Chapter 9



 車内に硝煙のにおいが満ちている。
 なんとなく不吉な感じがしていやだった。シャワーは浴びたはずなのに、とダニエラは自分の手首に鼻を近付ける。最近替えた柔軟剤の甘い匂いがする。ニノンが選んだものだ。高校生の間で流行っているらしい。ダニエラには少し甘すぎる。
 不用心にも開きっぱなしのガレージに車を停めた。リビングの窓、カーテンの隙間からオレンジ色の光が漏れている。妹がいるようだ。今夜こそニノンに引っ越しの話をしなくては、とダニエラはぼんやりと考えた。

「ただいま」

 上着をコート掛けにかける。ニノンが珍しくリビングでテレビを見ていた。ダニエラの知らないバラエティショーに、じっと視線をやっている。ダニエラは制服を脱ぎ、そのへんにあったTシャツに着替える。

「ただいま」

 もう一度言うも、ニノンは返事をしなかった。そのかわりすっと立ち上がり、ダニエラを睨んだ。手にはこの家の権利書と、不動産屋の書類が握られている。ダニエラが置いていたもので、ニノンに握りしめられくしゃくしゃになっていた。

「引っ越すの?」

 素っ気なく、一言。ダニエラの息が詰まる。別に隠しているわけではなかった。だが、言わなければと思いながら言えなかったのは、きっとニノンが傷付くと心のどこかで分かっていたからだ。

「そのつもり」
「あの人のところ?」

 怒りを帯びた声音で言われ、ダニエラは目を閉じる。

「いいえ、SBPDの官舎のつもりだった」
「私は? 私も?」
「……卒業までは一緒にいてほしい」

 ひゅ、と鋭く息を吸う音がした。おそらくニノンのものだった。ダニエラは自分が上手く息が出来ているかよく分からなかった。

「じゃあなんで! なんで勝手に決めちゃうの! ダニエラは私をいつも無視する!」
「そんなことない。目処がついたら相談した」
「わ、わたし、学校だってあるし、友達も……」
「官舎は古いけど、交通の便はいいよ。今の学校も距離的には遠くなるけど、通学時間は短くなると思う。もしニノンが今の学校に通いたいならそれでもいいし、転校するなら手続する」

 ニノンに負担はかけないつもりだった。事実そうした。

「ごめん、ニノン。私にこの家を維持するのは無理だった。本当に、ごめん。不甲斐なくて……」
「そんな言い方しないで! やめてよ!」

 叫ぶように言われ、書類の束を投げつけられる。

「パパの家なのに!!!」

 怒りに満ちていた声は涙で濡れたようになっていた。

「なんで!! なんでダニエラはパパの家を大切にしてくれないの!?」
「そんなこと――」
「パパとダニエラと私の家なのに!」

 ニノンの淡い青の瞳がダニエラに向けられる。痛々しい色をしていて、ダニエラはそれを直視できなかった。
 いつもそうだ。ダニエラは彼女の痛みに気が付いていて、だがそれにずっと向き合えずにいた。自分も同じ痛みを抱えていたからだ。ごめん、と小さく呟く。何に対して謝っているのか分からなくなっていた。

「官舎でNEXTに囲まれて独りぼっち!? そんなの絶対嫌だから!!」
「そんなことない」
「私のことは置いて行ってよ!!! 邪魔なんでしょ!?」
「ニノン、それは――」
「ダニエラの家族はパパだけだもんね!!!」
「それは違う!!!」

 急に大きな声を出したダニエラにニノンは肩を震わせ後退る。ダニエラはニノンの手首を掴んだ。ニノンの顔が痛みに歪む。

「…………お願いだから、そんなこと言わないで」

 言いたいことが色々あったのに、結局口をついて出たのは弱々しい懇願だけだった。ニノンは青褪めた顔でぼろぼろと涙をこぼすと、ダニエラの手を振り払って自室に駆け込む。ダニエラはしばらくぼうとその場に立ち尽くし、細く震える息をしていた。ソファに座り込み膝を抱え、散らばった書類を見つめ続ける。それからのろのろと立ち上がり、書類を一枚一枚拾っていく。
 最近ほとんど観なくなっていたテレビが賑やかな音を流していた。それを消し、ふとテーブルの上に見慣れた冊子が置いてあるのに気が付いた。笑顔の男女と動物、丸っこいフォントの「はじめてでもわかるねくすと」だ。それを手に取り、見下ろす。
 きっと彼女なりに姉を理解しようとしてくれていた。不器用で拙いなりに。それを見て見ぬふりをし、拒絶し、傷付けていたのはこっちのほうだ。ニノンのためというばかりで、自分のことでいっぱいいっぱいだった。

