Chapter 5



 家を出ようとするとニノンがちょうど起きてきたところであった。起き抜けに眠い目をこするニノンは化粧もしておらず、昔のように幼く見える。

「おはよ」
「……はよ」

 短く答えて洗面所に立てこもろうとするニノンをちょいちょいと手招きする。ニノンはいかにも渋々といった様子で、それでも素直に近付いてきた。

「行ってきますのハグ」
「うわ、起きてこなきゃよかった」

 いいから、と妹を抱き寄せる。

「なんで急に」
「さあ、死ぬ予感がしてるのかも」

 冗談めかして言うと、ニノンはぎゅっと顔をしかめた。

「ばっかみたい」


******


「相手は一般人で、まだ子供だ! 晒し物には出来ない! 確保は警察で行う!」
「馬鹿言わないで! 火事の鎮火なら消防署で間に合うのよ! 暴走したNEXTをNEXTが止めるから、市民へのアピールにもなるんでしょ!」
「殊勝なことを言っているが、ショーを求めているだけだろう!」
「あら、ひどいことを言うのね。あなたこそ、ヒーローを出し抜いて点数稼ぎかしら?」

 通信端末を前に苛烈な言い合いをする己の上司を横目に見て、ダニエラは無線連絡を聞いていた。シュテルンメダイユ地区大学構内で火災発生。原因は臨床試験中のNEXTの暴走。被験者は八歳の少年。
 ボスはマイクに強い語調で何かを言いながら、カイとダニエラに「行け」と手で合図する。
 耐火耐熱装備を着込んだカイが、偏光レンズの上からフルフェイスのヘルメットを被ったダニエラに「後ろ乗せろ」と短く言った。

「俺もブルーローズみたいに専用バイクが欲しいよ。何が悲しくて白バイに二ケツ」
「水冷DOHC4バルブ直列4気筒でサイコーの排気音。機体のバランスもいいし、デカくて重い割に取り回しやすい名車。しかも運転手付き」

 ダニエラは自身の装備を確認してグローブをはめた。

「ボスって非NEXTなのに妙にNEXTに肩入れしてるからちょっと不思議。―― NEXTの部下はこき使うけど。そもそもこれってレスキューの仕事じゃない?」

 大型バイクに跨りながら言うと、カイがヘルメットのストラップを留めながらダニエラの方に視線をやった。

「知らなかったか? あの人、娘がNEXT。何年か前に亡くしてるけど」

 ああ、とダニエラは小さく呟きエンジンをかけた。理由を聞かなかったのは、そこまでプライベートに踏み込む気がなかったのと、薄々察しがついたからだ。
 カイが後ろに乗り、車体が沈む。無線機から「仕事中じゃなきゃそそるシチュエーションなのに」とカイがぼやく声がし、ジャケットの裾に手を突っ込まれた。ジャケットの下のタンデムグリップを掴まれる。
 本当にね、と答えながらバイクを発進させる。無線機越しにカイの呻き声が聞こえた。

「ダニエラもうちょっと優しく」
「右折しまーす」
「ああああああああ」

 混雑する車や目的地の同じ消防車両の間を縫うようにすり抜けながら、現場を目指す。途中、無線に連絡があった。罵りあいで枯れたボスの声がヘルメットの中で響く。

「司法局からヒーローへは消防救助活動で認可が下りている。NEXTの確保はこっちで行っても問題ない」

 カイが「そりゃまた無理筋な」と呟いた。

「いいか、子供をカメラに映さないように注意しろ。裏手に救急車を待機させた」
「了解」

 晴れた空に濃い黒煙が立ち上っている。どこからともなく黒い塵のようなものが降ってきて、ヘルメットのシールドに貼りつく。

「どこに降ろす?」

 ダニエラが言うと「突っ込むぞ」と簡潔に返された。「は?」と答えるダニエラにカイが畳みかける。

「散歩じゃないんだ、ゆっくり徒歩で探してられるか。なんのために耐火装備してんだおまえは」
「引火したらどうしてくれるの」
「火は任せとけ」

 ダニエラは溜息をつき、バイクの速度を上げる。警戒線をゴールテープのように引き千切り、炎を上げる講堂に突っ込んだ。かなり延焼の進んだ建物内部を目にして悲鳴を上げる。

