吹き散ずるは、我が脳漿よ、血よ、肉よ(上)
※男主
帝都の歓楽街は男でさえ美しいものであろうか。喘月と名乗った若い男は、赤い提灯に映える滑らかな白い膚をしていた。
農作業でどこもかしこも黒く日に焼け牛の皮のように硬い己の皮膚とは違う。これほど美しい男が紹介してくれる女には、きっと期待が出来る。すいとこちらに向けられた流し目が、女のものより蠱惑的ではっとして目を逸らす。
農業と稲藁綯いと出稼ぎでやっと手に入れた小銭を握り締めて歓楽街に訪れた正吉は、初めての遊里でまごまごしていた。見るからに田舎者の正吉を嘲笑う視線を浴びながらすごすごと帰ろうとしているところに声をかけてきたのが喘月である。
出来たばかりで名は知られていない妓楼で喜助をしているという喘月は、人懐っこい笑みを浮かべて正吉に見世を紹介すると言った。
遊里で他人を信頼するなんて、と眉を顰められるかもしれないが、喘月の穏やかな微笑は純朴な正吉の心を絡めとるには十分であった。
「里に帰ったらうちの見世をよく言っといとくれな、あんた、正吉サンの紹介ってんなら色付けとくからサ」
先を行く喘月がそう言った。赤い光にぼんやりと白い顔が浮かぶ。額にかかる前髪で、涼し気な目元に影がかかっていた。
「へ、へえ、そりゃ……」
「あんた、歳は?」
「え、っと、十七……」
「はは、あは、おっかさんが心配するんじゃないのかい」
揶揄うようにそう言われ、正吉はむっとして言い返す。
「心配なんてしないさ」
ふうん、と喘月は目を細める。
「ひでえおっかさんなのかい」
そう問われ、正吉は面食らう。
「いや――いや、普通だよ。ただ、心配なんて。俺だって大人だし」
「いくつになっても親は子を心配するもんなんでしょ」
「……喜助が道徳を説くのかよ」
はははは、と喘月は気を悪くした風もなく高く笑った。
「ごめんなさいね、そんなつもりはなかったんです。堪忍しとくれな」
「別に……そんな……」
「男ならちぃっとは冒険しなきゃな。おれァあんたの歳の頃にはろしやにいたよ」
正吉ははっとして目を上げ、荒事とは無縁そうな繊細気な横顔を眺めた。
「兵隊さんだったのか」
「そ、見えねえだろ」
「廓行くより余程親に心配をかけてるじゃねえか」
正吉が零せば、喘月は肩を竦めた。
「死人が心配するかねぇ」
ふ、と血色のいい唇に淡い笑みが浮かぶ。
「……悪い」
「悪かないですよ」
短くそうだけ言われた。ひどく淡々とした態度だった。
正吉は男の顔を盗み見る。
「あんたの母親は別嬪だったろうな」
「――なに?」
「だって、あんたは男なのに、女より余程――」
「ああ? はは、あはは、じゃあおれを買います?」
喘月はちょっと顎を上げ、鼻越しに見下ろすように正吉に視線をやった。正吉は慌てて首を横に振る。
「やめろよ、俺は女を買いに来たんだ!」
「はははは、あはは、冗談、冗談。おれは男娼じゃないよ」
ひとしきり笑うと、喘月は提灯を掲げて月の方に顔をやった。
「どうしようもねえ醜女だった」
ぽつり、とそれだけ言う。正吉は一瞬、何のことを言っているか分からず呆気に取られた。喘月は唇の端を上げる。
「芸妓だったっていうが、どうだろうね。顔はマズいし、唄も踊りも見れたもんじゃねえ。とおーい御先祖様が殿様だっつってなァ、包丁みてえにちっぽけで、包丁より鈍の”おまもりがたな”だけが生きる縁だったのよ。世が世ならテメエはお姫様ってだけが支えの、しょうもねえ売女だったよ」
