血の渇望



 体が軽く、何をするにも気分が高揚する。物の味が分かるようになって、料理をするのも楽しくなった。もとから料理は好きであった。最近はずっとそれを忘れていただけで。
 活力に満ち、日々を幸せに過ごしているというのに、腹の底をうそ寒さがよぎる。理由は分からない。上腕にあった深い火傷の跡は目を凝らしても分からないくらいに綺麗に消えた。不可思議だと思いながら、しかし傷が消えたのは喜ばしいので特に追求しようとも思わなかった。
 気力体力が充実するのと引き換えのようにあの夜の夢を見ることが増えた。老いた女の血の匂い、若い男の血の匂い、幼い子供の血の香り。見るたびに夢は鮮明になり、目耳を塞ぎ心を沈め続けた過去の清算を迫るかのようであった。
 夢の中の洋装の男は、絶えず築炉に何かを囁きかける。聞きたくない、と夢の中の築炉は思う。だが、耳を塞ぐことも顔を背けることも出来ない。男は五本の鋭い爪で築炉の胸に疵を付ける。痛みと、痺れと、奇妙な多幸感。
 夜半に汗をびっしょりとかいて飛び起きる築炉を、鋼鐵塚は黙って布団に入れてくれた。涙が出るほど幸福だった。


 座敷の火鉢で白団子を焼く。団子は餅屋で買ったものだ。表面が炙られこんがりと色づいたものに砂糖醤油の餡をからめる。香ばしい香りに、先日の雪で壊れた雨樋を直していた鋼鐵塚が顔を出す。

「団子か」
「はい」

 鋼鐵塚は冷えた指先を火鉢で温めながら座り込む。熱い茶を出すと、鋼鐵塚は無言でそれを受け取った。
 みたらし団子を齧り、鋼鐵塚は首を傾げる。

「あの餅屋、みたらし団子の餡を変えたのか」
「ああ、いいえ、それは――」
「俺があれだけ言っても聞きもしなかったのに」
「私が作りました」
「――お前が?」
「以前、蛍さんがもっと甘くないほうが好きとおっしゃっていたので」

 それきり鋼鐵塚は黙って団子を咀嚼する。口に合わなかっただろうかとおろおろする築炉に、鋼鐵塚は仏頂面で「悪くない」とだけ言った。

「団子は焼かないほうが美味いだろ」
「そうですか、次はそういたしますね」

 鋼鐵塚はすかさず次の一本に手を伸ばす。団子を齧りながら、葛餡の入った味噌壺を持ち上げた。

「これ持ち歩いたらいつでもみたらし団子が食えるなあ」
「そうですね」
「握り飯にこいつかけたらみたらし団子の代わりになると思うか?」
「それは……試してみないことには……」
「試すか」
「そんなに食べては飽きてしまいますよ」
「みたらし団子は毎日食べてもいい」

 鋼鐵塚は竹串を皿に戻し、立て続けに次の団子に手を伸ばす。口を付ける前に、鋼鐵塚は話をしだした。

「今度、刀を届けに東京に行く」
「はい」

 その話は以前聞いたので築炉は浅く頷く。鋼鐵塚はひどく言いにくそうに顔を歪めた。

「反物を買ってきてやる。どんなのがいい」
「――はい?」
「なんでもいいって言ったらブチ殺すぞ! いらないってのもナシだ! それで春までに一枚着物を縫え! お前が四六時中襤褸着てると俺が里の女どもにどやされる!」
「あの、」
「本当に何でもいいなら任せろ。とんでもねえ奇抜で恥ずかしい柄の反物を買ってきてやる。絶対に着ろよ」
「蛍さん、」
「反物はそう嵩張らないからな、丁度いいだろ」
「ありがとうございます」

 築炉がそっと鋼鐵塚の手に手を重ねると、鋼鐵塚はうるさそうにその手を振り払った。

「反物一つでばかみてえに喜ぶんじゃねえ」

 築炉は微笑み、鋼鐵塚の湯呑に茶を注ぐ。

「私、藤の花が好きです。藤柄の銘仙がいいです」
「銘仙って言われたって分かんねえ」
「お店の方にそう伝えてくださいな。藤柄の銘仙」
「忘れなきゃな」

 鋼鐵塚は湯呑の茶をいっきに呷ると、立ち上がって外に戻っていく。雨樋の修繕の続きをするのだろう。

「お気をつけて」

 築炉が言うと鋼鐵塚は振り返りもせず「おう」と短く答えた。

 空いた皿と茶道具を片付けていると、ふと昨晩の夢の事を思い出した。昨夜の夢は殊更に鮮明で、起きた後も鼻の奥で血の香りが纏わりついているような気がした。
 男が耳元で何かを囁く。違う。囁いたのは頭の中だ。

 あわれな、

 あわれな、

 厨の勝手口が開けられ、冷気と濃い血の香りとともに鋼鐵塚が入ってくる。築炉は全身が震えて後退った。

「手を切った、薬箱はあるか」

 目の前に突き出された手のひらと、強く巻かれた手拭いから血が滴る。ああ、勿体無い。なんて――

「おい、どうした」

 あわれな、

 ひとであることをやめてしまったのか

 涙が溢れそうになるほど馨しい香りだった。何の匂いだろうと築炉は立ち尽くす。頭の中で男が囁く。違う、あれは少女であったはずだ。紅蓮の業火の御所車、黒百合の群れ、錆びた鎖。

 わたしの血をわけてやろう

 ほんのたわむれだよ

 ひとでなしは鬼になれるか

 目の奥が痛む。喉がひりひりと張り付いた。抗い難い渇望に身悶えする。体の奥から今まで感じたことのない欲望が頭を擡げる。それが何かを理解して、築炉は身震いする。恐怖ではない。歓喜だった。愛しい人、愛しい人、傷付けたくない、臓腑を啜りたい、血を飲み干したい、骨の一片も残さず、どうか愛し尽くさせてはくれまいか。
 築炉は細く小さく悲鳴をあげる。四肢に力が漲る。瞳孔が縦に裂ける。

 ひとでなければ鬼にはなれず、

 鬼になれぬものはひとにあらず

 おまえはひとにも鬼にもなれず、

 とこしえにうつろなのだね

 あわれだ

 あわれでみじめだ