あのこがほしい(終)



 翌日昼を過ぎても鋼鐵塚の姿が見えないので「とうとうどうにかなってしまったか」とおそるおそる鍛冶場を覗いた鉄穴森が見たのは、土の床で一枚きりの丹前を奪い合うようにしながら折り重なって眠る鋼鐵塚夫婦の姿であった。
 築炉の姿が元に戻っている様子であるのを見て安堵したが、なぜ二人そろってこんなところで眠りこけているのかそちらにばかり気を取られてしまう。
 今度は一体何事かと鉄穴森は鋼鐵塚を揺り起こしたが、重たげに開いた目蓋は鉄穴森を見るなり鬱陶し気に閉じられた。築炉の方はうにゃうにゃと要領を得ないことを繰り返すので、姿は戻ったが中身は子供のままであるのかと慌てたが、どうやら寝惚けていただけであるらしい。
 鉄穴森はとりあえず築炉だけは自宅に運び、布団に寝かせてやった。鋼鐵塚の方はどうにでもなるだろうと鍛冶場の床に放っておいた。
 そのせいであるのか傷と無理が祟ったのかは定かではないが、日も落ちる頃になって目を覚ました鋼鐵塚は熱を出して寝込んでしまった。元の姿を取り戻し、鋼鐵塚のことも思い出した築炉は、それを慶ぶ暇もなく鋼鐵塚の看病に奔走することになる。
 万全の体調であろうと手のかかる男が熱を出したのだから手に負えない。団子が食べたい。いや喉が痛くて団子は食べられない。傍にいてほしい。あっちへ行け。季節外れの柿が食べたい。干し柿はイヤだ。手が痛いから自分では食べられない。飯くらい自分で食べられる。汗をかいたから着替えさせてくれ。怠くて着替えなんてしたくない。と、熱があるのをいいことに支離滅裂なことを言って築炉を困らせた。
 これでは築炉の方が倒れてしまうのではないかと鉄穴森はひやひやしたのであるが、鋼鐵塚を窘める鉄穴森に築炉は「平気ですよ。十のうち八か九は、あんまり聞いておりませんもの」と穏やかに笑った。その言葉通り、築炉は慣れぬ新居で淡々と家のことをこなし、いつも通りに鋼鐵塚のわがままに応えた。

「築炉さん……いやはや、痛み入ります」」

 襖の向こうの続き部屋から聞こえるいびきに耳を傾けながら、鉄穴森は溜息交じりにそう言う。鋼鐵塚が発熱したことよりも、それで築炉が散々に振り回されていることに責任を感じた鉄穴森は鋼鐵塚家に見舞いの水菓子を持参した。
 大玉の林檎を手にした築炉は「お持たせで失礼ですけれど、おひとつ剥いてお持ちしますね」と厨に立つ。鉄穴森は室内を眺めて築炉が帰ってくるのを待っていた。鋼鐵塚が眠っている鋼鐵塚家は静かだ、と思うのと同時にすぱんと勢いよく襖がひかれる。その思いやりのない杜撰な襖の開け方が、築炉のものであるはずがなかった。

「――鋼鐵塚さん」

 鉄穴森が目を丸くして名を呼べば、襖に手をかけたまま室内を見回していた鋼鐵塚は湯呑を手に座る鉄穴森をじろりと見下ろす。

「築炉は」
「厨房で、」

 最後まで聞き終えないうちに鋼鐵塚は寝間着のままずかずかと室内を横切り、廊下の向こうを覗く。鋼鐵塚は厨房に向かって「何してんだ」と大きな声をかける。「鉄穴森さんに頂いた林檎を剥いていますから、蛍さんも召し上がってください」と細い声が返ってきた。それを聞いた鋼鐵塚はむすっとした様子で鉄穴森の方に戻ると鉄穴森の手から湯呑を奪い一口で中身を飲み干した。返された湯呑の中身が見事に空になっているのを見て、溜息をつく。

