汚濁の血



Warning!
これは不快な文章です




 狂っている。
 この里の者は皆そうだ。
 空気はどこであっても湿気た硫黄と金臭いような煤臭いようなにおいがする。肺腑まで錆びそうないやなにおいだ。錆びて腐ってぼろぼろと崩れそうだ。
 火の燃える音と、鋼を叩く音が昼夜途切れることはない。この里の鼓動だ。血管を流れる血の音だ。不愉快だった。死んでしまえばいいのに、と、ここに嫁がされてから何度思ったことであろう。

 隠れ里、と人は呼ぶ。里に名前はなかった。あったとしても知らなかった。だが隣接する集落も旅人もないこの里に名前は必要なかった。
 里の主な活計は刀鍛冶である。活計というのも語弊があろうか。ここの者たちは生きるために鍛冶をするのではなく、鍛冶をするために生きている。この大正のご時世、侍は絶え、陸蒸気が走り、夜に光が燈り、戦場では鉄砲が使われているというのに、大真面目な顔をして鬼退治の刀を打っている。正気の沙汰ではなかった。
 それを誰が贖っているのかは知らない。鬼、と呼ばれる何者かを殺して回っている集団がいて、己を助けたのもそういう者であるらしかった。おそらくそういう者達が買っているのだろう。
 きい、きい、と枝が軋む。枝ぶりの美しい広葉樹に、女がぶら下がっていた。地面が小便で濡れていて、そこに蠅が飛んでいた。人だかりの外からぼんやりとその姿を眺め、手を合わせる。女の顔はどす黒く腫れ上がり、太った紫色の芋虫のような舌が乾いた唇を押し開けていた。
 離れたこの場にまでにおってきそうだ。表情の判別もつかぬ程膨れ上がった顔が、ほっとしたような穏やかな様子に見える。
 彼女は名前を道子といった。己と同じように家族を殺され、行く宛てもなく、ここに連れてこられた。「余所の嫁」であった。
 家族があればそこに戻される。なければ、幼子であればしかるべき場所に預けられ、若い娘であれば行き先などいくらでもある。労働力になりそうな若い男も。彼女も己も行く宛ても、若さもなく、非力な女で、ただ妊孕能力だけはあった。だからここに連れてこられた。
 彼らにとってそれは人助けであった。世間的には行き場がない女だ。貧しく泥を啜るように暮らすか、家族の後を追うしか道のない、哀れで、惨めな女を、この里の者はあたたかく受け入れる。この里の者は、滾々と湧き出る湯がそうさせるものか、日々刀を作るだけの毎日がそうさせるものか、俚びて純朴で素直な者が多かった。
 道子も己と似たような境遇であった。鉄だか鋼だかという字のついた男に嫁がされ、二人の赤子を産んだ。道子に似たところの少しもない、父親と同じ顔をした子供であった。
 この里の者は血が濃い。皆、老いも若きも男も女も似たような顔をしている。顔を隠すように付けられた面の方が、よほど個性が強い。顔の判別がつかぬから面を付けているのではないかと訝しむほどだ。
 いつからこの里があり、刀を打っているのかは知らない。だが外部との行き来もなく、旅人もなく、孤立したこの場所では、かつて全国津々浦々から募った優秀な刀工たちの末裔がそろって同じような顔になるほど血が汚濁していた。
 今さら外から一人二人女の血を入れたところで、どうにもならない。父親と同じ顔の子供が生まれ、似たような顔の人間と番い、似たような顔の子供を産む。