喘月はそう言うと、目を丸くしたままの正吉を振り向き芝居っぽく笑って見せた。少し傾いだ首が白く月の光を反射する。おれァ親父似よ、と喘月は囁く。
「あんた、真っ当なおっかさんがいて、こんなとこ彷徨くもんじゃないぜ。ここなんかな、息吸ってるだけで肺腑から腐ってくんだ。そのうち脳味噌まで腐って、どうしようもなくなる」
ははは、と喘月は空笑いした。
正吉はその寂しげな背中を見て、数度瞬きする。それから、ふと足を止めると、親切にも先導をしてくれた喘月におずおずと切り出した。
「悪い、喘月さん、やっぱり俺、この金でおっかあと弟たちに土産でも買って帰るよ」
そう言うと、喘月も足を止めてゆるりと振り向いた。そりゃねえだろ、と凄まれるかとも思ったが、喘月は先と変わらず穏やかな微笑を浮かべたきりである。
「あんたには、世話になって、ほんとすまねえんだけど……」
喘月は一歩こちらに踏み出した。提灯の光がぼわりと揺れた。
がつん、と体に衝撃が走るのと同時に、鼻の奥がツンとした。何が何やら分からないままに、両の鼻の穴からぼとぼとと血が垂れた。それから数回、頭が割れるように痛んだ。地面にべたりと何かが落ちて、それが己の髪が生えた頭の皮だと気が付いたときに、やっと頭が割られていることに気が付いた。
「ははは、あは、それじゃこっちが済まねえのよ」
喘月は変わらぬ笑みを浮かべたままそう言った。手には血と髪の絡まった金槌を提げていた。
ひときわ強く頭頂を殴られ、目の奥が押されるようになる。目の玉の奥から血とどろりとしたものが押し出されてくる。よろめく正吉の腹に、喘月は抜き払った短刀を押し込んだ。腹の皮と肉と内臓を、鈍った刃が巻き込み引き裂きながら掻き分ける。腹の周りの肉が痙攣し、震えはやがて指先にまで至る。
少し抜いて、もう一度奥まで刺す。切っ先で何かを探すように、喘月はそれを何度か繰り返した。
逃げようと藻掻く手足は痺れたように力が入らない。地面に蹴り転がされ、正吉は頭を手で庇いながら丸くなる。手にぬるりとしたものが触れた。鼻の奥のさらに奥から絶え間なく血の匂いがした。
「いいね、おっかさんには何を買うんだ、食べ物か、化粧品か、鏡なんか洒落てるんじゃねえか」
言いながら、喘月は正吉の背を蹴りつける。下駄の硬い歯が背中に刺さり、傷が押されて胃が引っ繰り返りそうになるほど痛かった。
どうして、と正吉は痛みから逃れるようにぼんやりと考えた。蹴られるたびに現実に引き戻され、思考はぶつ切りになる。
「土産物とあんたを、お袋さんは喜んで迎えてくれるのかい。膳の一つも用意して、よく帰ったと言ってくれるのかい。ははは」
ごぼ、ごぼ、と何かを言いかけた口からは血ばかりが溢れる。それがどこから出た血なのか知りたくもなかった。
「どうなんだろ、あんた、家、帰れんのかなぁ。おれは知らないんだけどサ、あはは、は」
丸くなる正吉の背に、男は無遠慮に座り込んだ。全身が痛むが、払いのける力も残っていない。ただただ泣きながら震え、わけもわからず許しを乞う。喘月の体が背の上で震えたのが分かった。笑っていた。
「か、かえらなきゃ……げほっ、ぐ、かあちゃん、かあちゃ……弟たちを、食わせなきゃねえんだ、おれ、おれぁ……」
「落語みてえだなァ」
喘月は場にそぐわぬほど明るい調子でそれだけ言うと、藻掻く正吉の項にぬるいものを当てた。先程まで腹の中に収まっていた短刀であった。
――包丁みてえにちっぽけで、包丁より鈍の
不意に喘月の言葉を思い出し、正吉は恐怖で吐きそうになる。いっそ大きく鋭い刃物であってほしかった。