「情けない」

 ぽつり、と一言呟き、薄い冊子をソファに投げつける。ばしゃ、と不格好な音がして、並んだ笑顔がダニエラを見上げる。
 踵を返して廊下に出ると、ニノンの部屋のドアを叩いた。

「ニノン、ニノン開けて」

 返事はない。

「入るわよ」

 鍵がかかっているかと思ったが、ドアノブは簡単に回る。開いたドアの隙間からひゅうと夜風が頬を撫でた。
 ベッドは空だ。まさか幼児ではあるまいしクローゼットに隠れているということはないだろう。一応クローゼットを開けるが、当然誰もいない。
 心臓が嫌な感じに脈打ち、首筋を冷たい汗が伝った。窓が開けっ放しだったので、窓枠を乗り越え外に出る。玄関先にあったニノンの自転車がなくなっていた。
 ダニエラは車のキーを取るとパイアに乗り込む。おそらく出て行ったのは多めに見積もっても三十分より前であることはないだろう。ニノンの乗っている自転車で行ける距離は限られる。車で先回りして、主要な道路を虱潰しにするのが効果的だろう。このあたりは未成年の少女が一人で夜歩きできるほど治安のいい地域ではない。
 ダニエラはニノンに何かあったら、と心臓が凍り付いたような気持になる。弾かれるように携帯端末を取り出し、登録はしていたがコールしたことのない回線に繋ぐ。

「――たすけて」

 初めてPDAにした連絡で、名乗らず、用件も言わず、震える声でそれだけ言ったダニエラにキース――パトロール中のスカイハイはただ「わかった」と答えた。



 穏やかな夜空に似合わぬ風音とともに降りてきたスカイハイが、走行中のパイアの窓を叩く。ダニエラはアクセルを緩め、ウインドウを開けた。

「ニノンが出て行った」

 短く言うと、無機質なメットが浅く頷く。

「こんなことで呼んでごめん……でも……」
「いいんだ」

 多くを聞かないキースに、ありがとうと呟いた。

「家から半径10km圏内からは出ていないはず。私は家からメインストリートまでの道を重点的に探す。キースは空から探してほしいの」
「わかった。薄いブラウンの髪だったね。服装は?」
「多分、紫のシャツにデニム。上着を着ているかも。黒のバックパック。白の自転車。ライトが壊れていて、速度が遅いと明滅する」
「了解」

 窓を震わせる突風に目を細めると、スカイハイの姿は遥か彼方に上昇していた。
 ダニエラは震える手でハンドルを握りながら、道行く人を見る。ニノンはおろか、自転車に乗っている人も見つからない。
 しばらく車を走らせ、路傍にたむろする人にも女の子を見なかったか尋ねた。制服を着ていないせいか警戒されることがなかったのには助かった。だが、目撃者は見つからなかった。

 携帯端末が震える。キースからだった。まさか見つかったのかと慌てて受話すると、キースの真剣な声が「君の家の西、廃工場の裏手に来られるかい?」と言う。
 ダニエラは「すぐに行く」と答え、路地に入った。五分もかからず、道端に立つスカイハイの姿を見つける。路肩に駐車して車を降りた。

「キース!」
「ダニエラ、これを確認してほしい」

 キースが路肩の藪を指差す。放り投げられたように白い自転車と、黒いバックパックが放置されていた。ついでとばかりに財布も落ちている。
 ダニエラはハンカチごしに財布を拾い上げた。紙幣が残っている。バックパックを確認するとニノンの学生証が入っていた。
 一瞬視界がちかちかとおかしくなって、ダニエラは目元を押さえる。

「……ダニエラ」
「通報する。ニノンのものよ」

 ダニエラは端末を取るが、震える手では上手く操作出来ない。感覚を失ったダニエラの手を、端末ごとキースが握る。グローブごしのそれがひどく熱く感じた。

「大丈夫、私が必ず助ける」

 彼がそう言うなら、きっとそうなる。何の根拠もなくダニエラはそう思う。手の震えがおさまった。

「……うん、ありがとう」

 端末で通報し、警察を待つ間キースは「少し工場内を見てくる」と言った。それを見送り保安官の到着を待つ。
 保安官が来て、状況を説明し終えるとキースが帰ってきた。実況見分していた保安官がぎょっとしたようにスカイハイの姿を見た。