 「ああ、なんてこと」と、傍らで女が呟く。彼女もまた金とか鉄とかいう男の妻で、だが彼女は「里の女」だった。深刻気に口元を押さえ、目に涙を浮かべ、それから思案気に背に手を置かれた。気をしっかり、と囁かれる。それを他人事のように聞いていた。
 彼女の夫は里でも評判の愛妻家で、夫婦仲がいいあまりに結婚後に夫婦は顔が似てきたのだという。とんだ笑い話だと思った。この里の者はいがみあう隣家の者同士でも、そこらの親兄弟よりずっと顔が似ていた。この里には、限られた数種類の系統の顔と、余所の嫁しかない。
 道子は自身にちっとも似ていない子の頭を撫で、疲れたように微笑みながら「でも生きてはいけるから」と言った。そのとおりだった。並み一通りの暮らしは出来た。苛められたり扱き使われることもなかった。月に数度、決められた日に亭主と宛がわれた男と番い、運が良ければ――或いは悪ければ――子供を産む。求められたのはそれだけだった。外界と変わらぬといえば、変わらない。
 この里の者にとって、余所の嫁は血脈を継ぐために必要な家禽であった。生活に必要なものだから優しくされた。実直な鍛冶師の家系の者達は、道具を大切にし長く使う方法を心得ていた。
 男たちの手で道子が木から下ろされる。戸板に横たえられ、毛布を掛けられた。誰かが囁くように「やっぱり余所の人はここに馴染めない、可哀想に」と言った。
 その場を離れようとすると、男に呼び止められる。「今日はたたら場は開けねえよ、弟にそう伝えてやってくれ」と言われ、低く肯じた。
 弟、というのは夫の弟だ。義弟である。癲狂であった。
 裸足で大路を何事か喚きながら行き来し、夜中に半裸で刀を手にうろついている。極度の癇癪持ちで、些細なことで怒鳴られたことは一度や二度ではなかった。
 一族の鼻摘まみ者である。赤子の時分によそへやられた。だが、里ではそう嫌われているわけでもないようであった。鍛冶の腕がいいのだという。ここではそれで多少の瑕瑾は許された。むしろその奇行も、鬼才の愛すべき戯れであると捉えられている節があった。
 だが、夫は義弟を蛇蝎の如く嫌っていた。家長の己を差し置いて里長の直弟子で、家長の己より鍛冶の腕を認められているからだ。放逐されたきちがいの癖に、一族の恥さらしだ、と夫は彼を面と向かっても向かわなくても罵倒した。義弟は気にした風もなかった。それがいっそう夫を苛立たせているのを肌で感じた。
 木戸を叩き、中に声をかける。しばらく沈黙があり、低い声で応えが返ってきた。引き戸を開ける。うっすらと埃の積もった玄関先は、男の独り暮らしにしては片付いていた。正確には何もなかった。
 何もない一間に男が何をするでもなく座っていた。義弟であった。今日は機嫌を損ねていないらしい。

「洗濯物を置きに来ました」

 感謝の言葉も、そうかの一言すらない。洗って乾かした着物を行李に片付けていく。義弟はまるで室内に誰もいないかのように振舞っていた。

「それから、今日は鍛冶場は開けないと」
「なんだと」

 初めて口を開いた。穏やかな声音ではなかった。

「なんでだ」
「さあ、私には」
「お前、小便くせえな」

 着物の袖を握り、鼻先にやる。そんなことはなかった。樟脳のにおいがした。においそうなほど生々しい亡骸ではあったが、においが染み付くほどではなかったろう。

「人死にか」
「――は、」
「金屋子は躯を好む」

 それだけ言うとずかずかと己の背後まで歩み寄り、ぬっと手を突き出すと行李から着物を一枚取り上げた。男の体臭が鼻先を掠める。においまで夫に似ている気がした。

「ばかだな」

 それが誰に向けられたものかよく分からなかった。己か、道子か、里の鍛冶師か。
 義弟はそれだけ言うと引き毟るように着物を脱ぎだした。ぎょっとして顔を背ける。落とされた汚れものを拾い上げ、籠に入れた。部屋の中から洗濯の必要なものを選び、拾う。ふと顔を上げると義弟は着替えを済ませ、ふらりと外に出ていくところであった。鍛冶場に行くのだろうか。開いていないというのに。
 そのまま義弟の家を後にする。あの様子であるから四十を前にして妻もとっていない。身の回りの世話は、夫に命じられて己がしていた。厭ではなかった。何かをしていれば気がまぎれたし、義弟は相手が里の者であろうと余所の嫁であろうと等しく話を聞かない。愉快ではないが、痛快ではあった。
 家に帰る途中で、道子の夫とすれ違った。葬儀の手配をしているのか慌ただしい様子だった。それを労わるように顔のよく似た女が寄り添い、慰め励ましていた。
 その二人に軽く頭を下げ「お悔やみを」とだけ言う。二人はいかにも苦しそうに眉をひそめ、一礼した。


