愛する者よ、死に候え



 頭のぼうとするような甘い香りが優しく漂っている。床に降り積もった藤の花は踏む者もおらず美しいまま乾いている。格子に絡みつく蔓には、残り少ない花を咲かせた花序が頼りなく垂れていた。
 よう、と鋼鐵塚が言うと、築炉は俯いていた顔をすうと上げた。縦に裂けた瞳孔の、溶かした鋼の色をした瞳が鋼鐵塚を見る。一度の瞬きののち、瞳は静かな黒色になっていた。

「何も言わないでいらっしゃるのだもの」
「女房に会うのに約束がいるかよ」

 鋼鐵塚は檻の前に立つ。背筋が粟立った。それが築炉を手にかける怖気か、二つとない名刀を全うさせられる恍惚か、華奢な藤の牢に閉じ込められたものが人でなくなりつつあるのを肌で感じられたからか、鋼鐵塚はよく分からない。
 長く薄暗い牢に昼も夜もなく幽閉されていたにも関わらず、築炉の瞳は爛々とした光を帯びている。青褪めた頬はふっくらとなめらかで、血の色をした唇が嫣然と弧を描いていた。この様子では二月はもたなかっただろう。
 築炉はするすると立ち上がった。裸足の足下から冷気のように奇妙な気配が這う。

「着替えてもよろしいですか」

 ああ、と鋼鐵塚が答えると、築炉は困り顔で微笑む。

「後ろを向いていてほしいのですけれど」
「面倒くせえなお前は」

 文句を溢しながら鋼鐵塚は檻に背を向けた。しゅるしゅると帯をほどく音がする。着物を打ち広げ、袖を通す衣擦れの音。帯が巻き上げられ結ばれる音。いつの頃からか鋼鐵塚はその音で目を醒ますのが日課になっていた。まだ一年もたっていないなどと俄かには信じられないでいる。

「ありがとうございます」
「なにが」
「約束を果たしてくださって」
「果たしてねえ、結局東京では買えなかった」
「どこで買ったかなんて、」
「女の反物なんて初めて選んだ」
「蛍さんが選んでくれたのが嬉しい」
「最初で、最後だ」

 衣擦れの音が止む。

「最後だなんて」
「築炉」
「どうか後添いをもらってください、蛍さんは寂しがり屋だから」
「無茶苦茶言うな」
「私みたいに幸せにして差し上げて、」
「俺の女房は築炉きりだ」

 背中に築炉が微笑む気配を感じた。

「もう、春でしょうか」
「じきな」
「間に合ってよかった」

 鋼鐵塚は築炉の言葉を待たずに振り返る。築炉はまだ襟を直しているところで、はっとして体を背けた。

「早く見せろ」

 檻の隙間から手を伸ばす。揺さぶられた藤の花がぽたぽたと落ちる。手が届かないので檻の隙間を無理矢理広げた。やはり届かないので面倒くさくなって、細い蔓をばりばりと薙ぎ倒しながら牢の中に押し入る。
 それを見た築炉は目を丸くし、次いで口元を押さえてほろほろと笑った。

「怒られても知りませんよ」
「簡単に壊れるほうが悪い」
「もう代わりに謝って差し上げられませんのに」

 床に降り積もった藤の花を踏みしだきながら、鋼鐵塚は築炉の寂しげなほどに慎ましやかな横顔を眺めた。

「きれいだ」
「ありがとうございます」

 目の覚めるような濃い紫に藤の花が染め抜かれた銘仙である。柔らかな糸目が淡く光を反射する。常日頃刀以外を褒めたことのない男に褒められ、築炉は表情を綻ばせた。
 鋼鐵塚はぶらりと下ろしていた手を上げかけ、すぐにまた下ろす。それを見ていた築炉は「はいはい」と困ったように目を細めて、鋼鐵塚の胸に頬を寄せ、両手を置いた。
 鋼鐵塚はきまり悪さに顔を顰めながら、築炉の背に腕を回す。指先にすべらかな絹の感触がした。

「髪留めをとってくださいませんか、汚したくないのです」

 鋼鐵塚の胸元に築炉が囁く。築炉の髪が元の長さまで伸びる時間もなかった。髪はまだ鋼鐵塚が見よう見まねで作った髪留めで纏められている。真鍮製のそれはくすんで寂びた風合いになっていた。
 鋼鐵塚はそれを指で撫でる。

