揃疵



 隠れ里の鍛冶達は鋼鐵塚夫婦がいつ駄目になるかで賭けをしていた。「三ヶ月で築炉が倒れる」に賭けていた者が最長であったので、結局賭けは成立しなかった。余談ではあるが過半数が「婚儀のその日に花嫁が逃げ出す」に賭けていたあたり鋼鐵塚の人望のほどが見て取れる。
 それがいざ蓋を開けてみればまるで目を覆いたくなるほどの仲睦まじさで、鋼鐵塚は毎日昼を食べるために家に帰り、何かにつけて土産を用意し、家のこともまめまめしく気にかける。時には人目も憚らずにべたべたと触れていたりしていて、それに関しては「いい歳をして見苦しい」と取る者よりも「まあ、鋼鐵塚だから」と取る者の方が多いのは怪我の功名であろうか。
 ――と、里では微笑ましいやら怖いもの見たさやらであたたかく見守られているのであるが、鋼鐵塚にしてみればそんな悠長な話ではない。
 何しろ築炉は主張らしい主張もせず、欲望らしい欲望もなく、鋼鐵塚の女房として要求される行い以外はただ生きているだけのこと以上をしようとしない。鋼鐵塚は鋼鐵塚で尋常でなく気のきかぬ男であるから、ふと気が付けば家の中に死体が転がっている、などということが誇張でも冗談でもなく起こり得る。これから暑い季節である。痩せっぽちとはいえ、成人した女一人の亡骸の腐敗のことを思えば、必要以上に気にもかかる。
 毎日飯を食いに帰るのは、築炉が温かい食事をしているのか確認するためで、土産を買うのは物珍しいものでも食べれば味の感じ方も違うのではないかと思ったからだ。触るのは、肉の厚みを見るためである。鋼鐵塚にとってはそれ以上の理由はない。
 だが、築炉といることは、鋼鐵塚にとって不思議と不快ではなくなっていた。義務のように繰り返される挨拶にもすっかり慣れた。根気強い、というのとはまた違うのであろうが、築炉は鋼鐵塚が癇癪を起そうが家を飛び出そうが基本的に全く気にしていないようであるので、鋼鐵塚も気楽である。
 食べるのがやたら遅く、辛そうな顔で食事をすることと、会話と言えばほとんどが「はい、はい」しか言わないことは苛立たしくも思うが、それ以外は満更でなく思っていた。破れ鍋に綴蓋とはよく言ったものである。

 鋼鐵塚はとにかく築炉に多少の肉を付けさせたいのであるが、彼女はやることがなくなると、掃除だ堀払いだ隣家の畑の手伝いだと際限なく動き回る。これではいくら食べても追いつくまいと鋼鐵塚は一計を案じ、繕い物の内職を募って任せてみた。これが上手くいき、家事雑事の合間合間に築炉は座って縫い針を取るようになった。手先が器用で、手仕事の好きな性質であるのだろう。鋼鐵塚も職人であるから、彼女の針仕事の正確さには感じ入るものがある。
 今も、築炉は里の若い娘の晴れ着を繕っていた。大の気に入りであったのに、見合いを前にして幼い弟に裂かれてしまったということで、最近頓に繕い上手と評判の築炉に依頼があった。
 鶴と手毬の華やかな柄の布を細い指が摘まみ上げ、器用にかけつぎをしていく。柄の違うところは糸の色も変えていて、鋼鐵塚には着物を裂いている光景をゆっくり時を戻しているように見えた。
 築炉の手元をじいと見つめていると、築炉はふっと視線を上げる。

「お茶を淹れましょうか」
「いや」

 はあ、と築炉は吐息のように答えた。それから少し針を動かし、築炉はまた手を止めた。

「蛍さん、」
「気にすんな」
「お顔に針が刺さってしまいますよ」
「気にすんな」

 そうですか、と築炉が言うのと同時に鋼鐡塚の鼻先を針が掠めていく。本当に気にしねえな、と鋼鐡塚は思った。朱色に染められた絹糸が、柔く光を反射して鋼鐡塚の目の前に垂れた。

「鉄穴森のとこの嬶に行きあった」
「はい」
「お前を温泉に誘ってたぜ」
「はい」

 視線は膝の上の晴れ着に淡々と落とされている。たっぷりとした布地が豊かな光沢をたたえている。きゅ、きゅ、しゅる、しゅる、と針が布を潜り糸が通る音がする。
 鋼鐡塚は瞬きも呼吸も忘れたかのような築炉の横顔を眺めた。