「今日死ぬ予感がしてたのよ!」
「ぴいぴい言うな!」

 ごうごうと音をたてる炎が氷の壁を舐め溶かしていく。熱い水蒸気があがった。ヘルメット内部に冷たい酸素が供給され始める。

「燃料タンク冷やしといて。爆発する」
「わかってる。 行け」

 上階! とカイが叫ぶ。ダニエラは階段をバイクで駆け上がる。内臓を突き上げられたカイの規則的な悲鳴がメットの中で響いてうるさくてしかたない。
 長い廊下で急加速しながら、炎の発生源を探していく。炎と降り注ぐ建築材は氷の壁で防がれた。見事なものである。

「ふつーにヒーローできるでしょ」
「やりたかったよ」

 氷塊がドアをぶち破る。炎の渦の中に、幼い少年がうずくまっていた。意識が朦朧としているようだ。好都合と言えば好都合だ。

「生存者発見、確保する」

 カイが無線に言うと、防火毛布を少年に被せた。そのまま抱き上げ、ダニエラの背と己の腹の間で抱え込む。

「退避だダニエラ、GO、GO、GO」

 ダニエラは返事の代わりにエンジンをふかし、少年に負担をかけないように慎重に発進する。
 いつも振り落とされそうになるカイが抗議の声を上げた。

「なんだよ今のソフトな発進は! 出来るならいつもやれ!」

 速度にのったバイクをダニエラは急停止させた。車体の尻が振られ、舌を噛みそうになったカイが悪態をつく。
 来た道を戻ったはいいものの、階段が焼け落ち、階下は火の海だった。

「ああ、この子がいるから――」

 炎が強くなっている。 

「出来る限り消火して突っ切るか?」
「いや――」

 最後まで言わずダニエラはバイクを急旋回させた。ダニエラの目が偏光レンズの下で淡く光り、バイクのエンジンが高く鳴る。分厚い耐火耐熱装備の下でダニエラの体が発光しているのを見て、カイが「神様」と呻いた。

「うおおおいおいおいマジか!」
「掴まれ!」

 カイの腕が腰にがっちりと回されたのを確認して、ダニエラはバイクを加速させる。長い廊下の突き当たりには大きな窓がはめられていた。カイの能力が廊下から窓に向かって傾斜を作り上げる。

「死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!」
「落ちなきゃ死なない!」
「いや落ちるだろこ――!!」

 最後まで聞かずに窓枠をぶち破る。酸素を得た炎が生き物のように背後から迫ってきた。それをガラス片が反射してきらきらと煌めく。
 不愉快な浮遊感が内臓をせり上げ、カイの腕がダニエラの腹を締め上げた。

「く、くるし……」
「ああああああああ死ぬ!」
「しぬ……」

 迫る炎と肉薄し、着地する。大きなタイヤが数度バウンドした。ガラス片と炎がばらばらと降り注ぐ。大型バイクは「こんなのおれ向きの仕事じゃない」とばかりに排気音を漏らした。
 転がり落ちるようにバイクから降りたカイが警察車両の方に大きく合図をする。

「救護班! 救護班はどこだよ!? 救急車! あと霊柩車!」
「霊柩車?」
「俺の分!」

 頭から毛布をかけられた少年が救急車に連れ込まれる。それを確認して、ダニエラはやっとヘルメットを外した。ヘルメットの表面は煤けていて、グローブが黒く汚れる。
 頭上では中継ヘリがひっきりなしに飛び回り、ヒーローたちが決死の消火活動を行っていた。
 水を手渡されたダニエラは一足先に地べたに倒れ込んでいたカイの横に崩れるように座り込む。おつかれ、とひどく疲れた声で言われ、ダニエラは声にならないうめき声でそれに応えた。

