わかればなしのむかしばなし
あの、鋼鐵塚さんの奥さんって、と炭治郎が言うと、鉄穴森は「ああ、築炉さんですか」と顔を上げた。
伊之助に渡してほしいものがあるから、と呼び止められ、工房に連れられて今に至る。鍔と切羽をいくつか出したり引っ込めたりしていた鉄穴森が「お会いしたんですね」と苦笑した。
「鋼鐵塚さんが築炉さんを剣士に会わせるのは珍しい」
「宇髄さんに紹介していただいたんですけど、事前に鋼鐵塚さんの奥さんだって教えてもらっていなくて――」
「驚きましたか?」
「目の玉が飛び出してどこかに行くかと思いました」
「どこにも行かなくてよかった」
鉄穴森は肩をすくめた。とりあえず「目の玉が飛び出すほど驚くのは当然」という態度を取られ、炭治郎はほっとする。
「築炉さん、本当に鋼鐵塚さんの奥さんなんですか?」
「信じがたいでしょうけど、そうですよ」
「……弱みを、握られて?」
おずおずと尋ねる炭治郎に鉄穴森は吹き出して笑う。
「まあ、ある意味弱みなんですかねぇ」
「あ、やっぱり弱みを」
「惚れちゃってるんでしょう。そりゃ鋼鐵塚さんはあんなですけど、築炉さんのことは刀のことの次くらいに大切にしているんです。――築炉さんが鬼と成っていることが分かったときの鋼鐵塚さんの狂乱ぶりといったら……あれほど思われていたら、惚れ込んでしまうものじゃないんですか」
まあ私が女なら鋼鐵塚さんと結婚は御免ですけど、と鉄穴森は付け足す。
そういうものか、と炭治郎は思う。炭治郎にはそういう玄妙な男女の機微はまだ難しい。だが、刀のことに関しては本当に一生懸命で情熱的な――やり方が苛烈とはいえ――人であるので、奥方のことも一生懸命大切にしているのかもしれない。やり方の是非は兎も角。
「そんなにすごかったんですか」
「すごかったですよ。お館様に食って掛かるわ、殴りかかるわ、築炉さんの首を切る刀を作り始めて――」
「そ、それはすごい」
「出来た刀がこれまた物凄い傑作でして。幸いに使うことは無くて、鋼鐵塚さんは処分すると――あの鋼鐵塚さんが刀を処分すると言い張ったんですけど、鍛冶連中は大反対ですよ。今は築炉さんが大切に保管しているはずです」
鍛冶の精鋭揃いのこの里で傑作とまで称される刀を、炭治郎は一目見てみたいと思った。だが、見るのが怖いとも思う。
炭治郎の思うところが分かったのか、鉄穴森は火男面の下でくっくっと笑った。
「築炉さんに頼めば見せてくれると思いますよ。鋼鐵塚さんにバレないようにだけ注意してください」
炭治郎は苦笑いを浮かべながら「そうします」と言う。
「鋼鐵塚さん、あれで愛妻家なんですよ」
「アイサイカノハガネヅカサン……?」
「片言になるほど驚かなくても」
鉄穴森は言いながら伊之助への荷物を包み始める。もう少しこの話を聞いていたかった、と炭治郎は惜しむ。
「築炉さんが本当に出来た方なんですよ。嫁いでしばらくは名前も覚えられていないわ、無視され続けるわ、髪まで短く切られてしまって……あれ、築炉さんが自分で切ってしまったのだったかな。あの人、鋼鐵塚さんのせいで何度か病院にも担ぎこまれてるし」
「病院に!? どうしてですか!?」
やはり刃傷沙汰かと青褪める炭治郎に、鉄穴森は首を横に振った。
「殴ったとか蹴ったとかではないんですよ、ただ……いや、まあ、炭治郎殿にはまだ早い話で」
好奇心に満ちた目をしている炭治郎を尻目に鉄穴森は早々に話題を切り上げてしまう。なんだろう。すごく気になる。
「本当に里の者が驚くほどの仲睦まじさです。まあ築炉さんが鋼鐵塚さんをなんでもかんでも許して煩く言わないっていうのが一番の理由なのでしょうけど。それでも本当に喧嘩一つしな――あ、そういえば一度喧嘩をしていたことがありましたね」
「け、喧嘩ですか?」
鋼鐵塚はともかく、築炉が喧嘩をしているところはちょっと想像も出来なかった。しかも相手が鋼鐵塚の喧嘩だなんて、築炉さんは命がいくつあっても足りないのではないか、と炭治郎は思う。
鉄穴森は荷物を炭治郎に差し出す。
「喧嘩というか、築炉さんが家を飛び出しちゃって」