「鋼鐵塚さん、体調が悪いからって築炉さんに当たっちゃいけませんよ」
「当たってねえよ」

 多少頬や頸のあたりの肉が削げた鋼鐵塚がぼそりと答える。言い返す言葉にもなんとなく覇気がない。
 鋼鐵塚の背後で襖が開いて、菓子盆に林檎を盛った築炉が顔を覗かせる。鋼鐵塚は築炉の手首を掴んで部屋に引き込むと「勝手に余所行くな!」と怒鳴るなり肩を怒らせて隣室に引っ込んでいった。乱暴に襖が閉められる音に続いて布団に潜り込む音がする。
 鉄穴森はそれを唖然として見送った。築炉は勢いよく閉められた反動で半開きになった襖をそっと閉める。

「え、なんですか今のは」
「心配をかけてしまったようで、もうずっとあの調子です」
「心配というか――」

 赤ちゃん返りの間違いではないだろうか。それを言っても築炉を困らせるだけであるので、鉄穴森は口を噤む。差し出された林檎を一切れ受け取り齧った。築炉が幼い姿から元に戻ったかと思えば旦那のほうがあの様とは。

「鉄穴森さんにも随分とご迷惑をおかけしてしまったのでしょう」
「いえいえ、今思えば楽しかったですよ。幼い築炉さんも可愛らしくて。小さな頃の築炉さんは、ああいう子でしたか?」

 鉄穴森が何気なくそう言うと、築炉は眉尻を下げて微笑む。

「どうでしょう。小さくなっていた頃のことは覚えていないのです。後から聞いた話ばかりですと、とんだおてんばだったみたいで」

 はずかしい、と築炉は頬をおさえて俯いてしまう。

「そんなことありませんよ。元気で素直ないい子でした」

 鉄穴森は助け船のつもりでそう言ったのだが、築炉はいっそう恥じ入って小さく縮こまってしまった。鉄穴森は空の茶器を卓袱台に置くと席を立つ。

「どうも、長居をしてしまいまして」
「こちらこそ、何のお構いも出来ずにすみません」
「いいんですよ。築炉さんこそあんまり鋼鐵塚さんに構って倒れちゃいけませんよ」
「ふふ、ありがとうございます」

 玄関先まで鉄穴森を見送った築炉が部屋に戻ると、卓袱台によりかかった鋼鐵塚が黙々と林檎を口に運んでいた。築炉は鉄穴森の湯呑を下げながら、鋼鐵塚に顔を向けた。

「食欲があるようで安心しました。もうひとつ剥きましょうか」

 築炉の気遣いに鋼鐵塚は口の中に林檎を入れたまま「いらねえ」と答える。残った林檎をぽいぽいと口に放り込み、あっという間に平らげた。
 それから鋼鐵塚は築炉を睨む。

「お前、本当に何も覚えていないのか」

 鋼鐵塚は露骨に不機嫌そうにそう言う。口振りに拗ねたものが混じった。築炉は肩を竦めて首を横に振る。

「すみま――」
「あんだけ迷惑かけておいてテメエだけすっかり忘れちまいやがって」

 鋼鐵塚の指がぐいぐいと築炉の頬を押す。築炉は眉尻を下げて笑った。

「ご心配をおかけいたしまして」
「心配なんかしねえよ」
「私に何かあると蛍さんはいつも心配してくださいますもの」

 築炉は微笑みながら、するりと鋼鐵塚の襟元に頬を寄せる。それなりに仲睦まじい夫婦であるが、築炉が自ら鋼鐵塚にべたべたと触れることはない。だいたい鋼鐵塚が乱暴に掴んだり抱え上げたりしている。
 そうであるので猫の仔のようにじゃれつかれた鋼鐵塚は、虚を突かれて「お、」と言ったきり固まってしまった。軋むような動きで鋼鐵塚が築炉を見下ろすと、築炉はみるみる顔を真っ赤にして飛び上がり、声にならない悲鳴を上げて部屋の隅まで後退っていく。

