血を流す夜の獣



 半襟にうっすらと血が滲んでいる。胸元の傷は浅いものであったが、今も時折じくじくと痛み、血を流す。それでも最近は痛む頻度も減り、血が滲むこともほとんど無くなった。
 あの夜のことを思い出そうとするたびに頭の芯が痺れたようになる。眠っていると、いかにも尋常でない悲鳴が上がった。誰のものとも知れない獣のような声であった。
 それから、悲鳴と、悲鳴と、逃げ惑う足音と、建具が軋み壊れる音と、悲鳴と。一際近いところで男の引き攣れるような声が上がって、血と血の臭いとともにぽーんと何かが飛んできた。人間の下顎だった。収まる場所を失った舌が土の床を舐めていた。築炉はそれをぼんやりと眺めていた。あとのことは分からない。
 この傷を付けたのは幼い少女であった。背丈が築炉の腹までしかないような小さな娘で、黒く艶々とした髪を市松人形のようにおかっぱにしていた。村では見たことのない子であった。見事な総刺繍の大振袖を着ていて、築炉はその糸目を見ていた。
 少女は何か言って、慈しむように築炉の胸元にそっと触れたのだ。何と言ったのであろうか、築炉はどうしても思い出せないでいた。


 部屋の隅で包丁を研いでいる鋼鐡塚を、築炉はじいと見ていた。数日は家の壁に刺さりっぱなしであった包丁を、抜いて研ぐことにしたらしい。
 厨の土間に砥石を持ち込み、しゃりしゃりと涼やかな音をたてて砥ぎあげていく。心地良い音だった。刃を立てて仕上がりを確認する鋼鐡塚の真剣な横顔をきれいだと思った。 

「あっちへ行ってろ。気が散る」
「はい」

 邪険にされ、踵を返そうとする築炉に鋼鐡塚はそのまま捲し立てた。

「あんなガキ相手にへらへらしやがって、みっともねえ! 人の女房だって自覚が足りねえんだおめぇは! クソッ!」

 あっちへ行っていた方がいいのか、ここで話を聞いていた方がいいのか、築炉が迷っているうちに鋼鐡塚は先を続ける。

「知らねえ男相手にふらふら応対しやがって! 危ねえ奴ならどうすんだ! ぽやーっとしてるんじゃねえ! 別に心配してるわけじゃねえぞ! 女としての心構えの話をしてんだ!」
「はい」
「あいつもあいつだろうが! 亭主の留守に女一人の家に来る奴があるか! 人の女房を馴れ馴れしく呼びやがって!」
「宇髄様は――」

 研ぎかけの包丁を握りしめ、鋼鐡塚はすっと立ち上がる。

「やっぱり殺すか」
「宇髄様は、恩人なのです。我が家が鬼に襲われたときの――」

 鋼鐡塚は包丁を置き、築炉を睨んだ。

「お前の家はここだろうが。二度と言うんじゃねえ」

 低く唸るようにそう言われ、築炉は「はい」と小さく囁く。

「では、何と言えばよろしいのでしょう」
「知るか」

 苛々とした様子で鋼鐡塚は刃物をせわしなく裏返し、刃を何度も見た。刃を見る鋼鐡塚を、築炉は見ていた。
 ふ、と築炉は口を開く。

「私は、」
「アアーーックソーッ! 何がっ、あいつっ、あ、あ、ああああいっ!? あ、おまえ、くそっ、欧米人かよ!!! ばかじゃねえのか! ばかにしてんのか!」
「私、」
「アアアアアアアアア!!!!!」

 築炉は激昂する鋼鐡塚をぼんやりと眺めていた。一度築炉に向かって包丁を振り上げかけたが、何か思い出したように下ろした。
 築炉は鋼鐡塚を優しい男だと思っている。築炉の弛緩した感覚で鋼鐡塚は、優しいか優しくないかでいえば優しかった。前の旦那と比べればずっと優しい。

「愛なんて恥ずかしいことよく言えたなウオアアアアアアアア!!!!」
「蛍さんと、」

 何かに気が付いたり、優しげな振る舞いをすることが優しいのではない。そんなことなら、今の築炉にだって出来る。自分より弱いものに、少しでも心を配られることこそが優しいのだ。

「やっぱり気がおさまらねえな、一発ぶん殴ってくるか……」
「一緒になれてよかったです」
「いや、もう帰ったのか? 日輪刀を届けに行くふりをして近付くか?」

 築炉はあの夜、厨の土間から己の子が異形に追われているのを見た。一度も抱いたことのない子であった。あの子は己を母親と思ってもいなかっただろう。
 ふっくらとした手足が鶏の首を締めるよりも容易くねじ切られ、割られた頭から脳味噌がぼとぼとと落ちるのを見た。豆腐に似ていた。
 築炉はそれを見て何も感じなかった。感じることが出来なかった。何も感じられない自分に、築炉は初めて己は人ではない何者かに成り果ててしまったのだと気が付いたのだ。

「築炉!! あっちへ行ってろって言っただろうが!」
「はい」

 築炉は胸元の傷に手をやる。以前より痛まなくなった。以前より薄くなった。
 築炉はこれが消えたら人間に戻ることのできるような気がしている。