(番外)しねまとぐらふ



 己に母親がいないことに漠然とした疑問を感じ始めたのは、ほんの数年前の事であったように思う。男のほとんどが作刀に関わるこの里では、生活を支える女たちの結束が固い。うちの子、よその子、というよりも、里の子供として分け隔てなく育てられる。
 埋も良いことをすれば里の女たちに褒められ、悪いことをすれば容赦なく叱り飛ばされた。寂しいと感じたことはなかった。それを疑問に感じたことがなかった。埋は半身のような篝と過ごす時間が一番長かった。世界はそこで循環し完結するものであった。
 ある日友人が母親に手を引かれて夕陽の方に帰っていくのを見たとき、ふと「我が家には男しかいない」と思った。父と篝はよく似ていて、篝と埋は瓜二つであった。家の中には同じような顔が三つもある。
 埋が篝に「うちには母さんがいない」と言うと、篝はちょっと眉を上げて「そうだな」と言った。それだけだった。篝は父親に本当によく似ていた。鉄地河原などは顔を顰めて「昔の蛍によう似とってぞっとするわ」と言ったものであった。
 篝は疳の虫が強く、没頭癖があり、人の話を聞かない。埋とて決して大人しい性分ではないが、篝は輪をかけて癇症であった。火床の熾より烈しく怒る。怒り始めると止まらない。それを宥めるのは物心が付く前から埋の役目である。篝は激情の最中にあっても、埋の言うことだけは不思議と聞き入れた。
 里の女たちはよく埋の頭を撫でまわし「あんただけは母親に似てよかった」と言う。水鏡を見れば篝と変わらぬ顔がある。そこに見たこともない母親の面影を探すことは出来ない。それがなんだか薄気味悪いと思った。
 篝にそう言うと、篝は「あ、そう」と言うだけであった。だいたいにして篝は感覚で生きている。そういうところも驚くほど父に似ていた。感覚的で痙攣的で、繊細過ぎるほどに繊細で、その繊細さで篝は己の中に母の血を感じ、受け入れている。埋にはそれが出来なかった。
 炭を運んでいると、鍛冶場の方から言い争う声が聞こえる。父と篝であった。あの二人は妙に息の合った様子であるかと思えば、烈火の如く喧嘩を始める。火花のように怒る篝に、言って聞かせる性分でもない父は同じように癇癪を起して応える。轟々と燃える火をどうすることも出来ないように、勝手に鎮まるのを待つしかない。

「なんだよ、篝って! 可愛すぎる! 女みたいだ! なんでこんな名前つけたんだよ!」
「俺が付けたんじゃねえ!」
「父ちゃんが付けたらよかっただろ! もっと、こう、格好いい名前をさ!」
「うるせえ、お前なんか篝で十分だ洟垂れ!」
「なんだとぅ!」

 掴みかかろうとする篝を、父は片手で掴み上げて放り投げた。べしゃりと土間の上に転がされても、篝は果敢に何度も向かっていく。まるでじゃれ合う仔犬のようだ。六歳同士の喧嘩の方がまだ理がある。
 あっという間に土で汚れた篝に、父はうんざりしたように鼻を鳴らした。

「贅沢言うな! 俺なんか蛍だぞ!」

 そう怒鳴られ、篝は目を丸くした。それからもそもそと立ち上がると着物の土埃を払い落とす。

「そっか! ごめん父ちゃん!」
「謝るなよ余計腹が立つ! わざとか!?」

 そのやりとりを横目で見ながら埋は炭の袋を床に下ろした。

「それを言うならおれは埋だよ。字面だけ見たら人の名前にも見えない」

 埋が言うと、二人は心底不思議そうに首を傾げる。

「なんでだよ、埋はいい名前だろ」
「うん、いい名前だと思う」

 妙なところで息が合うのだ。
 邪魔だから他所に行っていろと父は言い、作業を見ていたいと篝は駄々を捏ねた。埋は黙って篝の手首を掴み、鍛冶小屋の裏の川べりまで引っ張っていった。
 川に落として土だらけの顔を拭ってやると、篝はげらげらと笑って埋に水をかけてきた。二人そろってびしょ濡れになる。篝は結い髪を絞った。

「なんで埋は髪を切ったんだよ」

 水滴の付いた短髪をがしがしと掻き回され、埋はたたらを踏む。そのまま足を滑らせ、川底に尻もちをついた。手の甲の上を住処を荒らされた川虫が逃げていく。篝が囃したてた。
 埋は川底に座り込んだまま、眉にもかからない前髪を摘まむ。