虚ろに地を見るだけの視線の先に、短刀の鞘が落ちていた。武家の守刀というには笑ってしまうほど稚拙な、子供の悪戯のような彫物の入った安っぽい鞘だった。こんなもので己は死ぬのか、と思った。
よぉいしょ、と気の抜けた声がして、耳元でざりざりと砂を踏む音がした。下駄履きの足が短刀の切っ先を踵で押さえる。地面と鈍い刃が、鋏のように己の痩せた頸を挟み込んでいた。
「切れ味が悪いったらねえ。刀ってなァこんなもんかい?」
ぐう、と押し込むように項に圧がかかる。あー、とか、うん、とか言いながら、喘月が背中の上で鈍に体重を乗せた。頸の筋がみりみりと音を立てて断ち切られ、骨のあたりでゴツンと止まる。もうこれ以上痛みらしい痛みも、恐怖らしい恐怖も感じまいと思っていたのに、どうしようもなく痛くて怖かった。
「いつもここで止まんだ。まだ生きてるか。生きてるよな。参ったねぇ、どうすっかねぇ」
喘月は乱暴に短刀の柄を金槌で叩く。一寸、また一寸と刃が勢い良く押し込まれるたびに吐き気がこみ上げ手足がぶるぶるとおかしな動きをした。
「死んだら言えよ、あはは、そりゃ無理か」
正吉が最後に聞いたのはそれだけだった。枝を折るような音が頭の中で響いて、正吉はそれを大事な何かがへし折れた音だと思った。思った頃にはもう息が出来なくなっていて、意識も失った。
皮一枚で繋がった首を見下ろし、銀四郎はこのびろびろしたところを切ってしまおうかと悩んでいた。なんとなく見苦しい気がした。しかし首と体を泣き別れさせてしまうのも、可哀想な気もする。
銀四郎は首はそのままに男の懐を探った。この気温だというのに羽織も着ず、垢じみたぺらぺらの着物一枚きりしか着ていない。女より先に上着を買えばよかったのに、と思った。
紙巻き煙草の箱を探り出し、中を開けると空だったので匂いだけ嗅いでそのへんに放り出した。財布にはまあまあ金が入っていたので拝借する。寒さも煙草も我慢して、やりたかったことが女郎買いとは馬鹿馬鹿しい。
血だらけの手と金槌と短刀を、擦り切れた袴で拭う。提灯であたりを照らして短刀の鞘を探すと拾い上げた。湿気で膨れ上がり歪んだ鞘には刀身が収まりきらず、隙間から曇った鋼が覗く。
はあ、と息をついた。白くなった息が抜けるような紺青の空に立ち上っていく。力一杯振るった金槌を持った手がじわじわと痺れていた。
銀四郎は人斬りであった。維新が遥か昔に成り果てて、昼は文明がにおい、夜は街灯が光り輝き、そんなご時世に黴の生えたような肩書を引っさげている。正確にはそれ以外の何者でもなかった。うらぶれた街娼のオスガキ、母親の商売道具、露西亜征伐の兵隊さん、全て過去のもので、そしてそのどれにも戻りたいとは思わなかった。
銀四郎は人間で、男で、人を殺す。それだけのことだ。定職も無ければ家族もない。
彼を殺したことに理由はなかった。露国から帰って抜け殻のように寝起きしていたときに、ふと目に付いたからだ。朴訥とした横顔が可愛かったし、話を聞けばこちらに知り合いはいなさそうだし、多少姿を晦ましても探す人がいないだろうと踏んだからだ。
銀四郎は人気のない路地裏に座り込んで、少しおかしな形になった彼をぼんやりと眺めていた。どうしようか、と思った。どこかの大きな妓楼と揉めてヤクザ者に刺されたようにしようか、と考える。首が千切れかけているがいけるだろうか。変わり者のヤクザがいるということでは駄目だろうか。おそらく駄目だろう。
どこかから人の声と足音がしたので、銀四郎は薄布の日除けの陰に隠れた。夜も日除けを片付けぬ不精な家があって助かった。
