あのこがほしい(五)
鋼鐵塚に食事と水を届けるように言い付けられた小鉄は研ぎ場の戸を叩いた。予想したとおり返事がないので、小鉄は「鋼鐵塚さん、入りますよ!」と中に声をかけると戸に手をかけた。手に力を入れたところで、戸が中からぎこぎこと開けられる。大きな緋色の丸い瞳が、戸の隙間から小鉄を見上げた。
「こてつくんだ」
にこ、と築炉が笑う。小鉄は少し身を屈めて築炉に挨拶をした。
「おはよう、築炉さん。鋼鐵塚さんは――」
「はがねづかさんねえ、ずぅーっとこうしてるの」
築炉はその場で蹲ると、ふくふくとした腕で船を漕ぐような動作をする。
「こう! こうして、こう!」
築炉は一生懸命体を動かして小鉄に説明するが、里で生まれ育った小鉄には築炉に教えられずとも鋼鐵塚が何をしているかは分かっていた。
築炉はぱたぱたと手を振る。
「ずーっと、してます。ずっと」
丸い頬が上気する。何が楽しいのか築炉はくすくすと笑った。
「へんなの」
築炉はそう言って、ね、と小鉄を見上げる。小鉄は築炉の丸い瞳を見下ろした。
「そうですよ、鋼鐵塚さんは変ですよ。やっと気が付いたんですか? 築炉さん、遅すぎます。そんなだから鋼鐵塚さんと結婚させられちゃったんですよ」
鋼鐵塚と築炉が夫婦となったのは、小鉄が六つか七つの頃である。その詳しい経緯を小鉄は教えては貰えなかった。だが、幼い小鉄やその友人の間では、あの鋼鐵塚が結婚したのだという話題でしばらく持ちきりだった。
無理偏に拳骨、頑固で偏屈な職人揃いのこの里にあってさえ、鋼鐵塚は頭一つ抜けた変わり者だった。里の少年たちがタチの悪い悪戯をしたり、女の子をいじめたりすれば「アンタ、そんなだと蛍みたいになっちまうよ!」と叱られた。小鉄は幼心に「それはいやだな」と思っていた。
その鋼鐵塚に嫁が来たのだと言うのだから、小鉄は友人たちと連れ立って怖いもの見たさで鋼鐵塚の家の塀によじ登った。女相撲取りのような恐ろしい女かと思っていたのに、庭先を掃き清める築炉の姿があまりに弱々しげで拍子抜けしたことを、妙に鮮明に覚えている。
はじめはどことなく遠巻きにされていた築炉も、すぐに里に馴染んだ。特に子供たちは築炉に懐いた。築炉は子供に優しかった。甘いと言ってもよかった。
築炉は親に叱られて家に帰れない子に飯を食べさせ一緒に謝りに行き、無茶をして怪我をした子には手当をし、ほつれた着物を直してやる。おさがりの着物がいやだと泣く子の袖に、小さな刺繍をしたこともあった。
いつも藤柄の着物をきちんと着て、髪をきれいに纏め、裁縫が上手で、ご飯が美味しくて、優しくて、穏やかに微笑む築炉は、里の少年たちの憧れのおばさんだった。どうして鋼鐵塚などという里でも随一の奇人におとなしく連れ添っているのか、皆で首を傾げたものだ。
築炉はいつも、騒動を起こした鋼鐵塚のかわりにあちこちに謝って回り、作刀に没頭して自分を疎かにする鋼鐵塚の世話を焼き、引き裂かれたり焼け焦げたりした着物を直してやる。餅屋が休みの日に「みたらし団子が食いてえ」と我儘を言っては癇癪を起こす鋼鐵塚に団子を作る。五つや六つの子と変わらないか、なお悪い。築炉は子供にするのと同じように、鋼鐵塚にも甘かった。
出来た女房だと皆言った。鋼鐵塚から離れる気になったら次は是非うちに、という家がいくらでもあった。
小鉄もそう思っていた。小鉄にとって築炉は、きちんとした大人の女の人だった。その築炉が小鉄より小さくなり、話すこともすることも子供のようになってしまった。小鉄はそれがたまらなく切なくて、築炉が早く元に戻ればいいと願っている。
小鉄は「鋼鐵塚さん、食事ここに置いておきますからね!」と包みを土間に置く。鋼鐵塚は顔を上げすらしない。小鉄は溜息をつく。刀に感けて築炉を喪いかけ、築炉がこんな姿になっても刀に感けている。小鉄には鋼鐵塚のその態度があまりに薄情に思えた。何も分からなくなってしまってにこにこ笑うばかりの築炉が可哀想になる。
小鉄の気持ちを一顧だにしない築炉は、かさこそと包みに手を付けた。
「駄目ですよ、築炉さん。築炉さんの分は別にありますから、一緒に食べに行きましょう」
小鉄はそっと築炉の手を握る。小さくて柔らかな手は、ひんやりと冷たかった。するりとその手が逃げていき、築炉は握り飯を抱えて鋼鐵塚の顔の方に回り込む。
築炉は一度首を傾げると、鋼鐵塚の面を外してその口元に握り飯を押し付ける。口元にぎゅうと飯を押し付けられた鋼鐵塚は鬱陶しそうに顔を顰めたが、逃げ道がないことを察して口を開いた。口いっぱいに詰め込まれた握り飯を咀嚼しながら、鋼鐵塚の視線は手元の砥石に向いている。
