いたいのいたいの



 鋼鐵塚築炉にとって結婚生活とは痛苦と苦渋と忍耐を伴うものであった。端から無視されていることは、愉快ではないが辛いとも感じなかった。そういうものだと思えば、そういうものだと思えた。相手にもされないが罵倒を受けることもないというのは、築炉にしてみれば平穏だと言ってよかった。
 辛い日々を受け流すのにはコツがいる。大して難しい話ではない。己を人間だと思わなければいい。人の心身の何と重荷であろうことか。築炉は犬であった。人の膝ほどの大きさで、薄茶の長い毛とぴんと立つ耳の犬である。そうであれば残飯を口にし土間で眠るのもそういうものだと思える。罵られ、棒で殴られても気にならない。本当はいつでも逃げ出して野を駆け回ることが出来る。
 築炉にとって二人目の亭主である鋼鐵塚蛍は全く奇妙な男であった。火男の面を被り、行動は奇矯で、口を開けば筋道の立たぬことを喚く。築炉を人のように扱う。
 顔合わせの席には杳として現れず、探しに行った里の者に網を掛けられ縛り上げられ座敷に放り込まれて現れた。一言も発さず火男面の隙間からフゥフゥと荒い息を漏らす男を見て、物狂いなのかと思った。
 だが、実際のところ鋼鐵塚は全く正気であった。正気であの奇行かと詰められればどうとも言えないが。
 築炉には向けられない怒声が誰に向いていたものであったのか覚えていない。大きな怒号はうわんうわんと頭の中で反響してよく聞こえなくなるから、内容もよく分からなかった。ただ、その声が思いのほか低く柔らかで、心地良かったことだけが印象的であった。
 はじめは無関心を貫いていた鋼鐵塚は、何がきっかけであったものであろうかまるで子供にするようにあれこれと築炉に口を出してくる。仏頂面か火男面で「何か困ったことはないのか」「飯は食えるのか」と問うてくるので、そのたび築炉は「おかげさまで」と答えた。

 里の水場で野菜の泥を落としていると、背後からぬうと大きな手が回された。その手が築炉の肩やら腕やらに無遠慮に触るので、振り回された築炉は水場に落ちそうになる。
 大根を抱えて堪えていると、手の主である鋼鐵塚はひとしきり検分するように触ると手を引っ込めた。

「よし」

 鋼鐵塚はそれだけ言うと踵を返す。ぼうとその後姿を眺めていると、数歩歩いて築炉の付いてきていないことに気が付いた鋼鐵塚が築炉に向かって「来い!」と言うので、築炉は洗いかけの野菜はそのままに小走りでその背中を追った。
 家の中に連れ込まれ、築炉は何事かと首を傾げる。鋼鐵塚は表情の読めぬ火男面のまま、むっつりと正面から築炉を見下ろした。被っていた手拭いを無言で引き剥がされ、肩のあたりで切られた髪を何度も握られる。
 しばらくされるがままになっていると、鋼鐵塚は小さな物を無造作に突き出す。鈍い金色の小さな飾り物であった。
 無理矢理握らされたそれを築炉はしげしげと見下ろす。鎚の跡が残っている真新しいそれは、まだ炉の熱を帯びているような気さえした。真鍮で日の輪を象った髪留めだ。短い髪にも使えるように、薄く伸ばした金属を二枚重ねて髪の毛を押さえるようになっている。
 鋼鐵塚は乱暴に築炉の髪を掻き上げると、築炉の手から奪ったそれを挿した。自分では見ることが出来ないが、髪は纏まっているのだろう。額に数本髪の毛が落ちてくる。
 鋼鐵塚は憤然とした様子で鼻を鳴らした。

「俺は刀鍛冶だぞ」
「はい」
「女の飾り物なんか作らせるな」
「はい」

 築炉が素直に頷くと、鋼鐵塚は面の奥で一層不愉快そうな様子であった。なので築炉が「お手間おかけいたしまして、申し訳ございません」と頭を下げると、その頭を容赦なく掴まれた。痛くはないが、総毛立ち目の前がふわふわする。ぐいと頭を持ち上げられ、火男面で睨まれる。

「俺が作った飾りを付けた頭を易々と下げるんじゃねえ!」
「……はい」

 怒りというものは災害のようなものだ。大風や地震に「やめてくれ」と乞うのが馬鹿げているように、怒りもまたただ身をすくめてやり過ごすしかない。
 だがこの男の場合は、怒るにしてもなんとなく前の旦那とは勝手が違うので戸惑った。怒気を孕みながら何かを言いたそうな目で築炉を見る。それでも鋼鐵塚は何も言葉にはしないので、築炉にはそれが何であるのかよく分からない。築炉は怒声や強い語調が苦手で、聞いていると頭がぼうとしてくる。なのでその意味を上手く探ることも出来ない。
 築炉はそろそろと頭の後ろに手をやり、熱を帯びたようなそれに冷えた指先で触れた。うれしい、と築炉は考える。今の築炉には上手くそれを感じることが出来ないのだが、築炉は自分がうれしいと感じるであろうことを鋼鐵塚に伝えたいと思った。 

「ありがとうございます」

 おう、と鋼鐵塚は低く唸る。築炉は残った髪の一房を耳に掛けた。

「うれしいです」
「そうならもっと嬉しそうな顔しろよ」

 築炉は眉尻を下げて微笑む。思い出せる限りこの数年は抜け落ちたように何もなくて、嬉しそうな顔などどうすればいいのかとうに忘れてしまった。
 娘時代の感情の残滓を探り、やはり難しくてやめてしまう。困った様子の築炉の頬を鋼鐵塚は無言で引き伸ばした。
 最近、彼はしょっちゅうこれをする。意図は分からないままだ。何も言わないでいると、鋼鐵塚はまた「よし」と小さく独り言ちるとさっさと鍛冶場に戻って行ってしまった。
 取り残された築炉はしばらく茫然と立ち尽くしていたが、水場に野菜を置いたままであることを思い出した。ほんの数日のうちに垂らした髪と手拭いに慣れてしまったせいか、うなじがすうすうしているような気がした。