「いつから廃墟に?」
「たしか五年位前」
「つい最近まで誰かいた痕跡がある」

 キースのPDAがコールし、女性の顔がビジョンする。

「ボンジュール、ヒーロー。司法局に爆破テロの予告があったわ。複数台のトラックが爆薬を乗せて司法局に突っ込もうとしてる」

 走行するトラックの映像が次々にスイッチされた。その中の一台、助手席の窓にニノンの色をなくした顔が一瞬映った。

「ニノン……!」

 ダニエラが呻くと、キースが身構える気配がする。パイアに乗り込もうとするダニエラをキースが止めた。

「ダニエラ、君は今冷静さを失っている。どうかニノンのことは私に任せてほしい」
「……キース、」
「頼む。私が必ず助ける」

 ダニエラは目を伏せた。自分の能力で出来ることなどたかが知れている。その機動力で他者を運ぶことは出来ても、自ら事をなすことは出来ない。
 トラックを止めても、逆上した犯人にニノンを傷付けられたらどうにもならない。
 ダニエラは唇を噛んだ。

「……おねがい」
「任せてくれ」

 飛び去って行くスカイハイの姿を見送り、ダニエラはパイアの助手席に乗せたポータブルテレビの電源を入れた。HEROTVにチャンネルを合わせると、ちょうど番組のロゴが踊っているところだった。

「トラックに満載された爆薬、助けを求める人質、これにはヒーローたちは手も足も出ない! さらに犯人からの声明によれば、このトラックは停止すると起爆装置が作動するようになっています! さあこの難局をどう乗り越える!?」

 いつもは気にもしない実況が妙に楽しそうに聞こえて神経がささくれだつ。ダニエラはニノンの青褪めた泣き顔を思い出し、奥歯を噛み締めた。
 ひとつ、ある。トラックを止めず、人質に気を向ける時間も与えず、犯人を取り押さえる方法が。ダニエラは縮み上がった肺で深く呼吸した。胸の奥が痛んだ。
 妹にあんな顔をさせて、何が姉だろうか。私はずっと、妹のヒーローでありたかったのに。

 ダニエラは思い切り自分の頬を平手打ちする。トランクに乗せていたプライヤでパイアのナンバープレートをへし曲げる。車に乗り込み、エンジンをかけ、急発進する。その片手間に端末で同僚に電話した。

「――ダニエラか、テレビでやってる自爆テロの件か?」

 カイの声音は普段聞かないほど真剣だったが、それを冷やかす余裕はなかった。まともに返事をする余裕も。

「ああ、カイ。ごめん、悪いんだけど今すぐ私の代わりにボスに私の分の辞表を出して」
「―――はっ?」
「そう言いたい気持ちも分かるけど今は何も言えない。よろしく。もし出さないとカイにもボスにもSBPDにもぐちゃぐちゃに迷惑かけることになるかも」
「待て、なんだ、なんの話だ、今どこだ」
「おねがい、相棒」
「おい!」

 通話を切り、端末を放り投げる。ものすごい勢いでコールバックされているが無視した。
 HEROTVでは具体的な地名を出していないが、景色を見ればニノンが乗せられたトラックがイーストレダ23ルートを西に向かっていることが分かる。そのルートで法務局に向かうとすれば、シルバーサウス地区から大回りで十分に回り込めるだろう。
 ヒーローと比べて不甲斐ないと非難されるSBPDだが、それでも現役の交通警察の土地勘を舐めてもらっては困る。

 人々は次々に車を法務局から少しでも離れた場所に向け、それが叶わない人は乗り捨てていく。車や人の流れに逆らいながら、ダニエラはパイアを走らせた。ずっと調子の悪かったエンジンが快調に唸る。

「……父さん、ニノンを助けて」

 停まった車を多少バンパーを使って避けて頂きながら、NEXTを発動した。直線道路の遥か向こうから、テレビで見たとおりのアルミトラックがまっすぐこちらに突っ込んでくる。

「おっと、逃げ遅れた市民か!? どうす――あ、あの車正面から突っ込みますよ!? アニエスさん映し続け……」

 ポータブルテレビから己の行動が実況されているのを他人事のように聞く。
 ダニエラは深く息を吸い、吐く。

「操り人形じゃなくて着ぐるみ、操り人形じゃなくて着ぐるみ――」

 呪文のように唱えてスピードを上げた。この車のことなら、パーツの型番も位置も、補強の場所と材質まで全て覚えている。図面は油で真っ黒になるまで読んだ。使ったナットのメーカーだって分かる。
 ダニエラは猛スピードで近付いてくるトラックを真正面から見つめる。失敗したら? 道路に死体と鉄屑が転がるだけだ。
 す、と目を閉じるのと同時に、意識の輪郭を失った。


