地獄変



 暗い牢の中に築炉がぽつりと座っていた。牢の中には何もない。錠も鉄柵もない牢はただの格子戸にしか見えない。
 藤の材に藤の花の精油を染み込ませた木格子は、子供でも手折れそうなほど華奢なつくりをしている。その木格子に蔓が絡みつき淡い色の藤の花を重たげに咲かせていた。
 このささやかな衝立のような障壁を鬼は破れないのだという。築炉も格子には牢の中ほどから近付いてこようとしない。それが彼女が少しずつ鬼と化しているためであるのか、彼女の万事控えめな性質がそうせしめているのかまでは余人には知りようもなかった。
 彼女と鋼鐵塚の縁談を進めたのは鉄地河原である。はじめは本部より下働きか何かで使ってやってはくれないかと打診があった。痩せて覇気のない築炉は人手不足に喘ぐ鬼殺隊本部でも持て余された。大人数の食事や洗濯の用意、病人の看護は重労働である。それに耐えられるとは見做されなかった。
 和裁が出来るというので、里で細々と針子をさせてもよかった。それを、鉄地河原は周囲の狼狽も反対もひとまず無視して「懲りてへんのやったらもっぺん結婚してみいひんか」と問うたのだ。あの頃の築炉はぼんやりと微笑んで「お心に適うのでしたら」と答えた。それがほんの一年前の話だ。

「堪忍な、けど、あの子とおまえさんはよう似合いやとおもたんよ」

 牢の前で鉄地河原は呟く。

「おまえさんみたいなぽやーっとしたのには、あんくらい気性の激しい子の方がぴたっとくるやろ」
「ええ、そうですね」
「おまえさんもしゃんとなったし、あの子もちっとは優しいなった」
「蛍さんは、ずっとお優しいですよ」
「そんなん言うのんはおまえさんだけやわ」

 鉄地河原は格子に指を掛けた。指を乗せるだけで撓る檻は、近付くとやわらかな甘い香りがする。

「こんなことなるんやったら、もっとしょうもない男と娶せれば良かったんやろか。うちには蛍よりしょうもない男はそうそういてへんで」

 ふふ、と築炉は笑った。鉄地河原が揺らした藤の枝で花序が揺れるより幽き声であった。

「蛍さんは――」
「あの子は、あれからずーっと狂ったみたいに刀打ってる」
「そうですか」

 築炉に会いに来ることもせず、鍛冶場にこもって鋼ばかり睨んでいる。言動だけならば常態よりも遥かにおとなしいが、その鬼気迫る様子は里の者たちに何かあったと知らしめるには充分であった。
 最期にたくさん話をしろだとか、これを築炉に差し入れてやってくれだとかいう申し出も無視し、持っていた仕事も全て投げ出した。里の者も、鉄地河原も何も言わなかった。言ったとしても聞き入れなかったであろう。鋼鐵塚はそういう男であるし、それほどまでに没頭していた。
 柱の刀に使うはずであった上質な玉鋼を奪い、昼夜を問わず火床の前にいる。助役をしていた鉄穴森が音を上げ、鍛人の若いのが数人で助役を持ち回ることになった。若い衆たちは生きた心地がしなかったろう。
 隠れ里の鍛治たちは、鬼を斬る刀を作ったことはあっても人を斬る刀を作ったことのない者がほとんどだ。己の妻を斬る刀とあっては、その心境は如何ばかりであろうか、想像もつかない。
 鋼鐵塚の気迫は物悲しさや痛々しさよりも狂奔にさえ見えた。面の目穴から覗く眼は恍惚としてはいなかったか。
 高温と疲労で朦朧とした誰かが「女房の首落とす刀作るのがそんなに楽しいかい」と悪態をつくと、鋼鐵塚はそちらを見もせず「楽しい」と答えた。ぞっとしてそれからは誰も独り言すら言わなくなった。

