Chapter 7
ロッカーの前でクラスメイトが雑誌を片手に談笑していた。ニノンは自分のロッカーから午後のクラスのテキストを出しながら、盛り上がっている話題が昨晩のHEROTVと雑誌に載っているヒーローだと気が付く。そっとその場を離れようとするニノンを、アニが呼び止めた。
「ねえ、ニノン、お姉ちゃんが警察官なんでしょ? BBJに会ったことないの?」
ニノンは心臓のあたりが少し冷たくなるのを感じながら、苦笑いして答える。
「ない、ない、下っ端だもん」
アニは悪気なく目を丸くした。
「えっ、でもNEXTじゃん」
「超ショボい能力だよ。ヒーローとは全然違う」
ニノンは笑いながら、何度目か分からないその言葉を繰り返した。ジュディスが雑誌のページをめくりながら「あー、あたしもNEXTだったら良かったな。ヒーローなれるし。受験勉強しなくていいじゃん?」と言って、アニに同意を求める。
アニがええー、と声を上げた。
「でも、NEXT暴走して事故ったりするんだよ。やだよ、危ないじゃん。ニノンもえらいよね、わたしは家族がNEXTとかちょっと無理かも」
「というか、お姉ちゃんがNEXTってことは、ニノンもNEXTだったりして!?」
「あ、あるかもー! ブルーローズってちょっとニノンに似てる! もしかして本人だったり!? お、ニノンさん、どうなんですかー!?」
ネットニュースの名物ジャーナリストの物真似をしながら楽しそうに笑うクラスメイトにニノンは両手を大きく振ってクラスメイトよりずっと大きな声で笑った。
「やめてよー、うち、姉ちゃんとは血繋がってないから! 絶対ないよ!」
自分の心を守るために、いつもそう言う。だがそれを言うたびに、ニノンは自分の心が少しずつ擦り切れていくのを感じていた。
ニノンは出したばかりのテキストをロッカーにしまい、バッグを取り出す。なんとなく気分が乗らなくて、今日はもう帰ってしまおうと思った。
姉のダニエラと血が繋がってないことを知ったのは、七歳のときだった。ダニエラは母親の連れ子で、ニノンは父親の連れ子だった。ニノンは産みの母親のことも、育て――というほど育てられた記憶はないのだが――の母親のことも、全く覚えていない。
ニノンにとって家族は、父親と姉だけだった。
歳の離れた姉が、ニノンは大好きだった。姉もニノンを可愛がってくれた。
姉に憧れていた。自分も姉のような大人になりたいと思っていた。姉妹なのだからきっとなれると信じていた。そうではないと知ったとき、幼いニノンは部屋で一人で泣いたほどだ。
姉はNEXTで、それは家族だけの秘密だった。ニノンは姉の能力について、父が生きているうちにはほとんど何も知らなかった。たまに姉は時計の針をくるくる回して見せたり、おもちゃにおかしな動きをさせたりしてニノンを笑わせた。
「ダニエラもヒーローになってね、そうしたらあたし、応援するね。一番のファンになるからね」
そうよく姉におねだりしたニノンに、姉はどんな顔をしていただろうか。よく覚えていない。
家に着くとガレージの電動シャッターが開け放たれていた。どうして、とニノンは思う。シャッターのコードを手当たりしだいに切ったはずなのに、どうして開いてしまったのだろう。
ガレージの中には父が乗っていたボロボロのパイアが停まっていて、その下からデニムを履いた脚が二本突き出していた。
「シャッター、直ったんだ」
脚に向かって言うと、クリーパーをがらがらと言わせながらダニエラが車の下から顔を出した。
「直らなかったから無理矢理開けた」
「なんで」
「車、調子悪くて」
「古いからだよ、買い換えればいいのに」
ニノンがキツイ調子で言うと、ダニエラは少し笑うだけで車の下に戻っていった。ニノンは唇を噛む。
姉はオンボロSUVに執心している。かまけていると言ってもいい。激務の間を縫って、あちこち壊れた車にしょっちゅう潜っている。だがもう車はどうにもならない。あちらを直せばこちらが壊れる。
