あのこがほしい(三)
泥のように眠っていた鋼鐵塚はいつもと同じように明け方に目を覚ましてから、三度ほどとろとろと寝て起きてを繰り返した。三度目の覚醒で築炉の大きな赤色の瞳が間近にあり、驚いて跳ね起きた。
「――んだ、やめろ、おどかすな」
そうか、こいつは眠らないのか。眠りすぎて重くだるい頭をおさえて鋼鐵塚は行李に半分入ったままのような毛布を肩まで引っ張り上げる。
「はがねづかさん」
「ん、入るか?」
「はがねづかさん、ひとがきています」
表の木戸を叩き、己の名を呼ぶ声がする。聞こえてはいたが、気にしていなかった。いつもであれば来客には大抵築炉が対応していたからだ。鋼鐵塚はふと何とも言い難い感情に襲われ、布団のなかで溜息をつく。
「――めんどうくせ」
寝間着にも着替えず眠っていた鋼鐵塚は、寝乱れてしわになった袴をちょっと見下ろし、のろのろと布団を這い出た。表に出る鋼鐵塚の後ろを、築炉が軽鴨のように付き従う。襖を引き開けると見慣れぬ廊下に突き当たり面食らう。空里に居を移したことに思い至り、一人鼻を鳴らした。埃の積もった廊下には、表から自身の足跡が座敷に向かって残っていた。引き摺るような足跡を見て、鋼鐵塚は「この足跡の持ち主は余程疲れていたと見える」と他人事のように考えた。
控えめに、だが諦める気配がない叩扉は鉄穴森のものであろうとあたりをつける。木戸を開けるとやはり鉄穴森が立っていた。縺れる髪を掻き上げて、鋼鐵塚は「なんだ」と不機嫌さを隠そうともせずに言った。
鉄穴森は手首から痛々しく包帯を覗かせてはいるが、面の端から見える頬や首筋の色は悪くない。鬼殺隊から派遣された医師は腕が良かった。
「お休みのところすみません……と言っても、もうお昼ですけどね」
「用なら勝手に入って済ませりゃいいだろ」
「鋼鐵塚さんだけならそうしますが、女性がいるお宅にそうもいかないでしょう」
女性? と鋼鐵塚は足元に纏わりつく少女の旋毛をつついた。鉄穴森はさらりと「ええ、女性」と答え、屈んで築炉に視線を合わせる。
「こんにちは、築炉さん。私のことは覚えていますか」
「ひょっとこのおめんの……」
「鉄穴森です」
「かなもりさん」
鉄穴森はにこにこと笑う築炉の頭を撫でた。嬉しそうに目を細める築炉と、次いで鋼鐵塚に視線をやり、鉄穴森は肩をすくめる。
「ああ、いや、すみません。築炉さんだと分かっていても、つい」
「嫌がってねえなら構いやしねえ」
鋼鐵塚が短く返すと、鉄穴森は物言いたげな沈黙を返してきた。鋼鐵塚は面を忘れた顔を片手でつるりと撫で、顔をしかめる。顔を隠す装身具のないことに心細さを感じた。
「鋼鐵塚さん、厨房があれでは食事もまだでしょう。手の空いた者が炊き出しをしているんです。築炉さんもどうですか」
「そいつ飯食わねえぞ」
「…………え、」
鉄穴森は固まり言葉に詰まる。鉄穴森の脳裏によぎったのは、かわりに食べるものが、たとえば人の血肉ではないかということであった。
「食わせれば少しは食うが、別に必要ないらしい」
「それじゃあ……いったい何を……」
深刻な面持ちで慎重に問う鉄穴森に、鋼鐵塚は「みたらし団子」と答えた。
「――はっ?」
鉄穴森は常と変わらぬ仏頂面でそうだけ言ったきり黙ってしまった鋼鐵塚の顔をしばらく眺めた。
「それは……それは鋼鐵塚さんが食べたいだけでしょう?」
鋼鐵塚はそれには答えず築炉に「面持ってこい」と顎をしゃくる。築炉は使命感に満ちた顔をして部屋の奥に走っていった。足元で埃が舞い、玄関からさす光できらきらと光った。
「耳かきで掬うような量しか食わねえんだ。どうせ食うなら美味いものの方がいいだろ」
「やっぱり鋼鐵塚さんが食べたいだけじゃないですか」
埃をまきあげて駆け戻って来た築炉が鋼鐵塚の袴を引っ張る。
「はがねづかさん!」
「おう」
