真夜中の土砂降り、枯れかけの向日葵
鋼鐵塚蛍は己に妻がいることを自ら口外しない。別に言い触らすものでもなかろうし、伝えたところで何だというのだろうか。それが刀の出来の良し悪しに影響するのか、剣士は己の刀を損なわなくなるのか。そうでなければ鋼鐵塚にとってそれを口にする意味はない。
里の者であれば当然築炉のことを知っている。結婚の経緯も、結婚当初の揉め事も、果ては鋼鐵塚が知らない築炉の好きな食べ物や傾倒する歌人、家の裏に住み着いた猫をこっそり可愛がっていることだとか、そんなことまで知っていてぞっとしない。
里の外の者が鋼鐵塚が妻帯していることを知ったとき、大抵は絶句し言葉を失い数十秒から数分は「は?」とか「え?」しか言わなくなる。その後、聞かれることは大別して「本当か」「どんな女だ」「夫婦仲はどうだ」の三つである。一つ目の質問は簡潔に無礼だ。嘘などつくか。
残りの二つに関しては、なぜそんなことを聞くのかが分からない。それを知ってどうする。
どんな、が外貌に関して言っているなら、だいたい人間なんてほとんどは目の玉が二つに鼻が一つに口が一つだ。口は二枚の唇に分かれていて、上下に開閉して物を喋ったり、食べたり飲んだりする。
これで築炉が口が左右に分かれて飯を食うというのであれば「口が左右に分かれて飯を食うので面白い」とでも言えるが、別にそんなこともない。普通の人間と変わり映えのせぬ口をしているくせに、いまだに飯を食うのが遅くてへたくそなことに苛立たせられる。だが「どんな女だ」「飯を食うのが遅い」という返答はさすがに要求されているものとは違うと鋼鐵塚でさえ判断した。
気性に関しては「手がかかる」と答えると全員違わず「お前が言うな」と言う。聞かれたから答えてやったのにどういう了見だと毎回憤慨する羽目になるのでこれも答えるのが面倒くさい。
実際ひどく手のかかる女だ。生きているのか死んでいるのか曖昧で、ついでに今は人なのかそうでないのかも怪しい。鋼鐵塚が見張っていなければどうにかなってしまいそうで、それを本人も良しとしている節がある。甘ったれている。気に喰わなかった。
加えて夫婦仲だって至って普通だ。良くもなければ悪くもない。とりたてて言うほどのこともない。
そういう理由で鋼鐵塚は妻の話を里の外では滅多に口の端に上らせない。あいつはいつまでも独り身だと笑いたい奴は笑わせておけばいい。
隊士たちの間で話題になっているという「蟲柱と恋柱、嫁にするならどっちがいい」という問いに対して、鋼鐵塚はうっかり「築炉以外の女房は想像つかねえ」と答えた。言ってから、心の内で「ああクソ、しまった」と思った。
善逸がぎゅっと眉をひそめる。
「え、誰ですか」
無視してやり過ごそうとすると、炭治郎が悪気なく「奥さんだよ、鋼鐵塚さんの」と言った。善逸はしばらくの間「は?」と「え?」だけを繰り返した。その発作が治まるまで鋼鐵塚は新たに打った刀の話を炭治郎に滔々と説く。
「実在だったのかよ!!!」
善逸の悲痛な絶叫に鋼鐵塚は刀から顔を上げた。
だからなぜ嘘をつく必要がある。面倒くさいので一発ぶん殴ってやろうかとも思ったのであるが、善逸が顔中の穴という穴から水分を垂れ流していたので躊躇する。耳から出ているそれはいったい何だ。
「炭治郎の冗談だと思い込もうとしたのにいいい! しかもしれっと惚気られたか今! 非実在配偶者であれよ! チクショー!」
床の上で釣り上げられた海老のようにのたうつ善逸を見下ろし、鋼鐵塚は面の下で顔を顰める。
「なんだよ」
炭治郎は眉尻を下げて困ったように微笑んだ。
「善逸は鋼鐵塚さんに奥さんがいることを受け入れられないみたいで」
「受け入れるもクソもあるかよ、単なる事実だぞ」
鋼鐵塚が言うと、善逸がぞろぞろと床を這い、鋼鐵塚の足首をがっちりと掴んだ。