工業高校を卒業した姉は父の整備工場で働いていたが、ニノンがジュニアハイに行く頃に父は亡くなってしまった。姉一人で整備工場を続けることは出来ず、かといって他に働き口も無かったのだろう。姉はあれほど隠し通してきたNEXTを利用して警察官になった。
それから、姉は変わってしまった。お金がないなりに工夫しておしゃれを楽しんでいたのに、制服しか着なくなった。美しいブルネットは素っ気なく一つに括られたきりだ。男の子に人気があったのに、嫌な感じのする男とばかり付き合うようになった。そして、車をいじってばかりになった。
姉は仕事と車の整備しかしなくなった。
「ニノン、いる? グラインダーとって。あとレンチ、13」
ニノンはそれを無視する。ニノンはダニエラが車をいじっている姿が嫌いだ。ぱっくりと開いた生々しい傷口を見ているような気持ちになる。
姉が家でやることといったら車に潜ることだけだ。家族三人の思い出の詰まった家には一切興味を示さなくなった。車のことは「ホイールアライメントが、」「カムシャフトが、」と細々と気が付く姉は、この家の裏手の外壁が崩れ、地下室がカビと腐敗でどうしようもなくなっていることに気が付いているのだろうか。それをニノンが必死で直していることにも、そして技術もお金もないニノンに出来ることはほとんど無くて、家が荒廃していくばかりだということにも。
気が付いているのかもしれない。姉がずっとこの家を処分し、引っ越したがっていることを、ニノンはなんとなく感じていた。この家を維持するだけで大金がかかっていることも知っている。それを姉に申し訳なくも思う。それでも、どうしても引っ越そうと言えなかった。
家族の思い出の詰まったこの家が無ければ、ニノンはダニエラと家族でいられないのだ。
「いるんじゃない、返事くらいしてよ」
ダニエラは車の下から出ると、溜息をつきながらウォールストッカーのグラインダーを手にした。グローブをはめた手が淀みなくレンチを拾い上げる。
機械油と砂埃で汚れたTシャツは、ダニエラがハイスクールのときに夢中だったバンドのグッズだった。大切にしていて、ここぞというときに着ていたはずだ。
それを見たニノンは無性に寂しくて悲しい気持ちになる。そして自分でもわけがわからないほどに苛立った。
「ねえ、そのTシャツ」
苛々とした口調でそう言うと、ダニエラはTシャツの襟で汗を拭きながら「うん?」と言った。それからTシャツを見下ろし、曖昧に笑う。
「ああ、これ? ガキっぽい? どうせ誰も見ないからいいじゃない」
ニノンは不思議とこみ上げてくる涙がこぼれないように、ダニエラを睨んだ。
「ダサい、ありえない」
「だから作業用にしたの」
ニノンの悪態をダニエラは咎めようともしない。好きだったアンバーの瞳は、ニノンの上を上滑りするように、いつも遠慮がちに向けられるようになった。
きっと姉は自分を疎ましく思っている。頼りにならない幼い自分が、ニノンはどうしようもなく嫌いだった。自分さえいなければ、姉はこんなふうにならなかった。NEXTだって隠したままでいられた。
だから姉は車ばかり触っている。姉にとって家族は父だけだ。父の思い出の車ばかりにかまけるダニエラは、ニノンにはそう見えた。
「この間のマゾ全裸――」
「マ、マゾ全裸?」
ダニエラはレンチを取り落とした。がらん、と高い音がする。
「付き合ってんの?」
ダニエラは肩をすくめて小く首を横に振った。
「デートしてるだけ」
「でもマゾ全裸、NEXTなんでしょ?」
「ニノン、マゾ全裸はやめて。可哀想すぎる」
ニノンはNEXTではないから、NEXTの気持ちは分からない。姉を助けて一緒に働くこともできない。近所の人や友人にNEXTとバレて辛そうにしている姉に寄り添うことも出来ない。