鋼鐵塚は差し出された面を取ると築炉の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。築炉は足元をふらつかせて壁にぶつかる。
鋼鐵塚は面をつけ、築炉を抱えあげた。
「お前、飯食うか?」
「くーう!」
築炉は鋼鐵塚の面の突き出た口を指先でつつきながら楽しそうな声を上げる。ちょっと、と鉄穴森は鋼鐵塚をいさめた。
「乱暴な言葉を築炉さんが覚えたらどうするんです」
「知るか」
長く人がいなかったために軋む木戸を閉め、連れ立って歩く。鉄穴森は鋼鐵塚に抱えられて上機嫌の築炉をちらと見た。
「名前では呼ばせないのですか?」
「なんだと?」
「築炉さんは、鋼鐵塚さんを名前で呼んでいたでしょう?」
「そりゃあな。あいつも鋼鐵塚だ」
「そういうことではなくてですね……」
鉄穴森が呆れると、鋼鐵塚は鉄穴森をじろりと睨んだ。
「お前が俺を鋼鐵塚と呼んだから、このちびもそう覚えたんだろうが」
「ちびじゃないですぅ」
「十分小せえ、ちび」
ふと鋼鐵塚が築炉を築炉と呼ばないことに気が付き、鉄穴森は胸を痛めた。鋼鐵塚は築炉が築炉でなくなったことを受け入れられないのかもしれないし、受け入れてそうしたのかもしれなかった。
ぷう、と頬を膨らませた築炉が鋼鐵塚の首元に頭を預けた。
「随分懐きましたね」
はじめは「へんたい」と呼ばれていたのに、とは言わなかった。鋼鐵塚は「ああ」と短く答えただけだった。
炊き出しの輪に加わると、女たちがかわるがわる築炉に近寄ってはその頭を撫でていった。一大事なのかもしれないが、悲観するには築炉の姿はあどけなすぎた。皆が皆、悲嘆にくれればいいのか、無事を喜べばいいのか分からないような顔をして、築炉を見下ろす。
「何と言ったらいいのか……築炉さん、随分お可愛らしい姿になってしまって」
鉛もそう言って築炉の頭を撫で、かやくご飯と味噌汁を置いていった。鋼鐵塚はそれを口にしながら、膝の上でごろごろしていた築炉が痛いほど自分を見つめてくるのを感じていた。
「なんだ」
「なんだ?」
「なんで見てるんだよ」
「おいしいですか?」
鋼鐵塚は一瞬ぎょっとした。舌の利かなかった結婚当初の築炉は、よくそうして食べ物の味を尋ねてきた。
「……食うか」
味噌汁に入っていた高野豆腐を、箸でつまんで築炉の口元に差し出す。築炉は上半身だけ起こし、ついばむようにそれを食べた。
「うまいか」
「んんん?」
築炉は眉をきゅうと寄せて首を傾げた。気に入らなかったらしい。
「わがままだな、お前」
鋼鐵塚が零すと、鉄穴森が鋼鐵塚を微妙な顔で見ていた。食事中であるから双方面を外している。その露骨な視線に鋼鐵塚は眉をひそめた。
「なんだ、その顔」
「ああ、いえ、あの……だってどういう顔すればいいんです、夫婦仲がいいのは結構ですけど」
つまり鉄穴森は「人前で飯を食わせてやるなど何事か」と言いたいらしかった。鋼鐵塚は食べかけのかやくご飯のおにぎりを、小さな団子ほど取って丸めて築炉の口に放り込む。
鉄穴森は垂れた眉をいっそう垂れさせた。
「私だってよそではやらないですよ」
「……家ではやって――いや、答えなくていい。どうでもいい」
鋼鐵塚は深く息を吐く。
「こんな小さいの相手に恥ずかしがっていられるか」
鋼鐵塚は汁椀を呷ると具を噛み砕き、飲み下す。箸を放り出し手を合わせると、築炉もそれを見て慌てて座り直し姿勢を正すと真似して手を合わせた。
「鍛冶場の再建は終わったのか?」
合掌を解きながら鋼鐵塚が問うと、鉄穴森は汁椀を片手にしながら口をぎゅっとつぐんだ。
「なんだよ」
「……終わっていないと言ったら手伝いに行くし、終わったと言ったら刀の研磨に行くでしょう? 駄目ですよ、鋼鐵塚さん。少しは体を休めないと」
「じっとしているのは性に合わねえ」
「築炉さんも大変なんだし、少しは家にいてあげてください」
