あへなく心細ければ



「おはようございます、朝食のご用意があります」

 淡々と告げられる挨拶にもだいぶ慣れた。鋼鐡塚が小さく頷くと、築炉はいそいそと膳の準備に厨に向かう。
 鉄穴森が築炉を料理上手だと言っていたが、それは本当であった。手先が器用で要領もいい。いかにも都会風の上品な味付けで、少し物足りないといえば物足りないが。
 築炉は食事中の鋼鐡塚の傍らに控えて、目を伏せて黙々と給仕をする。鋼鐡塚が何か言うまで、まるで人形のように微動だにせず膳を見つめ続けている。何か話すわけでもなく、ましてや食事をするわけでもない。ただ、じいと膳だけを見ている。
 築炉は挨拶以外話しかけられなければ話すことはなかったが、食事の後には何故か何度も「塩辛くはありませんか」「味が薄くはありませんか」と控えめに尋ねた。何かにつけて面倒くさい性質の鋼鐡塚ではあるが、どうしてか味にはうるさくない。それに、築炉の飯は大抵美味しいと思っている。なので、鋼鐡塚は問われるたびに「ない、美味い」とだけ答える。
 そう言うことで喜び奮起するかと思えば、築炉はひどくほっとしたような顔をして「そうですか、よかった」とだけ言う。それがどうにも不可思議だった。

 今日も箸を置いた鋼鐡塚に、築炉は義務のように「甘すぎはしませんでしたか」と問うた。鋼鐡塚はふと目を上げる。なんとなく焦点の定まらないように見える目と目があった。

「なんだぁ、それ」

 鋼鐡塚が言えば、築炉はことりと首を傾げた。細い首が折れそうではらはらする。

「どうしたって毎回そんなこと聞くんだ」
「ご不快でしたか、申し訳――」
「俺は別に食い物にうるせえ方じゃなし、お前の方が舌は確かだろ」
「ございません、次からは気を付け――」
「気になるんなら、自分で味見すりゃいいじゃねえか、しないのか?」

 築炉は糸が切れたように一瞬止まり、困ったように目を逸らした。

「あまり、いたしませんね」

 しろよ、と鋼鐡塚は思う。

「私は――」
「味見しないのか。刀だって試し切りくらいする」
「私は、」
「まあ別に不味いわけじゃねえからどうでもいいが」
「私は味が――」
「だが毎回聞かれると何か答えなきゃならないのかとそわそわするなぁ」
「あまり、分からないので」

 鋼鐡塚は人の話を聞かぬ男ではあるが、それは聞こえていないというわけではない。人の話に頓着しないというだけだ。聴覚に問題はない。なので、それを聞いた鋼鐡塚は「は?」と目を剥いた。

「味が?」

 責められたかのようにしおしおと築炉は肩をすくめた。

「そんなことあるかよ。盲の絵描きはいないぜ」
「病なのでしょうか。数年前からそうなりました。記憶を頼りに味をつけているのです。この里の味噌は塩気が強いようで、調節が難しいですね」

 大して感慨も無さそうに築炉は言う。鋼鐡塚は箱膳を退けて身を乗り出した。

「味がしないのか? 何を食べても?」
「しないわけでは――」
「お前、普段何食ってんだ?」
「ないのです」
「お前が俺の前で飯を食わないのはそのせいか?」
「何を食べても石鹸のような味がします」

 石鹸、と鋼鐡塚は繰り返す。そんなもの食べたことがないから想像もつかない。今度食べてみようか、と考える。

「普段は、大抵は残り物を」 
「石鹸なんか食ってるからそんな痩せてんだよお前」
「いいえ、」
「飯は一緒に食え。二人で食えば多少気は紛れるだろ」
「石鹸は、」
「だいたいじっとり見られながら一人で飯を食うのも尻の座りが悪い」
「石鹸は食べておりませんよ」
「石鹸の話はしてねえ」

 築炉は口を閉ざして膝の上で指を重ねた。

「そうですね、」
「残り物なんか食ってるなよ。味が分からなくても熱いぬるいは分かるんだろう」
「石鹸の話はしておりませんでした」
「夕からは二人分の膳を用意しろ。俺は別に飯も茶も自分の分は自分でつげるんだから、べったりくっついているな」
「蛍さんは、」
「石鹸食うのもまあキツそうだがな、ちっとは太れ。痛々しくて見ていられん。そんな細っこくちゃ、そのうち俺はお前を怪我させそうだ」
「お優しい」

 築炉にそう言われ、鋼鐵塚は築炉の淹れた茶を思い切り噴き出した。築炉は目を丸くし、それからおろおろと手拭いで鋼鐵塚の面や襟ぐりを拭おうとする。鋼鐵塚は手拭いをもぎ取ると、壁際まで後退った。呆けたままの築炉を後目にごしごしと面と手を拭くと、悔し紛れに濡れた手拭いを床に叩きつけた。ぺちゃん、と情けない音がする。
 鋼鐵塚はしばらくぼんやりと床の上でくちゃくちゃになった手拭いを見つめた後、食事のために傾いでいた火男面を口元までおろした。言葉にならないような呻き声を発した後「ばーか!」と子供じみた罵声を一つだけ残して足音高く家を飛び出した。
 鍛冶場につくと鉄穴森が「なんで朝からそんなにカッカしてるんです?」と余計なことを言うので、鋼鐵塚は堪らず彼を無言で殴った。あいたぁっ、と鉄穴森は身をすくめる。
 物の味がしなくなる病があるのかどうか、鋼鐵塚は医者ではないので知らない。だが、あの世の中に面白いことなどなに一つもないかのような女が嘘や冗談の類を言っているとも思えなかった。
 暗い厨で痩せた女が味のしない冷たい残り飯をもそもそと口に運ぶ光景がまざまざと思い浮かんで、鋼鐵塚は胸が悪くなる。
 今日は家にみたらし団子を買っていってみようと思った。築炉を疑っているわけではないが、美味いものでも食べればまた違うのではないかと案じた。彼女の身を案じているわけではないが、なんとなく興味深いとは思った。