姉にNEXTの恋人が出来るのは、きっといいことだ。でも、姉がNEXTのいる職場で働き、NEXTを使って仕事をし、NEXTとばかりつるむのは嫌だった。姉がどこか遠くの、知らない場所に行ってしまうような気がする。
「付き合えばいいのに。マゾの露出狂だけど、今までの男よりマシっぽい」
「……今までの男、そんなにヤバかった?」
顔をしかめるダニエラを無視して、ニノンは先を続ける。
「あいつと付き合ってさ、さっさとこんなとこ出ていけばいいよ! NEXT同士、お似合い! あたしなんか置いていってよ!」
ヒステリックに叫ぶと、いっそう心が重くなる。ダニエラはひどく傷付いたような顔をしながらグローブを外すと、それを床に落とした。
「そんなこと言わないで。せめてあなたが卒業するまでは一緒にいたい」
そう言って、ダニエラはニノンを抱きしめた。昔は安物だけど感じのいい香水の香りがしたのに、今は機械油と錆のにおいしかしない。
それでも、そうしている間は少しだけ心が落ち着いた。ニノンがわざとダニエラを傷付けるようなことを言うと、ダニエラは悲しそうな顔をしてニノンを抱きしめる。
そのときだけは「ああ、ダニエラはこんな我侭を聞いてくれる」と安心する。でも、少しすると「あんな我侭を言うような自分をダニエラは嫌っているに違いない」と暗鬱な気持ちになった。それが分かっているのにやめられない。そんなことしたくないのに、姉を傷付けてしまう。
ニノンは、姉に「せめて卒業するまで」と言ってほしいのではない。「家族なんだから一緒にいよう」と言ってほしいのだ。
「ダニエラ、離してよ。油臭い」
「……うん、ごめん」
するりと離れていくダニエラの体温が、どうしようもなく寂しかった。
******
キースの部屋に遊びに来ていたダニエラはあまり元気がなかった。仕事は忙しく、修理から帰ったばかりの車はまた調子が悪い。妹はどうやらキースが気に食わない――まあ、あの初対面を思えば気に入れという方が難しい――ようで、おまけに署内の規程が変わって拳銃の所持試験にNEXTが使用できなくなった。
NEXT無しでの拳銃の扱いがダニエラは苦手だ。スライドを引き、セイフティを外し、トリガーを引く。それだけだと分かっていても、NEXTでの操作に慣れてしまって勝手が掴めない。右利きの人間に左手で字を書くように強要するようなものだ。
以前、家の敷地でNEXTで車を操作しているばかりであったから、免許をとるときにハンドルやレバーを手で動かすのに慣れず苦労したことを思い出す。
ベンチプレスに横になり、天井を見上げる。何も持っていない手を拳銃を持ったようにして構え、天井についたスプリンクラーを狙う。
「スライドを引いて、セイフティを外して、トリガーを引く」
呪文のように唱えながら一連の動きをしてみる。ばん、と口ずさんでから、手を下ろした。
「射撃の練習?」
「そう。キースは拳銃扱ったことある?」
「残念ながらない」
「それがいいよ」
ダニエラはベンチプレスから起き上がる。バーベルにはとてもではないがダニエラには持ち上げられないような重さであろう錘がついていた。
「キース、私引っ越そうと思ってる」
「そうか! 私も嬉しい! ここは広いし、ニノンの分の部屋くらい用意できる!」
大きな勘違いをしているようだ。ダニエラは苦笑いしながら首を横に振った。
「いや、SBPDの官舎にね。メダイユの端も端にあるボロだけど、あの家よりはマシ。家賃も安いし」
「それは残念だ……。ニノンとはよく話し合った?」
「……まだ。でも、多分わかってくれる」
「君が前進しようとしているなら、私は応援しよう」
大袈裟だよ、とダニエラは笑う。キースは気配だけで分かるほど、本当に嬉しそうであった。他人の幸福を心から願い喜ぶことのできる男なのだ。彼は。
「ダニエラ」
