栄耀、静寂、快楽(二)
眼前の白面に一発拳をいれると、銀四郎は小さく呻いて仰け反った。顔の上にぼとぼととぬるい鼻血が降り注ぐ。銀四郎は手の甲で顔を拭うと、血で汚れた手で鋼鐵塚の袴の腰紐をほどいた。きゅるきゅる、と衣擦れの音が妙に不吉に耳に障った。
鋼鐵塚は続け様に銀四郎の顎と鼻面を殴る。肉と骨が軋む。顔中を血だらけにしながら、男はへらへらと笑った。
「騒がないほうがいいですよ鋼鐵塚の旦那、人が来ちゃうから」
こんなところ見られたらサ、と男は腫れた唇を歪める。鋼鐵塚は顔を顰めて押さえつけられた体で腹に力を入れた。思い切り怒声をあげる。
「おい!!! 誰かいねえのか!!! このボケどかせ!!! クソッ、力強いなお前!!!!!」
「おっとそう来たかい」
銀四郎は血だらけの顔で苦笑いした。その気になれば鍛治の一人や二人抑え込めるのであろうに、甘んじて殴られているその余裕がまた気に入らない。
さすがに鋼鐵塚の大声で騒ぎたてれば耳のある者は異変に気が付く。鍛冶場の木戸がそろりと開けられ、火男面が中を覗いた。覗いた鉄穴森は、着物をひん剥かれ怒りで顔から胸から真っ赤にしフウフウと荒い息を吐く鋼鐵塚を、顔中を血だらけにし止め処なく鼻血を流す銀四郎が組み伏せているのを見てぎょっとし、次いで「助けなきゃ」と思い「いや、どっちを」と躊躇った。
鋼鐵塚が今にも頭の血管という血管が張り裂けそうな顔をぐるりと鉄穴森の方に向ける。
「さっさとこのクソッタレの忘八を引っぺがせ!!!」
そうしている間にも鋼鐵塚の袴は手際よく奪われていく。見たくもない下着が露わになり、鋼鐵塚は飯皿を奪われた犬のような唸り声をあげて猛然と銀四郎の顔面をぶん殴った。
そこまでを茫然と見ていた鉄穴森は、慌てて二人を引き剥がす。鋼鐵塚があれほど抵抗していたのが馬鹿々々しくなるほど、銀四郎は鉄穴森に促されるままあっさりと鋼鐵塚を解放する。
「いったい何なんですか」
鉄穴森が問えば、鋼鐵塚は口の中に溜まった銀四郎の鼻血を地面に吐き捨てながら答える。
「知るか! この馬鹿が急に俺を強姦するってきかねえ!」
「鋼鐵塚サン、そんな言い方しちゃ俺が陰間の変態野郎みたいじゃないですか、やめておくれよ」
「違わねえだろうがテメェ殺すぞ!」
はあ、と鉄穴森は事態が呑み込めないままずれた面の位置を直す。
鋼鐵塚は銀四郎が無理矢理関係を持とうとした、と激怒している。思いつくだけの悪口雑言の散々な罵りようで、刀を壊されたときと同じくらい怒り狂っている。尤も鋼鐵塚の主張が事実であるならそれも宣なるかなである。
対して銀四郎は鋼鐵塚の言うことを否定するでも鉄穴森に言い訳するでもなく、それこそ歌舞伎役者のような顔を腫らしながら穏やかに笑っていた。
外見だけで判断するなら、立場は逆だ。作刀一辺倒の刀鍛冶が年若い青年につい、というならまだ筋道が立つ。だが銀四郎がそう一筋縄でいかない男であることを鉄穴森は知っている。
女にも男にも苦労しなさそうな銀四郎ではあるが、面白がるためだけに三十を超えた筋骨逞しい鍛冶師に狼藉を働こうなどということがあり得るのである。おそろしいことに。
鉄穴森は面の下で溜息をつく。
「私にこんなことを調停させないでください。長に報告しますよ。それでいいでしょう」
「余計なことすんじゃねえ、面倒くせえことになるだろうが!」
鉄穴森の予想に反して、その発言を咎めたのは鋼鐵塚のほうだった。
銀四郎は鋼鐵塚が作刀を担当する剣士である。鋼鐵塚が受け持つ剣士の中ではおそらく最も付き合いが長い。担当を外してくれという依頼は終ぞ無いと聞き及んでいる。だからといって鋼鐵塚がそれに恩義を感じているということはない。そんな殊勝な男であるはずがない。
銀四郎が初めて鋼鐵塚の刀を損ねたとき、鋼鐵塚は当然のように包丁を持ち出し、当然のように銀四郎に切りかかった。鋼鐵塚が丹精込めて打った包丁は柄まで銀四郎の腹に突き刺さり、蝶屋敷の寝台から出たばかりであった銀四郎はそのまま寝台に蜻蛉返りすることになった。