「俺も毎日、ルーシーにNEXTが発現しないか怯えてる」

 ゆっくりと発車する救急車を見送りカイがぽつりと呟いた。ダニエラは水を口に含んで「うん」とだけ答えた。それ以外に言葉が見つからなかった。


******


 ごめん今日の夜は無理。とだけ簡潔に送ったメールに怒涛の着信が来ていてダニエラは「あ、やばい」と携帯端末を取り上げた。直近の着信をコールバックすると、呼び出し音もそこそこに通話が開始した。

「ダニエラ! まさか怪我を!? 今どこだい!」
「キース、怪我はしてない、今は警察署」
「ああ、私はてっきり……」
「ごめん、ちょっと今夜は……早く眠りたい」

 ごねられるかと思ったが、キースはあっさりと「ゆっくり休んでくれ」とそれを承諾した。

「私は君が怪我でもしたのかと思って心配で……」
「警官は死んでも三面記事だしね」
「警察署の前まで来てしまった」
「…………ちょっと待って、何?」
「今、署の前の広場にいるんだ!」
「そこ動かないでよ! 絶対に来ないで! 今行くから!」

 ダニエラはデスクを蹴立てて立ち上がる。処理中の書類がばらばらと落ちたのを乱雑に拾い上げていると、隣席のカイが呑気な声で「外行くなら何か買ってきて」と声を上げた。

「何かって何?」
「食べ物」
「考えとく」

 言い残して走るダニエラにカイは「よろしくー」と手を振った。
 ダニエラは階段を三段ほど飛ばしながら駆け降りる。勢いよく表に出ると、警察車両にぶつかりそうになった。運転席から抗議の視線を向ける同僚にボンネットを叩いて「ごめん」と合図すると、反応を確認せずに走り出した。
 署の前の通りにある広場は時間帯もあって人通りがまばらだ。いつもはもう少し人出がある。何しろ治安のよろしくないシュテルンビルトにあって、ジャスティスタワーと警察署に挟まれたこの広場ほど安全な場所はない。

「ダニエラ」

 呼ばれ、振り返るのと同時に抱きしめられる。うっすら汗と煙のにおいがした。シャワーも浴びずに来たらしい。
 ダニエラはキースの腰のあたりを片手で撫でる。

「キース、今私制服、ここは警察署前。だからキスはなし。いい?」
「わかった」

 二人でベンチの方に移動し、並んで座る。
 仕事の現場がかぶったときに、ダニエラは時折遥か彼方上空を自在に飛び回るスカイハイの姿を見る。そのたび「あれがキース・グッドマンなのだ」というのがいまいちしっくりこないでいる。
 顔を隠した姿や、無機的なフルフェイスヘルメットがそう思わせるのかもしれない。
 そのままそれを伝えると、キースはにこやかに笑う。

「そうかな、ほかのヒーローたちには「そのままだ」と言われるよ」
「へえ、そうなの? ごめん、あんまりスカイハイの方には詳しくない」
「ダニエラは最近のヒーローには詳しくないから」
「ブルーローズは知ってる。あと、ワイルドタイガーとロックバイソン」

 ひどく偏った知識を羅列する。ダニエラが知っているのは自分が子供時代に憧れた古株ヒーローと、同僚と因縁のある氷使いだけだ。あとはあやふやな知識しかない。名前が定かではないヒーローもいる。
 HEROTVの現場はほとんど自分の仕事場でもあるので中継を観ることは出来ないし、仕事で関わった現場を録画して観ようとも思えなかった。警察官になる前、父親が生きていた頃は、父と妹と三人でHEROTVを観るのが楽しみだったのだが。

「燃え盛る講堂の、それも二階から君が飛び出してきたときは肝を冷やした」
「……全身分厚い耐火スーツだったのによく分かったね」
「私はダニエラの運転を見間違えない。たとえバイクでも」