呼ばれたので、ソファの方に移動する。ダニエラがキースの隣に座ると、キースはダニエラの髪を一房取って口付けた。
気恥ずかしいそういう仕草ももう慣れた。キースは愛情深く、迸った愛情がスキンシップとしてあふれるタイプらしい。そういうものだと思うようにしている。
「君の能力の話をしても?」
「いいけど……話せるようなことなんて何もないわよ」
「いいんだ、私が話すから」
キースは「はじめてでもわかるねくすと」と題された本を広げた。表紙にはにこにこ笑う男女と、デフォルメされた犬猫狐が手を繋いで輪になっている。おまけに太陽もにこにこ笑っている。子供向けの絵本のようだ。
「な、何それ」
「これかい? ヒーローアカデミーで使っていたテキストだよ」
「へえ……」
老若男女が集まると聞いたから、万人向けのデザインにしたのだろうか。それにしてもセンスがない。
「知っていると思うけど、NEXTは大きく二種類に分類されている。機能的操作系統と身体変質系統」
表紙のイラストに気を取られていたダニエラはキースの話をよく聞いていなかった。え、なに? と問い返すと、キースはもう一度ゆっくり話してくれた。
「つまり、体外に作用する能力と体内に作用する能力」
「はじめて知った」
ダニエラは「すごく雑な分け方だな」と一瞬思ったのだが、それを気取ったのかキースが「これは一番大きな括りの分け方だけど」と付け加える。
「知っておいた方がいい。この二つは能力の扱い方が大きく違うから」
キースは人差し指を立て、くるりと回す。空調をきかせた室内で、風が教本のページを一枚めくった。
「私の能力は風を生み操る。典型的な機能的操作系統だ。物質や他人、或いは他人の精神に働きかける。たとえば……ダニエラの好きなワイルドタイガーくんは――」
ものすごく不本意そうにキースはそう言う。嫌なら言わなければいいのに。
「身体変質系統。自身の体に働きかけ、身体作用を増幅、拡張させる。もちろん厳密にこの二つに含まれない能力も稀にある」
ふうん、とダニエラはキースの肩に寄りかかる。あまり興味のありそうにないダニエラの反応も気にせず、キースは先を続けた。
「機能的操作系統は汎用性が高い。他者に作用するだけに社会的に影響が大きい部分もある。予期せず人を傷付けてしまうこともあるから。一方で、身体変質系統は能力が限定的で制限も多い。生身の体に働きかけるのだから、使用者への負担も大きい」
「じゃあ、私も操作系の方でしょう? 機械を操るわけだし」
「私もそう思っていたんだが、おそらくダニエラは身体変質系統のNEXTだ。機能的操作系統にしては、君の能力は制限が多く使い勝手が悪すぎる」
「……使い勝手は悪いけど」
ダニエラは唇を尖らせる。すまない、とキースはダニエラの肩を抱いた。
「君は、機械に触れていないと能力が発動しない。機械の機序も理解していないとならない。それに能力が暴走したときに、能力の方向性が外向ではなく内向だった。おそらくキネティックな能力ではなく、操作する機械と身体的感応を起こしている。つまり君は、文字通り機械を手足のように操っている」
「ま、待って、バカにも分かるように説明して」
「ええと、たとえば同じ炎のNEXTでも、炎を生み操る能力と、自身を燃焼させる能力では分類が違うんだ」
「あー、うん、なんとなく分かるかな? 多分……?」
ダニエラが目を回しながら言うと、キースはしばらく黙り込み、ぱっと顔を輝かせた。
「君の能力は操り人形タイプではなく着ぐるみタイプだ!」
「わかりやすい。でもファンシーすぎる」
真面目に話を聞いた方がいいのか、ふんわりと聞いていたほうがいいのか分からなくなってきた。
キースはダニエラの目を覗き込む。彼がその仕草をするときは、大抵真剣な話をするときだ。なんとなく身構えて、ダニエラは唾を飲む。