「ひひい、おきれいと噂の奥さんですもんねえ、そりゃ隙あらば自慢したいよなあ、ええ?」
「ああ? ツラの話か? 別に並みだぜ。そいつの世辞を真に受けるんじゃねえ」
「余裕ぶるんじゃないよ!!!」
「炭治郎! なんなんだこいつは!」
炭治郎が何か言う前に、善逸が鋼鐵塚の足下に全身で絡みつく。男をぶら下げて歩く趣味はない。女だって御免だ。鋼鐵塚は善逸を振り落とそうと部屋の中を引きずって回る。
「どけ! 離せ!」
「じゃあ奥さんがどんな顔か教えてください!」
「は、な、せ!」
「教えてくれるまで離しませんよ!」
「うるせえ、離せ! 離せよ!」
「ちょ、はが――」
「離せ! 今すぐ離せ!」
「なんなんですか、そこは「仕方ねえな、教えてやるから離せ」って言うところでしょ!」
「は、な、せ!!!」
思い切り足を引くと部屋中を引きずり回されぼろぼろになっていた善逸が「ウワァ大人げない!」と叫びながら外れて転がっていった。鋼鐵塚はぜえぜえと肩で息をする。随分としぶとかった。
蹲っていた善逸がごろりと仰向けになり、血走った目で鋼鐵塚を見上げる。
「……銀幕女優でいったら誰に似てますか」
「活動写真は観ねえ」
「じゃあ、鬼殺隊の隊員なら誰に似てますか!」
「剣士共の顔なんざいちいち覚えてられるか!」
「真面目に答えてくださいよ! こっちはな! 鋼鐵塚さんでも結婚できるのかって希望と、鋼鐵塚さんでも結婚できるのにって絶望の瀬戸際なんだよ!!!」
「めちゃくちゃ失礼だなテメエ!!!」
善逸の胸倉をつかむと、炭治郎が二人の間に割って入る。
「まあまあ、善逸の言うことも尤もなんですし」
こいつも大概失礼だ。
「それに、俺も鋼鐵塚さんが築炉さんのことをどう思っているかはちょっと気になります。築炉さんは鋼鐵塚さんのことをよく手紙で教えてくれるんですけど――」
鋼鐵塚は面の下で顔を歪める。右手で善逸の胸倉を掴んだまま、左手で炭治郎の首根っこを捕まえる。
「なんだと、あいつ、勝手なことしやがって」
「ぐえ、く、くるしい」
「何を聞いた、場合によっちゃただじゃおかねえ」
「鋼鐵塚さんが教えてくれたら言います!」
鋼鐵塚は両手を離す。ぼとぼとと二人が床に落ちた。善逸がじっとりと鋼鐵塚を睨み上げる。
「奥様のお顔立ちは如何様なものでしょうか」
慇懃無礼な物言いである。鋼鐵塚はカチンときたが、ぐっとそれを飲み込み鼻を鳴らした。
「たとえ弁天だったとしてもお前にとってはババアだろうがよ」
それを聞いた途端善逸は血走った目を剥いて鋼鐵塚に掴みかかった。
「女の子はいくつになっても女の子だろうがッ!!!」
善逸の顔面の圧力で思わず仰け反る鋼鐵塚に、炭治郎が「今のは善逸が正しい」と言う。そうなのか、そんなわけあるか、いやどうなんだ、知ったことか、女の子ってなんだよ、俺の女房だぞ、どうしようってんだこいつは。
鋼鐵塚は善逸の顔を鷲掴みにすると押し戻す。
「目ん玉二つ! 鼻一つ! 口一つ! それ以上の何が知りてえ!?」
先ほどまで興奮しきっていた善逸の顔が、鋼鐵塚の手の中で「すん」と血色を失った。
「え、鋼鐵塚さん、それ本気で言ってます?」
「……どういう意味だ」
鋼鐵塚が問い返すと、善逸は途端に満面の笑顔になる。
「愛想尽かされるのもすぐですね! ウフフ!」
「おい……おい、待て、どういう意味だコラ」
善逸の襟を引っ掴んで揺さぶるも、善逸はへらへらと笑うばかりで揺さぶれば揺さぶるだけぐにゃぐにゃするだけだ。鋼鐵塚は炭治郎を睨む。
「めおとでツラなんか気にするもんかよ、なあ」
「築炉さんは鋼鐵塚さんのことを面の下も素敵だと言っていましたよ」
「小僧相手になんつーこと言ってんだあのバカは!!!」
思わず善逸を投げ落とす。
「あと、意外と人っぽい顔をしていてびっくりしたとも言っていました」
