Chapter 6



 キースがジョンを飼っていることを知ってから、デートの頻度は格段に増えた。もしかすると自宅に泊めたことで進展があったということなのかもしれない。だが、キースはそれをダニエラが犬好きでジョンと遊ぶためなのではと疑っている。
 今もダニエラは制服を芝の切れ端と泥の足跡だらけにしながらジョンをしきりにかまっていた。蠱惑的な印象を受ける目元は柔和に細められ、ただの動物好きの顔をしている。

「君は私とジョンと、どちらとデートをしに来ているんだい?」
「それはもちろんキース」

 理想的な台詞を口にしながら、ダニエラは意地悪い目をしてキースを見つめる。何も言えなくなるキースの隣に戻ってきたダニエラは、制服の泥を払う。

「ご主人さまが飼い犬に妬いてどうするの?」
「君がジョンばかり可愛がるから……」
「ジョンばかり可愛がってるわけじゃないわ。ただ、犬の可愛がり方と男の可愛がり方は違う」

 あ、ごめん、今の下品だったかも、とダニエラは肩をすくめた。きっちりと束ねた髪の毛がほつれて額にかかっている。今日も彼女は制服姿で、髪を纏めている。
 どうしていつも制服姿なのか、キースはダニエラに尋ねたことがある。別に不満なわけではない。紺色のポロシャツの彼女ももちろん素敵だった。ただ、単純に不思議だったのだ。
 彼女は少し考えたあと「これ着てると、悪い男が寄ってこないから」と言った。

 膝に擦り寄るジョンの背をダニエラは指先で撫でる。

「ジョン、ステイ。ダウン」

 彼女のコマンドに合わせてジョンが地面に伏せた。いい子、と撫でられ嬉しそうなジョンが、ご褒美を求めて彼女の手のひらに鼻面を押し付ける。

「慣れてるね。犬を飼っているのかい?」
「いいえ、職場の動物大好きオジサンに教えてもらった」
「……動物大好きオジサン?」
「自称猛獣使いのNEXT。警察犬のトレーナー」

 ああ、とキースが納得すると、ダニエラは両手でジョンの顔を包み撫でながら、キースを見上げた。

「昔は飼っていたわ。飼っているというか、整備工場に住み着いた野良犬ね。――ああ、うち、昔自動車整備工場をしていたの。茶色くて大きな犬で、鼻面に傷があった。見た目は怖いけど私には優しくて……親友だった」

 だって犬は人がNEXTでも気にしない、とダニエラは笑う。

「その犬は?」
「死んだ。もう歳だった」

 ジョンがもっと撫でてくれとダニエラの胸元に顔を寄せた。穏やかな双眸がジョンを見下ろす。
 キースはその横顔を見て、何かしてあげなければと思った。この精彩で美しい横顔が曇ることは、キースにとってはあってはならないことだった。

「わかった!」

 急に大きな声を出すキースに、ダニエラは鬱陶しそうに顔を上げる。

「そしてわかったぞ!」
「嫌な予感がする」
「私が君の犬になろうダニエラ!」

 そして君に寄り添い、支えたいのだ。君は愛されているし、その価値があると伝えたい。そうだというのにダニエラは顔を両手で覆って項垂れてしまった。

「間に合ってます」
「遠慮するなダニエラ!」
「あんたそれ意味わかって言って――るわけないか……」


******


 わん、と低く良く響く声で吠える大きな犬を見て、鏑木・T・虎徹は「ありゃー……」となんともいえない声を上げた。

「え、これ、スカイハイ? マジ?」
「そうよ。で、あっちがロックバイソン」

 ジャスティスタワーのトレーニングルームの隅に、やや小ぶりな黒牛がいて、なんとなくもの言いたげに「もう!」と鳴く。

「ロックバイソンに関してはあんまり変わってない気もすっけど」
「それを言うならスカイハイだって似たようなもんでしょ」

 ネイサンが磨いた爪をこめかみに当てる。
 強盗団の中に人間を動物に変えるNEXTがいて、先陣を切っていたキースとアントニオがこのざまだ。強盗団は捕まえたのだが、当のNEXTが能力の解除方法について頑として口を割らない。