「あの埃だらけの何もない家で何しろって言うんだよ」
「……それ、鋼鐵塚さんが片付けないと綺麗になりませんよ」
鋼鐵塚は鉄穴森の言葉を多少の衝撃を以て受け入れた。しばらく放心したあと、手で額を押さえた。
「お前暇か?」
「暇なわけないでしょう。うちも同じ状況ですよ」
「お前んとこは女房がいるだろ」
「だからといって鉛に全部やらせるわけにはいきません。鋼鐵塚さんだって築炉さんが元のままだったとしても一人ではやらせなかったでしょう」
なんだかんだと言っても鋼鐵塚は築炉を大切にしていた。重いものを持たせれば腕が折れるし、高いところのものを取らせれば転ぶ、と思っている節があった。実際のところ、築炉はひ弱ではあったがそこまで虚弱でも間抜けでもなかったのだが。
鋼鐵塚は痛いところを突かれたような顔を火男面で隠す。
「帰るぞ」
鋼鐵塚が言うと、築炉は当然のように手を広げて鋼鐵塚の方に伸ばす。
「自分で歩けるだろ」
「だっこしたいですか?」
「いや……いや、したくはねえよ。なんだお前」
ふうん、と築炉は言うと、鋼鐵塚のごつごつした大きな手を握った。火傷の跡のある手の甲にこつんと額を当てる。
「わたしは、してほしいです」
「………………駄目だ」
「けちぃ」
鋼鐵塚はなかば引き摺るように築炉の手を引いて家までの道のりを歩き出す。鉄穴森はその後ろ姿を味噌汁を啜りながら見送り「子供の築炉さんはしたたかだな」と思った。
******
新たな住まいの状況は、良好とはいえなかった。定期的に手入れはしていたのであろうが、人の住まない家は傷むのが早い。
埃が積もった部屋の中を見渡し、鋼鐵塚は築炉の頬を伸ばした。
「いひゃい、いひゃい」
「ああ、クソ、面倒くせえな、このままでもいいよな、なあ?」
「いひゃいぃ」
じたばたしていた築炉は巻き上がった埃で、くしゅんくしゅん、くしゅん、と三度続けてくしゃみをした。
「お前小さいから埃をモロに食らうんだな」
「くしゅん!」
鋼鐵塚はとりあえず家中の雨戸と窓を開け放って回る。風が吹き込み、埃が舞い上がってぐるりと渦を巻くと風に流されて別の窓から外に出て行った。これはいい、としばらくそのままにした。
その間に雑巾を探して行李を端からひっくり返していく。里の者がとりあえず手当り次第に運んだ荷物には、さして物の多くない鋼鐵塚家の荷物が雑多に詰め込まれていた。
築炉は暇さえあれば襤褸布で雑巾を縫っていたから、探せばどこかにはある。あるのだろうが、多くもない行李から探し出せずにいた。
目について開けた行李に築炉の着物が入っていて、手が止まる。築炉が鋼鐵塚の脇の下から行李の中を覗いた。
「きれい」
「そうか」
築炉の小さな手が、そろりそろりと着物をめくっていく。
「おはな。これも、これも、おはな。これもおはな」
気が付けば築炉の持つ着物は藤柄ばかりになっていた。行李の中は藤棚のように藤の花が満開になっている。
鋼鐵塚はあまりに同じような着物ばかりが入った行李に呆れてしまった。買ったのは己であるが、まさか築炉は己のことを選んだ着物の柄をいちいち覚えている男だとは思っていなかっただろう。一言「同じ柄の着物ばかりでは困る」と言えばよかったのに、と詮ないことを思った。
築炉は鋼鐵塚を見上げて、一枚の着物を指差す。
「これがいちばんすき」
目の覚めるような紫の地に、白く藤の花を染め抜いた銘仙だった。
鋼鐵塚は築炉の鼻をつまむ。
「ガキのくせに、婆臭い趣味してるな」
「ふぐう」
藤柄ばかりの行李の中に光るものが入っていて、鋼鐵塚は築炉の鼻から手を離す。それは鋼鐵塚が作った築炉の髪留めであった。誰かが瓦礫の中から探し出して、荷物に入れてくれていたらしい。綺麗に磨かれたその表面に、自分の顔が滲んで映っている。
鋼鐵塚は築炉をちょいちょいと手招いて呼び寄せると、築炉の前髪を横に引っ張り、耳の上で留めた。