それはよく言われるからどうでもいい。
鋼鐵塚は面の下で溜息をつく。築炉がそう言っているのなら、己も何か言ってやらなければ気が済まないという奇妙な対抗意識が芽生える。
「お前、ほら、あいつはあれだ……あれに似てる……」
言いながら考えるが、どうにもいい喩えが思い浮かばない。思い出そうとすればするほどどんな顔であったか思い出せなくなる。
火男面でぐるぐると首を傾げる鋼鐵塚に、炭治郎は「花で喩えたらどうですか」と言った。花、と鋼鐵塚は口の中で呟く。藤の花が好きだとは言っていたが藤の花に似てはいない。そもそも人と花が似ていることがあるのか。人は動物だし花は植物だ。しばらく考えた後に「向日葵に似てる」と言った。
「向日葵?」と炭治郎は首を傾げる。腑に落ちていない顔であった。
「枯れかけの向日葵は、こう、首落とされるのを待つみたいに項垂れるだろ」
「ああ、そうですね」
「あいつに似てる」
「いくらなんでもひどいですよ」
呆れる炭治郎に鼻白む。花に喩えろと言ったのは炭治郎である。
別にいい。あんな奴は枯れかけた向日葵で十分だ。鋼鐵塚はにこにこと笑うばかりの善逸の肩をどつくと、痛みに呻く善逸を無視して荷を纏め始めた。
今すぐ帰って何か言ってやらなけりゃ気が済まないと思った。
******
鋼鐵塚築炉は亭主の愚痴をこぼすことがない。まずもって口下手な性質であるので、里の女たちのように軽妙に面白おかしく話すことが出来ない。
女たちがからからと笑いながら軽やかに話すのと、築炉が目を伏せ眉を寄せしおしおと話すのでは、同じ話でも受け止められ方が違う。聞いて面白いと思ってもらえない話は、話していても面白くない。
そうは言え、からから話せばいいのかとなると、それは難しい。築炉は何を話しても人情噺のようだとよく言われる。聞いている分には面白いので築炉はもっぱら聞き役であった。
あの鋼鐵塚の女房では大変だろう、苦労も多かろうとよく言われるのではあるが、実のところそうでもない。気性に難のある男ではある。極度の癇癪持ちで並外れた激情家だ。人の話は聞かないし、ひどく子供っぽい。それは築炉も承知している。
だが、良くも悪くも他人にも自分にも興味のない男である。この世の終わりのように怒り狂っても、瞬きのうちにけろりとして腹が減ったと唇を尖らせる。人の話は聞かないが、自分の話が聞かれなくても気にしない。夕立より烈しく、夕立よりあっさりしている。唯一執心するのは刀剣に関することだけであるが、築炉がその逆鱗に触れることは幸か不幸か機会がない。
怒ることで周囲を威圧し思い通りにしようであるとか、当たり散らしてすっきりしようであるとか、どうやらそういう下心は一切無いものであるらしい。ただただ無心に怒っている様子は真夜中の土砂降りのようで見ていて清々しい。遠くて激しい雷鳴と同じようにあまり嫌ではなかった。続けば多少うんざりはするが。
細々とした日常の不満を上げればきりがないのであろうが、人間というものは慣れるものである。驚かされたことは数知れず、今でさえ何度となく驚かされるが、驚くことに慣れてしまった。
それに、己が鬼と成りかけたときの鋼鐵塚の献身を築炉は忘れていない。きっと死ぬまで――あるいは、人でなくなるまで――忘れることはないだろう。たとえ奇矯で理解を拒み思うところの分からないことがあっても、この人は己の手を離すことだけはない。築炉自身が望んでさえ。残酷で優しくて身勝手で頼もしい人だ。それを築炉は知っている。
何にも代えがたいことだと思う。多少の瑕などいくらでも目を瞑ることが出来る。目を瞑りすぎて足下がおぼついていない気もするが、それは仕方がないと割り切ることにしている。
そういう理由で築炉は亭主の話をほとんどしない。褒めても貶しても楽しくないからだ。亭主に不満がないのでも、我慢強い貞淑な妻だというのでもない。