 ダニエラは苦笑して肩をすくめた。キースは身をかがめてダニエラの目を覗きこむ。

「君の後ろに乗っていたのは?」
「同僚。あれがカイ」
「ああ、彼が……」

 そうは言っても彼も全身完全防備で人相の判別など不可能だが。キースの瞳がもの言いたげであったので、ダニエラはキースの唇に人差し指を当てた。

「デート期間にごちゃごちゃ言う男は嫌われるわよ」

 むう、とうなったきり黙り込んでしまうキースを見て、ダニエラは笑う。

「あんたのとこにも綺麗な女の子いるでしょう?」
「彼女たちは……仕事仲間だ」
「おんなじこと」

 キースは釈然としないような表情で頷いた。
 デートともいえないような些細な行き合いはすでに数えるのに両手の指が必要なほどになっていた。デート三回で――、などという俗説はこの男には関係ないらしい。
 夜は家を空けたくないというダニエラの願いを律義に叶えてくれる誠実さは、物足りない一方で好ましくもある。

「キースは、NEXTが表れたのが18の頃だった?」
「そのとおりだ! 覚えていてくれてありがとう! そしてとても嬉しい!」

 大げさに喜ぶキースをダニエラは軽くあしらう。

「どういう感じ? やっぱり暴走した?」
「多少はね」

 昼日中の火災の原因にまつわる話だと気が付いたキースの口調も真剣味を帯びたものに変わる。

「キースの能力が暴走したら大変そう」
「幸運にもそうでもなかった。ふわふわ浮いて戻れなくなっただけだ。一週間ほど宙に浮いたままで大変だったけれども」

 NEXTやその家族にとってそれは非常に重要なことだ。つまり、発現したてで上手く制御できない状態で、危険の伴う能力かどうか。
 場合によってはそのまま専門施設から出られなくなることもある。死ぬこともある。

「君は?」
「私? 私は全然」

 ダニエラのあまり話したくないような素振りを見て、キースは悲しげに眉をひそめた。

「私は君の能力も知らない」
「言ったじゃない。運転が上手い」
「私をからかっているね」

 ダニエラは唇を噛み、後れ毛を指に巻きつける。

「からかっているわけじゃない。あー、実はちゃんと調査はしてないの。多分、機械を操作できるとか、そういう能力だと思う」

 ダニエラが幼い頃の家庭は貧乏暇無しで、時間をかけて調査し、能力を伸ばす余裕などなかった。
 キースはダニエラの手を握る。青い瞳がダニエラを射抜く。

「今からでも遅くない。きちんと調査して、能力を適切に伸ばしたほうがいい」
「まあね、今の職場じゃ命にも関わる。でも、妹がハイスクールを卒業するまではちょっと無理かな」

 ダニエラは眉尻を下げて笑った。

「ああ、私は産まれてすぐにNEXTが表れたの。目覚まし時計が右肘にくっついて取れなくなっちゃって、能力を制御出来るようになるまではオギャーって泣くかわりにジリリリって泣いてた。本当よ?」

 キースは握ったままの手を両手で包んだ。キースの手は、いつも温かい。

「君はもっと自分を大切にすべきだ」
「粗末にしているつもりはないのだけど」

 キースは珍しく憂鬱そうに息を吐く。ダニエラはふと申し訳ない気持ちになった。彼の表情が曇るのは、なんとなく嫌だった。
 キースはダニエラの手を、口付けるように口元に運ぶ。ちょっと、と制止すると、口付けることはしなかった。だが、手の甲に熱い息がかかってくすぐったい。

