顔を背けたい激情



 鋼鐵塚蛍は三十を越えて妻帯もしておらず、当然子もいない。
 悪い男ではない。鍛冶の腕は里では一目置かれている。仕事は熱心すぎるほどに熱心で、博打狂いでも酒浸りでもない。粗暴で暴力的というのでもない。嘘つきでもない。
 ただ――ひどく面倒くさい男であった。気難しいといえば聞こえはいい。人の話を聞かず、己の言い分を曲げず、気に喰わなければ癇癪のように喚く。優しさがないわけではないが独りよがりで人にそれを伝えようという考えがない。
 それが自分より立場の弱い者にばかり向くというのであれば大して珍しくもない卑劣漢であるが、親であろうが里長であろうが面と向かって痛罵する。子供のように拗ねて怒る。とはいえ下の者に優しいかと言えばそんなこともない。年端もいかない子供に向かってでさえ全力で癇症を起こす。おそらく地獄の閻魔にさえ食って掛かるであろう。
 そういう男であるから、鍛冶の腕は認められても里の者は誰も彼に娘をやりたがらなかった。娘にむざむざ苦労をさせたい親はいないし、何より鋼鐵塚と縁続きになりたいなどという奇特な義親はいなかった。なにしろ実の親にすら匙を投げられた強情なのだ。
 他所から縁談を持ち込むも、見合いの場所が息の詰まるような隠れ里である。住民は何故か皆面をかぶり、鬼だ殺しだと物騒な話題ばかりが飛び交う。頼りの亭主は一寸先の機嫌も読み通せぬ偏屈とあっては、若い娘は泣いて首を横に振る。両親も青褪め顔を引き攣らせて逃げ帰る。
 鋼鐵塚も鋼鐵塚で別に女を苦しめたくてそうしているわけではない。そういう性質であるだけだ。嫌だと泣く女を無理矢理娶ってもどうにもならない。だから無理に結婚しようとも思わない。
 そのたびに対応するのも面倒であるし、年齢を重ねさらに偏屈ぶりが周知されるに至り持ち込まれる縁談は条件の悪いものばかりになっていく。二、三年前に、鋼鐵塚に負けず劣らずのとんでもない癇性の女と見合いの席で取っ組み合いの喧嘩をして以来、鋼鐵塚は全ての縁談を無視していた。

「お帰りなさいませ」

 普段の調子で家の引き戸を開けると、指をついて頭を垂れる女の姿がある。鋼鐵塚はその痩せたうなじをちょっと見下ろし、それを無視してずかずかと家に上がり込む。
 お夕食の用意が、と囁く言葉を引き戸を閉めて遮る。襖戸の向こうで女のぼうと立ち尽くす気配がしたが、その気配もそよそよとどこかに消えて行った。
 独り身が長いと、家に誰かがいること自体が落ち着かない。それがたとえ幽鬼のように存在感が希薄な女であろうとだ。
 彼女を塵芥でも押し付けるように置いていった彼女の両親と鋼鐡塚の親代わりである鉄地河原との間でどのような取り交わしがあったのか鋼鐡塚は知らないが、それを気にするような男でもなかった。
 気に染まぬ結婚だ。だが鋼鐡塚を誰より気にかける鉄地河原のたっての願いでもある。勝手に女房だと女を連れて来られたのは面白くない。しかし鉄地河原の厚意も無下にするわけにはいかない。
 逡巡の結果、鋼鐵塚は女を徹底的に無視することにした。いないものとして扱った。顔合わせではぷいと顔を背けたまま鉄地河原に何を言われても口をきかず、祝言は鋼鐡塚が遁走したので執り行われなかった。
 それから七日、鋼鐵塚は女を見ようともしていない。日々の挨拶を無視し、作られた食事にも手を付けない。洗濯され火熨斗をかけられた着物だけは、裸で仕事をしたら熱くて堪らなかったので着ることにした。
 別に鋼鐵塚は妻を欲しいと思ったことはない。自分のことは自分で一通りできるし、遣り甲斐のある仕事を持っている。特段寂しいとも感じないし、妻がいない己を惨めだとも感じない。そういう並み一通りの感性が具わっていれば、もとよりとうに所帯を持っていただろう。鋼鐵塚にとってみれば、急に家に現れた女は邪魔でなくとも鬱陶しいものでしかなかった。

 鋼鐵塚はごろりと座敷に横になる。畳に耳を押し付けると、家屋のどこかで小さな足音がしているようであった。
 まるで拗ねた子供のように無視を続ける鋼鐵塚に、女は小言のひとつも言わなかった。問い質しさえしなかった。ただ義務のように返事の来ない挨拶を繰り返し、誰も口を付けぬ食事を作り続けた。鍛冶場から帰るたびに乱雑であった家の中が少しずつ片付き、湯を浴びれば寝間着が用意される。庭木は手入れされ、門前は掃き清められた。
 若後家であったというから、前の婚家はかなり躾の厳しい家であったものであろうか。しかし、無駄口も聞かず、物音も立てず、身の回りの世話だけが整っていくのは、なんだか気味が悪かった。
 ここ三晩ほど鍛冶場に籠り切りであった鋼鐵塚のもとに、女は何も言わずとも三度の食事と軽食を運んだ。戸板の前に蚊帳の中ぽつんと置かれたそれは、手を付けないでいるといつの間にか下げられ、時間が来るとまた新しい膳が出ていた。
 一度他の刀匠が「食わないならよこせ」と言うので好きにさせると、美味い美味いと大層大喜びをして食っているのが気に喰わなかったので、人にも渡さないことにした。
 どれだけ無視しようと、女は怒りも悲しみもしない。面白おかしくてやっているわけではないが、なんとなく甲斐がない。
 鋼鐵塚は面を外して目を閉じる。女の気配がする。消えかけの蝋燭のような気配であった。