「それが一度きりというのもすごいですね」
「我々にしてみれば柱より超人ですよ彼女は」
ははは、と鉄穴森は笑い、火男面をずいと炭治郎の方に向けた。
「詳しく聞きたいですか、この話」
「はい! 聞きたいです!」
炭治郎が間髪入れずに答えると、鉄穴森は楽しそうに肩を震わせた。話したかったらしい。
「いつの話だったかな、たしか一年ほど前の話なんですけれど――」
ある晩鉄穴森が仕事を終え家で休んでいると、玄関の方で人の気配がする。何とはなしに顔を出せば、玄関先に築炉が立ち、鉛が対応していた。その築炉の様子が尋常ではない。色の白い顔は血の気を失うほど青褪め、鉛に宥めるように握られた手はぶるぶると震えている。見れば足下は裸足で、どこかで切ったのか血が滲んでいる。
女同士のことに口を出すのもどうかと思ったが、鉄穴森は思わず「どうしたんだ」と鉛に声をかけた。鉛は困り果てたように眉を下げ、鉄穴森の方を振り返る。
「築炉さん、ちょっと様子が……」
もとよりこんな夜更けに出歩くような女性ではない。鉄穴森も心配になって「上がってもらいなさい」と言うと、築炉はその場で音もなくほろほろと涙をこぼしはじめた。
これは只事ではないと鉄穴森は慌てて築炉を家に上げ、夜気で冷えきった体に毛布をかけてやる。手の甲に少し触れた首筋がぞっとするほど冷たくて、刀以外に興味の薄い鋼鐵塚が築炉をあれほど気に留める理由が分かった気がした。
鉛が淹れた茶の水面をじいと見つめながら、築炉は黙ったままである。ようやく震えはおさまったらしい。鉛がなんとか宥めすかして聞き出したのは、築炉が鋼鐵塚を突き飛ばして家を飛び出してきた、ということだけである。
鉛が築炉の背を撫でる。
「夫婦だったらそんなこともあるでしょう、築炉さんしっかりなさいな」
「ごめんなさい……私がいたらないばかりに」
「あの人を二度三度とぶったことのない築炉さんが奇跡なんだから、そんな一回突き飛ばしたくらいでめそめそしないの」
ねえ、あなた。 と振られ、鉄穴森はたじろぐ。鉛の言うところに異論は無いが、相手はあれでも刀工としては尊敬すべき存在である。おいそれと「そうだそうだ」とも言いにくい。
結果、ああ、とも、うう、ともつかぬ曖昧な返事をする羽目になり、鉛にこっそり睨まれた。視線で促され、鉄穴森は築炉の傍らに膝をつく。
「築炉さん、鋼鐵塚さんはちょっと突き飛ばされたことを根に持つような人じゃないですよ」
あの人は基本的に刀以外のことにはあまり頓着しないのだ。
鉛は小さく首を振りながら、築炉の細い背を優しく撫でている。
「築炉さんがそこまでするくらい、ひどいことをされたの? 言いたくないなら言わなくていいのだけれど……」
築炉は頑としてそうなった経緯を話そうとしない。いったい何があったのだろうか。鉄穴森夫婦は顔を見合わせ合う。
「私……離縁されてしまうかもしれません。もう、蛍さんに顔向けできない……」
それだけ消え入りそうな声で囁き人形のように黙り込んでしまった築炉の手を、鉛が優しく撫でている。
「そんな、鋼鐵塚さんが築炉さんを離縁するなんてあり得ないですよ」
鉄穴森が言う。何があったかは知らないが、お館様に噛み付いてまで手元に置きたかった恋女房を、鋼鐵塚がおいそれと手放すとは思えない。
そうですよ、と鉛も同意する。
「鋼鐵塚さんが築炉さんを離縁するなんて。築炉さんが縁を切ると言うならともかく」
そう言って聞かせても、築炉は蒼白な唇をきゅうと噛んだまま俯くばかりである。
「鋼鐵塚さんを呼びますよ。いいですか?」
鉄穴森が言うと、築炉は細く呻きながら両手で顔を覆ってしまう。
「鋼鐵塚さんにひどいことをされたのではないのでしょう? 会いたくないわけではないのですよね。突き飛ばしたくらい、きっと許してくれますよ。というか、多分気にしてませんよ」
「築炉さん、私もいっしょに謝ってあげるから。鋼鐵塚さん、築炉さんがいないときっと寂しくて寝られないわよ」
鉛が言うと、築炉はおろおろと顔を上げる。
「ああ……朝食の支度もまだでした……寝間着も用意していないし、お布団も……」