「私の美しい人。どうか、お願いだから」

 ダニエラは取られていない方の手で顔を覆う。

「すぐそうやって……」
「ふふ、私は私がこうすると、君がお願いを聞いてくれることを知ってしまった」
「わるいおとこ」

 ダニエラはのろのろと立ち上がった。まだ鼻孔のあたりで物が焼けるにおいが纏わりついている気がする。

「ねえ、今日泊まりに行っていい?」

 ダニエラが言うと、キースはベンチに座ったままたっぷり十秒は硬直した。

「………………えっ?」
「ごめん、駄目ならいい」
「いやっ! 駄目じゃない! 駄目じゃないぞ! 全然駄目じゃない!」

 キースは勢いよく立ち上がり、ダニエラの手を両手で握るとぶんぶんと上下に振った。なんだろう。握手だろうか。

「でも、妹さんはいいのかい?」
「もう高校生だし、多少はね。夜勤務の日は留守番してもらってるし」
「そうか、きっとジョンも喜ぶ」
「ジョン? 息子?」

 ダニエラは怪訝そうに眉をひそめた。妻子持ちの男にそれを隠して言い寄られて以来、そのあたりのチェックは入念に行うようにしている。

「私に息子はいないよ! ジョンは犬だ。大きなレトリバー犬。犬は平気?」
「犬! 犬がいるのね! 犬は大好き!」

 ダニエラは途端に目を輝かせた。

「よかった。でも、急になぜ?」
「ちょっと自分を甘やかしてみようかなと思って。今日はもうブロンズステージまで運転したくない」
「それは素晴らしいね」
「それに、今日はなんとなく一人で寝たくなかった」

 キースは優しく微笑み、ダニエラにハグをする。

「私を選んでくれてありがとう! 約束しよう! 絶対におかしな真似はしない、と! 君に最高の睡眠をとってほしい!」
「……別にしてもいいよ」
「絶対にしない! 私を信じてくれ!」

 男なんて「何もしない」と言いながら何かしようとするものだ。ダニエラは苦笑してひらひらと手を振った。

「じゃあ、私は仕事に戻るわ。心配してくれてありがとう」
「ああ! 仕事が終わったら連絡してくれ! 迎えに行くから!」

 ダニエラはキースと別れると、広場でスタンドのタコスを二つ買って警察署に戻った。


******


 案内されたゴールドステージのマンションはジャスティスタワーにも警察署にもほど近い。おそらく市警察の巡査の収入では玄関さえ借りられないだろう。
 動いているか分からない程静かに作動するエレベーターに乗りながら、ダニエラは「羨ましい」と呟いた。それに対してキースは困ったように笑った。

「会社から与えられているんだよ。ここなら夜中の出動要請にもすぐ応えられる。本当は、ジョンのためにももっと自然の多いところに住みたいんだ」
「ああ、キース・グッドマン is スカイハイ。油断すると忘れてしまう」

 キースは静脈の認証とナンバーキーでドアを開ける。ダニエラは自分の家のガレージのシャッターが壊れたままなのをふと思い出していた。
 細く開けたドアから湿った鼻先が覗いて、ダニエラは小さく歓声をあげる。

「犬! ジョンね! ジョン、はじめまして、こんにちは」
「……そんなにはしゃぐ君は初めて見たかも」

 キースはダニエラの歓声に興奮してドアを押してくるジョンを手で制しながら、ダニエラに入るよう促した。おじゃまします、と玄関に足を踏み入れたダニエラは、玄関の広さに一瞬目を丸くしたが、自身の膝に何度もお手とおかわりを繰り返すジョンを撫でるために屈みこんだ。
 ジョンはダニエラの匂いを嗅ぎ、うろうろとあたりを回り、ダニエラの肩に手をかけ顔を舐め始める。ダニエラは顔を背けて逃げた。

「ぷあ、顔はやめて」

 ジョン、とリビングの方からキースに呼ばれ、ジョンは嬉しそうにそっちに向かって走っていった。やはり飼い主が好きらしい。ダニエラはジョンのあとを追うようにリビングに向かう。
 白っぽい壁のリビングには大きなテレビが一台と、ソファセット。あとは壁の方に複数台のトレーニング器具が置かれていた。トレーニング器具の中には、雑誌や本や着替えが置きっぱなしのものもある。あまり使い勝手のよくないものだったのだろうか。