「篝と区別がつくように」
「簡単だ。俺じゃないのが埋で、埋じゃないのが俺だ」

 男の長髪など眉を顰められるご時世ではある。この里は一回りも二回りも時世の運行が緩やかだ。埋がもっと幼い頃などは里の男たちで髪の長い者がいたが、最近は少なくなっている。街に下りれば、埋でさえ髪が長いくらいだ。

「そんなに簡単ならいいのになァ」

 埋が言う。篝は気にした風もなくそぼ濡れた着物を脱ぎ、絞って岩場に掛けた。埋もそれに倣う。

「話していいぞ」

 篝が言うので、埋は続けた。半身相手だと話が早い。

「この間、鋼一のおっかさんに、母さんに似ていると言われた」
「誰の」
「おれらのだろ」
「ふうん、そうかい」

 篝は埋の顔をまじまじと見つめる。

「俺とおんなじ顔してるぜ」
「おれもそう思う」
「じゃあ母ちゃんも俺らと同じ顔してたかな」
「そりゃないよ、めおとで同じ顔なんて気味が悪い」
「でも鉄穴森さんとこは似てる」
「あ、そうだな」

 埋はなんだか分からなくなってきて、ぎゅうと眉をひそめた。

「母さんはどんな人だったかな」
「さあなァ、見たことないもんなァ」
「あの父さんが好いた人だよ」
「刀じゃねえのか」
「そんなわけあるかよ。おれは刀に似てるのかい」

 埋が呆れて篝を小突く。篝は思いのほか真剣な面持ちで、ぐいと身を乗り出した。

「似てるよ、うちの床の間の刀に埋は似てる」
「なんだ、そりゃ」

 鋼鐵塚の家はそう手入れの行き届いたものではなかったが、そんな家に似つかわしくない端正な一振りが床の間に架かっていた。幼い埋が見ても空恐ろしくなるような佇まいの一振りで、そういえば篝はひどくそれに執心していた。中を見たいと父の目を盗み鞘を払い、手を切った挙句父に露見して拳骨を食らっていた。

「あれは多分母ちゃんの墓だよ」

 ぽつんと篝は言った。そうかと埋は答えた。遺骨もなく、位牌もなく、墓石もなく、母は刀であったのだろうか。

「だって、父ちゃんだし」
「でも、母さんは綺麗で優しい人だったって鉄池のおばちゃんが言ってた」
「父ちゃん別に綺麗で優しい人好きじゃねえだろ」

 埋の中で靄のようであった見ぬ母の姿は、いっそう得体の知れないものになる。

「じゃあ、父さんはどんな人なら好くかな」
「刀」
「人って言ってるだろ」
「分かんねえ。埋のことは好いてるだろ」
「そうかな」

 父は己に似ている篝を可愛く思っているものであろう。幼い頃から鍛刀に並々ならぬ興味を抱いていた篝に父はうるさがりながら自分の仕事を手伝わせた。
 妬いているか、というとそういうこともない。篝と埋はいつも一緒で、篝に手伝わせるということは埋に手伝わせるということでもある。それは篝にとって埋にとって右手が好きか左手が好きかという類の話でしかなかった。これまでは。

「どんな人ならよかった」

 篝が言う。埋は分からないと答えた。

「父ちゃんに聞くか」
「一回聞いたことがある」
「どうだった」
「三日帰ってこなかった」
「あのときか!」

 篝は膝を叩いて笑った。あのときは友人の家に泊まり込んで、それはそれで楽しかった。
 里ではすわ山狩りかとなっていた。子供を置いて何をしているんだと呆れる大人たちを見ながら、埋は申し訳ない気持ちになった。大人たちにではなく、父に対してだ。
 母さんはどんな人だった、と尋ねたとき、父は面の下でどういう顔をしていただろうか。ただ埋は一言も発しない父の武骨な指先がひくりと震え、困惑気に彷徨うのを見た。聞いてはいけなかったのだろうか、と思った。
 ひどいことを聞いてしまったのかもしれない。だが埋にはよく分からなかった。
 埋は岩場に広げていた着物を拾い上げる。まだ湿っていて、指先に重みがのしかかった。


******


 夜中に厠に起きると、どこかで蛙が鳴いていた。用を足し、部屋に戻ろうとすると縁側に人影がある。腰を抜かしそうになり悲鳴を上げると、大きな手がぬっと夜闇から突き出し埋の口を塞ぐ。