「こりゃまたなんというか……」
「言ってる場合じゃないわよ、戻らなかったらおおごとよ? スカイハイもロックバイソンも、これからの人生を動物として生きていくことになっちゃう」
「動物ヒーローってのも……まあ……」
「ちょっと、馬鹿なこと言わないで!」

 虎徹はおずおずと大きな犬の頭を撫でてみる。金色の柔らかな毛はゴールデンレトリバーに似ているが、体つきは一回りも二回りも大きい。
 大型犬はむうとした顔でじっと虎徹を見上げた。

「え、なんか嫌そうな顔されたんだけど」
「中身はスカイハイなんだから、あんたに頭撫でられたくなんかないでしょ?」
「あっ、そうか!わりいスカイハイ!」

 謝り倒すと、パタパタと尻尾を振られた。どうやら許してくれたらしい。

「とにかく今はNEXTの解除方法が分からないとどうにもならないわよ」

 ネイサンが言うと、キースが大きく吠えた。何かを訴えたい様子なのでそちらに首を巡らせると、キースのふさふさの足元にちょうど着信中の携帯端末があった。それを前足でかりかりと引っ掻きながら、キースは虎徹の顔を見上げてまた一声吠えた。

「なんだ? 出ろってことか?」

 また一声。虎徹は通話ボタンをタップする。

「ああ、キース。待ち合わせ場所に来ていないみたいだから。今どこ?」

 女性の声でそう言われ、虎徹は狼狽えて「ええ、と」と言いよどむ。想定していた受話者の声でないことに気が付いたのか、電話の向こうの女性は「キース・グッドマンのお電話ではありませんか?」と怪訝そうに、だが丁寧に尋ねてきた。

「あ、そうです! キース・グッドマンのお電話です!」

 わんわんと吠えたてられ虎徹は慌てて女性の言葉を鸚鵡返しにする。

「いや実は、彼は今ちょっと電話に出られなくて……。代理で仕事仲間の俺が……」
「そうですか。……困ったな、どうしよう。とりあえず帰るからあとで連絡をするように伝えていただけますか?」
「お、おお、ちょっと待ってくれな――」

 虎徹はマイクを押さえ、キースに向かって「帰るって」と伝える。キースは後ろ足で立ち上がり、虎徹の胸に前足をつく。どつかれるような形になり、虎徹はよろめいた。

「いって、なんだよスカイハイ!?」

 大きくキースが吠える。

「もしかして、その子を呼んでほしいんじゃないの?」

 ネイサンが指を立てて言うと、キースはその場で三度回る。

「は、なんで?」
「馬鹿ねえ、恋人に気遣ってもらいたいに決まってるじゃない!」
「え、こいびと!?」

 わん、と嬉しそうな吠え声が響いた。

「水臭いわねスカイハイ、恋人が出来たんなら紹介なさいよ」

 キースはおすわりしたまま首を傾げる。虎徹はマイクに向かって話しかけた。

「あのー、つかぬことをお伺いしますけど、そちら、キース・グッドマンの彼女さんですか?」
「え? いいえ、違いますけど」

 虎徹は二人の方に向き直る。

「違うってよ」

 キースは犬の姿でも分かるほどに落ち込み、大きくふさふさの体で床の上に転がった。ネイサンが笑いを含んだ悲鳴をあげてその体を揺さぶる。

「ちょっとあんた余計なこと言わないの! いいから呼んであげなさいよ!」
「いやでもさあ……」
「そのほうが面白そうでしょ! じゃなくて、恋の手助けになるでしょ!」
「面白そうっておまえ……」

 あの、すみません、と電話の向こうから声がかけられる。はいはい! と虎徹が答えると「何かありましたか?」と問われた。虎徹はしばらく迷ったのちに、髭に触りながら言葉を選んだ。