 道子が荼毘に付されてから一月が経とうとしていた。ここでの生活はどうであれ、彼女は子供は愛していた。己との血脈を感じられぬ程、里の顔をした子供であった。優しい女であった。いい母になっただろうに。
 遺された子供は、父親と、父親によく似た女が育てていた。家族だった。みな顔が同じだった。怖気をふるう。
 きい、きい、と軋む音がする。道子のぶら下がる枝が軋む音に似ていた。時折彼女の夢を見た。だが白昼夢ではなかった。隣室の床が軋む音だった。
 隣室では夫が、同じ顔の女と睦みあっていた。抑えた声と吐息が耳に障る。悪いな俺がこんなばかりに、いいえいいのよ仕方ないのよ、俺が愛しているのはお前だけだよ、ええ分かってるわ、今晩は件の、ああ元気な子が出来るといいわねあなたに似て、お前に似ればいいのに、まあうふふ。
 どちらも同じ顔で何を言っているのだろう。夫と同じ顔の女は、従姉妹であったか、又従姉妹であったか、そう近くはない親類の女であるという。なのに双子のように似ていた。そして幼い頃から愛し合っていた。
 戸籍としては近くはないが、女の母が夫の祖父の妹の子で、父の母が夫の曾祖母の姪と祖父の弟の子で――、いや、どうであったか、一度聞いたような気もしたのだが絡み合う血の線があまりに複雑できちんと辿る気にもならなかった。
 とにかく血が濃すぎて、さすがに結婚し子を成すことは認められなかった。だが、夫は女を深く愛していた。他の妻を娶ろうとしなかった。余所者の己に言わせてみれば、その女であろうと他の女であろうと血の濃さも顔もさして変わらぬのではないか。だが、そうは思わなかったらしい。
 余所の嫁には家は任せられない。この里は「特殊」だから。家を任せ、子を育て、支え合い、愛し合うには、里の女でなければならない。それはこの里では当然のことだった。一欠片の悪意もない。空は青いのと同じくらい自明の理であった。
 余所者の嫁をとった男は、大抵里の女を傍に置いた。そういうものであった。夫もそうした。結婚し子を成すことは余所の嫁にやらせることとし、真に愛した女を傍に置いた。
 夫は初恋を貫いた誠実な男だと讃えられた。女は分別のある出来た女房だと讃えられた。では、己は何者であろうか。何者でもなかった。
 乱暴に手にしていた籠を落とすと、隣室が静まり返る。きい、きい、と軋む音だけがやまない。やがて隣室の障子戸が開けられ、きしきしと床を軋ませながら背後に夫の気配が近付く。
 いたのか、と夫は言った。いた。朝に用事を言いつけられ、それから帰って洗濯をしていた。義弟の汚れものであった。
 悪い男ではないのだろう。穏やかで、義弟を罵るとき以外は声を荒げたことなどなかった。邪険に扱われたこともない。女への一途な愛情など、傍で見ていて気恥ずかしいほどだ。
 もしもこれが普通の結婚であったら、或いは己が里の女であったら、きっと己は十分に幸福だったろう。
 夫は気まずそうな顔をしながら「今夜行く」と言った。あれだけ恥知らずな真似をしながらいまさら恥じ入っているのが、ひどく滑稽であった。
 はい、と短く答える。夫の後ろから同じ顔の女が現れて、上機嫌に、だがどこか複雑そうに「今日は精のつく夕食にしましょうね」と言った。狂っていると思った。何もかも。だがここでは疑問を差し挟む余地の無いほどそれが当たり前だった。疑問を感じる方が狂っているのだ。
 鬼を倒す刀、強く、美しく、確かなものを作ることだけが尊い。
 籠に義弟の着物を入れる。夫は自分が世話をしろと言っているにも関わらず、着物すら目の端に入れることも厭わしいという顔をした。
 それは昼のうちに届けておいで、と女に言われ、浅く頷く。十あまり歳上であろう女は、己よりよほど若々しく満ち足りた顔をしていた。愛されているからか、子を産まなかったからか、刀を作るという尊ぶべき大義に疑い無く心身を捧げているからか。
 籠を抱え上げ、軽く頭を下げる。女は一片の疑問も悪意もない様子でにこやかにいってらっしゃいと言った。
 きい、きい、と耳の奥のどこがで枝の軋む音が聞こえた。道子は「何かあったら相談してね、ここは変わっているけど、悪い場所ではないのよ」と言った。何か頼ることはなかった。頼ったところで彼女に何ができただろう。だが精神的な支えではあった。相談する前に、彼女はさっさと一抜けてしまった。
 死ぬなら川に身を投げるのがいい。どこか体の一部だけでもいいから、この里の外に流れ着いてはくれないか。
 義弟の家の戸を叩く。しばらくの沈黙のあと、応えがある。木戸をひいた。埃っぽい、何もない玄関。入りますよ、と声をかけると、いつもどおり返事はなかった。中から古びた床がきい、きいと軋む音がした。
 中に入ると義弟は座って部屋の壁に寄りかかっていた。膝を立てて座り、足の間で何かをしている。刀の部品でも弄っているのか、といつもどおりに行李に近寄る。義弟の前を通りすがってぎょっとした。
 義弟は着物の前を緩め、逸物を握っていた。それを擦っている。それがどういう行為か知っていたが、理解するのに時間がかかった。
 視界が赤みを帯びてぐらぐらする。耳の裏に心臓があるようにどくどくとこめかみが脈打った。言葉を失い立ち尽くしていると、義弟はちょっと顎を上げて「立て込んでんだよ、見てわかんねえか、さっさと去ね」と言った。
 咄嗟に抱えていた籠を義弟に投げつけた。着物がばらばらと床に落ち、広がる。そこで初めて義弟は手を止め、視線をこちらに向けた。