「専門機関を受診し、適切な訓練を受けた方がいい。身体変質系統の能力は使用者への負担が大きいものもある」
「ああ、その話ね……」
ダニエラは溜息をついて膝を抱えた。
「分かってる。そうしたいと思ってる。でも今は無理」
身体的にも精神的にも時間的にも金銭的にも余裕がない。キースは苦しげに眉をひそめる。
「ダニエラ、君の命に関わるかもしれない話だ」
「キース、私、今もかなり職場には融通をきかせてもらってる。うちには未成年の妹しかいないから。これ以上要求したら本当にクビになっちゃう。そうしたら、うちは二人しかいないのに一家路頭に迷うのよ」
「だが――」
「大丈夫。産まれたときからずっと付き合ってきたから。ニノンが卒業したら、必ず対処するから。だから、もう少しだけ見逃して」
ダニエラが言うと、キースはしばらく黙っていたが数度浅く頷いて「わかった」と呟いた。ダニエラは安堵の息をつく。
「ただし、何かあったらすぐに相談してほしい! すぐに!」
「わかったわかった、頼りにしてるわヒーロー」
「……今、茶化したかい?」
「どうかな?」
ダニエラは笑い、ふとキースの頬に触れた。そのままキスをする。幾度となくキスをすると、はじめは戸惑っていたキースが応えてくれる。
ダニエラはキースの唇をぺろりと舐めた。
「しよっか?」
キースは目を丸くする。
「えっ、何を?」
「…………セックスですけど」
言わせるのか、この男は。ダニエラは内心で溜息をつきながら、キースのシャツの下に手を這わせる。
「なぜ?」
「な、なぜ…………?」
なぜ、とは。
さすがにダニエラの手もぴたりと止まった。
「ダニエラは本当に私と性行為に及びたいと思っているのかい?」
「せ、せいこういに、および…………」
「投げやりになってはいないかい? ダニエラ、私と約束しただろう? 自分を大切にするって」
キースは優しくダニエラの背を撫でる。あ、なんか馬鹿馬鹿しくなってきた、とダニエラはキースの胸に額を当てた。
「……投げやりになってました」
「それはいけないよ、ダニエラ」
「めちゃくちゃ破滅的なキモチです」
「うん、でもそれをそうして口に出来るのは偉いぞ!」
「あと私にセクシーさが足りないのかと不安になってる」
キースはダニエラに口付け、穏やかに微笑んだ。
「君は困ってしまうくらいにセクシーで素敵だけど、それは君の気持ちを無視していい理由にはならないだろう?」
ダニエラは声にならない声を上げてソファに沈みこんだ。いい男すぎて混乱しそうだ。思考が現実に追いついていない。こんな奴いるんだ、と妙に他人事のように考えていた。
キースはダニエラの両肩に手を置き、真っ直ぐにダニエラの目を見つめる。
「でも、もし、ダニエラが本当に私と性行為に及びたいと思ったときは、言ってほしい。そのときは喜んで求めに応じよう」
「え、私が求めるの?」
「あ、あと、君は経験が多い方かもしれないけど」
「……いや多くはないわよ! 悪気無いのわかっててもかちんとくる!」
「私は経験がないから君にリードをお願いしてもいいかな! 上手くいかなかったらすまない!」
ダニエラはしばらく爽やかに笑むキースの顔を見つめ、床のブランケットで眠るジョンを見つめ、天井を見つめ、再びキースの顔を見た。
「………………えっ?」
「私には性行為の経験がないから、経験者のダニエラにリードをお願いしたいんだ!」
後ろ暗いところ一切なし、純度100%の信頼の微笑みを見せながらキースは言う。ダニエラは原因の判然としない目眩に襲われる。
「え、ないの?」
顔も悪くないし、性格だっていいし、おまけにヒーローだ。それでもセックスをしたことがないとなると、彼には自分の知らないヤバイ一面でもあるのだろうか、と不安になる。
「ごめん、聞いていい? なんで?」
ダニエラの問いに、キースは困ったように頬を掻いた。
