つめられてくらくらしてきた。お酒も飲んでいないのに。

「君と話したいと思った。君のことを知りたいし、私のことも知ってほしい。でも、私がそう思っても空回るばかりで、君に迷惑ばかりかけてしまった」
「……うーん、それは、ごめん否定できない」

 ダニエラは彼の行状を思い出し、顔をしかめる。

「もう君には関わらないほうがいいのかもしれないと思った」

 そのことなんだけど、と言いかけたダニエラをキースは満面の笑みで黙殺した。

「でも、カイにも応援されたんだ! あいつチョロいからちょっと押せばすぐ落ちるぞ、と!」

 言うなよ! そういうことを! 本人の目の前で! ダニエラは天井を仰ぐ。木製のファンがくるくる回っていた。

「カイはいい人だね! 君のことを色々教えてくれた!」
「ちょっと今はいい人とは思えないかも」
「今度、お子さんの写真を見せてもらう約束をしたんだ!」
「いつの間にそんな仲良く?」

 会ったこともないのに。長々と話していると思ったら、そんなことを話していたのか。彼はいったいキースに何を吹き込んだのだろう。心配で仕方がない。

「だから、押して押して押しまくることにした!」
「作戦変わらずってこと?」
「いや、より強く! そして激しく!」
「ヤメテ」

 ぐっと拳を握るキースにダニエラは頭を抱える。今頃カイは面白がって罵倒の電話を待っていることだろう。もしかすると自分がやったことはすっかり忘れて娘の世話に追われているかもしれないが。どちらにせよ腹立たしい。

「だから、手始めに君に名前を呼んでほしい」
「……なんで」
「コミュニケーションの基本だろう?」

 キースはカウンターの上に置かれたダニエラの手を握る。

「呼んでくれるまで帰さない」

 心臓が跳ねた。ダニエラは悔しくて唇を噛む。何か気の利いたことを言い返してやろうと思ったが、睨み上げたキースの顔が真っ赤になっていたので事情を察した。握られた手をゆるりと振りほどく。

「カイにそう言えって言われた?」
「……すまない、人の言葉を使うのは卑怯だった」

 素直に謝るキースには好感が持てた。問題はカイの方だ。なぜダニエラの趣味をそこまで熟知しているのか。思わずときめいてしまったダニエラはカウンターに向かって溜息をつく。

「カイに口説かれたら即落ちするかも」
「それはだめだ! 彼には愛する妻子がいるのだから!」
「わかってる」

 サーブされたオープンサンドを手にする。それを一口かじり、咀嚼、嚥下。穴の開くほど見つめられて、非常に居心地が悪い。

「……ねえ」
「はっ、な、なんだい!」
「見すぎ」

 キースは顔を伏せる。それからずっと顔を上げないので、ダニエラは「キース」と声をかけた。

「見るなとは言ってない。ただ、そんなにじろじろ見られると食べにくい」
「そうだな、加減が難しいが――」

 ふつりと言葉が切れる。青色の瞳がみるみる喜色に満ちた。そういう反応はちょっと面倒臭い。もっとスマートにやれないものか。

「名前を呼んでくれたね!」
「呼んだわ」
「嬉しい! ありがとう、そしてありがとう!」
「……それ、スーツ着てなくても言うんだ」
「え?」

 何でもない、とダニエラは肩をすくめる。
 結局ダニエラがオープンサンドを口にしている間、キースはずっとダニエラを見つめ続け、ダニエラは何を食べているのかもよく分からない気分で食事をすることになった。
 皿が空いた頃に、キースは「今日はもうこのあたりにしよう」と言う。

「引き際がいいのね」
「君には歳の離れた妹がいて、仕事以外で夜はあまり家を空けないようにしているとカイに聞いた」
「そんなことまで」

 おせっかいなんだから、とダニエラは笑った。

「カイの話をするとき、君はとても優しい顔をするんだね」

 急にそう言われ、ダニエラは首を傾げる。

「そう? 同僚だから」
「少し妬いてるかもしれない」
「おもしろいこと言うわね」
「私の話をするときは、君はどんな顔をするんだい?」
「大抵は眉間に皺を寄せてるかも」

 空になったボトルを指で弾く。ちん、と軽い音がした。

「嫉妬するにはまだ早い。そうでしょ?」

 ダニエラが言うと、キースはぐっと言葉を飲み込んだ。

 チェックを済ませて席を立つ。日の長い季節とはいえ店の外はもうかなり暗くなっていた。
 キースは自分で席を立つことを提案したのに、名残惜しそうにダニエラに目をやる。ダニエラは苦笑した。

「それじゃあ――」

 またね? それとも、ばいばい? 一瞬迷っているところに、キースの顔が近付いてくる。頬にキスされ、ダニエラは唖然とキースの顔を見つめた。
 キースは赤くなった頬を掻き、目を逸らす。

「別れ際にキス、と言われたんだが……」

 ダニエラはふきだして笑うとキースの首に腕を回し、息を吸うのを忘れた唇に口付ける。

「多分、頬にではないでしょ」

 子供じゃないんだし、というダニエラの言葉を聞いているのかいないのか、キースは放心したように立ち尽くした。
 さすがに心配になって「キース?」と顔の前で手を振る。

「……ダニエラ」
「ちょ――」

 再びキスされる。頬ではなく唇に。確かめるように何度も口付けられ、ダニエラは手のひらでキースの口を塞ぐ。

「ここでおっぱじめる気? 風紀紊乱で私まで逮捕される」
「あっ、いや、申し訳ない!!!」

 途端にしおしおとしおらしくなるキースに笑いがこみ上げたが、我慢してそれを飲み下す。
 カイに「その気がないならきっぱり断れ」と言われていたことを思い出し「あー」と声を上げた。

「どうかした?」
「ああ、ええと、私、キースにきっぱり言わなきゃいけないことがあって」
「なんだろう」

 少し不安そうにキースが言う。ダニエラはしばらく「あー」とか「うー」とか言葉にならないような言葉を連ねたあと、やっとキースを遠慮がちに見上げる。

「また誘ってほしい」

 キースは心から嬉しそうに笑うと、ダニエラの手を取り手の甲に軽く口付けた。

「もちろん、喜んで」

 今度はダニエラが放心する番だった。こんな気取った真似をされたのは初めてだ。ものすごく自然な物腰で、全く嫌味でないのがすごい。

「な、なにいまの。もう一回やって」

 ダニエラが思わずそう言うとキースは本当にもう一度やろうとしたので慌てて手を振り払って後退る。不思議そうに首を傾げるキースを咄嗟に指差してしまう。

「なっ、なんで!? 頬にキスは恥ずかしがるのにこれは恥ずかしくないの!?」
「……君に何か嫌な思いをさせてしまった?」
「そ、じゃ、ない、けど……」

 ダニエラは息も絶え絶えに答え、おやすみなさいの挨拶もそこそこに代車に飛び込む。ハンドルに伏せて切れ切れの溜息をつき、今頃やっと熱くなってきた頬を押さえた。


******


「どうだった昨晩は?」
「……いい人だった、と、思う」
「やっぱり俺の見立ては間違ってなかった」
「あと、カイは絶対に私のこと好きにならないでね。即落ちするから」
「……ならんよ。何言ってんだおまえ」