「便所に行った後でよかったな」

 父だった。埋は己の口から父の手を引き剥がす。

「こんなところで――」
「背はこのくらいだった」

 父はおもむろに埋の頭の少し上のあたりに手を翳した。青白い月の光が遮られゆらゆらと揺れる。

「なにが」
「もうすぐ背も越すなァ」

 父は面のない顔をわずかに歪め、目を細めた。埋はしばらくぼんやりとしていたが「ああ、母のことか」と理解した。父は篝以上に唐突で脈絡が無い。

「はじめは手のひらに乗るくらい小さかった――そりゃ言い過ぎだな。お前らは最初からでかかったしな」
「おれの話はいいよ」
「そのへん転がってたと思ったら立ち上がって歩き出して今じゃ走り回ってるしよ」
「もうずっと前から走ってる」

 埋がむくれると、父は埋の頭をするりと撫でた。

「母親なァ……むず痒いな……」

 父はそう言って顔を顰める。

「どんな人だった」

 短く問い、父の顔色を窺う。怒っているのでも悲しんでいるのでもなかった。ただただ困惑したように難しい顔をしている。

「考えたことねえ」
「……へっ?」

 父は縁側に腰を掛ける。埋はどうすればいいか分からなかったのだが、しばらく迷ってその傍らに腰掛けた。
 埋は父の横顔を眺める。笑ってしまうほど篝に似ていた。眉を歪めて宙を睨む顔が、叱られ拗ねた篝にそっくりだ。

「手前勝手にああだこうだと言われることはあったが、どんな奴か聞かれるのは初めてだ」

 呻くように父は言い、指先で左目の傷を掻いた。埋は数度まばたきして「どんな人だった」と繰り返す。
 おそらく父は埋の問いに気を悪くして失踪したのではない。どう答えたらいいか分からなかったのだろう。家を飛び出し、山に逃げ、連れ帰られたあとも今日まで考えていたらしい。

「どんな、だったか……」

 低い溜息が夜霧を揺らした。

「お前に似てたな」

 父は小さくそう言った。

「顔が?」

 怪訝そうに埋が言うと、父は眉をひそめた。

「それだと、めおとで同じ顔になるだろうが。気味の悪いことを言うんじゃねえ」

 そう返され、埋は思わず笑ってしまった。父は訥々と先を続ける。

「人の話は聞かねえし、とにかく手がかかる女で――」
「ねえ、それおれに似てる!?」

 埋が言うと、父は呆れたような顔を隠そうともしなかった。

「そっくりだろ」
「手のかかるなら篝の方だよ」
「あいつは俺に似て馬鹿で餓鬼だ。放っといても平気なんだよ」

 埋は唖然として父の顔を見る。父は左目の大きな傷を指先で弄っていた。
 その手が何の前触れもなく埋の目の下を撫でた。それから、頬を摘ままれ伸ばされる。

「お前はあいつに似て、どうしようもなく手がかかる。だから俺はお前がいっとう可愛い」

 埋は頬を摘まむ手を振り払い、唇を尖らせ父を見上げる。

「篝には「俺に似ていっとう可愛い」って言ってる」

 埋が言うと、父は気まずそうに腕を組んだ。

「仕方ねえだろ、どっちもいっとう可愛いんだよ」
「それってずるい」
「なんだと、じゃあお前が二番だ」
「ええー!」

 不平の声を上げる埋の短い髪を父はぐしゃぐしゃと掻き回した。頭がぐらぐらして、座っているのに天地が分からなくなりそうだった。

「まあ、それくらいだな」

 そうだけ言って立ち上がろうとする父に、埋は慌てて追いすがる。

「そ、それだけ!? 顔は!? 鉄池のおばちゃんが綺麗だったって言ってた。金尾さんは女優の淡島蝶子に似てたって」
「ああ!? そうでもねえよ! ふつーだよ! 適当なこと言いやがって!」
「里の人ならだれに似てる!?」
「顔なんかよくよく覚えているかよ!」

 さっさと立ち去ろうとする父の腰にしがみ付く。ずるずると縁側を引きずられた。

「じゃあ優しかった?」
「優しかねえ、勝手におっ死んじまった」
「父さんは、母さんのこと、好きだった?」

 父はぴたりと足を止める。明るい月の光に照らされて、一瞬泣きそうな顔をしていたような気がした。それが埋の錯覚であったかのように、父は仏頂面で埋の頭に拳を落とす。

「生意気言ってんじゃねえ、さっさと寝ろ」

 痛む頭を抱えながら埋は布団に戻る。隣の布団から、篝のきょろきょろとした大きな目が埋を見つめた。起きていたのか、と言う前に、篝は目を細める。

「俺は多分母ちゃんのこと好きだよ」

 だって埋に似てるんだろ、と篝は言うと布団を鼻の下まで被って寝息を立てだした。
 埋は聞いていないだろう布団の膨らみに向かって「そうかい」とこぼすと目を閉じる。すぐに眠りに落ち、何か夢を見た気がした。起きる頃にはすっかり忘れていた。