胎動無惨



 鱗滝の樫のような拳が門扉を叩く。鋼鐵塚から文を受けたのが数日前で、用件は書いていなかったが火急の用であることは文面と荒れた筆致から見て取れた。
 鍛冶の隠れ里に行きたいと申し出た鱗滝に、とうに隊士を引退した育手がいったい里に何の用かと訝し気な態度を取られたのであるが、文を見せて「鋼鐵塚に呼ばれた」と言えば隠は慌てて道行を確保してくれた。苛烈な知己は時に話を簡単にしてくれる。
 独り身らしく雑然としていた門前は片付けられ、垣は手入れをされている。そういえば嫁を取ったのであったか、と鱗滝は思い出した。じきに挨拶をせねばなるまいと思いながら、一年が過ぎようとしていた。歳をとると月日の流れが早くていけない。
 固く閉ざされていた門扉が開き、憎めない火男面が覗く。

「久しいな、鋼鐵塚。結婚したんだったな、おめでとう」
「見てほしい」

 挨拶もそこそこに、というよりも挨拶を完全に黙殺して鋼鐵塚は鱗滝を中に入るように促した。そういう男であると知っている鱗滝は、特に気分を害しもせず中に入った。整頓された家の中はひんやりと暗く、澱がうっすらと降り積もっているような気配がする。
 鋼鐵塚は厨の戸を開けた。鱗滝はぎょっとする。柱や壁には爪痕が刻み込まれ、歪んだ鍋や刃の折れた包丁が散乱している。大きな獣が暴れまわったかのような室内に、後ろ手に縛りあげられ手拭いで猿轡を噛まされた女がぽつんと座っていた。

「鋼鐵塚、お前の夫婦生活に口を挟むつもりはないが――」
「食い殺されかけた」

 鋼鐵塚は女に歩み寄ると、口を塞ぐ手拭いを外してやる。女の方が怯えたように肩を震わせた。

「俺だってこんなことはしたくない。だが、築炉がこうしてくれと聞かねえ」

 築炉と呼ばれた女は、憔悴している割に爛々とした双眸で鱗滝を見上げた。鋼鐵塚と添うというのだからどんな猛女かと思えば、線の細い大人しそうな女である。

「遠路遥々ご足労頂いて、申し訳ございません」

 印象と違わぬ細い声で、築炉はそう言い頭を下げた。髪留めから髪が数本血の気のない頬に落ちる。「食い殺されかけた」にしては理性的な振る舞いであった。人に見える。だが――鬼の匂いがした。

「鬼なのか」
「わからん。七日前に急に――朦朧となって襲い掛かってきた。瞳孔が裂け、力が強くなり、おかげで厨がこのざまだ」
「今は意識がはっきりしているようだが」
「しばらくすると元に戻った。それから、夜になると時折朦朧とする。だから縛り上げている。いつそうなるかは本人にも分からん」

 鱗滝は「失礼」と築炉の腕をとる。袖を捲り上げ上腕までを見分する。背後で鋼鐵塚が殺気立った。あの鋼鐵塚が女房をいたく大切にしているという話は嘘ではなかったらしい。
 鬼に特徴的な痣はない。ほっそりとした腕は、鉈の一つも持ち上げるのに苦労しそうなほどであった。

「鬼に会ったか」
「ええ……一年以上前です」
「その後は」
「いいえ」

 のろのろとした動作で築炉は首を横に振った。鱗滝は面の下で眉を顰める。人間の鬼への変化は激烈で、その速度についていけずに変化の最中に死ぬものもいる。これほど緩慢な変化は考えにくい。
 鱗滝は不安そうに震える築炉の手の甲に分厚い手を置く。

「答えられなければ答えなくていい。――鬼舞辻無惨を見たか」

 ひゅ、と築炉は短く息を吸った。手ががくがくと震え、こめかみを汗が流れていく。

「あ、ああ、燃える御所車、黒い百合、絡まりあう鎖の、あ、あ、きれいな――」

 築炉は苦し気に痙攣する。鱗滝は築炉の口を手で強く塞いだ。おい! と鋼鐵塚が鱗滝の手を掴む。鱗滝は鋼鐡塚の手を振りほどいた。

「呪いを受けている。喋らせると死ぬぞ」
「……どういうことだ」
「鋼鐵塚、落ち着いて聞け。お前の女房は鬼になっている。正確には、鬼になりかけている」

 鱗滝がそう言うと、鋼鐵塚は半ば覚悟していたように頷いた。面のせいでどういう表情をしているかまでは分からない。だが、声音はいたって平静であった。

「そうか。人間に戻す方法は」
「儂にはない。鬼ならば知っているだろう。だが方法が見つかるまで彼女の体がもつか保障はない」

 そしておそらく間に合わない。鱗滝はその言葉を飲み込んだ。

「ないのか」
「御館様ならば、或いは――」
「そうか……そうか」

 鱗滝は鋼鐵塚を見つめる。

「思うようにはいかないかもしれない。鬼殺隊は……文字通り鬼を殺すためにある。救うためではない。きりがないんだ鋼鐵塚。近しい者を鬼に変えられた者が、いったいあそこにどれだけいると思う」

 鱗滝の言葉を聞いた途端、鋼鐵塚は静かに激昂し鱗滝の衿を掴み上げた。

「ならば御館様に報告はしない」
「それでどうなる。 鋼鐵塚、落ち着いて考えろ」
「ここで酒でも飲みながら、築炉が鬼に成り果てるのを見届ける」

 大して飲めもしないくせに、と鱗滝は胸中で呟く。怒りの矛先を見つけられない血走った双眸が、目穴から鱗滝を睨みつけた。

「……頼む、あいつを失いたくない」

 掠れる声が面から漏れる。その痛々しさに鱗滝は目を伏せた。

「確証はない。どこにも」
「鬼殺隊に嬲らせる気はねえ」
「だが、報告はせねばなるまい」
「――いやだ」
「聞き分けろ、鋼鐡塚。他に手はない」
「鱗滝、」
「隠れ里から鬼を出すわけにはいかない」

 鋼鐡塚の手が鱗滝の衿から力無く落ちる。

「どうにかしてやりたいんだ」
「分かっている」
「俺の女房なんだ」
「ああ」
「築炉がいなけりゃ俺は――」

 鋼鐡塚は言葉を切り、呆然と鱗滝の方に目を向けた。何かを言いかけた鋼鐡塚を、築炉が遮った。小さな咳のような声が築炉の口から漏れる。

「蛍さん、私、治るにしても死ぬにしてもその方にお伺いしたいです」
「お前は黙ってろ」
「このままだと私はきっといっとう最初に蛍さんを食べてしまいます。蛍さんが逃げても、隠れても、私は蛍さんを探し出して殺してしまう」
「……それでもいい」
「いやですよ、そんなのいやです」
「俺は構わねえ」
「後生ですから、私にそんなことをさせないでください……」

 築炉が俯き囁くと、鋼鐡塚は獣のように低く唸った。
 鱗滝はそれをやりきれない思いで見ていた。鬼のあるところには悲しみの匂いが纏わり付く。悲しみと怒りが鬼殺隊の原動力であった。
 だが鬼への憎しみが先走りすぎ、鬼の首を落とすことばかりに固執しすぎてはいまいか。鬼とてもとは人であったのだ。救う術もあったのではないか。老いて一線を退いた今、どうしてもその思いが拭えなかった。