布団泥棒



 あの鋼鐡塚に一月も添うことの出来る女がいるとは、と里ではもっぱらの噂になっていた。祝言の日には「鋼鐡塚に嫁がされるとは、前世でいったい何をしたのか」と哀れみと好奇の目を集めた築炉は、いかにも若後家という風情の薄幸そうな女であった。
 築炉は小さな商家の出で以前は豪農に請われて嫁いだのだが、家族を鬼に殺されて出戻ったという。
 まめによく働き、朝から門前を履き清め、共同の井戸の周りを掃除する姿がよく見られる。余所からの嫁ではあったが、万事腰が低くよく上の者を立てるというので里のうるさ方にも覚えがめでたい。
 物静かすぎる程に物静かで、どこかぼうと虚ろに宙を見ていることには、前の家族を喪った悲しみが癒えていないのだろうと里の者も同情的であった。
 痩せた青白い顔を見て里の者が「飯は食っているのか」と言えば、うっそりと微笑んで「ええ、はい」と答える。「何か困ったことは」と問えば、ゆるゆると首を振って「いいえ、なにも」と言う。まさかあの鋼鐡塚と生活を共にしながら何もないことはあるまいと皆思うのであるが、問いが好奇心からであろうと心配からであろうと、築炉は決して鋼鐡塚を腐そうとはしなかった。
 ――それがまた、鋼鐡塚は面白くない。
 一月もの間、鋼鐡塚は築炉を無視し続けていた。もはや意地なのか何なのか分からなくなっている。いくら無視しようと築炉は淡々と日々をこなし、家のことも鋼鐡塚の身の回りの世話も一切手を抜かない。
 いくら鋼鐡塚が築炉を無視しようと、それを築炉は無視している。鋼鐡塚は築炉をいじめているのか、築炉にいじめられているのか分からなくなっている。
 長い間いないもののように扱われながら、顔色も変えぬ胆力には畏れ入る。いや、胆力なのだろうか。路傍の石程も気にかけられないことに、本当に何も感じていないのだとしたら、いったいあの女はどういう神経をしているのだろう。鋼鐡塚でさえ、彼女を無視し、彼女にそれを無視されることを一月も続けて、だいぶ参ってきていた。
 あのビィドロ玉のような瞳のまま、築炉が何も思っていないのであれば、鋼鐡塚はそれを恐ろしいと思う。そんな女と同じ屋根の下に暮らしているのは嫌だった。

「お夕食のご用意が、」

 築炉が常と変わらずそう言う。昨日も、その前も、その前も、その前も、彼女はそう言った。昨日も、その前も、その前も、その前も、鋼鐡塚はそれを無視した。
 青白い顔がすうと前を向いていて、鋼鐡塚がその横を通り過ぎるときにも築炉は前を向いたままだった。まるでそこに何かがいるかのように宙を眺めている。
 何を見ているのだろう。その視線の先を見たい気もしたが、堪えて手拭いを携え外に出た。途中、団子を買って食べながら坂を上り温泉に向かう。空気が湿っぽい硫黄臭をはらむ。
 ばさばさと着物を脱ぎ湯に身を浸すと、湯煙の向こうに見慣れた火男面があった。それは鉄井戸のものである。火男面はこちらに気が付いて首を巡らせた。

「ああ鋼鐡塚の坊やじゃないか」

 湯の中でも手放さぬ煙管から紫煙が立ち上り、湯煙と混じり合って滲んでいる。

「お前さんもやっと落ち着く気になったようで何よりだな。儂の心残りは一つ減ったよ」

 冥土がまた近くなった、と鉄井戸は笑う。鋼鐡塚は濁った水面を眺めていた。年寄りの話はどうにも面白くない。相手がそれこそ襁褓の取れぬ頃から己を知っているとなれば尚更だ。

「それにしても、難儀なおなごを貰ったな」

 鉄井戸はそう言った。どこへ行っても「出来た女房だ」と言われる築炉をそう称したのは鉄井戸が初めてだった。
 興味をひかれて顔を上げる鋼鐡塚に、鉄井戸はゆうるりと煙管を吸ってみせた。

「そうかい、出来た女房と評判だぜ」

 鋼鐡塚が言うと、鉄井戸は鼻を鳴らす。

「お前さんもそう思うのかい」

 答えあぐね、鋼鐡塚は不貞腐れた子供のように鼻の下まで湯に沈む。ぶくぶくとあぶくを立たせた。

「まあ、優しくしてやんなよ。夫婦円満ってのは結局男の振る舞いにかかってるんだよ」

 鉄井戸はそれだけ言うと湯から上がっていった。鋼鐡塚はしばらく湯煙が立ち上るのを見ていた。

 温泉から家への帰途はすっかり暗くなっていて、鋼鐵塚は湯冷めしないように小走りに帰宅した。
 家に帰ると自室に冷たい水が用意してある。なんとはなしにそれを手に取りかけ、はっとして手を引っ込めた。だが、やはり喉は乾いていたので水を飲もうと厨に立つ。
 暗い厨はひんやりとしていた。明かりをつけるのも手間で手探りで水瓶まで歩こうとすると、何かぐんにゃりとするものを踏んでしまった。
 何だろうか、と鋼鐵塚はそれの輪郭を確かめるように触る。こんなところに何かを置いた記憶はない。それは大きな布の塊で、丁度人が屈みこんだくらいの大きさである。
 ぐいぐいとそれを押し転がしたところでその正体に気が付いた鋼鐵塚は、悲鳴を上げそうになるのをすんでのところで飲み込んだ。

