蜜の味



「蛍さん、こっちを向いてください」
「い゙っ、てえな! もっと優しくやれよ!」
「ごめんなさい」

 腫れた頬に膏薬を貼られながら鋼鐵塚は悪態をつく。顔は腫れ赤黒く痣を作り、唇には血を滲ませる。あちこちに蚯蚓腫れが出来ている。着物の袖は強く引っ張られたせいでほつれていた。
 なぜこのような痛々しい有様になったかといえば、実に馬鹿々々しい理由なのである。

 築炉はもともと歩き方に癖がある。右足に体重を乗せるような不均衡な歩き方をする。日常生活に不便はないようであるし、痛むわけではなさそうだ。産まれつき左脚の動きが悪いものか、以前怪我をしてそちらを庇う歩き方になったのかまでは分からないが、無意識の癖なのであろう。
 よく注意して見なければ分からない程度である。指摘しようとは思わない。だが、刀工である鋼鐵塚にしてみれば左右非対称はひどく気にかかる。
 それが今日築炉の歩く姿を見たところ、どうにも両の脚でしっかりと立ち歩いている。どういうことであろうか、と鋼鐵塚は訝しんだ。ああいう癖はそう簡単に治るものではない。
 鋼鐵塚は路上を里の女たちと連れ立って歩く築炉の背後に立ち、着物の上から尻に触った。触った、というより揉みしだいた。鋼鐵塚は築炉の跛行の原因は股関節周辺か上腿にあるのではないかと考えていた。だからそれを確認したのだ。
 それが家の中ならば何事にもなりはしなかった。築炉は如何に鋼鐵塚が奇矯な行動をしようとそれを咎めることは稀であったし、事実築炉はそうされてもぽやっと立ち尽くしただけであった。
 ただでおかなかったのは、築炉と立ち並んで歩いていた里の女連中である。もとより鬼と敵対することを定められた里に産まれた女である。気の弱い者などそうはいない。往来の真っ只中で、まずは一際大柄な鉄本中の嬶が問答無用で鋼鐵塚の頬を張り飛ばした。

「蛍! アンタ築炉ちゃんを辱めるんじゃないよ! いつまで洟垂れガキのつもりだい!」

 そうだそうだ、と女たちが口々に賛同し、築炉を庇うように立ち塞がる。人垣の中で小柄な築炉は一層小さく縮こまった。何か言おうと口を開けたり閉めたりしているが、あのか細い声では怒れる女連中の耳には入らないだろう。

「おい、違う! 俺は――!」
「言い訳はおよし!」

 もう一度頬を張られる。普段は人の話を聞けと怒られる鋼鐵塚であるが、今回ばかりは立場が逆転する。尤も聞き入れられたところでその理由に筋が通っているかと言われると難しいところなのであるが。
 ここで黙ってやり過ごすことが出来ないのが鋼鐵塚である。とはいえ女相手に殴りかかるのも体裁が悪い。鋼鐵塚は路傍の砂を掴み上げ、それを女たちにぶつけた。大人のやることではない。砂を掛けられた女たちは高い悲鳴を上げて、そして猛然と鋼鐵塚に詰め寄った。

「信じらんないこの悪たれ!」
「築炉さんの髪まで切りやがって!」
「あんたが包丁で追いかけまわしたせいでアタシの良い人が里に寄り付かなくなっちゃったじゃないの!」

 女たちは口々に鋼鐵塚への怨嗟を喚きながら、手当たり次第に鋼鐵塚の髪を引っ張り、着物を引っ張り、腕を引っ掻き、箒で叩く。彼女もまた砂を被って埃まみれになった築炉が、平身低頭女たちに謝り倒し、築炉がそこまで言うならと解放されたのだ。

 鋼鐵塚は甲斐甲斐しく己の手当てをする築炉の顔を睨んだ。

「俺が何かしたかよ! 俺の女房俺がどうしようが俺の勝手だろうが!」
「そうですねえ」
「なんであいつらが怒るんだ! 男が逃げたのは絶対俺のせいじゃねえぞ!」
「面白いんですね」
「ああ!? 亭主殴られたのがそんなに面白いか!」
「いえ、蛍さんが」