里の女達が亭主の女遊びについて喧々諤々と意見を交わしている中で「築炉さんは旦那に浮気されたらどうする」と言われ、築炉は「蛍さんが……」と呟いたきり黙り込んで膝を見つめてしまった。場の空気が凍り付き視線を集めてしまってから「ああ、どうしよう」と思った。
掛け湯をしていた鉛が笑いながら築炉の隣で湯に浸かる。
「鋼鐵塚さんが? まさか」
築炉は白く濁った湯に肩まで沈む。
「鉛さんのところはそう言えるのでしょうけど」
何しろ鉄穴森といえば職人気質のこの里にあってさえ生真面目で勤勉で穏やかで誠実な男である。そのうえ妻である鉛をいまだに初恋のように慕っている。
「だって、鋼鐵塚さんが作刀以外に興味を持つことなんてないでしょう」
ない、と言い切られる。そうなのかもしれない。築炉は煙る水面に向かって溜息をつく。
「でも、予測のつかない人ですから」
「ああ、そうねえ、それは確かに……」
何かの拍子に雷に打たれたように余所の女に夢中になるかもしれない。いや鋼鐵塚はいつでも築炉の予想の遥か斜め上をいく。もしかしたら相手は男かもしれないし、まかり間違えば鬼に惚れこむこともあるかもしれない。明日いきなり山羊を連れてきて「今からこいつを女房にする」と追い出されてしまうかもしれない。常にそのくらいを覚悟している。
そう言うと、鉛も他の女たちもしんとして口をつぐんでしまった。「そんな生活耐えられないわァ」と誰かが呟くのを皮切りに、女たちは揃ってそうだそうだと言い交わす。そういうつもりで言ったのではなかった。ちょっとした冗談であったのに。
「じゃあ、蛍のあほが余所の女でも男でも山羊でもエイでも夢中になったら、築炉ちゃんはどうするのさ」
問われ、築炉は肩を竦める。湯に浸かる女たち全員の視線を集めてしまって居心地が悪い。
「……悲しみます」
「あとは?」
「あ、あとは……?」
鉄仲本が鼻を鳴らす。
「あんたねえ、曲がりなりにもこの里の女なんだからいつまでもそんな弱腰じゃ駄目よ。一発引っ叩いて舐めるんじゃないよくらい言ってやりな」
「た、叩く……」
「どこでもいいわよ、顔でも尻でも」
「おしりを」
はあー、と築炉は息を吐きながらずるずると湯に沈んでいく。鼻まで浸かりそうになって慌てて体を起こした。
金城が同情するように築炉の裸の背をばちばちと叩く。
「嫌になったらお言いよ。この里じゃ釣り書きに「鋼鐵塚蛍にウン年連れ添いました」なんて書いたらもうどこにでも嫁げるんだから」
「さ、さすがに三度は――」
「じゃあどこかで稼ぎなさいな。忍耐強さはお墨付きじゃないか。どこの女将も喜んで雇い入れるよ」
「いまは――」
「なんならあたしが口利きしてあげるわよ」
「え、いえ、そんな――」
「金野のとこの後妻にどうだい。野暮だが真面目ないい男だよ」
「あ、あの――」
どうしてか別れることが前提で話が進んでいる。困り果てておろおろし、何と言ったらいいものか迷う。
「そんな、十分に――大切に、して頂いております……」
どうしてこんなことを言わされる羽目になってしまったのだろうか。湯に沈んでしまいそうになっている築炉を鉛がくすくすと笑った。
「あんまり築炉さんをからかわないで差し上げてくださいね、ああ、面白いやら可哀想やら」
女たちはいっせいに噴き出す。
「ごめんねえ、あんまり面白くって」
「はいはいご馳走様ご馳走様」
「まさか鋼鐵塚を羨む日がくるとはね」
湯あたりでなく頬が熱くなる。鉛が真っ赤になった築炉の首筋を指先でつつく。
「あら、愛咬の痕」
「――ひ、」
築炉は慌てて首元を押さえる。鉛は肩を震わせて笑った。
「う、そ」
女たちがどっと笑い囃し立てる。築炉は両手で顔を覆って俯いてしまう。
「もうあがります……」
のぼせそうであった。
