(短編)幽霊談



 里の辻に女の幽霊が出る。

 その話を聞いたとき、鉄穴森でさえふと半年程前に吹いて消えた蝋燭のように亡くなってしまった鋼鐵塚夫人のことを思った。それからなんて残酷なことを考えてしまったのであろうかと頭を振り、口を噤んで知らぬふりをした。
 築炉、築炉と今思えば切なくなるほど口にしていたその名を、鋼鐵塚はぴたりと口の端にものぼらせなくなった。葬儀すらあげようとしなかった。骸すらない葬儀などあげるだけ虚しい、と鋼鐵塚が考えたかまでは分からない。骸も喪主も不在の葬儀は、悲しむ隙間もないと鉄穴森は感じた。きっと彼の心持ちそのままだったのではないか。
 葬儀もあげず、鋼鐵塚は刀を打っていた。つまりいつもと変わらなかった。刀を打ち、剣士に届け、時には刀を粗末に扱われたことに激昂し刃傷沙汰を起こしかけた。寒気がするほどにいつも通りだった。
 そんな鋼鐵塚がその噂話を聞いたとき、彼は刀を矯めつ眇めつする手を止めることもなく「餓鬼の悪戯だろ」とだけ言った。きっと築炉さんだ、やっぱり思い残すことがあって、小さな子供をのこして、かわいそうに、かわいそうに――誰かが一片の悪意もなくそう言っていることも鋼鐵塚は知っているはずで、それでも彼は眉一つ動かさなかった。
 火床で暖を取り鋼を舐っていると揶揄される息子たちにぼんやりと目をやりながら「餓鬼の悪戯だ」と繰り返した。
 鉄穴森は何も言えなくなって「きっとそうでしょうね」と答えた。

 鋼鐵塚の家を、鉄穴森はたびたび訪ねるようにしていた。妻の鉛が鋼鐵塚とその子供のことを心配し、様子を見るように勧めてきた。鉄穴森自身も気にかけていた。
 以前の鋼鐵塚は家に他人を上げることを好まなかったが、何も言わずに鉄穴森を通した。整然としていた室内は結婚前と同じ程度に雑然としていて、鉄穴森はひとまず安堵する。
 部屋では幼子が身を寄せ合って砥石で遊んでいた。何というもので遊ばせているのだろう。「こんばんは」と声をかけた鉄穴森を、二人の子はにこりともせずちらと見ただけであった。すぐに二人だけの言葉で何やら言い交わしながら砥石の欠片を積み上げはじめた。着々と父親に似ていく二人に不安が募る。
 質素な部屋の床の間に、似つかわしくない凝った拵えの刀が一振り架けられていた。月の光を受けて仄紫を帯びる鞘は、里一番の鞘師に鋼鐵塚が頼み込んで作らせた。鞘師はこれほどの刀の鞘を作ることが出来るとはと奮い立ったのと同時に、手を滑らせ刀身に傷でも付けようものなら鋼鐵塚に殺されると怯えていた。
 その美しい鞘の中身を、鉄穴森は一度だけ見たことがある。濡れたような青褪めた刀身。揺らめく刃文。手に吸い付き、まるで人を斬らせたがっているかのように艶々と光を帯びている。
 二つとない名刀だ。同じ刀鍛冶として羨ましいとさえ思った。思ってから、すぐに恥じ入った。
 鋼鐵塚がそれをどういう気持ちで打ったのか、鉄穴森は計り知れないでいる。

 それから二人は取るに足らぬ話をぽつぽつと語る。大抵は刀のことで、時折鍛冶仲間の話をする。
 まだ足腰の立たない子供たちはそれでも体を大きく動かして鋼鐵塚の着物を掴んで立ち上がろうとしていた。鋼鐵塚はそちらを見もせずにその体を支えてやる。鋼を叩く逞しい両の腕が、小さく柔らかな体に優しく回される。
 鉄穴森はそれを見て、辛くて悲しくて、だが優しい気持ちになって目を細めた。
 鋼鐵塚が何かの拍子に話し始める。