「あの人が狂ったみたいに刀を打っているのはいつものことです」
「ま、せやな」

 鉄地河原は禿頭を掻く。それから、負ってきた荷を差し出す。

「あの子がな、おまえさんにって。渡すと人でいられる時間が短くなるかもしれんと言われたんやけど」

 外で十日、牢の中で昼も夜も時間の流れも分からず、飲まず食わず人とほとんど話すこともなく壁を見つめ続けて二月。長くて、と何度も念を押された築炉の猶予はそれきりであった。
 二人は後者を選んだ。それでも、彼女が人間でいられる時間は目に見えて少なくなっているという。やっと取り戻した人らしさが、鬼のものへと変わっていく。
 格子の間から差し出された風呂敷包みを、築炉はそろそろと手繰り寄せた。

「あんな子やけど、でも築炉のことはあの子なりに大事にしとったで」
「はい」
「せやけど、さすがに御館様に食って掛かるとは思わんかったわ」

 築炉は風呂敷包みを何度か撫で微笑む。隠に合図され、鉄地河原は牢から離れた。言葉を交わせば交わすほど、彼女の人間としての時間は蝕まれる。

「ほんなら、達者でな」

 状況を思えば馬鹿々々しくも聞こえる鉄地河原の言葉に、築炉は藤色の薄暗がりの中で小さく会釈した。


******


 火床で煌々と赤熱する刀の蛹を見る。
 どういう刀を作るかは早い段階で決まっていた。女の首を両断する鋭さと刀自体の重さ。苦痛を最小限にするために刀身は出来得る限り薄く、だが万が一にも途中で折れることのないような強度を担保する。剣術に関しては素人同然の鋼鐵塚でも扱える癖の無さ。手元の振られない均衡。築炉が最期に見る刃文の美しさ。
 誰かが鬼を斬るための刀ではない。己が築炉の首を落とすための刀だ。そういうものを作る機会にまみえた高揚と、築炉を失う恐怖が交錯する。
 鋼鐵塚は己の中に刀工として稀有な刀を作ることに熱狂する部分を見て、それを冷然と受け入れた。きっと築炉もそれを分かっていた。
 築炉は己の首を鋼鐵塚の刀のために捧げると決めた。その覚悟には応えなければならない。愛した女の首を己の鍛えた刀で刎ねられるのは、そうまで請われたのは、刀工の誉れだ。
 鋼鐵塚は無心で鎚を振るう。熱が質量を持ったかのように顔に押し寄せる。赤々とした火花が飛び散り、壁や床に当たってぱっぱっと砕けていく。その一粒さえ感じられる気がした。頭が妙に冴え、心は静かであった。これが築炉の首を落とす刀になる、と鋼鐵塚は予感する。
 これが出来上がったら築炉は死ぬ。何かのはずみで失敗はしないだろうかと鋼鐵塚は思う。そうであってほしいと願う部分も、鋼鐡塚にはまだあった。鋼鐡塚は築炉を失いたくはない。
 だが、これが完成してしまえば、鋼鐵塚は築炉の首を落とさずにはいられなくなる。そのために作るからだ。築炉も使われない道具は悲しいと言った。そういうことだ。
 築炉は鋼鐡塚の激情をたったひとつの願いで丸め込んでしまった。ああ言われては、鋼鐡塚は刀を打たずにいられない。刀を打ってしまえば、鋼鐡塚はそれを道具として全うせずにはいられない。
 鋼鐡塚はそういう男だ。築炉はそれを誰よりもよく知っていた。全く出来た女房である。最初から最後まで、俺はあいつの手のひらの上だったのではないかとさえ鋼鐡塚は思う。
 叩かれた鋼は徐々に刀へと変わろうとしている。手は痺れ、感覚が鈍くなっている。それでもどこを叩けばいいのかが分かった。ああ、俺は今、傑作を作ろうとしているのだ、と鋼鐡塚は諦念を噛み締めた。