「そのままでいい。髪で刃が滑る」
「ああ、そうですか。気が付きませんでした」

 鋼鐵塚は築炉を離し、額に落ちた一筋の髪をすくって耳に掛けてやる。築炉はくすぐったそうに肩をすくめた。鋼鐡塚は羽織を脱ぎ、髪を結い、襷をかける。築炉はその姿をどこか楽しそうに見ていた。
 鋼鐵塚は荷を解く。箱の中に油紙で包まれた抜き身の刀が入っている。鞘を作るのは間に合わなかった。拵えも最近は見ないほど簡素なものだ。
 油紙を外すと、築炉は小さく「きれい」と呟いた。うっすらと霜の下りたような繊細な地肌に複雑にきらめく刃文が波打つ。刀全体が濡れたように艶めき青みを帯びていた。
 手にした刀を淡い光に翳しながら、鋼鐵塚は鼻を鳴らす。

「俺じゃあ刃の色は変わらんな。お前には終ぞ色の変わった日輪刀を見せてやれなかった」

 築炉は降り積もった藤の花の上に膝をつきながら微笑んだ。

「蛍さんの色、私は好きですよ」

 鋼鐵塚は晒された切ないほどにほっそりとした白いうなじを見下ろす。

「さいごに、なにか、」

 知らず、声が震えた。

「蛍さん」

 俯いたままの築炉が細い声で囁く。

「剣士様をあまり追い回してはいけませんよ」

 それを聞いた鋼鐵塚は小さく笑った。

「そりゃ無理だ」

 刀を担ぎ上げ、振り下ろす。どこに当てればいいかは刀の方が知っていた。
 ばし、と生木を折ったような音がし、頭を失った体は詫びるようにくずおれる。血はほとんど出なかった。刃がいいのか、すでにその体が人の理から外れていたのかは分からない。
 藤の花の上にことんと落ちた首が「これで、ほっとしました」と呟いた。鋼鐵塚は築炉の残滓を拾い上げる。

「さっさと諦めやがって」
「私は人でありたかったのです」

 鋼鐵塚は築炉の首に口付けた。

「三途川の前で待ってろよ。奪衣婆ぶん殴って着物取り返して、俺が背負って渡ってやる」

 あははは、と築炉は娘のように口を開けて笑う。顔の肉がぼろぼろと崩れ、赤黒い砂になって地面に零れ落ちていく。鋼鐵塚の手の内に鈍い金色の髪留めだけが残る。曇った表面に己の顔が映った。表情までは見えない。
 鋼鐵塚はそれを懐にしまい、役目を全うしてなお欠けもせず血曇りひとつない刀を己の頸に添えた。
 鋼鐵塚はこの刀が己の最高傑作だと確信した。材料、気候、火の具合、不純物、空気中の塵、己の情念、全ての偶然がそうなさしめた。それを奇跡と呼ぶのならまさしく奇跡だ。本望であり、同時に絶望でもある。己の底を見てしまったのだ。己は永遠に己を超えられないのではないか。
 全うしたのだ、と鋼鐵塚は思う。あとは晩節を汚すだけだ。
 迷いなく刃をひきかけた鋼鐵塚の手が止まる。抜け殻のように床に投げ出されていた藤の着物が蠢いたからだ。刀を下ろし、まだぬくもりの残るそれを掻き分け、鋼鐵塚は蠢くものの正体を見つけて茫然と床に膝をついた。
 刀を取り落とし、両手で顔を覆って暗い天井を仰ぐ。

「やってくれる……!」

 低く呻き、着物をそれらごと丸めて抱えた。
 左腕に丸めた着物を、右腕に刀を下げ、外への扉を蹴り開けた。目が眩むほどの陽光の下に、産屋敷耀哉が童女に手を引かれて立っていた。彼が何かを言う前に、鋼鐵塚はその足下に頭を垂れる。
 女一人の血を吸ってなお清廉に輝く刀を差し出す。突き出された抜き身の刀に童女が一歩後退った。

「誓って生涯最良の一本であることを保証いたす。己に差し出せるもので後にも先にもこれ以上の物はない。御前に捧げ奉る」

 口振りの割に尊大に鋼鐵塚は言い放った。着物を抱えて射殺しそうな眼付きで産屋敷を睨みつける。産屋敷はふと微笑んだ。

「どちらも君のものだよ。大切になさい」

 それだけ言うと産屋敷はゆるりと踵を返した。