******


 これは罰なのだと思った。じくじくと血が滲み痛む膝を抱えてニノンは涙を堪える。
 奇妙なほどに粛々とした車内には運転をする中年の男と、銃を胸元に抱えた若い男がいた。若い男は後部の補助シートに座っていて一言も話さない。後ろを見られないニノンは男の低く静かな息遣いだけを感じながら、窓の外を見つめ続けていた。
 暗い空には中継用のヘリがくるくると旋回していた。

「カメラに向かって笑ってやれよ、お嬢さん」

 運転手が陰鬱な声でそう言う。ニノンは引き攣るように息をのみ、助手席で縮こまった。

 縋るようにニノンの手首を掴み懇願を口にするダニエラを見たとき、ニノンは己の大きな過ちに気が付いてしまった。きっと姉は姉なりに私を愛してくれていた。だが姉は不器用で、自己犠牲的で、要領も良くない。幼いニノンにとって姉はなんでも出来る憧れの大人だったが、本当のところはそうでもなかったことを理解しようとしてこなかった。
 心を持て余してずたずたになっていく姉の姿を、ニノンは見ていられなかった。目を背け続けて、ニノンは今日姉を決定的に傷つけた。美しい琥珀色の瞳が、どうにもならないほど砕け散ったカップのようであったのを見て、ニノンは咄嗟に家を飛び出してしまった。
 ひどいことを言ってしまったのだと後悔に苛まれたまま自転車で走り、廃工場の前に停まっていたトラックにぶつかって転んでしまった。そのままトラックに拉致され、どうやらこれが自爆テロ用のトラックなのだと気が付いた時、ニノンはもう全てがどうでもよくなってしまった。
 このまま死んでしまったら楽になれると思った。ただ、姉に謝れなかったことだけが少しだけ心残りだった。

 籠ったような風音とともに、スカイハイがトラックに並走する。

「無駄な抵抗はやめろ!」

 拡声器越しの声が響いたが、運転手も若い男もそちらを一瞥しただけだった。運転手が顎で合図し、若い男が窓の隙間から銃口を外に向ける。車内に激しい射撃音と火薬のにおいが満ちた。薬莢が落ち、からからと床を転がっていく。大きな音にニノンの心臓がばくばくと跳ねた。
 銃弾を避けて一度離れ、体勢を整えたスカイハイが叫ぶ。

「せめて人質は解放するんだ!」

 ニノンはそれをぼんやりと眺めた。昔はHEROTVが好きでよく観ていたが、まさか自分がヒーローに助けられる日が来るとは思わなかった。スカイハイが好きで、グッズや雑誌を集めていた。あれらを段ボールに閉まってしまったのは、いつの頃からだったろう。
 憧れのスカイハイがいて、自分を救おうとしているというのに、ニノンは麻痺したように何も考えられなかった。

「放っておけ、どうせ何も出来ない」

 停まれば爆発する。進み続けてもいずれ爆発する。きっとヒーローにだってどうにもならない。自分の死ぬ光景を姉には見ないでいてほしい。そんなものを見せてしまったら、きっと姉は本当に駄目になってしまうから。

「なんだ、あの車」

 運転手が低く唸る。走行音に掻き消されるほどの小さな声だった。ニノンがトラックの進行方向に目をやると、見慣れたスチールグレイのSUVがまっすぐこちらに向かっていた。ナンバープレートが曲げられナンバーが見えないようになっていたが、あれを見間違うはずもない。父が大切にし、姉が執心している古いパイアだ。

「ああ、うそ、やだ、やだ、ダニエラやめて」

 大きく高いトラックの助手席から見下ろすパイアは、ひどく小さくちっぽけでみすぼらしく見えた。きっとあんな車で体当たりしても、このトラックはほんの少しも動じないだろう。
 ニノンは飛び上がり、震える手で運転手に掴みかかる。

「止まって! 止まってよ! ぶつかっちゃう! やめて! お願い!!」

 運転手はうるさそうにニノンを払いのけた。ドアに頭をぶつけて、痛みに呻く。運転手は舌打ちしてアクセルを踏んだ。 
 ニノンはおんぼろパイアから目を離せずにいた。見たくないのに、どうしても体が動かない。もうどうしても避けられないような距離まで近づいた時に、やっと運転席にダニエラの影が見えた。大きな偏光レンズをかけた顔はほとんど表情が見えなかったが、ニノンはダニエラと目があった気がした。

