無明払暁



 鋼鐵塚が気ばかり揉んでいる間に全ての段取りが組まれていた。
 築炉が鬼と成りかけていると聞かされた鉄地河原は「そんな」と言ったきり黙り込み、産屋敷へと鎹烏を飛ばした。答えを待たずに鉄地河原と鋼鐵塚と築炉で里を発つ。万が一築炉が完全に鬼と成ったときに、鬼舞辻に捕捉される可能性があるからだ。
 築炉を息子の嫁同然に可愛がっていた鉄地河原は道中何度も築炉の手を握り「こんな惨い話はない」と肩を震わせた。築炉は困ったように微笑み、その小さな皺ばんだ手をそっとにぎりしめていた。
 鋼鐵塚は半ば他人事のようにそれを眺めていた。どうして気が付いてやれなかったのだろう。食べる量も増えていないのに健康的に肉をつけた体のことも、消えるはずのない深い火傷跡が綺麗に消えたことも、長年の癖であろう跛行が治っていたことも、少し考えれば尋常ではないはずであった。
 単純な快復とはいえないと、頭の片隅では分かっていた。この世に奇跡などないと理解しながら、それを奇跡だと信じたかった。
 もっと早く気付いてやれたら、鬼化を抑えることが出来たのではないだろうか。

 産屋敷の前に連れられた築炉はまるで白洲の罪人のようで、鋼鐵塚は叫びだしたくなった。築炉の手を引く隠がどこか怯えた様子で、殴りつけてやりたくなる。まだ、昼日中はただの人間だ。里の子供に力比べで負けるようなひ弱い女だ。何が恐ろしいというのだろう。
 あらかじめ話を聞かされていた産屋敷は、縛り上げられた築炉を見て痛ましげに眉をひそめた。

「外しておやり。日の出ているうちはまだ鬼と成らないのだろう」

 控えていた柱のうち誰かが抗議の声を上げたが、鋼鐵塚はさっさと築炉の拘束を解いた。ほっそりとした手をつき、築炉は額づく。

「会うのは初めてだけど、話に聞いていたよりずっと幸せそうでよかった」

 何を、と鋼鐵塚は己の血の気の引く音を聞いた。この状況を幸せだというのか。罪人のように引っ立てられ、罪もないのに裁かれようとしている。
 青褪める鋼鐡塚の傍らで、築炉は淡く笑った。

「おかげさまで」

 そうだけ言って、築炉は鋼鐵塚の膝の上にそっと手を乗せる。産屋敷も微笑み、背後に控えていた妻室も目を細めた。

「事は急を要する。日没も近い。本題に入ってもいいかい」

 産屋敷は表情を厳しくする。

「まず、築炉は間違いなく鬼へと変化している。この変異は不可逆だ。遅らせることは出来ても、巻き戻すことは出来ない」

 鋼鐵塚は息を詰まらせた。どくどくと己の心臓が高く鳴るのを聞いている。産屋敷の澄んだ声だけが、妙にはっきりと聞こえた。

「力及ばず申し訳ないけれど、今の我々に築炉を救うことは出来ない」

 心底申し訳なさそうに、痛みを抱えたような声音で産屋敷は言う。それが鋼鐡塚の神経をささくれ立たせた。

「一年……一年だ、一年耐えたんじゃねえか……なんで今更……」

 喘ぐように鋼鐡塚が自問する。産屋敷は盲た目を鋼鐡塚へと向けた。光のない双眸は、だが悲しげに細められる。

「築炉は――多く苦労をしてきたから」
「それが……」
「失う理性も剥き出しにする欲望もなければ、人は鬼には成れない。築炉の鬼への変化が進んだのは、人間性を取り戻しつつあるからだよ」

 弾かれたように鋼鐡塚は立ち上がり、火男面をかなぐり捨てると産屋敷に掴みかかる。指先が着物に触れる前に、天元が鋼鐡塚を背後から羽交い締めにする。動きを封じられ、関節が軋んでもなお鋼鐡塚は暴れた。

「ふざけんな! ふざけんなよ! 何が御館様だ! 俺の女房一人救えねえんじゃねえか! 可哀想な女なんだよ、可哀想で、どうしようもなく手のかかる、それでも可愛い女房なんだ……。やっと飯も食えるようになって、よく笑うようになったんだ……、これからいくらでも幸せになれるはずなんだよ、こんな、こんなことがあるか……」
「鋼鐡塚、控えろ!」

 天元が歯を食いしばって鋼鐡塚を抑える。鋼鐡塚はその腕を力任せに振りほどき、天元の顔を殴りつけた。
 口内にあふれる血を吐き捨てながら、天元は「誰だよこいつに鎚を持たせたのは。派手に鬼狩りの方が向いてただろ」と呻く。

「テメェはすっこんでろ!」
「聞け、鋼鐡塚。俺は、築炉さんみたいになっちまった奴を何人も見てきた」
「あ゙ぁ!?」
「ああなったら人間おしまいだ。すぐに死ぬ。築炉さんは、あんたのおかげでもう一度人に成った。それがどれだけ幸福だと思う」
「知るかよ!」
「頭を冷やせ! 本人に聞いてみろ!」
「うるせえ! あいつは俺なんかに一緒になってよかったなんてへらへら言い腐るバカヤロウなんだよ! んなもん聞いたら幸せだと言うに決まってんだろうが!」
「じゃあなんでそれを信じてやらねえ!アンタ亭主だろ!」

 天元は刀の鞘で鋼鐡塚を殴った。額が割れ、血が飛び散る。築炉は悲鳴を上げて鋼鐡塚に駆け寄ろうとし、他の剣士に抑えられていた。それを見た鋼鐡塚は「築炉に触んじゃねえ!」と怒鳴る。血がぼとぼとと落ち、均した砂を濡らしていく。
 産屋敷は静かな目を築炉の方に向けた。

「築炉は、自分が鬼になったら人を襲わないでいられると思うかい」

 築炉は目を見開き、力無く首を振る。

「いいえ、今も何度も夢を見ます。主人を――食べる夢を。匂いまではっきりと。そして、きっと私はそれを望んでしまう」
「築炉やめろ! 黙ってろ!」

 罅割れた鋼鐡塚の声が虚しく響く。

「私は助かりませんか」
「残念だけれど」
「私はどうなりますか」
「選択肢はあまり無い。鬼となり剣士達に斬られるか、藤襲山の結界内に放たれるか、或いは人であるままに――」

 産屋敷が言い終える前に、鋼鐡塚が築炉の胸倉を掴みあげた。歪んだ表情から血と涙が零れた。

「築炉、俺を食って逃げろ、頼むから……頼む……!」
「蛍さん、」
「お前が諦めてどうすんだ、生きててくれ、鬼でもいい、俺を食っていいから……」
「蛍さん、私ね――」

 築炉の手が、そろりと鋼鐡塚の頬に触れる。

「蛍さんが人にしてくれたのだもの。人のまま死にたい」

 痙攣のように鋼鐡塚はしゃくりあげる。頬にある手を取り、握りしめる。

「私、蛍さんの打った刀で死にたい。出来れば、蛍さんの手で」
「――なんてこと言うんだお前は……」

 鋼鐡塚は築炉の胸に顔を埋めて嗚咽を漏らした。人の目もあるのも忘れて、身も世もなく泣きじゃくる。
 鋼鐡塚の首筋にぽとぽとと冷たい雫が落ちてくる。築炉もまた泣いていた。

「ひどいことをお願いしてごめんなさい」

 築炉の震える手が、鋼鐡塚の肩に添えられる。栄養不足で薄くぼこぼこしていた爪が、艶々と桜色に光っていた。