「金井の爺が腰抜かしたってな」
「ああ、そうらしいですね。心配です」

 辻の女の幽霊に襲われて、研師の老爺が怪我をした。年齢が年齢だけに気にかかる。鋼鐵塚は鼻で笑った。

「てめえの方が幽霊じみた爺のくせに、幽霊に腰抜かしてりゃ世話ねえ」
「金井さん、転んだ拍子に幽霊の着物を掴んで破いたそうで」
「幽霊の着物が掴めるのか。やっぱり餓鬼の悪戯だろう」

 鉄穴森は苦笑する。

「ええ、私も見ましたが、何の変哲もない布切れで。紫色で、藤の花柄の――」

 鉄穴森がそう言った途端、面を外していた鋼鐵塚の顔から一瞬で血の気が引いた。鋼鐵塚さん? と問う前に、鋼鐵塚は手にしていた湯呑みを置いた。置いたというよりも叩きつけた。あまりに力を込めて叩きつけたので、鋼鐵塚の手の内で湯呑みが割れたほどだ。
 子供たちが火のついたように泣き始める。

「は、鋼鐵塚さん! どうしたんです、手、手は大丈夫ですか、怪我は――」

 慌てふためく鉄穴森を後目に、鋼鐵塚は何も聞こえていない様子で宙を睨んだ。一度青褪めた顔は、怒りで真っ赤になっていた。眦が震え、こめかみに青筋が浮く。

「俺がきちっと首落としてやったろうが! 人のまま死にてえと抜かしておいてなんてザマだ!」

 そう唸るなり刀架台の刀を引っ掴み、押し留めようとする鉄穴森を押し退け外に飛び出していく。俺が何度でも首を落としてやる、と鋼鐵塚は言った。
 ああ、築炉さんのことだ、と鉄穴森は思った。

 その後のことは、聞いた話になる。
 結局、辻の女の幽霊は鋼鐵塚が鼻であしらったように子供の悪戯であった。蔵にあった古い女物の着物を被り、脅かし合って遊んでいたところにたまたまその姿を見たものが騒ぎ立て、金井の爺様が行き会い腰を抜かしただけであった。
 里で噂になって、子供たちにも悪戯心が芽生えたのかもしれない。そこまでは鉄穴森には分かるはずもない。
 その夜も辻で女の着物を広げて遊んでいた子供たちは、刀を片手に鬼の形相で現れた鋼鐵塚の姿を見た。運悪く着物を被って幽霊役をしていた一人が捕まり、鋼鐵塚にあやうく首を落とされるところだった、らしい。その子が泣いて喚いてひれ伏して謝り倒し、小便まで漏らしたところで鋼鐵塚は人違いに気が付いた。
 その頃には逃げ出した他の子供たちが「鬼が出た」と里中に大泣きしながら触れ回り、里に滞在中であった鬼殺の剣士たちが辻に駆けつけると、泣きすぎて泡を吹く子供と所在無さげに刀をぶらつかせる鋼鐵塚がいた。
 悪気のない悪戯とはいえ老爺に怪我をさせた子供たちはこっぴどく油をしぼられた。幽霊役の子供の母親は築炉と仲が良かったためか「そんな罰当たりはうちの子じゃない」と大激怒し、勘当だ丁稚に出すだと大騒ぎになった。
 泡を吹いて失神し失禁した我が子の姿を見たところ、心配の方が上回り怒りは有耶無耶になったことだけが幸いであった。
 鋼鐵塚が咎めを受けることはなかった。長に「ちとやりすぎだな」と一言零されただけに済んだ。

 鋼鐵塚は翌日からまた元の生活に戻った。最初から妻などいなかったかのように刀を打ち、剣士に届け、刃傷沙汰を起こす。鉄穴森でさえ築炉のことをふと忘れそうになる。だが鋼鐵塚の足元にはいつも幼子が二人纏わりついていた。
 鉄穴森は、あの晩の鋼鐵塚の横顔を思い出す。そのたびに堪らない気持ちになる。怒りの中に、かすかに縋るような光がなかったか。それとも彼はあの刀を再び使うことの出来る機会を喜んでいただろうか。幽霊でもいいから妻に会いたいと思っただろうか。
 いずれにせよ、鉄穴森は幽霊でも鬼でも何でもいいから、鋼鐵塚に彼女と再会してほしいと願ってしまう。あの二人には時間が足りなかった。足りなすぎた。
 鉄穴森は鋼鐵塚にぽつりと「築炉さんでなくて、少し残念でした」と言った。鋼鐵塚は何も答えなかった。