「やる。つけとけ」
築炉は嬉しそうに大きな瞳をくるくるさせて、一生懸命自身の頭についた髪留めを見ようとしていた。その挑戦はどうも分が悪いようだと気が付いて、築炉は鋼鐵塚の首に腕を回した。
「ありがとおございます」
「なくしたらぶん殴るぞ」
「やだー」
ひひひ、と築炉は身をよじって笑う。屈託なく笑う築炉の、くしゃくしゃになった目元を鋼鐵塚は硬い指で撫でた。
「くすぐったいですよ」
「そうか」
鋼鐵塚は行李の蓋を閉めようとして、藤柄の中にぼんやりと擦り切れた豆絞りの布切れを見つけた。鋼鐵塚の古い手拭いを雑巾に縫い直したものであった。こんなところにあったか、とそれを引っ張り出す。
埃をかぶっていた道具類の中から桶を見つけ出し、それに水を汲んでこようと裏に向かう。古びた井戸には、誰かがつけ直したのであろう真新しい釣瓶が取り付けられていた。
濡れ雑巾で家中の床と段差の埃を拭き取った頃には、日がかなり傾いていた。築炉もはじめのうちは見様見真似で拭き掃除を手伝っていたが、そのうち飽きたのか裏庭で虫を追いかけて遊んでいた。
鋼鐵塚は埃と汚れで元の色柄が分からなくなった雑巾を黒くどろどろになった桶の水に放り込み、やっと木目の見えるようになった床に仰向けに寝転がる。
これだけ時間をかけたのに、掃除しか終わらなかった。軋む体を休めながらでは、そうそう作業も捗らない。これから荷物を解き、ふさわしい場所に収め、傷んだ調度を修繕し、足りない道具を揃え――やるべきことはいくらでもあってうんざりした。
築炉がいれば違ったんだろうが、と鋼鐵塚は思う。築炉がいれば鋼鐵塚は、築炉がしている仕事を横から奪ってするだけで良かった。あれをして、これをして、と筋道立てて考えるのは苦手であったし、築炉にねぎらわれない作業は甲斐がない。
どこから嗅ぎつけたものか軽い足音ともに築炉が走ってきて、鋼鐵塚の腹の上に飛び込んできた。
小さな子どもとはいえ、それなりに衝撃があった。鋼鐵塚は息をつまらせる。
「はがねづかさん、つかれてますか?」
「うるせえ、こっちは怪我人だぞ」
そう口にするとあちこちがじくじくと痛む気がした。
「さっき、かなもりさんとおんなじかおのおんなのひとがきました」
鉄穴森の妻であろう。鋼鐵塚は「ああ」と答える。
「おんせん、はいろうって」
「温泉? この里にもあるのか」
里長が温泉好きということはまさか関係ないであろうが。鋼鐵塚は汗と埃でべたつく額を撫でた。見れば築炉の着物も埃と泥で汚れていて、手のひらや足の裏は真っ黒に汚れている。どこでどういう遊び方をしていたのかは知らないが、頬にまで引っ掻いたような土の跡が残っている。
「あ、お前、せっかく俺が床を掃除したのになんて格好で上がってきやがる!」
本気で怒ったのに、築炉はちょっと首を傾げて鋼鐵塚の汗ばむ胸に手を置いた。鋼鐵塚の胸に黒い手形がぺとりと残る。鋼鐵塚は怒る気もなくしてそれを見下ろした。
これ以上床を汚されては堪らないので、鋼鐵塚は築炉を抱き上げたまま起き上がった。急に視線が高くなった築炉はきゃあと歓声を上げて喜ぶ。行李から着替えと手拭いを取り、鋼鐵塚は自分で綺麗にしたばかりの廊下を渡り雪駄を引っ掛け表に出た。たまたま通りかかった女が、泥だらけの築炉と汗で額に髪を貼りつかせた鋼鐵塚を見て呆れたように笑った。
「小さい築炉ちゃんはアンタに負けず劣らずやんちゃだわ」
鋼鐵塚は鼻を鳴らして答えた。
「やんちゃぶりで俺に適うガキがそういるかよ」
「本気で張り合う阿呆がいるかい」
鋼鐵塚は女に風呂場への道のりを聞くと、その指示通りに歩き出した。途中、築炉がおろしてと騒ぎ出したが、履物を忘れたので無視をした。そのうち騒ぎ疲れたのか静かになった。