 そう言われ、鋼鐵塚は顔を顰めたまま黙り込む。築炉は何を考えているか分かりにくい淡い表情で、鋼鐵塚の腕の引っ掻き傷にマーキュロクロムチンキを塗る。

「……嫌味か」
「いいえ」

 築炉はふと微笑んだ。

「突拍子もなくて、賑やかで、おかしくって、私は気の休まる暇もありません」
「嫌味か」
「いいえ」

 ぱたん、と薬箱の蓋を閉める。

「本当に、他所事を考える暇もないのです」
「嫌味じゃねえか」
「私、蛍さんと一緒になれてよかった」

 鋼鐵塚は鼻を鳴らして顔を背けた。

「そうかい。俺が女なら俺みたいな男は絶対に御免だね」


******


 気晴らしに餅屋に団子を買いに行った鋼鐵塚は、そこで餅屋の女将に腫れた顔を散々笑われた。あっという間に今朝の騒動は知れ渡っていたらしく「築炉さんが可愛いのは分かったからほどほどにしなさいよ」などと揶揄われる始末である。
 理由を話すのも面倒くさくて、鋼鐵塚は黙って団子を四本受け取った。大福餅を一つおまけされ「あんたにじゃないよ、築炉さんに」と言い含められる。
 家に着くと座敷で築炉がほつれた鋼鐵塚の着物を繕っているところであった。鋼鐵塚はその傍らにどっかりと座り込む。手元を覗きこむとすでにどこがほつれていたのか分からないくらい綺麗に直されていた。団子など買いに行かずに築炉の針仕事を眺めていればよかった、と鋼鐵塚は思う。
 鋼鐵塚は着物に淡々と視線を落とす築炉の横顔を眺めた。それから、団子の包みを解いて両手の塞がった築炉の口元に団子を突き付ける。

「蛍さん、餡が着物に垂れてしまいますよ」
「垂れる前に食えばいいだろう」
「……今でないといけませんか?」
「今だ。早く食え」

 駄々を捏ねる鋼鐵塚に、築炉は困ったような顔をしながら素直に団子を一粒口にする。その途端、築炉はぽろぽろと涙を溢しながら、顔を両手で覆ってうずくまってしまった。鋼鐵塚はぎょっとして、団子を手にしたまま固まってしまう。
 何か泣かせるようなことをしただろうか、と考える。さっぱり思いつかなかった。それとも今朝のことが余程腹に据えかねたのだろうか。うううう、と嗚咽を漏らす築炉の肩を、鋼鐵塚は戸惑いながら揺さぶる。

「おい、いきなりどうした」
「泣くなよ、泣いてちゃ分かんねえだろ」
「腹でも痛いのか」

 こいつが泣いているのを初めて見たな、と鋼鐵塚はぼんやりと思った。築炉は肩を震わせながら顔を上げると、顔を覆う手の隙間から「あまい」とだけ呟いた。
 鋼鐵塚は一瞬その意味が分からずに茫然とし、次いで築炉の激しく震える背を撫でた。

「そうかい」
「はい……はい……ありがとうございます、ありがとうございます……」
「美味いか」
「はい」
「味がするか」
「……はい」

 ほろほろと泣き続ける築炉の目元を拭ってやる。涙が後から後から溢れてきて、鋼鐵塚の手を濡らした。

「言ったろう、その店のみたらし団子は甘すぎんだ」

 鋼鐵塚が言うと、築炉は泣きながら笑みを浮かべる。鋼鐵塚は団子の包みを築炉の膝の上に置いた。

「快復祝いだ」
「多すぎます……」
「じゃあ大福だけでも食え。おまえにって預かってきた」
「それでは、半分だけ」

 半分でいいと言う築炉に鋼鐵塚が眉を顰めると、築炉は半分に千切った餅を鋼鐵塚の手に押し付けた。

「私、――私、蛍さんと同じ味のものを食べられるのが嬉しい……」

 築炉がそうまで言うので、鋼鐵塚は半分きりの大福餅を齧る。塩がきいていた。築炉があまりにも泣き続けるので、宥めるように髪を梳いてやる。髪に餅とり粉がついて白く汚れてしまい、どうしようかと悩む破目になった。