「あっ、ちが、ひえ、あの、つい――!」
「お前何やって……つい? ついって言ったか今! お前、忘れたってのは嘘か!?」
「う、うそじゃないです!」
「テメエこっち来て俺の目を見てもう一度言ってみろ!」
「そんないじわるをおっしゃらないで……!」

 背中に襖が当たっているというのにずるずると後退ろうとする築炉に鋼鐵塚が大股で近寄ると、築炉は小さく悲鳴をあげて背後の襖を開け玄関の方に這いずるように逃げる。
 動転した築炉が他所の家に逃げ込んではまたいらぬ誤解を招く。鋼鐵塚は咄嗟に築炉の足首を掴んだ。築炉の指がむなしく床板を引っ掻く。

「覚えてるんだろ!?」
「おぼえておりません! おぼえておりません!」
「亭主に嘘が通用するかよ! お前、あれだろ、蝶屋敷でケツ出させられたこと根に持ってんだろ!」
「ち、ちがいます!」
「やっぱり覚えてるんじゃねえか!」
「そ、そんな……!」

 別に鋼鐵塚にしてみれば、築炉が幼くなっていた間のことを覚えていようがいまいがどちらでも構いはしない。だが、こうも必死になられるとどうにもムキになってしまう。
 築炉は体を控えめに捩って鋼鐵塚の手を逃れようとする。鋼鐵塚にしてみれば些細な抵抗である。こいつ本気で逃げる気があるのかと疑うほどだ。手首を返すようにしてやるだけで、築炉の痩せた体は呆気なく引きずられる。ひええ、と間の抜けた悲鳴が上がった。

「白状しろ!」
「うそをついているようなことは何も……」
「ほう、言ったな!」

 鋼鐵塚は両手を握ったり開いたりしながら築炉ににじり寄る。そのとき玄関口ががらりと開いて、鉄穴森が顔を出した。

「すみません、忘れ物を――」

 鉄穴森は木戸を開けるなり上がり框で蹲る築炉とそれに覆いかぶさる鋼鐵塚が目に飛び込んできて、思わず「うわあ」と短い悲鳴を上げる。
 傍から見れば鋼鐵塚が完全に狼藉者である。

「は、は、は、鋼鐵塚さん!? 何やってるんですか!? 熱で頭おかしくなりました!?」
「ちげえよ、そいつが――!」

 築炉は鋼鐵塚の手から逃げ出し、鉄穴森の背後に隠れる。それを見た鋼鐵塚は「お前は誰の女房だよ!」と激昂し、築炉の手首を掴んで引っ張る。
 築炉はなすがままに引っ張られていく。鋼鐵塚は築炉を一顧だにせず「あ゛あああ怠い! 熱い! 眠い!」と喚きながら築炉を引きずって寝室に引っ込んでいった。
 鋼鐵塚は部屋に消えたと思えばすぐに廊下に戻ってきて、大きく振りかぶって鉄穴森に何かを投げてきた。咄嗟に顔の前で受け止めたそれは鉄穴森の財布である。顔を上げて「ありがとうございます」と言う頃には鋼鐵塚の姿は消え、乱暴に襖を閉める音だけが返事であった。



 鋼鐵塚は布団に築炉を放り込み、自分も倒れるように布団に潜った。築炉は布団と鋼鐵塚で溺れそうになる。

「覚えてんだろ」
「……どちらでもいいではありませんか」
「よかねえ、絶対に聞き出してやる」

 鋼鐵塚は築炉の胸を枕にしてうとうとしながらそう言う。築炉は溜息混じりに鋼鐵塚の髪を指先で梳いた。

「どうかお心にしまっていらしてください」
「…………いやだ、ぜってえ、き――」

 最後まで言わずに鋼鐵塚はすとんと眠ってしまう。築炉はしばらく鋼鐵塚の寝顔を眺めていたが、気が付けば自身も眠りに落ちていた。