さて、肝を冷やしたのは鋼鐵塚以外の鍛冶師である。呼吸を極め、選別を潜り抜けた鬼殺の剣士を一介の刀鍛冶が殺傷し使い物にならなくしたとあっては長の首一つで済むかどうか。
長の直弟子とはいえ流石に庇い立て出来ぬ、という結論に至ったところで銀四郎の鎹烏が送られて来て、素知らぬ様子で「早く出来上がった刀が見たいのだが、鋼鐵塚はいつ来るのだ」と問うた。
鋼鐵塚は「あんな気味のわりい小僧に刀なんか二度と作ってやるものか」としばらくは頑張ったが、里を追い出されるように遣いに出された。
それから数年は経っているのであるが、一事が万事二人はこの調子である。顔を合わせれば流血沙汰を起こさずにはいられないので、とうとう二人には接近禁止令が出た。実のところそれはまだ解除されていない。
そうではあるのだが、銀四郎は「鋼鐵塚の刀を使えないのであれば鬼殺隊をやめる」と言う。鋼鐵塚は鋼鐵塚で己の刀が損なわれれば草の根分けてでも銀四郎を探し出して煮るなり焼くなりせねば気が済まない。別に互いが互いの顔を見たくないというわけではない。接近するなと言って聞かせて聞くタマでもない。どうにもならないのだ。
無闇矢鱈と禁じて監視のないところでどちらかが殺されるよりは、ということで黙認されているに過ぎない。
鋼鐵塚は怒り狂い銀四郎に掴みかかろうとする。鉄穴森はそれも諫める。
「もういいでしょう鋼鐵塚さん、ほら、着物着て、袴穿いて」
「いーや! あと五発は殴んねえと気が済まねえ!」
「やだよ、もうおれの顔殴るとこなんて残ってないよ、勘弁してください」
「舐めてんのか!!!」
話にならない。鉄穴森は仲裁に入ったことを後悔し始めていた。二人の好きにさせておけばよかった。
「銀四郎さんもなんだってこんなことを。ひどい殴られようじゃないですか」
銀四郎は腫れた顔を手でさすり、芝居がかって顔をしかめて見せた。
「なんでって、そりゃ野暮ってもんでしょ鉄穴森サン」
そう言ってシナを作る。鉄穴森は言葉に詰まる。
「えっ、あっ、なんですか、本気で!? 趣味わる……あ、いや、蓼食う、ちがう、好みは人それぞれですけど、無理矢理はいけませんよ……」
言うことはそれでいいのか。鉄穴森は自分でもよく分からなくなる。けらけらと銀四郎は笑った。
「はは、おれはね、鋼鐵塚の旦那が傷付いたところが見たかったの。鉄穴森さん無理矢理突っ込まれたことあるかい?」
「……あ、ありませんよ! 何言ってるんです!」
「はは、あはは、あのひと、傷付いたりするんですかね、刀とか、作れなくなっちゃうのかな、ははは」
「よしてくださいよ、あの人から作刀を取り上げたらどうしようもないじゃないですか」
背後から鋼鐵塚に一発殴られた。そのあと銀四郎が三発ほど殴られる。鉄穴森は鋼鐵塚をいつも容赦のない人だとは思っていたが、銀四郎の殴られようを見る限りあれでも手加減はしていたらしい。
「刀を作れなくなった旦那なんて面白くないよ。いっぱい傷付いてサ、悲しいくらい綺麗な刀を作ってほしいんです」
「なんだと! テメエにどうこうされなくたって俺はいくらでもいい刀を打ってんだ!」
「そんな鋼鐵塚サンだから、打ちひしがれたところを拝みたいんじゃないかい」
「気持ちわりいんだよ!」
「あ、ひでえの」
激昂する鋼鐵塚と笑う銀四郎を順に見て鉄穴森は溜息をつく。どちらも性根の正しい人間とは言い難いが、どうにもこうにも相性が悪いのだろう。顔を突き合わせなければいいのにと思うのであるが、そうはいかないものなのであろうか。
「それじゃあ、おれが死んだらどう? 鬼に喰われてさ、カワイソウなくらいバラバラになったら、ちっとは気に掛けてくれます?」
「ンなわけあるか、清々するぜ。墓前に俺の最高傑作をブッ刺して踊ってやる」
「はは、あはは、そりゃいいや」