「ダニエラ――」

 パイアが淡く光を帯び、まるで蹲っていた巨人が伸びあがったかのようにシルエットが膨れ上がる。四輪駆動であった車体が四肢を持った人型に変形すると、アスファルトを鉄の脚で蹴り、大きく跳ね上がってフロントガラスに突っ込んできた。
 運転手の悲鳴は上がらなかった。ひゅ、と息を吐く音がして、大きな音と衝撃とともにフロントガラスを突き破ってきた鉄の爪に掴まれ、車外に引きずり出され、投げ出された。地面に叩きつけられそうになった運転手をスカイハイがすんでのところでキャッチする。どこからか歓声が聞こえた。きっとHEROTVを見る人たちの歓声だった。今のは「犯人確保」か「人命救助」かどっちなんだろうとニノンはふと思った。
 後部座席にいた若い男が、悲鳴をあげて銃を乱射する。数発はパイアの面影のあるスチールグレイのボディに穴をあけたが、ほとんどは弾の行方も分からないほど見当違いの方向に飛んで行った。
 さすがに車内に乗り込めない鋼の巨人は、フロントガラスから身を乗り出し若い男の服の裾に鋭い爪を引っ掛け、外に放った。悲鳴が尾を引き、後方に流れていく。
 フロントにしがみつくそいつの腰のあたりに白いペンキで小さく父とダニエラとニノンの名前が書いてあった。昔、ニノンが今の今まで忘れていたほど昔にいたずら書きをしたものだ。何度も洗浄も塗装もしたはずなのに、きれいにそれが残っていることを、ニノンはずっと知らなかった。
 ニノンの瞳から堰を切ったように涙が流れる。

「ダニエラ、ダニエラごめんなさい、私――」

 言葉に詰まるニノンにそいつはエンジンが空回りするような高い音を上げた。

「助けに来てくれてありがとう――」

 ぎゅるぎゅる、といやな感じの金属音がする。

「な、なんかちょっと悪役っぽい登場だったけど――」

 再び高いエンジン音。それが「アクセル」と聞こえた気がしてニノンは「え?」と顔を上げる。

「アクセル! 早く踏んで! 停まると起爆する!」

 エンジン音に似たそれが、はっきりとそう言った。

「ニノン! 姉ちゃんの言うことが聞けないの!?」

 ニノンははっとしてガラスが割れてびゅうびゅうと吹き付ける風から身を隠すように伏せながら、運転席まで這う。小柄なニノンには大型トラックの運転席は広すぎた。床のペダルが少し遠い。

「ど、どれがアクセル!?」
「あんた父さんの何見てたの!? 真ん中の一番小さいヤツ!」

 言われるままにアクセルペダルを踏むと、急発進しすぎて車体が大きく揺れた。フロントガラスにしがみついていたダニエラははずみで落ちそうになりガンガンと金属同士がかち合う音をたてたが、雪道でスタックしたような音をさせながらトラックのサイドミラーにつかまった。
 左手でドアミラーにつかまりながら右手で運転席のドアを開けると、そのままドアを引き千切り、放り投げる。ドアが落ち、ものすごい音を立てて後ろに遠ざかっていく。
 鉄の爪がハンドルを掴んだ。大きくハンドルをきり、司法局へ向かっていたトラックを方向転換させる。

「むり、むりだよ、ダニエラ、わ、わたし運転なんて……代わってよ、お願い……!」
「このナリでそこに入れない!」
「も、戻ればいいじゃん! NEXTなんでしょ、それ!」
「実はそこまで考えてなかった」
「え!? 戻れないの!?」
「いや、戻り方が分からない」
「戻れないんじゃん!」

 ニノンは悲鳴をあげる。

「そうだよ! でもあんただけは助けるから!」

 そう叫び返され、ニノンはぐっと涙を堪え、目を拭った。風で冷えて感覚を失った手で大きなハンドルに掴まる。

「ど、どうすんの……と、とびおり……?」

 高速で後ろに流れていく地面を見下ろし、ぞっとして前に視線を戻す。

「爆薬があるからここでは停まれない。ブロックスブリッジまで行って――」

 そこで不吉に言葉が切れる。ニノンは半狂乱で「ブロックスブリッジ!? ブロックスブリッジでどうするの!?」と声を上げた。

「聞いても泣かない?」
「な、なか、ない……多分」
「ブロックスブリッジまで行って、川に落とす」

 ニノンは声にならない悲鳴をあげ、ハンドルにしがみついたが、泣くのだけは耐えた。少しは泣いたが、風が強すぎて涙は頬を伝わらず後ろに流れ乾いてしまった。
 幾重にも張られた警戒線の向こうにブロックスブリッジが見え、ニノンは喉を詰まらせる。どことなくパイアのフロントグリルに似た頭部が、ニノンを見つめた。見つめたのだと思う。

