朝まだき



 血と臓腑の耐え難い悪臭がした。奇妙な気配が家中を支配している。指の一本すら動かすことが億劫になるような重苦しい空気が肺腑を満たす。
 先程までひっきりなしに聞こえていた悲鳴はふっつりと聞こえなくなった。痛いほどに静かだった。
 ああ、これは夢だ、と築炉は思う。あの夜の夢を見ている。
 自分で思い出すより鮮明な夢だ、と築炉は厨の壁の染みを見つめる。己の血の染みだ。己の手で拭いた。
 耳元で何か囁かれる。そちらに目を向けると、洋装の男が立っていた。おかしいな、と築炉は思う。あの夜、ここにいたのは、幼い少女であった。美しい、総刺繍の大振袖。紅蓮の炎を纏った御所車、乱れ咲く黒い百合、蔦のように這う金鎖。
 男は火車のような赤い瞳で、築炉の顔をちらと見た。さして興味もなさそうな顔で、道端の草を毟るような、小石を蹴飛ばすような気軽さで築炉の胸元に触れる。ちくり、と痛みが走る。全身が痺れる。
 はく、と築炉は口を開いた。空虚な音ばかりが口から漏れる。


 ふ、と目が醒めた。
 どくどくと心臓が脈打ち、こめかみを冷や汗が伝う。あの夜の夢をみたのは初めてだった。
 息苦しさに呻く。息苦しいのは夢のせいではない。がっしりとした腕が首に回されている。築炉は肩をすくめてそれから抜け出そうとするが、寝入っているはずの鋼鐡塚が深い寝息とともに首に腕を回し直してきた。
 閨では事が済めば楚々と着物を着込み髪を整え、水と手拭いを用意して亭主に着物を着せかけるものだと教えられた。それが良き妻だと言われ、そういうものだと思っていた。
 鋼鐡塚は寝間着に手を伸ばす築炉をさっさと腕の中に閉じ込めてしまい、いつもそのまま寝てしまう。一度眠れば蹴っても叩いても――もちろんそんなことを築炉はしたことがないが――起きぬ男であるので、築炉もそのまま眠るしかない。
 全身の膚を押し付けるようにされ、築炉は鋼鐡塚の腕から出るのを諦めた。せめて寝間着を羽織りたいと思うのであるが、見渡せる限りに己の寝間着の柄を見つけることが出来なかった。
 汗ばんだ膚がぺとりとくっつき合い擽ったい。布団の中はじっとりと湿り気を帯び、うっすら汗と脂のにおいがする。雨戸の隙間から白々とした朝日が淡く細く室内に射していた。
 築炉は鋼鐡塚の黒く長い髪をそろそろと撫でる。おそらく多少乱暴に扱っても起きないのではあろうが、そういう気にはなれなかった。
 男の波打つ硬い髪は、そう手触りのいいものではない。寝乱れて縺れ絡まっていればなおさらだ。彼が長い髪をしているのは、身なりに頓着しないからだ。散髪する時間があれば刀を打っている。
 額にかかる髪を掻き上げ、汗でべたつく額に触れる。意外な程に端正な鼻筋と目元を撫でた。

「ほたるさん、だしてください」

 返事はない。雨戸の外で鳥の鳴く声がした。

「ほたるさん、すこしだけ」

 築炉は背に回された腕を撫でる。鎚を振るう腕は、左に比べて右がずっと太い。うう、と鋼鐡塚は小さく呻く。腕が弛んだので布団から這い出ようとするのだが、すぐに引き戻された。
 折り畳むように枕にされる。胸の上に頭を乗せられ、築炉は息を詰まらせた。
 固く閉じられていた目蓋が開き、焦点の定まらない瞳が築炉を見る。築炉は「おはようございます」と挨拶をする。鋼鐡塚は声にならない声で何かを言っただけだった。

「ほたるさん、ほたるさん」
「ああああ、んだ、るせえな……」
「ほたるさん」
「まだ夜だ」

 言いながら、鋼鐡塚は築炉を開放する。築炉はそろそろと布団を出た。立ち上がろうとするのを手首を掴まれ阻まれる。

「ああ、築炉――」

 鋼鐡塚は布団からぼうと築炉を見上げた。はい、と築炉は答える。

「お前――」
「はい」
「火傷の跡、薄くなったなぁ」

 ぞろりと腕を撫でられ、築炉は擽ったさに身をすくませた。それから己の腕を薄暗がりで見分する。暗くてよく見えなかった。暗くてよく見えなくなる程度には薄くなっていた。

「あら、本当に」
「温泉か? 俺のは消えねえのに」

 築炉の腕を何度も裏返しながら鋼鐡塚は眉を顰め、またもそもそと布団に潜っていく。よかったな、と鋼鐡塚は寝呆け半分にそう呻いた。
 築炉は目を丸くする。鋼鐡塚が己の傷のことを気にしているとは思わなかった。

「はい、ありがとうございます」
「……俺は何もしてねえ。温泉に饅頭でも供えてこい」

 築炉は小さく笑った。