「散らかっていてすまない」
「気にしないで。そんなに散らかってない。正直、うちのほうがすごい」
「綺麗で広い部屋を貸してもらってるんだけど、私は部屋を飾るのがあんまり得意じゃないんだ」
「あんたの部屋がインテリアに凝ってたら、女の影を疑う」
「…………キャンドルを炊いていなくてよかった」

 キースが冗談めいたことを言ったので、ダニエラは笑った。だが彼は至極真剣な顔で「友人にアドバイスされたんだ」と言うので、どうやら冗談ではなかったらしい。
 足元にジョンが纏わりついて来るので、ダニエラは腰をかがめてジョンの頭を撫でようとする。ジョンはからかうようにダニエラの手を避けた。

「あ、なんてやつ」

 ダニエラがムキになって手を伸ばすと、ジョンは嬉しそうに尻尾を振る。

「かわいい、いい子ね」

 そう言いながらジョンの頭を撫でると、キースが少し不満気な顔をしているのに気付いた。ダニエラは肩をすくめる。

「呆れた、犬にまで妬いてるの?」
「そういうわけじゃないさ! ただ……!」

 言いよどむキースを差し置いて、ダニエラはバッグから着替えを取り出す。宿泊に必要な一通りのものは署に置いていた。
 ただしSBPDには女性用の仮眠室がない。男性職員を信用していないわけではないが、使うのは憚られた。それ以上にカイがダニエラの仮眠室利用を嫌がった。それほど歳が離れているわけではないのに、彼は基本的にパパ視点だ。
 ちがう、とか、君がジョンばかり、とか大きく手を振りながら色々言っているキースを宥めてシャワーを借りる。
 汗と埃を洗い流しバスルームの外に出ると、ふかふかのタオルが用意されていた。

「これ、使っていいの?」

 ドアの向こうに声をかけると「ああ!」と元気のいい返事が返ってくる。

「言っただろう! 君に最高の睡眠を、と! 最高の睡眠には最高のバスタイムが必要だ! 本当は泡の入浴剤を用意していたんだけれど……、君がさっさとシャワーを浴びてしまったから……」

 元気の良かった声がどんどん小さくなった。ダニエラは一人笑みをこぼしながら「ありがとう」と答え、タオルで顔を拭く。本当にふかふかだった。
 上下グレーのスエットでリビングに戻ると、キースはダニエラの姿を見て立ち上がる。

「色気のない格好でごめん、これしか置いてなかった」

 職場にセクシーな部屋着を置く奴もいないだろうが、一応断っておく。キースは嬉しそうに微笑んだ。

「制服以外の君を見たのは初めてだ」
「それがグレーのスエットってのは災難ね」

 心からそう思う。

「似合ってる。素敵だ」
「グレーのスエットが? キース、それ私以外に言わない方がいいわよ。喧嘩売ってると思われる」
「そ、そんなつもりはないし、君以外に言う予定もない!」

 ああ、そう、と言いながらダニエラはあくびを噛み殺す。

「もう寝てしまうのかい? ホットミルクとヒーリングミュージックも用意している!」

 そう提案され、ダニエラはしばらく考える。え、もしかしてこいつ、本当に私を寝かしつけてしまうつもり? と首を傾げ、とりあえず「もうベッドに行っていてもいい?」と尋ねた。
 キースはもちろんと頷くとベッドルームに案内してくれた。「シーツを替えておいた!」と満面の笑みで報告される。どうして彼はなんでも報告したがるのだろう。
 独り暮らしだというのに、ベッドはかなり広い。ダニエラはマットレスに飛び込む。家のボロボロのマットレスとは大違いだ。