「怖い?」
「こわいよ! こんなの絶対に無理!」
「私も怖い」

 え、と問い返す前にダニエラは「アクセル踏んで、思いっきり!」と叫んだ。ニノンは言われるままにアクセルを強く踏む。トラックはブロックスブリッジの欄干を薙ぎ倒し、乗り越える。ふ、と内臓の浮き上がる感じがした。
 悲鳴をあげそうになるニノンの胸倉を鋼の爪が掴み上げる。

「キース!!!」

 ダニエラは暗い空に向かってそう叫ぶと、ニノンを空に高く放り投げた。今度こそ悲鳴をあげるニノンを、何者かが抱きとめる。ニノンの髪を突風が乱した。次いで、爆風が川の水面を巻き上げる。どこかから歓声が聞こえる。スカイハイ! スカイハイ! の合唱が響いた。
 地面に降り立ったニノンは自身の安否を気遣ってくれるスカイハイの言葉を無視し、彼の体を突き飛ばすと壊れた欄干に駆け寄る。降り注ぐ川の水が冷たいが、構っていられなかった。
 ダニエラは崩れかけの欄干にかろうじて鋼の爪で掴まっていた。それを見たニノンはへなへなとその場に崩れ落ちる。

「あ、ダニエラ、よかった……」

 金属のたわむような音がして、パイアのフロントグリルが割れる。バンパーが水面に向かって落ちていく。糸のほつれたセーターのように鋼の体がばらけ、生身のダニエラが空中に投げ出された。
 ダニエラは一瞬何が起きたのか分からない、というような顔をし、言葉を失うニノンを見、そして、多分微笑んだ。
 落ちていくダニエラをなすすべなく見送るしかないニノンの横を白い影が通り抜け、迷いなく欄干から飛び降りる。いや、飛んで行った。
 ニノンが萎えた足で立ち上がるのと、スカイハイがダニエラを抱えて欄干に着地したのはほぼ同時だった。

「君と飛べてよかった」
「い、今のはほぼバンジーでは?」

 がらがらに嗄れた声でダニエラはスカイハイに答える。地面に降ろされたダニエラは二、三歩よろめくとニノンを強く抱きしめた。いつもより強く機械油と錆のにおいがする。

「よかった……無事で、本当によかった」

 がさがさの声で耳元に囁かれ、ニノンは小さく「うん」と答えるしかできなかった。

「ニノンに、何かあったら……私……」

 ダニエラの声が能力のせいでなく引き攣れ、高くなる。ニノンが驚いて身を引くと、強くて大人びていて父が死んでからニノンの前では一度たりとも泣いていないダニエラが身も世もなく泣きじゃくっていた。汚れた頬に涙が伝っていく。

「置いていかないで……私たち、家族なのに……!」

 子供のような喘鳴が痛々しい。だがそれを聞いたニノンはほっとして、なんだか重い荷物を急に下ろしたような気分になった。

「うん、ごめん、ごめんなさい……」

 ぽろぽろと泣きながらダニエラを抱きしめると、ダニエラの泣き声はいっそう悲痛さを増した。何と声を掛けたらいいのか迷っていると、ニノンはダニエラごとスカイハイに抱きしめられた。思いのほか力が強く、う、と息が詰まる。

「素晴らしい! そして素晴らしい! 誤解が解けてよかった! 愛だね! これが愛だ!」

 大袈裟な身振りでそう言ってから、スカイハイは声をひそめてニノンに囁いた。

「妬けてしまうほど愛されているね。お姉さんを大切にするんだぞ」

 どういうこと、とニノンが眉を顰めると、スカイハイは腕を緩め離れていく。その途端にダニエラの体が回転の止まった独楽のようによろめき、倒れた。

「ダニエラどうしたの!? 大丈夫!? どこか痛いの!?」
「ダニエラ、聞こえるか! 意識はあるか! 救急車! 誰か救急車を呼んでくれ!」

 スカイハイに支えられながらダニエラは「どこも痛くない。意識はある。でも全く体が動かない――人間の体ってどうやって動かすんだっけ!?」と呻いた。


******


 WHO IS THATの文字が数日メディアを賑わせた。HEROTVの生放送に乱入した謎の大型ロボットに人々の関心が寄せられた。
 生放送ではキースがアニエスに強く「彼女を映さないでくれ、彼女は一般人だ」と訴えたために、生身の彼女の姿が晒されることはなかった。その代償としてキースは三本の特番撮りおろしを約束させられたのだが。
 人々はニューヒーローの発表をまだかまだかと待ち望んでいたが、結局続報はなかった。ネットでは野良ヒーローだの、番組が用意したヤラセだの好き勝手な噂話が流れている。ヒーロー事業部を抱える七大企業のうち、大手自動車会社を多く傘下に持つタイタンインダストリーは結構本気で謎のロボットをスカウトしようとしたらしい。
 姿が姿だけにコアなマニアの歓心を買った。ポセイドンラインのヒーロー事業部技術課でも、あの車ならきっとこんなデザインになる、とか、この車なら最強のヒーローになれる、と技術者たちが嬉々として議論している。