「学生の頃は勉学とスポーツに打ち込んでいて、NEXTが表れてからはそれの訓練、ヒーローになってからはそっちが忙しくて、女性と親しい仲になる機会はそんなになくて……」
「いや、でも、モテるでしょ? どう考えたって」
「そんなことは――」
「下手くそな謙遜しないで。今真面目な話をしてるの。わかってる?」
「あ、えっと、いいなと思う女性がいたりもしたんだが……多忙だし、しかし多忙の理由は話せないしで、不安にさせてしまったんだと思う。あと、急に怒られたり、呆れられたり……これは多分私がいたらないから……」
いたらないというか、超弩級爆裂天然ボケを発動したのだろう。なんとなく察しがついたダニエラは「ああ」と額に手をやる。
「世の女って意外とキャパ狭いのね。あんたくらいいい男ならそれくらい目を瞑ればいいのに」
「それは……多分、ダニエラの許容範囲が広すぎるだけじゃないかな? だから甘ったれのだめな男にも根気強く付き合ってしまう、とカイが言っていた」
「…………余計なお世話よ。なんて話してんの」
ダニエラはソファに膝立ちになると、ネイビーのポロシャツを脱ぎ捨てる。警察バッジごとベルトを引き抜き、それも床に落とす。スラックスを脱いだところで、キースが焦ったように声を上げた。
「ダニエラ!? な、なにを……?」
「なにをって……」
ダニエラはにっと笑ってスラックスを放り投げる。ぱさり、と音がして床に落ちた。
「求めに応じてくれるんでしょ?」
キースはしばらく顔を青くしたり赤くしたりしていたが、やっと「ベッドルームに……?」と絞り出す。それをダニエラが「ここでいい」と言うと、やっと観念したのか裸のダニエラの腰に手を回す。
「は、はじめてだから優しくしてくれ」
「ああ、もう、格好がつかないったら……」
ダニエラはキースをソファに押し倒した。
******
ガレージの隅に置いたポータブルテレビが今日のニュースを流していた。シュテルンビルトで飼われている飼い犬の紹介コーナーだけ見て、車の整備に戻る。
銅線を手にし、ふと昼間のキースの話を思い出した。
ダニエラは何度も塗装し直したスチールグレイのボンネットに手を置く。もとはもっと明るい色であった気がしていたが、この間古い写真を確認したらそうでもなかった。
「……着ぐるみ」
ぽつりと呟き、NEXTを発動させる。いつものように燃料を循環させ、エンジンを作動させた。
「操り人形じゃなくて、着ぐるみ……」
しばらくその意味を考えてみて、やっぱりよく分からないと肩を落としたとき、手のひらが押し返すものを失ってすっぽ抜ける。「なんで?」と思った時には顔からボンネットに突っ込みそうになっていた。
手をつこうにもつく場所がない。手が妙に重く空を掻く。粘性の高い液体に全身浸かっているかのように体が重く、耳が遠くなり、視界がぼやける。鼓動のようにどこかでエンジンが唸っている。
ふわりと気が遠くなりかけたとき、衝突事故でも起こしたようなものすごい音がして意識を取り戻す。気が付いたらガレージの床で伸びていた。
「ちょっと!? なに、何の音!?」
サンダル履きのニノンが大慌ての様子でガレージに飛び込んでくる。床に倒れているダニエラを見て、ニノンは悲鳴を上げた。
「やだ、やだやだ嘘!? 大丈夫!?」
「だ、だいじょうぶ……」
上体を起こしてがらがらに嗄れた声で答えると、ニノンはぎょっとしたように身を引く。
「ごめん、それとって」
テレビの横に置いてある水のボトルを指差すと、ニノンはそれを持ってダニエラに駆け寄った。
「ねえ、その車、もう捨ててよ! 危ないよ!」
「いや、今のは……」
「車なんてなんでもいいじゃん!」
「そう……そうだね、ごめん」
ニノンはダニエラの膝にボトルを投げると、ふいと踵を返してしまう。ダニエラは去っていく後ろ姿を見ながら水を口に含み「ああ、引っ越しのことを相談できなかった」と溜息をついた。