「なんで俺が言われたか分かるか?」
「いいえ」
「俺が行かせねえんだと思われてる」

 はい、と築炉は小さく呟く。
 里の裏手の山には女衆しか知らない温泉があり、女達の社交の場になっているらしい。男である鋼鐡塚は話に聞いたことしかないが。

「俺は伝えたからな! 止めやしねえよ好きにしろ!」
「……はい」

 おそらくそれは困っているときの「はい」であった。鋼鐡塚は鼻を鳴らす。

「俺が行けと言えば行くのか?」
「はい」
「じゃあ、何故行かねえ」

 口数こそ多くないが人付き合いは鋼鐡塚より遥かに良い築炉が、どうしてそうまで風呂を渋るのか分からない。
 築炉はぽつんと零した。

「傷があるのです。皆さんに嫌な思いをさせてしまう」

 傷、と鋼鐡塚は口の中で繰り返す。次いで築炉の手から縫い針を奪うと、築炉の胸元に手をやる。それから、突然がばっと築炉の着物の衿を掻き開いた。
 他に誰かがいれば「いかに夫婦であってもそれはちょっと」と窘めたであろうが、あいにく家には二人以外に人はいない。築炉は少し目を丸くして微動だにせず、鋼鐡塚は露わになった胸の傷に無遠慮に触れた。
 幼い子どもの手で引っ掻かれたような傷が五本、胸元にある。まだ血が滲んでいるかのように赤々と皮膚を裂いていた。

「こいつか? この程度の傷で竦み上がるような肝っ玉の小せえ女はこの里にはいねえよ」
「ああ、それは――」
「こいつァ、鬼にやられたのか? でかい狸にでも引っ掻かれたような傷だがなぁ」
「傷は、」
「ああ? なんだ? こりゃ火傷か?」

 着物がずり落ちたせいで、上腕に赤や紫の傷が覗く。切り傷の痕のように細く、いくつも折り重なって腕にある。鋼鐡塚はてらてらと突っ張った傷をなぞった。

「どういう鬼だったんだよ」
「火箸です」
「――はァ?」
「焼けた火箸を当てるのです。するとそうなります」

 まるで他人事のように築炉は淡々と囁く。

「なんでそんなことする必要があるんだ?」
「前の家のお義母さまが、厳しい方でしたから」

 鋼鐡塚は目の前の傷を睨む。その折檻の正当性はどうであれ、この白く薄い皮膚に焼けた鉄を押し付けるなど、考えただけで胸糞が悪くなった。
 鋼鐡塚が手を離すと、築炉の上体は頼りなくよろめく。細い指がするすると動き、慣れた動きで衿を直していった。
 それを見ながら、鋼鐡塚はいきなりもろ肌脱ぎになる。さすがに築炉も唖然としたように手を止めた。
 裸の腕を、ずいと築炉の前に突き出す。

「ほら、見ろ。 ここ、ここ、あと、ここも――」

 鍛冶である鋼鐡塚にとって多少の火傷は日常茶飯事である。探さずともその体には火傷の傷跡がいくらでもあった。

「全部火傷だ。まだある」

 袴に手をかけた鋼鐡塚に、築炉は困ったように首を傾げた。さすがに帯を解くのはやめて、袴の裾をたくし上げる。

「これも……こいつァ本気で痛かったな、死ぬかと思った」

 一際大きな脛の傷跡を撫で、鋼鐡塚は顔を顰める。それから、きょときょとと瞬きをするばかりの築炉を睨み付けた。

「この里に火傷でビビる女はいねえよ! わかったか!!」
「――……はあ」

 築炉は近所の煩い婆に声をかけられたときと同じような顔で微笑んだ。
 築炉の指がまた縫い針をとる。しばらく繕い物をした後に、築炉は思い出したかのように顔を上げた。

「ありがとうございます」
「ウルセエ、俺は何もしてねえ。勝手に感謝すんじゃねえよ、ブン殴るぞ」
「うれしい」
「ここの温泉は傷に効くらしいから、ふやけるまで入ったら傷も消えるし、多少は膨れるし一石二鳥だろう」
「蛍さんと同じ傷で」
「だいたい鬼にやられて脚やら手やら無え奴まで来てんだ。お前なんか――待て、それはおかしい。傷なんか無い方がいいに決まってる」

 伏し目がちにそう言う築炉はあいも変わらずこの世に何一つ面白いことなど無いような顔をしていた。