「なんだよ」

 ひ、ひ、と痙攣のように息をする。腹の底から熱いものが込み上げる。気付けば義弟の胸を蹴飛ばし、縋るように掴みかかっていた。厚く、硬い体は思い切り蹴飛ばしてもびくともしなかった。

「ばかにしやがって! ばかにしやがって! 兄弟揃って! ちくしょう! ちくしょう!
狂ってる! あんたらみんな狂ってんだ!」

 泣きながら胸倉を掴み、何度も殴り付ける。胸に爪をたて引っ掻く。義弟は白々とした目で見上げてきた。

「うるせえな、生娘でもあるまいに」

 ひゅうう、と喉が鳴る。平手で義弟の顔を殴った。面が吹き飛んでいった。夫に瓜二つの顔が露わになる。同じ顔のくせにいがみ合って、ばかみたいだ。
 義弟の首に手をかける。太い頸をしていた。手のひらに尖った喉仏が当たる。床に引きずり倒し、馬乗りになり、頸を強く押し潰す。尻に硬いものが当たった。気味が悪かった。退けようとそれを握り、ふと思い立つ。
 己の着物の裾を割り開き、女陰に押し当てる。それほど痛みは感じなかった。怒りのあまりであろうか。それとも慣れた形であったからであろうか。そんなところまで似るものか。

「あんたの嫌いな弟と番ってんだ! ザマァみろ! あははははは!」

 義弟の頬に爪を立てる。その手を緩めず首まで下ろした。顎から首に赤く蚯蚓張れが出来た。
 義弟は眉をひそめ、首の蚯蚓腫れを確かめるように指先で触れた。それから鼻を鳴らす。

「あいつ変態だろ。俺ァ自分とおんなじ顔の女とまぐわうなんかごめんだ。気持ち悪ィ」

 兄嫁に自慰を見せるのはいいのか。兄嫁と番うことも。そして己は夫と同じ顔をした男に抱かれている。みんな、狂っている。
 義弟の首を絞め上げ、腰を打ち付ける。筋骨逞しい鍛冶師には些細な暴力であったろうに、義弟は抵抗一つしなかった。快楽に、苦痛に喘ぐでもなく、眉間に皺を寄せて見つめてくる。不愉快だった。

「死ね、死ね死ね死ね、みんな死んじまえ」

 げほ、と義弟は一つ咳をした。空気が足りていないのか、顔が徐々に紅潮していく。これが過ぎると、道子のように黒く紫になるのか。

「ころしたいのか」

 圧し潰された喉で義弟が言った。思わず手が緩む。義弟は手をこちらに伸ばしてきた。大きな分厚い手は片手で己の首を一回し出来そうな程であった。

「じゃあ潰すのは喉じゃねえ。こっちだ」

 首の両脇を指先で強く押される。そのままぐるりと体を入れ替えられる。床に押し付けられ、首を引っ掴まれ、そのまま乱暴に腹の奥を穿たれる。息をしているのにあっという間に息苦しくなる。痛いとか、厭だとか、思う前に頭がふわふわとして、眠るように意識を失った。このまま死んでしまいたいと思った。

「死んだかと思った」

 目を覚まして開口一番にそう言われた。義弟はだらしなく前の開いた着物をぞろりと被っていた。顔にも首にも胸にも引っ掻き傷に血が滲んで乾いていた。
 体を起こすと、股の間からだらだらと青臭い汁が流れていく。この男もこういう体液を流すのか。義弟には融けた鋼が流れていると思っていた。

「孕めばいい、どうせあんたら血が濃いんだ、おんなじ顔が産まれる」

 吐き捨てると、義弟はさして興味も無さそうに着替え始めた。ふと着替えの手が止まり、充血した目を向けられる。
 
「お前、死ぬならたたら場で死ね。金屋子が喜ぶ」

 面をかぶり、手拭いを巻けば、傷も見えない。いつもどおりだ。きい、きい、と床が軋んだ。家を出ていく後ろ姿に、怒鳴り付ける。

「あたしは川で死ぬんだ! 爪の一枚でも外に出てやる!」

 そこで義弟は唐突に振り返ると、顔も分からぬ面の向こうで「そうかい、励みな」と言った。この里に来て初めて会話らしい会話ををした気がした。