 三晩も休みなく火の前にいたため疲れきっていた鋼鐡塚は、気が付くと寝入っていたらしい。体を起こすと、肩から半纏が滑り落ちた。寝る前に自分で被ったものだろうかと思い、ふと誰がそれをそうしたのか思い至って顔をしかめる。
 見れば、部屋には布団が敷かれていた。布団に手を置くと夜気でひんやりとしているが、昼日中にきちんと干されているのが分かる。
 なんとなくむっとして、鋼鐡塚は庭に布団を放り投げてやろうかと思った。無視しているとはいえ、寝入った隙に布団を敷き、半纏をかけていくなど、なんだか卑怯に感じられた。
 だが、この家に布団はこれきりしかないので渋々それに体を滑り込ませる。干され、空気を含んだ布団が心地よく、鋼鐡塚は一瞬むかっ腹をたてたのも忘れてすぐに眠りに落ちてしまった。


******


 翌朝、常と変わらず虚ろな目で「おはようございます」と女は言い、鋼鐡塚はそれを無視した。さして気にした風もなく女は「朝食を、」と言いかけたが、鋼鐡塚は最後まで聞かずに家を出た。飯は食堂で食べるか、どこか若いのの家に上がり込んで食べる。
 面白くない、と鋼鐡塚の足取りは荒々しくなる。本当は「布団の寝心地がよかった」と言ってやってもよかったのだ。それを向こうが素知らぬ顔をしているものだから、それを言う機会を逃してしまった。
 鋼鐡塚というのは全く面倒くさい男であるので、自分が酷いことをしているのは分かっている。分かっているうえで、始めてしまった手前やめられない。向こうが泣いて怒って「無視するな」と言えば無視しないのに、などと思いながら、鉄穴森鋼蔵の姿を見つけずいずいとそちらに足を向けた。
 朝からかっかと火男面から火を吹きそうな様子で向かってくる鋼鐡塚の姿を見て、鉄穴森は「ぎゃ、」と短く悲鳴をあげた。

「おはようございます、鋼鐡塚さん、いったい朝からどうしたんです?」

 それに答えず、鋼鐡塚は鉄穴森が腰に提げる握り飯を奪い取った。

「え、なんですか!」

 経木を引き剥がし、丸い握り飯をしげしげと眺める。

「に、握り飯ですよ、ただの握り飯……」

 火男面を少し傾いでそれを齧る。

「ええー、俺の昼飯……」
「俺のをやる」

 どうせあの女は誰も手を付けぬ昼飯を黙々と用意する。
 はあ、と鉄穴森は首を傾げた。

「せっかく料理上手の奥さんがいるのに、どうして握り飯なんか盗むんです」

 鋼鐡塚はふと咀嚼を止め、鉄穴森の方を見た。じい、としばらく彼を見つめ、それから咀嚼を再開する。

「な、何か言ってくださいよ!」

 悲鳴を上げる鉄穴森を無視して、鋼鐡塚は握り飯を平らげた。塩の効いた握り飯だった。

「あいつは料理上手なのか」

 言うと、鉄穴森は胡乱げに鋼鐡塚を見る。

「お上手だと思いますよ。鉛もお世話になってて」

 ふん、と鋼鐡塚は鼻を鳴らした。最近ますます鉄穴森に顔立ちの似てきた細君を思い浮かべる。

「鉛も鉛で、築炉さんのことは気にかけているようですよ」
「築炉?」

 辿々しくその名前を繰り返す鋼鐡塚に、鉄穴森は「ははは」と笑った。

「やだな、奥さんの名前を忘れちゃったんですか?」
「いや、初めて聞いた」

 鋼鐡塚が答えると、鉄穴森の面から覗く耳や首のあたりがみるみる青くなった。

「ご冗談を」

 冗談ではない。見合いの席では何度か聞いたのかもしれないが、鋼鐡塚はとにかく目を逸らし顔を逸らし心を逸らしていた。紹介はされたのだろうが、覚えていない。

「それで、おまえの細君があいつの何を気にしているんだ」
「いや、それは、だって、……鋼鐡塚さんの奥さんですし」

 里の者にしてみれば、それだけでその苦労も心痛も痛み入る。だが当人の鋼鐡塚は首をぐるりと回し「なんだそれは」と顔をしかめる。

「あ、でも、鉛がそれとなく家の様子はどうだと聞いたらしいんですけど――」

 鋼鐡塚はぎくりとして口を閉ざした。さぞ悪し様に言われていることだろう。里の者に後ろ指を差されようとどうということもないが、鋼鐡塚がどれほど無視をし無体を働いても顔色も変えないあの女が、鉄穴森の細君に愚痴を零していると思うとなんとなく気に入らない。

「聞きたくない」
「どうしてです?」
「聞きたくないからだ」
「そう言わず、聞いてくださいよ」
「いやだ」
「築炉さんは鋼鐡塚さんを、不甲斐ない女房にも文句の一つも言わない出来た旦那だと言ったらしいですよ」

 ひどい嫌味だと思った。
 鋼鐡塚は経木を投げ捨て、荒い足取りで鍛冶場に向かう。急に機嫌を損ねた鋼鐡塚に鉄穴森は目を丸くしたが、彼の挙動が予測不可能であることは常態であるので、普段通り仕事に向かうことにした。