「ええっと、驚かないで聞いてほしいんだけどな」

 電話の向こうの声が困惑気に「はい?」と答える。

「キース・グッドマンが犬になっちまって」
「えっ、彼は職場でもそんなおかしなことを!?」

 なんだか想像していたのと違う答えが返ってきた。

「尻でも蹴っ飛ばしたら正気に戻りませんか?」
「い、いやあ……多分無理じゃねえか?」
「手強いですもんね」

 いったい何の話だ。虎徹はハンチングの上から頭を掻く。

「ちょっとした事故で犬に変わっちまって……多分戻れるとは思うんだけど……」
「事故? 比喩とかそういうものではなく? 本物の犬に? DOG? Delta、Oscar、Golf?」
「だから、そうなんだって」

 端末の向こうが静まり返り、数秒は息の音すらしなかった。

「事件じゃないですか」
「いやだから、そうなんだって!」

 どうやら何か重大な行き違いがあったらしい。彼女の言葉に焦りが滲む。

「戻る見込みはあるんですか?」
「た、多分……」

 煮え切らない虎徹からネイサンが携帯端末を取り上げた。

「あなたの可愛いワンちゃんが待ってるから。ジャスティスタワーの一階ロビーでいい? そう、よろしく。じゃあね」

 投げキスとともに通話を切る。
 ネイサンはキースの頭をするりと撫でるとウインクした。



 ジャスティスタワーのロビーで虎徹とネイサンが電話の女性を待っていると、キースは突然大きな声で吠えて走り出した。走る先にはネイビーのポロシャツ姿の女性がいて、虎徹が「あ!」という間もなく女性は大きな犬に突き飛ばされ床に転がされる。
 短く悲鳴をあげた女性の上にのしかかり、キースは彼女の顔や胸元に顔を押し付け千切れんばかりに尻尾を振っている。

「おいおい、中身はスカイハイのままのはずだよな!?」
「スカイハイったら、犬の姿だからってやりたい放題ね……」

 傍からみれば犬にじゃれつかれる女の図だが、事情を知っている二人にしてみれば見るに堪えない光景である。虎徹は慌ててキースに駆け寄り、毛並みのいい胴を抱えて女性から引き剥がす。

「落ち着け! まさか中身まで犬になっちまったのかよ!?」

 抗議するように短く二度吠えられた。おそらく「失礼な! そして無礼だ!」とでも言ったのだろう。
 床に伸びた女性にネイサンが手を差し伸べる。ネイサンのピンクのクジャクのような奇抜な格好に、女性は一瞬尻込みしたようだがおずおずとその手を取った。

「ありがとうございます」

 立ち上がった女性の胸にSBPDのロゴがあり、虎徹はぎょっとする。「あ……おまわりさん……」と小さく呟くと、女性は苦笑して会釈した。

「ダニエラです。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」

 その顔にどことなく見覚えがあり、虎徹は記憶をひっくり返す。それから、あ、と声をあげた。以前、彼女の運転する警察車両に乗ったことがある。そのとき二言、三言話しもした。あのときはワイルドタイガーの姿であったから、彼女は知る由もないだろうが。そういえば、スカイハイが彼女を気に入っていると以前聞いた気もする。
 あのときの印象と変わらず、意思の強そうなアンバーの双眸がキースを見下ろす。キースは後ろ足で立ち上がり、ダニエラにのしかかった。再び潰れたような声を上げて崩れ落ちそうになるダニエラを虎徹は咄嗟に支える。

「こんな馬鹿犬になっちゃって」

 悲しそうにダニエラは眉をひそめた。そう言ってやらないでほしい。中身は変わっていないはずなのだから。
 ダニエラはキースの頭を指先で撫でる。虎徹に撫でられたときは嫌そうな素振りを見せたキースが、喜色を隠せないように尻尾を振った。ダニエラは屈みこみ、キースの顔を手のひらで挟んで撫でる。完全に犬にやるそれだ。