 そんな浮かれる世論と裏腹に、ダニエラはといえば一週間の出勤停止に胃をきりきりさせていた。
 あれほど辞表を頼むと言っていたのに、カイは辞表を出してくれていなかった。非番中に救助活動を行ったことは「その場にいたためやむを得ず」でひとまず咎められなかったが、ダニエラは攻撃性のあるNEXTを持ちながら隠蔽詐称し届け出をしていた可能性を指摘された。
 ダニエラとしては「こんな能力だとは知りませんでした。今回初めて使用しました」としか言えない。嘘ではないのだから、本当にそれしか言えないのだ。最悪免職だと覚悟はしていたが、NEXTを持つ他の職員にも迷惑がかかることは避けたかった。

「元気そうなツラしやがって。こっちはおまえの後始末でてんてこ舞いだ。川底を凍らせてトラックを押し上げたんだぞ」

 ベルを押されて玄関を開けると、カイが挨拶もそこそこにそう捲し立てた。

「……ごめん」
「しおらしいふりすんな」

 丸めた書類でばしばしと頭を叩かれる。それを甘んじて受けながらダニエラは項垂れる。

「謹慎明けたぞ。おまえの体調次第だが、来週から出勤は出来る」
「……ほんとに!? お咎めは!?」
「ナシ! ただし姉妹でカウンセリング受けろって話と、おまえは内勤二か月でアカデミーの成人向け能力制御プログラムを受講!」

 ダニエラは天井を仰いで安堵の息をついた。それから、寄り掛かるようにカイにハグをする。

「よ、よかったぁあ、ありがとう! そしてごめんなさい!」

 カイは片腕をダニエラの背中に回し、強く二度叩いた。

「相談しろ、ばか」
「ごめん」
「あんなすぐ辞表出せるか、ばか」
「ごめん」
「ばかかおまえは、このばか」
「……ごめん」

 好き放題にばかと言われたが、まったく反論できずにダニエラは謝り続ける。

「体は大丈夫なのか?」
「まあ、おおよそ。たまに体の動かし方がよく分からなくなって混乱する以外は」
「なんだその症状。変な能力だな、今度生で見せろよ」
「え……無理かも……」

 あれは操る機械のパーツまでを相当熟知していないと難しい。慣れ親しんでいたパイアはバラバラになってイーストリバーに沈んでいる。それに、どうやってやったのか、いまだ自分でもよく分かっていない。今回たまたまラッキーで、もう二度と出来なくても不思議ではない、とダニエラは思う。
 ダニエラの背に手を回したままだったカイが、狼狽え身じろぐ。

「おい、……おい、そろそろ離せ。暑い!」
「ごめん、カイのシャツ握ったら手が開かなくなった……」
「いや、ふざけ……え、マジか!?」
「今外す、ちょっと待って……」
「とりあえず俺がぐるっと回って抜けるから――」
「あいたたたた腕が取れる!」

 玄関先でばたばたしていると、半開きだったドアが遠慮がちに開けられた。キースが、玄関先で文字通りくんずほぐれつする二人を見て、困ったように笑っている。

「あ、キース」

 その途端、ぱ、と手が離れた。

「お取込み中だったかい?」

 キースが微笑むので、ダニエラは首を横に振る。カイのじっとりとした視線と、キースの期待に満ちた視線を受けて、ダニエラは肩をすくめた。

「キース、彼はカイ・リャン。同僚で、知っているとおりたまに私の電話に勝手に出る。カイ、彼はキース・グッドマン。恋人」

 そう言った瞬間にキースが露骨に喜色満面になったので、ダニエラは顔を逸らす。キースが何か言う前に、びっくり顔のカイが割って入ってきた。

「ちょっと待っててくれ紳士。俺はこいつと込み入った話がある。ちょっとだけ、ちょっとだけな」

 そう言いながらダニエラを玄関に押し込め、後ろ手でドアを閉めた。何を、と抗議しようとしたダニエラは丸めた書類で頭を叩かれる。

「あの電話のキースってあいつか!?」
「そ、そうだけど」
「おまえ、あんないかにも善良そうな爽やかハンサムを好みじゃないって言ったのか!?」
「嗜好なんだからしかたないじゃない」
「呪われろ!」
「の、のろわれろ!?」
「そしてミアに説教されろ!」
「そっちのほうがいや」