「空飛んでるみたい」

 ダニエラが枕に向かって呟くと、キースは不審そうに眉をひそめた。

「空を飛ぶのとは全然違うと私は思う」
「私は空飛んだことないもの」

 枕を抱えながら笑うと、キースはダニエラの傍らに腰掛けた。

「おやすみ」

 キースの気配が離れていき、ベッドルームのドアが閉められる。気を遣っているであろう控えめな足音と、規則的なシャワーの音がする。
 ダニエラがうとうとしかけていると、ぎしりとベッドが軋んだ。ふと目を開けると、ジョンがベッドの上でぐるぐると回って良い寝場所を探しているようだった。
 ああ、そうか、とダニエラはジョンの脇腹をつつく。彼のベッドが大きいのは愛犬と一緒に寝るためだ。ジョンはダニエラをちらと見ると、ダニエラの脇腹に顎を乗せて眠る姿勢になった。荒い鼻息がかかってくすぐったい。
 ジョンが身動ぎするたびに冷たい鼻先で脇腹をつつかれ、ダニエラはすっかり目が覚めてしまった。ジョンの頭を撫でながらぼんやりと暗い天井を眺めている。
 自分から男の家に泊まるのは初めてかもしれない、とダニエラは過去を勘定していた。大抵は、懇願されるか押し切られるか、懇願されて押し切られるかのどれかだ。

 ダニエラは寝返りをうつ。枕を失ったジョンが不満げに鼻を鳴らした。
 寝返りをうった先で、ベッドルームのドアが開くのが見えた。ラフなTシャツ姿のキースが、ベッドの脇に立つ。石鹸の香りがした。

「ダニエラ、起きてるかい?」

 囁くように言われ、ダニエラは「起きてる」と答える。
 何もしないとあれほど豪語していたのに、キースは迷いなくベッドに入ってきた。掛け布団が押し上げられ、一瞬ひやりとした空気が入ってくる。
 ダニエラは少し湿ったキースの髪を撫でた。

「ああ、ジョンと間違えた」

 そう憎まれ口を叩くと、暗闇でキースが笑う気配がする。

「今日はどんな仕事をしていたんだい?」

 このシチュエーションで仕事の話!? とダニエラは目を丸くする。

「えっ、ええっと、火事場でNEXTの確保」
「それは知っているよ。その後、なんだか忙しそうにしてたから」
「そんなこと聞いてどうするの?」
「君のことならなんでも知りたい」

 キースは恥ずかしげもなく言う。ダニエラはジョンを押しのけてキースの方に寝返りをうった。

「ヒーローはどうか知らないんだけど、警察官は現場でNEXTを使ったら必ず報告しなきゃないの。だからその書類を書いてた」
「へえ、そんなことがあるんだね」
「ヒーローは無いの? 羨ましい」

 あの体裁がぎちぎちに決まった書類に自分でもよく分かっていない自分の能力について書くのは至難の業だ。ダニエラの場合、能力を使っても「車両の運転」「エンジンの停止」程度しか書くことがないのが救いではある。
 悲惨なのはカイ・リャンだ。汎用性が高く破壊力のあるNEXTのため、調査機関に目をつけられている。おまけにブルーローズの能力使用痕跡と区別をつけるために詳細な提出を要求されている。

「で、それを第三者機関とうちの偉い人で、能力が適正に使われたか、市民を傷付けていないか協議するの。面倒くさいでしょ?」

 キースはダニエラの髪を手で梳く。

「大変だ」
「ふふ、ヒーローほどじゃない」

 ダニエラが言うと、キースは小さな声で「キスしても?」と尋ねてきた。ダニエラは苦笑して「どうぞ」と答える。
 キースは手探りにダニエラの頬に触れ、額にキスをした。
 え、そこ? とダニエラは思ったが、ふつっと糸が切れたようになり意識を失う。気が付いたときには朝になっていた。かなり早く眠ったはずなのに、日が昇るまで目も覚めなかった。

 そして、ダニエラはマットレスから半身を起こしながら隣ですうすうと健やかな寝息をたてるキースを見て「こいつ本当に何もしなかった」と感心するのと同時に、己の性的魅力について自信を失いそうになっていた。