「これじゃあジョンの方が賢い」
「……ダニエラ、中身は変わっていないから、言葉は通じてるぞ」

 ダニエラは一瞬固まり、愕然とした目で虎徹を見上げた。悲しそうに項垂れるキースに同情しそうになる。

「あなた、そのワンちゃん連れて帰って頂戴」

 ネイサンが急にそう言い、事前の相談なしであった虎徹も「え!?」と声を上げた。キースだけが嬉しそうに尻尾をぴんとさせる。

「ここペット連れ込み禁止だから、あとはよろしくね」
「……え、私が?」
「そう、ま、ちょっとアブノーマルなプレイでも楽しみなさいな」
「アブノーマルすぎる!」

 うわ、想像しちゃった、とダニエラは嫌そうな顔をした。


******


 修理から帰ってきたばかりのパイアの後部座席から勢いよく飛び出してきた大きな犬が、ダニエラの膝に頭を寄せる。

「犬になるって、本当に犬にならなくったって……」

 ダニエラは屈んでキースの目を覗く。犬になっても美しい青い目をしていた。
 非常事態だと分かってはいても、長い毛をした美しい犬の可愛らしさについ和やかな気持ちになってしまう。ダニエラはキースの頭を撫でた。

「おいで、家に入りましょうね。――ああ、どうしても犬に話しかけてるみたいになる」

 素直に後をついてくるキースを見て、どうしたものかと溜息をつく。「戻れる方法が分かったら電話するから」とキースの携帯端末を預けられたが、いつ戻れるのか見当はつかないらしい。
 玄関のドアを開け、中に「ニノン?」と声をかける。返事はない。どこかに出かけているのだろうか。学校だといいのだが。

「ごめん、本当散らかってる」

 玄関ホールのキャビネットに山積みにしたままの郵便物を、申し訳程度に角だけ揃えておく。
 リビングのソファに座り込むと、キースが膝に顎を乗せてきた。おいで、と言うと、キースはソファに上がりダニエラに寄り添う。
 ダニエラはなんとなくやることもなく、黙ってキースの頭を撫でながらぼんやりとテーブルの上を眺めていた。夜勤務明けで疲れているはずなのに、あまりにショックな出来事に遭遇したせいか不思議と眠気がない。
 キースはのしのしと膝の上に前足を乗せる。

「今日は積極的ね」

 ダニエラはキースの頭にキスをした。犬のにおいがする。
 顔をあげたキースの頭を抱きしめ、それからむうと唸る。

「……つい犬扱いしちゃって」

 ダニエラはキースの顔をぐいと自分の方に向ける。

「ずっと犬のままだったらどうする? うちの子になっちゃう? 私はそれでもいいわよ」

 くう、とキースが鼻を鳴らした。ダニエラは笑って手を離す。
 ダニエラはテーブルの上のアルバムを手に取った。整理するために一度出したのだが、そのまま置きっぱなしにしていた。

「見る? せっかくうちに来たから」

 キースは高く吠える。それをYesの意味でとったダニエラはアルバムを取って膝の上に広げた。父と母と妹が並んだ写真は、自分が撮ったものだろう。詳しいことは覚えていないが。