******


 団子の包みを片手に帰ると、築炉は掃除の最中でもあったのだろうか手拭いを被っていた。白い手拭いで頭を覆うと、青白い小さな顔とびぃどろ玉のような目ばかりが目立つ。
 築炉は玄関口に立つ鋼鐵塚に困惑気な視線を向けた。

「……宅は留守でございますが、何か御用でしょうか」

 自宅で己の女房にそう言われた鋼鐵塚は面食らう。それから思い至って懐の火男面を顔の前に掲げた。

「俺だ」
「――あら」

 俺を面だけで判別していたのか、と鋼鐵塚は思う。彼女の前で面を外すのは初めてで、何故かと言えばただなんとなく意地で外す時機を逸していたからだ。今日はつい面を外したままであったのを忘れていた。

「申し訳ございません、至りませんで――」
「だんご」
「――……はい」
「食え」
「ええ、お茶を淹れます」
「今食え。すぐ。ここで。俺の目の前で」
「……はい」

 押し付けられた団子の包みを見下ろし、築炉は迷うように指を蠢かしながら、団子を一本手に取った。ぎろぎろと睨みつけてくる鋼鐵塚の方を気にしながら、築炉は団子を一つ口に含む。
 黙々と咀嚼し嚥下する喉元を鋼鐵塚は眺めていた。玄関先でそんなことをしているものだから、背後を行き交う里の者たちが怪訝な目を向けている。

「美味いか」
「はい」
「味がするか」
「いいえ」

 鋼鐵塚がむうと唸ると築炉はふと顔を上げた。

「おかえりなさいませ、お夕食はどうなさいますか」
「食う」

 言うと築炉はそぼそぼと厨に引っ込んでいく。味がしないのに美味いのか、と考えながら、鋼鐵塚は後ろ手に木戸を引いた。
 築炉は言いつけられた通り箱膳を二つ用意した。築炉の膳には鋼鐵塚の前に用意されたものに比べて遥かに量の少ない総菜が申し訳なさそうに乗っている。それよりさらに申し訳なさそうに小さくなった築炉が、膳の前に座った。
 彼女が食卓の前についてさえ頬被りを外さないので、鋼鐵塚は眉を顰める。その視線に気が付いた築炉はうなじに手をやり手拭いを外す。
 尼削ぎのように短い髪が肩に落ち、鋼鐵塚は言葉を失った。
 今朝までは確かに髷を結うくらいには長かったはずだ。今日日街の娘の間では西洋風の断髪が流行だとは言うが、まさか築炉がそれを目指したわけではないだろう。鋼鐵塚との結婚生活を儚んで出家を決めたというほうがまだ納得できる。

「髪を切ったのか」
「はい」
「随分短いな」
「はい」
「なんで切った」

 築炉は首のあたりに手をやる。切り揃えられた髪が乱される。

「売って、米に換えました」
「……なに?」
「他に売るものもないので」

 鋼鐵塚は彼女に稼ぎを渡していないことに気が付いた。一瞬罪悪感が胸をよぎるが、それより呆れと怒りの方が先立つ。

「言えよ!! なんでそうなる!!」
「はあ、申し訳ございません。次からはそう致します」

 大して堪えた風もなく築炉はこっくりと頷く。鋼鐵塚は膳を跨いでずいずいと彼女に近寄り、断ち切られた毛先を指でなぞった。疲れたような双眸が鋼鐵塚を見上げる。
 鋼鐵塚はかっとなったが、鍛冶仲間にするように飛び掛かり羽交い絞めにするわけにはいかない。そんなことをしてはこの川辺の葦のような女はぽきぽきとあちこち骨を折ってしまうだろう。

「ばかか! いや、ばかだ! ばか! 俺がそんな気働きの出来る男に見えるか! 言われなきゃ分かんねえぞ! 自慢じゃねえが!」
「はい」

 羽交い絞めにする代わりに、鋼鐵塚は築炉の頬を横に伸ばす。肉の薄い頬は思いのほかよく伸びた。

「土間で寝るな! 飯を食え! 髪を売るな! んなこと言われなくても分かるだろうが!」
「はい」

 うっすらと自己矛盾を起こしながら鋼鐵塚は喚く。鋼鐵塚は何度も築炉の髪を掴んだ。短い髪はするりするりと手から逃げていく。ひどく物悲しい感触だった。

「お前、女が、……女の髪が、」

 言葉に詰まる鋼鐵塚に、築炉は申し訳なさそうに目を伏せた。そんな顔をするくらいなら最初からやるなよ、と鋼鐵塚は怒りを噛み殺す。もう片方の頬もぎゅうと伸ばしてやったが、築炉は嫌がるでもなく痛がるでもなくされるがままで、甲斐がないのでさっさと手を離してしまう。
 ぺしゃり、と濡れた手拭いよりも呆気なく築炉は床に尻をついた。鋼鐵塚は鼻を鳴らして踵を返す。

「蛍さん、食事が冷めて――」
「風呂入ってくる!」

 はい、と築炉が小さく呟くのを背中で聞いて、鋼鐵塚はやり切れない気持ちで家を飛び出した。