途端に立ち上がって「ごめんなさい、お騒がせいたしました」と帰ろうとする築炉を、鉛が押し留める。
「築炉さん、真面目すぎるのよ。こんなときくらい全部放り投げちゃって、ちょっとは心配させてやればいいの。履物だって無いんだから、迎えに来てもらいなさいな」
ねえ、と鉛が鉄穴森に同意を求める。鉄穴森もそれには笑って答えた。
「そうですよ。築炉さんは待っていてください。鋼鐵塚さんを呼んできますから」
鉄穴森が言いながら身支度をし、玄関の引き戸を開けたところで目と鼻の先に鋼鐵塚が立っていて、鉄穴森は短く悲鳴を上げた。
火男面が提灯の明かりに照らされ、ゆらゆらと揺らめく。
「鋼鐵塚さん……」
こりゃそうとう参ってるな、と鉄穴森は面の上から分かる鋼鐵塚の狼狽ぶりに呆れ果てる。まずものすごく無口だ。ぼんやりと突っ立ったまま何も言わない。そしてぴくりとも動かない。いったいいつからここで立っていたのだろう。
「怒ってるか」
短くそう問われる。鉄穴森は溜息混じりに答えた。
「いいえ、申し訳ない、合わせる顔がないと泣いていますよ。鋼鐵塚さん、いったい築炉さんに何をしたんです」
鉄穴森の悲鳴を聞いた鉛が奥からぱたぱたと出てきて、鋼鐵塚の姿を見て「あら」と目を丸くする。
「鋼鐵塚さん、築炉さんが鋼鐵塚さんを突き飛ばしてしまったとずいぶん後悔しているみたいですけれど……」
「それは覚えがねえ」
気にしていないどころか、そもそも覚えてもいなかった。
鉛が眉をひそめる。
「あの築炉さんに手を上げさせるほど、いったい何をしたのですか」
二人に問い詰められ、鋼鐵塚はむっすりと経緯を口にする。
「あいつが屁をしたから――」
「はァ?」
鉄穴森は思わず大きな声を出してしまう。築炉がしきりに顔向け出来ないと言っていたのはそれか。
「蛙の屁みたいな小さいやつなのに、やたら恥ずかしがって茹で蛸みたいに真っ赤になって、それが……面白かったから、こう、捕まえて、動けないようにして、あいつの尻に顔を押しつけたら、出て行かれた」
鉄穴森はもはや声も出なかった。鉛が長々と深い溜息をつくのだけが聞こえる。
「……俺が悪いのか」
「いや、悪いというか……」
なんでそんなことをしたんだ。
頭が痛むかのようにこめかみを押さえていた鉛が鋼鐵塚を見やる。
「私の従兄弟に、病気が理由で結婚していない男性がいます。病気といっても命に関わるものではなくて、声が出ないというだけで、優しくて穏やかな良い人です。私、築炉さんの再婚相手にぴったりだと思うのですけど」
鉛が言うと、鋼鐵塚は無言のまま鉛をじっとりと見つめる。声を荒げて食ってかかってこないのが逆に怖い。
「そいつは築炉を大事に出来るのか」
「少なくとも、おならの匂いを嗅ごうとするなんて子供じみた真似はしません」
「……めおとだろうが。屁の一つや二つ何が恥ずかしいんだ」
戸惑うように憔悴したように鋼鐵塚が言う。鉄穴森は額に手をやった。
「だからといって無理矢理捕まえてお尻に顔を押し付けちゃ駄目ですよ」
不惑も目前の男にこんなことを説く日が来るとは思いもしなかった。馬鹿馬鹿しくて泣けてくる。築炉が本当に可哀想だ。
「連れて帰る」
鋼鐵塚がそう言う。鉄穴森が「そうして頂きたいのは山々ですけど」と言い、鉛がその先を引き受ける。
「きちんと築炉さんに謝って、もうしないと誓ってくださいね」
鋼鐵塚は不服そうに浅く頷き、ずかずかと築炉のいる部屋に入っていく。正座で俯く築炉の前に、鋼鐵塚は屈んだ。武骨で大きな手が、築炉の頭に乗せられる。
「悪かった、もうしないから」
おや、と鉄穴森は思う。もっと渋るかと思えば存外素直に謝罪を口にした。築炉は鋼鐵塚の手の下でしおしおと身を縮こまらせる。
「ごめんなさい、何も言わずに家を出てしまって……ひどいこともしてしまいました」
「何かしたか」
「突き飛ばして逃げてしまいました」
「いやそれは覚えがねえんだって」
築炉は目を丸くして鋼鐵塚を見上げる。だから言ったじゃないか、と鉄穴森は思う。そういうところは気持ちいいくらい無頓着な男なのだ。