「何してんだ! こんなところで!」

 悲鳴のかわりに怒号を上げると、細い月明かりにぼんやりと築炉の細面が浮かぶ。眠たげな瞳が一度ぱちりと瞬きをした。

「少し……疲れておりまして。早めに休ませて頂いておりました」
「土間でか!」
「ええ、はい」

 鋼鐵塚は絶句して立ち尽くした。なぜ竈の前で寝る必要がある。鋼鐵塚は築炉を無視し続けてはいたが、そんな酷いことを強要した覚えはない。
 赤毛布を肩から滑らせながら、築炉は鋼鐵塚の次の言葉を待っているようであった。鋼鐵塚は彼女が泣いて怒るまで無視してやると心に決めたことも忘れて、その薄い肩を引っ掴んだ。

「馬鹿かおめえは! 俺がそんな真似しろと言ったかよ!」
「いいえ」
「毎晩ここで寝てんのか!?」
「はい」

 がくがくと肩を揺さぶると、痩せた体は無抵抗に振り回された。寝乱れていた洗い髪がゆらゆらと重たげに揺れる。鋼鐵塚がぱっと手を離すと、築炉は糸の切れた操り人形のようによろよろとして、竈に手を置く。
 確かにこの家には鋼鐵塚が使っていた一組の布団しかない。部屋数もないので、布団を敷けるのは鋼鐵塚の私室くらいだ。だからといって犬のように竈の残り火に当たりながら眠る奴があるだろうか。何か言えよ、と鋼鐵塚は自分が彼女を無視し続けていたのを棚に上げてそう思う。
 鋼鐵塚はぎっと築炉を睨むと猛然と家を飛び出した。さして遠くもない里長の屋敷に飛び込み、挨拶もせずにずかずかと奥へ向かう。新入りの下働きが鋼鐵塚を三度見したが、ほとんどの者は「またか」と言わんばかりに鋼鐵塚をちらと見るだけだった。
 しかし、鋼鐵塚が布団部屋から勝手に布団を担ぎ出したので、さすがに鋼鐵塚の奇行に慣れていた古参の下男も「ちょっと、鋼鐵塚さん!」と甲高い声を上げた。

「なんなんですか、いったい」
「借りる」
「はあ、それは構いませんが、長に許可は取っていますか? いったい布団なんて持ち出してどうするんです」
「すぐに返す、多分」
「いやだから長に……埒開かねえ! 誰か長呼んでくれ!」

 鉄地河原にやいのやいの言われる様を想像し、鋼鐵塚は下男を背後から布団でどついて薙ぎ倒す。ぶえ、と潰れ声を上げてすっ転んだ下男をひょいと跨いで鋼鐵塚は布団を担いで逃げた。
 借りるぞぉ、という声だけを屋敷に残し、鋼鐵塚は里の大路を布団を担いで疾走する。家に帰りつき、鋼鐵塚はおろおろとした様子の築炉に布団を押し付けた。筋骨たくましい鍛治である鋼鐵塚だからこそ重い綿布団の一揃えを担いで走って来られた。痩身の築炉がそれを上から落とすように投げ渡されたのだから堪らない。築炉は声も上げずに布団とともに床に倒れた。
 あまりに何の抵抗もなく倒れるものだから、鋼鐵塚の方がぎょっとする。慌てて布団を掻き分けると、花柄の掛布団の下で築炉が仰向けのまま茫然と鋼鐵塚を見返した。しばらくそのまま睨みあう。
 鋼鐵塚は何も言わずに踵を返すと、自室に戻って湯呑に用意された水を飲み干した。押し入れから布団を出し、いつもより壁の方へ寄せて布団を敷いた。しばらくすると、きしきしと廊下の軋む音がして、きちんと畳んだ布団を足下に重ねた築炉がすうと引き戸を開けた。鋼鐵塚はそれを布団の中から見ていた。
 築炉は常の家事と変わらぬ素振りで淡々と布団を室内に運び込む。それから件の目をついと鋼鐵塚に向け「ここでよろしいでしょうか」と言った。注視していたのがばれて、咄嗟に布団を引っ被ってそれを黙殺する。だが、無視も貫けなかった決まりの悪さから身の振り方を思い直した。もそもそと布団から目だけを出し「いい」と低く短く一言だけ答えて、彼女に背を向ける。
 築炉が布団を敷く衣擦れの音と、小さな足音が聞こえていた。それが止むと、布団に女が滑り込む気配がした。次いですうすうと規則的な寝息が聞こえてきたので、鋼鐵塚はやっと肩の荷が下りたような気がして自身も眠りについた。

 翌朝、目を覚ますと隣の布団はすっかり片付けられていた。まさか夜中に竈の前に戻ったわけではあるまいな、と鋼鐵塚は疑ったのだが、厨の方から炊事をしている気配がするのでおそらく早く起きていただけなのだろう。いったい何時に起きているのだろうか。今までそんなことを気にもしなかったが。
 顔を洗って戻ると、布団は上げられ箱膳が用意されている。

「朝食のご用意があります」

 築炉は常と変わらずそう言った。鋼鐡塚は黙って箱膳の前に座り込み、手を合わせる。ちらと築炉の顔を伺うと、特に何も思うところの無い様に配膳を始めたので、やっぱりなんとなく面白くなかった。