******
道祖神の傍らに築炉の姿があった。どうしてこんな里の外れまで出てきているのかと鋼鐵塚は訝しむ。今日帰るとは伝えていないはずだ。本当はどこかで寄り道して明日か明後日かに帰るつもりであったのだ。ああ、くそ、土産を買い損ねた、と鋼鐵塚は舌打ちする。
「お帰りなさいませ、お疲れ様です。ご無事でよかった」
鋼鐵塚を見つけた築炉はゆらゆらとした足取りで鋼鐵塚に近寄るとそう言った。
「別に俺が鬼とやり合うわけじゃねえ」
「そうですね」
お荷物お持ちしましょうか、と築炉は言う。鋼鐵塚は鼻を鳴らして己の荷を築炉に持たせた。鋼鐵塚が手を離した途端築炉はよろよろとたたらを踏む。
「お前にゃ無理だ」
荷物を取り上げ、さっさと里の方に足を進める。築炉が小走りで後をついてきた。
鋼鐵塚は背後に声をかける。
「なんであんなとこにいたんだ」
あんな里の外れの何もないところ。人通りは全くないのでそういう意味では危険がないが、獣が出る。
「少し……涼みたくて」
「なあ、お前、何かに似てるって言われたことあるか」
「それに、風鈴の音が聞こえた気がして」
「お前のツラを教えろと詰められるんだよ」
「――はあ、特徴のない顔ではありますものね」
築炉はつるりと頬を撫でる。
「陰気臭くてしゃれこうべのようだと言われたことはありますよ」
「そりゃあな、人間皆皮剥けばしゃれこうべだろう。――おい、風鈴の音がそこまで聞こえるかよ」
ふふふ、と笑う声がした。鋼鐵塚は背後を振り返る。数歩後を築炉が歩いている。ただでさえ声が小さいというのに、こう離れていては話しにくい。
鋼鐵塚は築炉の手首を握って引っ張る。
「歩くのが遅え、引き摺られたくなきゃしゃきしゃき歩け。そうでなきゃ声を張れ」
蹴躓きそうになりながら築炉は鋼鐵塚の傍らに並ぶ。鋼鐵塚はふと眉をひそめた。
「お前に言ってやろうと思っていたことがあった」
「なんでしょう」
「忘れた」
「あら」
「すげえ怒ってたんだよ、それだけは覚えてる。なんだったか――お前が向日葵に似てるって話はしてたな……」
「お花に喩えていただいてうれしい」
「お前があんなとこに立っているから忘れちまったんだ」
鋼鐵塚は築炉の手を放し額を小突く。白い額が指先にひんやりとした。築炉はにこにこと笑っている。炭治郎には呆れられた気がするが、築炉が喜んでいるのでまあいいだろう。
すぐにまた築炉が遅れだすので手首を掴む。ぐいと引っ張ると築炉は笑ったまま眉尻を下げた。
「恥ずかしい、子供みたいに手を引かれて」
「お前はガキより手がかかる」
「一人で歩かれますよ」
「余計なことをぐずぐず喋ってるから遅えんだ。黙ってろ」
築炉の返事がない。鋼鐵塚は築炉を睨んだ。
「なんとか言え」
「……蛍さん、エイはお好きですか」
「はあ!? 魚の話なんかしてねえだろ、人の話を聞けよ」
そうでしたか、と築炉は首を傾げる。鋼鐵塚は息をつく。どこかの家から飯の炊けるにおいが漂ってきていた。鋼鐵塚の腹が鳴る。
「腹が減ったな、夕飯は」
「簡単なものしか。でも蛍さんがお帰りになりましたから、魚を焼きます」
「エイか!」
「いいえ、鯵ですけれど」
「なんなんだよ」
そもそもエイは食べられるのか。寡聞にして知らないのであるが。築炉は何事かぽそぽそと言いながら鋼鐵塚の手をくすぐる。
「ほ、蛍さん、そろそろ人通りがありますよ、手を離してくださいな、恥ずかしいですよ」
「そうだ、言い忘れていた、帰ったぞ」
「お帰りなさい、蛍さん、あの――」
いっそう足取りの重くなる築炉を鋼鐵塚はずるずると引き摺った。里の道に築炉の草履の跡が二本残る。
そりを曳く子供のように女房を引きずる鋼鐵塚と、困り顔で引き摺られている築炉を見た里の者は「あの二人、またやっているな」と呆れとも同情ともつかない視線を向けた。