築炉はけらけらと笑って小鉄の方を見た。
「こうするとね、たべるんですよう」
小鉄はなんとも言えない気持ちでそれを見ていた。幼い築炉は無邪気で乱暴で突拍子もない。それはいいとしても、その築炉にされるがままになっている鋼鐵塚というのは直視に耐えない光景である。
「鋼鐵塚さん、こんな小さな子にご飯まで食べさせてもらって、恥ずかしくないんですか!?」
これが己なら慚死している。
火男面から文字通り火を吹きそうな勢いでそう言う小鉄に、築炉だけが楽しそうに笑った。鋼鐵塚は目をこちらに向けようともしなかった。小鉄はむっとして、築炉に視線を合わせて言い聞かせる。
「築炉さん、鋼鐵塚さんが正気に返ったら一発と言わず殴ってくださいね。俺の分まで」
「ぐう? ぱあ?」
「もちろんぐーです」
「んん、わかりました」
築炉は小鉄の手のひらに収まるほどの小さな拳を握りしめて、ぷんぷんとそれを振って見せた。これでは鋼鐵塚には按摩にすらならないだろう。
小鉄はその姿が面白くて、ふっと笑ってしまう。
「それから、この育児放棄野郎! って言ってあげてください」
「いくじほーき」
「そうです。それくらい言ってやらないと分かんないんですよこの人は」
小鉄は他の大人たちがするように築炉の頭を撫でようと手を上げたが、その手の置き場が分からずに手を下ろした。
「ね、築炉さん、ご飯食べに行きましょう」
下ろした手でもう一度築炉の手を握る。築炉は握られた手をまじまじと見つめた後、戸惑うように小鉄を見上げた。それから唇を尖らせ顔を伏せる。
「………………いや」
「こんな空気の悪いところにずっといたら駄目ですよ。少し外に出て、散歩しましょう。俺が遊んであげますから。竹とんぼ作ってあげます」
「竹とんぼ……」
築炉は少し心動かされたように顔を上げたが、すぐに肩をすぼめて俯いてしまう。
「やだ、ここにいるの……」
小鉄は鋼鐵塚の背中に寄り添い、袴の裾をきゅうと握る築炉の姿を見ていた。
以前、小鉄は築炉に「鋼鐵塚さんのこと、嫌にならないんですか?」と聞いたことがある。築炉は軽口めいた小鉄の言葉を叱責するでも笑うでもなく、少し考えた後「蛍さんは困った人だけれど、でも、私に出来ないことをたくさん出来る人でしょう」と言った。
小鉄が「刀を作ることですか?」と尋ねると、築炉は曖昧に笑った。
「そう。蛍さんに出来ないことが私は出来るし、私に出来ないことは蛍さんがしてくれるの」
「鋼鐵塚さんは好きで刀を作ってるんですよ。築炉さんばかりが鋼鐵塚さんに色々してあげて、そんなの不公平です」
小鉄の言葉に築炉は緩やかに目を細める。囁くように「そういう風に見えるかしら」と言った横顔があんまり寂しげで、小鉄はそれから冗談でもそういうことを言うのはやめたのだ。
小鉄は口を噤んで何も言わなくなってしまった築炉を見て、ふうと溜息をついた。
「築炉さん、鋼鐵塚さんが里の人たちになんて呼ばれてるか知ってます? 女房大好きぽんこつ丸ですよ。これね、築炉さんのことが好きでぽんこつになっちゃってるって意味じゃないんです。鋼鐵塚さんは築炉さんが好きなのにやることなすことぽんこつでどうしようもないって思われてるんです」
「ぽんこつぅ!」
「ふふふ、そうですよ、ぽんこつ」
小鉄は土間に屈み込む。今にも泣き出しそうにさえ見える潤いを帯びた赤い瞳が、はたはたと瞬く。
「早く元に戻ってあげてください。戻らないと夫婦で三十歳差……ううーん、金持ちの助平爺ならなんとか……いやキッツい! もし戻れなかったら、そのときは俺が築炉さんをお嫁さんにしてあげますね!」
「こてつくんのおよめさん」
「鋼鐵塚さんよりはマシだと思いますよ」
「こてつくんのおよめさん、うれしい」
築炉の頬が、小鉄の胸元に擦り寄せられる。小鉄は築炉の小さな手を握った。
築炉は丸い目で小鉄を見上げる。
「こてつくんのおよめさんになったら、はがねづかさんといっしょでもいい?」
「え゛っ、鋼鐵塚さんとお嫁に来るんですか!?」
「あい」
「それは絶対イヤです!」
「ええー」
「だから、頑張って元に戻るんですよ」
「むう」
小鉄はおずおずと築炉の幼い背中に腕を回す。柔らかな体は、やはり物悲しくひんやりとしていた。
「絶対に戻るんですよ、約束してくださいね」
小鉄が言うと、築炉は分かっているのか分かっていないのか「はあい」と元気のいい返事をした。