築炉の目を見た鋼鐵塚がぎょっとして身を引く。
「うおぉ、お、おい、待て、そっち側転げ落ちそうなくらい怒るこたねえだろ 」
「怒っては――」
「お前、ちゃんと薬は飲んでるのか」
「情けないやら恥ずかしいやらで――」
「屁くらい俺だってする」
でも築炉さんは鋼鐵塚さんの尻に顔を押し付けはしないだろう、と鉄穴森は思う。茶々を入れるつもりはないが。鉛も同じようなことを思ったようで、呆れ顔で顔を見合わせる。
襖の隙間から、ひやぁぁ、と細い悲鳴が聞こえてくる。鉄穴森夫妻が慌てて隙間から中を覗くと、鋼鐵塚が四つん這いで逃げようとする築炉の足首を握っていた。
一瞬たりとも目が離せないとはこのことである。鉄穴森は慌てて中に入り、鋼鐵塚を止める。
「ちょっと鋼鐵塚さん、今度はなんですか!?」
「だっておぶってやるってのにこいつが聞かねえんだよ」
築炉は「歩いて帰られます」とぽつりと呟く。鉛がそれをとりなす。
「築炉さん、ここは鋼鐵塚さんに甘えましょう。だって履物を取りに戻っていたら、それこそ手間だもの」
手間、と言われ、築炉は身をすくませる。好機とばかりに鋼鐵塚が築炉の足首を引っ張り、ずるずると足元まで引き摺るとそのまま背中に担ぎ上げる。なんとも乱暴だ。
「掴まっとけ」
はい、と観念した築炉は鋼鐵塚の首に腕を回す。気まずそうに鋼鐵塚の肩に顔を埋めている。
鉄穴森は苦笑して「お気をつけて」と言った。築炉がすいと視線を上げる。
「ご迷惑おかけして、本当に、本当に……」
「いえ、いいんですよ、また何かあったらうちに避難してきてください」
勢い余って里の外まで逃げられるよりはずっといい。そうなったときの鋼鐵塚は目も当てられないほど動揺するであろうから。
「あ、おならしちゃったときもうちに避難していいですよ」
軽口のつもりで鉄穴森が言うと、築炉の色の白い顔がみるみる耳まで真っ赤になった。瞳まで赤くなっている。
「蛍さん……言ってしまったんですね……」
「あ、すみません……」
鉄穴森は思わず謝ってしまう。築炉は袖で顔を隠して細く震える息を吐く。
「もう表を歩けません……」
「いやそんな、私だっておならくらいしますよ! なあ、鉛!」
「そうよ築炉さん、私もします!」
「――それを見ながら、なんとなく鋼鐵塚さんが恥ずかしがる築炉さんを揶揄いたくなる気持ちも分かったような気がしたんですよ」
ははは、と笑いながら話す鉄穴森に、炭治郎は思いきり胡乱げな顔をした。
「えっ、去年の話ですよね」
「そうですよ」
「鋼鐵塚さんは……三十六歳」
「そう……ですよ……」
「六歳ではなく……?」
「恐ろしいことに」
はぁー、と二人の溜息が同時に出る。
「炭治郎殿は口が硬そうだから話したんです。他の方に言ってはいけませんよ」
「き、気を付けます……」
「もしこの話が築炉さんの耳に入ったら、築炉さんはそれこそ世を儚んでしまうかもしれない」
炭治郎はふと、気になったことを聞いてみた。
「鉄穴森さんも、築炉さんが――」
「鬼と成りかけていることですか? ええ、知っています」
さらりと鉄穴森は答えた。そうなのか、と炭治郎は鉄穴森を見つめ返す。恬淡とした様子からは鬼への忌避感は見られなかった。
「恐ろしいとは、思いませんか」
柱合会議で禰豆子へと向けられた憎悪の視線を思い出し、炭治郎は悲しい気持ちになる。
「築炉さんをですか? 恐ろしいとは思いませんよ。可哀想だとは思いますが。築炉さんが鬼と成ったところで素手で勝てる気がしますし」
鉄穴森はとぼけた火男面を炭治郎に向けて、逞しい腕をぶんぶんと振った。炭治郎は消えかけの蝋燭のような彼女の姿を思い浮かべ、確かにそうかもしれないと思う。
「それに、築炉さんがああなって一番辛いのは鋼鐵塚さんですよ。私が怖いのどうのと言えないでしょう」
ぽつり、と鉄穴森は呟いた。
「もし万が一があったら、鬼と成った築炉さんが鋼鐵塚さんをばりばり食べている間に、鬼殺隊士を呼びます」
ばりばり、と炭治郎は口の中で繰り返す。ばりばり、と鉄穴森も繰り返した。