大きな足音が一つ、落ち着いた足音が一つ、追ったり追われたりしながらこちらに近付いてくる。銀四郎は日除けの下で身を縮こまらせた。女のような面をしているとは言われるが、女のように小柄なわけではない。今だけはそれを呪った。
胸のざわつくような音がした。なんだろうかと耳をそばだて、それがおそらく荒い呼吸の音だと気が付いた。だが呼吸にしては妙な感じもした。
ひときわ大きな音とともに人影が二つ現れる。髪を結い上げた女と、洋装の男だ。さして珍しい取り合わせではない。男が大振りの刃物を振り翳している以外は。
なんだい刃傷沙汰かい、おっかねえ、と銀四郎は身を竦める。早くどこかへ行ってはくれないか。
男は気合の一声とともに女に切りかかる。死体が一つでも二つでも変わらないが、あの女まで己のせいだと思われるのは困る。せめて違うところでやってくれ。いや、あの男が二人分をおっ被ってくれるというなら大歓迎なのだが。
そんなことをだらだらと考えていると、女は獣のような身のこなしで刀身を避けていた。見たことのない動きだった。だが、そんなことはどうでもよかった。淡い月の光に照らされる刀が、目を離せなくなるほど美しかったからだ。
青い月の光が反射するからか、緑がかった白色に輝いている。艶々とした粉を塗ったように淡く上品に煌めく。北の冷たい海の、光が届かぬ海の底の真珠は、きっとああいう色をしている。
それが振るわれるたびに、羽衣のような夜に輝く軌跡を残すのだ。
取り憑かれたように美しい刀身を見つめていると、男は何かに足を取られて体勢を崩した。己の斬った男だった。
女は唸り声とともに男に組み付き、首を締め上げると家屋の壁に叩きつけた。がぶ、と湿った呼吸の音とともに、男は銀四郎の隠れている日除け布の脇に叩きつけられる。一瞬、男と目があった。血だらけの顔をして、絶望の滲む目をして、銀四郎を見た。銀四郎はそれに、日除け布の陰からひらひらと手を振った。
男は悲鳴を噛み殺しながら、ずるずると女に引き摺られていく。闇雲に振るわれた刀が、女の横顔に当たって折れた。あの刀は飴菓子か何かで出来ているのだろうか。
真珠のような欠片が、月の光を映しながらきらきらと飛び散った。蛍の幽霊のようだった。ぼうとするほど美しかった。その一片がこちらの方に飛んできて、銀四郎はそれにそろりと手を伸ばす。あと少しのところで届かないので、日除け布から少し頭を出して、指先に引っ掛けて引き寄せる。
爪の先ほどの小さな欠片だった。塗ったものかと思っていた刀身は、割れた断面ですら淡く輝いている。その光があまりに生々しいものだから、欠けた姿を見て「ア、死んじまう」と思った。だから銀四郎はそれを慌てて飲み込んだ。小さな欠片は食道を引掻きながら、すとんと胃の底に落ちていく。
男の魂切るような悲鳴と、粘つく何かを啜る音がした。骨が砕け、肉が裂ける音も。
腹に手を置いて空を見上げていると、肩のあたりにぬるいものがかかった。血だった。勢いがいい。顔の横に肘から先が飛んできて、どさりと音を立てた。己の短刀より短くなった刀身の刀を握りしめたままであった。なんとなく戦地でのことを思い出していた。いい気分はしなかった。
前腕を引き寄せ、握ったままの硬直した指を苦労しながら一本ずつ広げる。やっと刀を手放させると、血で汚れ折れた刀を懐にしまいこんだ。
ふと気がつけば女の姿はなく、血と肉片と男の着ていた洋服の切れ端だけが散らばっていた。見れば己が殺した田舎男の死体も無かった。幸運だと思った。