 ばしばしと叩かれ、ダニエラは両手でそれを防ぐ。
 でも、まあ、とカイは丸めた書類をほどいて笑った。

「幸せそうでよかった」
「……ありがとう」

 ところで、とカイは真顔になった。

「あいつ、署でおまえに花束渡していたやつに似てない?」
「……本人だもの」
「マジかよ」

 カイは溜息まじりにドアを開けると、律儀にドアの前で待っていたキースと目を合わせ、手を差し出した。

「カイだ。電話で話したけど、会うのは初めてだよな。ダニエラとは仕事のパートナーで四六時中一緒にいるけど、俺はセクシーな女房とキュートな娘を絶対に裏切れないから気にすんな」
「よろしく、カイ! 私はキースだ! キース・グッドマン! 会えて嬉しい! 嬉しいよとても! ダニエラに聞いていたとおり素敵な人だね! 娘さんの写真を見せてくれるという約束をここで果たしてもらってもいいかな?」

 キースはカイの手をしっかり握って。力強くシェイクする。娘のことを言われてホクホクと端末を取り出したカイは口の動きだけで「のろわれろ」ともう一度伝えてくる。それはもういい。
 しばらく写真を見たあと、カイにしては短く鑑賞会を切り上げた。

「じゃあ、俺は戻るわ。あとは二人でごゆっくり」
「お気遣いどうも、私のぶんの仕事もよろしく」
「くっそ、完全に調子戻りやがって。復帰したら覚えとけよ」

 ひらひらと手を振ると、カイも小さく手を振り返した。ドアが閉まると、その途端肩を抱かれてキスされる。準備ができていなくて鼻をぶつけた。
 久しぶりに会うのだから勘弁してやろうとされるがままにされていたが、あまりに長いので彼の厚い肩をタップする。やっと離れたキースを、片手で押しのけた。

「怪我は!? 体調は!? ああ、無事でよかった!」

 キースの大きな手のひらがダニエラのシャツをまくりあげ、べたべたとあちこちを触る。

「キース、下心が無いのは重々承知だけど、恥ずかしいからやめて」
「実は下心は少しある!」
「なお悪い!」

 ダニエラはキースの腕を振りほどき、シャツの裾を直した。振りほどいた腕に再びきつく抱きしめられる。

「ずっとお見舞いに来られなくてすまない」
「しかたないよ、忙しそうだったもの。テレビ観てたわ」

 やることがないのでテレビばかり観ていた。どの番組でも自分の車が映っていてWHO IS THATの文字が踊る。スカイハイは幾度となくインタビュアーやコメンテーターに「救助したNEXTは何者だったか」と責め立てられ、そのたびに「強くて美しくて愛情に満ちた人だった!」とわけのわからないことを言っていた。

「あんたって、本当にヒーローのときと素と変わらないのね」
「そうらしい。よく言われるよ」
「それでよくバレないわね」

 ダニエラは呆れてキースを見上げる。キースはただただ嬉しそうにダニエラの額にキスをした。

「ニノンは?」
「学校。スカイハイと謎のロボットに助けられたって人気者みたい」
「ふふふ、そうか、よかった!」

 ダニエラは少し背伸びして、キースの唇に己の唇を合わせる。

「ありがとう」
「私は何もしていない」
「……あんたのそういうとこ、――まあ、いいわ。キースって本当にヒーローだったのね」
「そうだよ!スカイハイ! 名前は覚えていてくれたかい?」
「そうじゃなくて……」

 ダニエラは溜息をつき、意を決した。

「キース、助けてくれてありがとう! 来てくれて嬉しかった! 来てくれるって信じてた! 好きよ! 大好き! 愛してる! 私のヒーロー!」

 それだけ言い、ダニエラは肩で息をする。キースの言語で話すのはかなり体力と気力がいる。反応がないのでおそるおそるキースを見上げると、彼は完全に忘我の状態で宙を見ていた。

「……キース?」

 キースはやっと息をするとダニエラの首元に顔を埋める。

「嬉しい。嬉しいよ。ありがとう、愛してる」

 ダニエラはキースの髪に手をやりながら、唇を噛んだ。

「やめてよ、なんだか最近涙もろいんだから」
「泣いてもいいさ。君の涙を舐めてもいいかい?」
「理由が分からなくて怖いからだめ」