「これ、父さんと母さん。あと、妹のニノン。母さんは私が十歳の頃に亡くなったの。だから残ってる写真は多くない」

 キースの鼻面がダニエラの頬に触れる。ダニエラは肩をすくめた。

「もうずっと昔の話よ。乗り越えてるから大丈夫」

 ダニエラはアルバムのページを次々にめくっていく。

「キースに見せたい写真があって、アルバムをひっくり返してたの。汚い部屋がどんどん汚くなっていくわ」

 ダニエラは少し色褪せた写真を取り出した。小さな赤ん坊がバスタオルの上に寝かされている。右の腕から赤い目覚まし時計がにょっきりと生えていた。

「ほら、私の赤ん坊の頃の写真。本当に目覚まし時計がくっついてる」

 ダニエラはキースの頭に手を置いた。キースは写真に鼻を近付ける。

「変な能力でしょ? そんなに役にもたたないし。今でもあまり上手く使えてない」

 ダニエラはキースの背に顔をうずめた。ふと今まで誰にも零したことのない感情が喉のあたりまでこみ上げてきた。きっと話し相手が犬だからだ。

「せめてNEXTでも、もっといい能力ならよかったかな。あんたみたいにヒーローになれるような」

 そうでなければ、NEXTなんていらなかった。ダニエラはふうと唇に笑みを刷く。
 キースが慰めるようにダニエラの顔を湿った鼻でつついた。ダニエラは顔を背けて笑う。

「やだ、顔はやめてってば。あんたに慰められたって嬉しくないわよ」

 NEXTを使い、ヒーローとして老若男女から喝采を浴びる男。自分の気持ちは、この男にはきっと一生分からない。別にそれでいい。そんな懊悩は十六歳で卒業した。
 ただ、ふとどうしようもなく、どうしようもない気持ちになる。それだけだ。

「自分の能力、嫌いじゃないの。車、好きだし。体の奥からエンジン音が響くと、気分がいい。でも、引き換えにしたものを考えると……コスパが最悪」

 ダニエラはキースの首に腕を回す。長い毛が頬をくすぐった。

「好きよ、キース。でも時折たまらなく憎くなる」

 私も空が飛びたかった。
 ダニエラは言うと、ソファに仰向けになった。背もたれとダニエラの脇腹の間に、キースは無理やり体をねじ込んできた。大きな体に押し出されてソファから落ちそうになる。

「そんなところジョンの真似しなくていいのに」

 ダニエラはそう呟いて目を閉じ、いつの間にか眠っていた。
 目が覚めたのは窓から入る日の光が薄橙色に染まる頃だった。どこかでキースの端末が着信音を鳴らしている。ダニエラは半覚醒の状態から息を吸うと、跳ね起きる。キースのふさふさしたお腹の下から端末を引っ張り出すと、慌てて通話ボタンをタップした。

「―――はい、ダニエラ」
「やっと出たわね、お楽しみだったかしら?」
「……おかげさまで」

 ダニエラが言うと、「やだあ!」とマイクの向こうで大笑いする声が響く。それでやっと頭がはっきりしてきた。ダニエラはソファに座り、縺れた髪を手で直す。

「動物から人間に戻る方法が分かったの」
「よかった」
「それはね、愛する人のキス」
「……は?」
「真実の愛ってやつね」

 それはまた、ロマンチックな能力もあったものだ。ふとダニエラはそれは相手が自分でも大丈夫なのかとも思ったのだが、他に誰がいるわけでもない。

「動物に変わってから六時間経つと戻れなくなっちゃうらしいから、ちゃちゃっとブチュッとやっちゃいなさい」

 ダニエラはキースを手で呼び寄せ、鼻面にキスをする。起き抜けの唇は乾いていて、鼻先も乾燥していた。かさりとした感触が唇に触れる。

「しました」
「はっや! あんたもうちょっとムードとか考えないの!?」
「…………ムード?」

 犬から人に戻るのにムードも何もないだろう、とダニエラは眉をひそめた。
 キースの黄金色の毛並みが淡い青の光を帯び、まばたきの内に犬が人に変わっていた。ダニエラは思わず悲鳴をあげる。

「なに!? どうしたの!?」

 端末の向こうでネイサンが息を飲む気配がした。ダニエラは端末に向かって声を荒らげる。

「部屋にいきなり全裸の男が現れた!!!」

 ソファに立つ完全全裸のキースがダニエラから携帯端末を取り上げた。

「ありがとうファイヤーくん、無事に戻れたよ。それでは、また今度」

 何事もなかったかのように通話を切るキースを指差し、ダニエラは口をぱくぱくさせる。

「ちょっと……ちょっと、なんで……服は!?」
「犬に変えられたときに忘れてきてしまった」
「やだ……私、犬の姿とはいえ全裸の男にあんなことやこんなことを……!」

 ダニエラは頭を抱えてその場に座り込む。あまり考えたくない。
 これが、もし「人を動物に変えるNEXT」ではなく「人に人が動物に変わったと思い込ませる催眠術のNEXT」だったらどうしよう。そう考えると胃から苦いものがせり上がってきそうになる。無闇に悲観的で悪い方悪い方に考えてしまうのは自分の悪癖だと自覚しているが、考えずにいられない。
 少しマシなことを考えよう。そうだ。首輪とハーネスを付けて外出していなくてよかった。もしそこでNEXT能力が解除されたら全裸に首輪ハーネスの変態男とそれを牽いて歩く変態女になるところだった。そんなことにならなくて本当に良かった。