しばらく山道を登ると硫黄の匂いが風に漂いだす。温泉好きの里の者によって、空里の時点で湯が引かれていたようだ。湯船は簡素に石を組みあげただけのものだが、おそらくそのうち誰かが手の込んだ湯船を作りだすだろう。
当然脱衣所などという気の利いたものはないので、そのへんで汚れた着物を脱ぎ捨てる。急に着物を脱ぎだした鋼鐵塚を、築炉は不思議そうに見上げた。
「さむそう」
「馬鹿なこと言ってないでお前もさっさと脱げ」
「ひゃー、やだー」
鋼鐵塚の手の間を縫うようにして築炉は逃げ出す。すばしっこい築炉は捕まらず、全裸で築炉を追いかけるのも――誰も見ていないとはいえ――きまりが悪いので、鋼鐵塚は逃げる背中に「勝手にしろ」と投げかけさっさとかけ湯をすると湯に浸かる。体のあちこちにある切り傷やら擦り傷がちりちりと滲みた。
左目を覆う包帯が濡れないようにしながら顔をすすいでいると、築炉が湯船の縁をうろうろし始める。鋼鐵塚は興味のないような素振りをして、油断しきった築炉が背後に来るのを待ち、勢いよく振り向くと築炉の首根っこを掴み上げた。
「ひゃあー」
「やっと捕まえたぞちびすけ!」
鋼鐵塚は築炉の兵児帯を毟り、着物を剥ぐと、裸の築炉を湯船に放り投げた。ぼちゃん、と小さな水飛沫が上がる。しばらく浮いてこなかったので鋼鐵塚は「死んだか?」と一瞬思ったのであるが、築炉はぴょんと水面に現れ大きく息を吸った。泣かれるかと思えば築炉は口を大きく開けて笑った。
「もういっかい!」
「うるせえ、おとなしく浸かってろ」
築炉は不満そうに唇を尖らせたが、すぐに広い湯船で泳いで回ることに夢中になった。鋼鐵塚が幼い頃は湯船で泳ぐと周囲の大人に叱られたものだが、今は誰もいないのでいいだろう。
しばらくぼうとしていると、泳いでいた築炉の頭が脇腹にごつんとぶつかる。
「はがねづかさん」
「なんだよ」
「ぶつかりましたねえ」
無意味に楽しそうに築炉はくねくねし、またすいーっと泳ぎ去ろうとする。目の前を小さな白い尻が水面を切りながら通り過ぎるので、鋼鐵塚はそれを何の気なしに指でつついた。ぴゃ、と築炉は声を上げて沈んでいく。浮かび上がってきた築炉は水面に顔だけ出して鋼鐵塚を見上げた。
「すけべえ」
「お前、そういうの本当にどこで覚えてくるんだ!」
生意気な! と鋼鐵塚は築炉の顔に手で湯をかける。築炉はげほげほとむせたが、やり返すようなことはせずに鋼鐵塚の膝の上に収まった。
「はがねづかさん」
「なんだって」
「これ、ありがとうございます」
築炉は頭の髪留めに触れる。
「風呂はいるときは外せ。傷むだろ」
「やだあ」
外してやろうとする鋼鐵塚の手から築炉は顔を背けた。埒があかないのでそのままにして、鋼鐵塚は湯からあがる。築炉も鋼鐵塚の後を追ってきた。鋼鐵塚は築炉の頭を手拭いで拭いてやる。小さな白い裸体は昨日産まれたように傷も痣もない。
鋼鐵塚は築炉の薄い肩に浴衣をかけてやる。譲られた女児用の浴衣は、築炉にはまだ大きかった。女物の帯の結び方など知るはずもないので、自分の帯と変わらぬ簡素な結びしか出来ない。
築炉は華やかな装いは好まなかったが、帯を色々工夫して結ぶのは好きなようだった。鋼鐵塚は大抵その隙なく結ばれた結び目のどこが端かも分からず手を焼いたが、築炉の細い手が帯を巻き上げ慣れた手付きで結んでいくのを毎朝布団から眺めるのが日課になっていた。
鋼鐵塚は履物を忘れた築炉を抱き上げる。風呂上がりだというのにその体はひんやりとしていた。するりと頬を寄せてくる築炉の髪留めが、鋼鐵塚の耳のあたりを引っ掻いた。
家に帰り、木戸を開けると、誰が置いたものか上がり框に握り飯と煮魚と香の物が置いてあった。鋼鐵塚はそれを平らげると、まだうっすらと空は明るいが、早々に眠りについた。
布団の中で築炉を温めるように手足をさすってやる。築炉はくすぐったそうに身を捩らせて、鋼鐵塚の胸に顔を押し付けた。そうしているうちにいつの間にか眠っていた。