「ダニエラ!」
「待って今話しかけないで、吐きそう」
「君の気持ちを聞けて良かった!」
「うるさい」
「私たちは似ているところもそうでないところもあるけれど、」
「まず服を着なさいよ!」

 ダニエラが怒鳴るのと同時にガシャンと音がする。リビングに入ってきたニノンがスクールバッグを床に落とした音だった。
 ニノンはソファの上に立つ全裸の男に口をポカンと開けたまま立ち尽くす。ダニエラは血の気がいっきに引くのを感じた。

「待って、ニノン、これは、この状況は、せめて説明させて――」
「信っじられない! リビングでヤらないでよ!」
「やあ、こんにちは、ニノン。私はキース。キース・グッドマン」

 キースは全裸で右手を「やあ」と挙げる。その姿があまりに堂々としているので、ダニエラは妹がこの爽やかさに誤魔化されてくれないかと希望にすがる。だがニノンは青褪めた顔をダニエラに向けた。

「……職場で露出狂拾ってきたの?」

 やっぱり駄目だった。
 ダニエラは天井を仰いで「たすけて」と呻く。

「誤解を解かせてくれ。私達は決していかがわしいことをしていたわけではないんだ」
「な、なんで、なんでここに? なんで裸?」
「それはさっきまで私が彼女の犬だったからで――」
「キース、ステイ!!!」

 ぴたりとキースが口を噤む。言ってからダニエラは「これは誤解を強化したのでは?」と後悔した。
 ニノンは完全に軽蔑を浮かべた顔でダニエラを睨む。

「マジありえない! ジャンキーの次はマゾの露出狂!?」
「ジャンキーじゃなくて売人! ねえニノン待って、聞いて! キースはパンツはいて!」
「ジャンキー? ダニエラ、ジャンキーと付き合っていたのかい?」
「あんたはまずパンツ!」
「変態どうしどうぞ仲良く!」
「変態はギリ回避してるから!」
「えっ、仲良しに見えるかな!」
「パンツをはけ!」

 ダニエラはぜえぜえと肩で息をする。キースにはそのへんにあったバスタオルを投げつけ腰に巻かせ、ニノンには息が整うまで待ってもらう。
 はあ、とダニエラは深呼吸した。

「ニノン、彼はキース・グッドマン。仕事で知り合ったの」

 ニノンは眉間に皺を寄せて、ダニエラとキースを順に見る。

「その人もNEXT?」

 素っ気なく問われ、ダニエラはなんと答えるか迷う。彼の個人的な事情を、勝手に話していいかと躊躇する。ダニエラが逡巡している間にキースが迷いなく答えた。

「そうだよ、私もNEXTだ」
「あ、そ」

 ニノンはふいと踵を返すと、自室の方に消えてしまう。ダニエラは額を押さえて溜息をついた。

「……ごめん」
「いや、いいんだ」
「ごめん、家まで送る。そこで説明させて」

 ダニエラは車のキーを取り上げ、玄関の方に向かう。そこでキースが腰にタオルを巻いたきりであったのを思い出し、玄関先のクローゼットから父が使っていたツナギを取り出す。

「それしかない。それ着て」
「借りてもいいのかい?」
「誰も着ないもの」

 キースの着替えを待ち、パイアに乗り込む。エンジンをかけ、ハンドルをしばらく握ってぼうとしていた。

「お父さんの車?」

 助手席に座りながら、キースが言った。ダニエラはハンドルを撫でながら、頷く。

「ポセイドンラインに、修理でなくて新車と交換でどうだって言われたんだけど断っちゃった。どうかしてた、新車の方が良いに決まってるのに」
「大切にしているんだね」

 ダニエラは車を発車させながら、そうだねと小さく囁く。

「八歳の頃から、週末は父さんとこの車をいじって遊んでた。私の両親、私が赤ん坊の頃に離婚してる。私がNEXTだから。私が八歳の時に母さんと父さんは再婚した。ニノンは父さんの連れ子で、そのときまだ赤ん坊だった。だから私とニノンは血が繋がってない。似てなかったでしょ? ……ごめん、隠してるつもりではなかったんだけど」
「いいんだ。君が君でさえあれば」

 シフトレバーに置いていた手の甲にキースが触れる。そこから体温が流れ込んできた。ぐ、と胸が詰まる。どうして彼はこんなに優しくいられるのだろう。同じNEXTなのに。
 ハンドルを握る手が白くなり、震える。

「ごめん、ちょっと……」
「うん、一回停めよう」
「ごめん」

 ダニエラは路肩に車を停め、ハンドルに額を押し付けた。掠れる息を細く吐く。

「車、大事にしてるんじゃないの。囚われてるだけ。だってこれがないと、私は父さんと――ニノンと家族でいられない」
「そんなことはないはず。君たちは家族だ」

 キースはダニエラの背中に手を置く。ダニエラは首を横に振った。クラクションの上にぽとぽとと水滴が落ちて、自分が泣いているのだと気が付いた。

「ニノン、学校に行きづらいのよ。姉がNEXTだから。採用されたときに新聞に載っちゃったから、この辺の人は私がNEXTだってみんな知ってる。明るくていい子だからいじめられはしないけど、でもやっぱり――そういう扱いをされてしまう。血も繋がってない姉の、役にも立たない能力のせいで…………」
「ダニエラ、そういう言い方をしないでほしい。私まで悲しくなってしまう」
「ごめん、ごめんね。私、自分の能力嫌いじゃないわ。本当よ。でも ―――欲しくはなかった」

 吐き出すようにそれを言う。少しだけ胸が軽くなった。今まで誰にも言えなかったから。

「キースは能力がいらないと思ったことある?」

 ダニエラが聞くと、キースは露骨に狼狽え目を泳がせた。しばらく口を開けたり閉めたりを繰り返し、俯いて「あまりないかも、……すまない」と呟く。ダニエラは笑って、キースの頬を撫でた。

「あんたはそういうとこ、嘘つけないのね」
「私の能力は、人を救うことが出来る。NEXTは誰かを傷付けるだけのものじゃないと知ってもらうことも出来る。君の能力だってそうだろう?」
「ええ、そうね。キース、私が制服ばかり着ているのは、これで誰かを救っているんだって自分に言い訳するためよ」

 警察官の制服を着ている間は、NEXTである自分を正当化できる気がした。
 ダニエラはシートに寄りかかると、溜息をつきながら車を動かし始める。キースが気遣わしげに「運転替わろうか?」と言うので「絶対にいや」と答えた。
 しばらく無言で暮れなずむブロンズステージを走り続ける。

「ダニエラ」
「……うん」
「初めて私を好きと言ってくれたね」
「うん、…………ん?」
「嬉しかった! 嬉しかったぞ、とても!」
「えっ、ねえ、今その話する!?」
「それに君のキスで能力も解除された!」
「そういえばそんなこともあったわ」

 その他の諸々のインパクトが強すぎて忘れていた。

「私も君のことが好きだよ」
「……ありがと」
「君も、君の能力も、私にとって大切な愛しいものなんだ」

 それには苦笑いだけを返した。


******


「おい、なんで能力の解除は愛する人のキスなんて嘘ついたんだよ。六時間で元に戻るのに」
「そのほうが面白いからに決まってんじゃない」
「真実の愛が本当なら、俺は戻れないところじゃねえか。カノジョいねえし」
「そのときはアタシがアッツいヴェーゼしてあげるわよん?」
「もー!」