アイスクリームはいかが?



 ごす、と伊之助は善逸の背中に強烈な頭突きを見舞った。善逸は背骨に雷が落ちたのかと思うほどの衝撃と痛みに声もなく崩れ落ち、一部始終を見ていた炭治郎は「善逸!」と悲鳴を上げた。

「なんてことするんだ伊之助! 善逸に謝れ!」

 藤の紋の家で体を休めていた炭治郎と善逸のもとに、伊之助が合流したと思えば早々にこれである。
 伊之助を諫めようとする炭治郎の鼻先に困惑と戸惑いのにおいが掠めた。炭治郎ははっとし、まじまじと伊之助の顔――顔? ――を見つめる。

「どうしたんだ伊之助……何か困っているのか?」

 気遣わし気な炭治郎に伊之助ははたと動きを止めたが、背中をさすりながら立ち上がった善逸の頭にもう一度頭突きをした。ごん、といい音がした。

「ぐおお、何考えてんだよ伊之助! 鼻から脳みそ出そう……」

 出てない? と善逸は炭治郎に鼻の穴を向ける。炭治郎は善逸の鼻の穴を覗きこみ「大丈夫」と答えた。

「発情期のメスには貢ぎ物が必要だろうが!」

 伊之助は突然そう吠えた。炭治郎と善逸は何のことか分からず揃って首を傾げる。

「あいつは喜んで受け取ったのに、なんで怒られなきゃなんねえんだ!」

 それから炭治郎と善逸が怒り狂う伊之助を宥めたり賺したり叱ったり擽ったりして言わんとすることを引き出した。曰く、淑子を喜ばせようと猪やら木の実やらを贈ったはいいもののその意図が全く伝わっておらず、それどころか発情期のメス呼ばわりしたことで激怒されてしまった、と。

「そりゃそうだろ」

 しきりに鼻を気にしながら、善逸がばっさりと切り捨てた。

「なんだ――」

 反駁しようとした伊之助に、善逸は鬼の形相で詰め寄る。

「あのなあ!!! 女の子はみんなお花みたいに扱ってあげなきゃなんないの!!! それなのに、おま、おまえ、あんな淑子さんみたいな素敵な女性を取っ捕まえて言うに事欠いて発情期のメスだァ!?!? 淑子さんは熊花子か!? 狸まめ子か!? なあ!!! おい!!!」

 どす、どす、どす、と善逸の指が息継ぎのたびに伊之助の眉間を突く。唾を飛ばして怒鳴り散らしていた善逸は、そこで言葉を切ると、すう、はあ、とゆっくり深呼吸をした。そしてにっこりと笑った。

「ふられちまえ」

 炭治郎は言い過ぎではと一瞬思ったのであるが、妹の禰豆子がもしも「発情期のメス」などと言われたらと思い至り考えを改めた。

「伊之助……それはさすがにちょっと……」

 二人に否定され、伊之助は少なからず反省したようであった。いつもはギラギラ光っている獣眼が、心なしか元気がない。
 善逸は元気のない伊之助が少し可哀そうになって、助け船を出した。

「それに、女の子に贈り物をするなら、かんざしとか、紅とか、そういうものだろ」
「そうなのか!? でもそんなん食えねえじゃねえか」
「いや、食わなくていいんだよ……食ったらなくなっちゃうだろ。伊之助、おまえさあ、淑子さんが自分の選んだ飾りものを身に付けててくれたら嬉しくないか? それを見るたびに「これは伊之助にもらった」て思い出してくれるの」

 善逸に言われ、伊之助は腕を組んで考え込む。贈り物をするなら食べ物だと思っていた。滋養になるからだ。
 自分のことを思い出してもらうと嬉しいかとなると、伊之助にはよく分からなかった。
 腕を組んだまま要領を得ない様子で首を捻り続ける伊之助に善逸は「マジで?」と目を剥く。

「かんざしって、あの木の枝みたいなやつだろ? あんなので人間のメスは喜ぶのか?」
「人間のメスじゃなくて女の子! わざとか!?」

 善逸が伊之助の猪頭を張り飛ばした。善逸の手の方が痛そうだ。

「それに、飾りものならなんでもいいわけじゃないんだぞ! 贈る人のことを考えて、その人に似合うものを贈るんだよ!」

 炭治郎が感心したように頷く。

「さすが善逸。女の子に貢いで借金を作ったのは伊達じゃないんだなあ」

 善逸はひゅうと息を吸って大きな声を上げるところであったが、炭治郎が一切悪気のなさそうな様子であるので渋面を作るに留めた。

「んんん〜! 俺、炭治郎のそういうとこ、嫌いじゃないけどさあ!」

 とにかく、と善逸は仕切り直すと伊之助に顔を向けた。

「しかし、贈り物するにしたって、淑子さん相手じゃ難しいぞ」
「なんでだよ」
「ばか、あの人どう見たっていいお家の出だろ。下手なもの渡してみろ、鼻で笑われるぞ」

 身に覚えがあるのか、善逸はぶるりと身を震わせた。炭治郎は苦笑いを浮かべる。

「淑子さんはそんなことしないと思うけどな……」
「でも贈るなら感心されたいだろ」

 善逸が借金を重ねた理由が炭治郎にはなんとなく分かった気がした。

「伊之助、淑子さんの好きなもの知らないか?」
「卵、コウタケ、あけび」
「ばかっ!」

 おまえはいったい何を聞いてたの!? と善逸が悲鳴を上げる。

「そういえば、淑子さん、今日はお仕事をお休みして休養員と銀座で洋食を食べに行くって言っていたぞ」

 炭治郎はふと思い出してそう言う。休みといえど淑子は新たな献立の開発と仕入れ先の開拓に余念がない。淑子は炭治郎の鼻の良さをいたく買っているので、新たに視野に入れた乾物問屋の訪問に立ち会ってほしいと炭治郎は頼まれていた。洋食と、アイスクリームをご馳走するというなんともありがたい申し出とともにではあったのだが、任務の予定との兼ね合いがあって泣く泣く辞退した。

「お休み? ということは私服姿の淑子さんが見られるってこと!?」

 善逸は伊之助のためでなく目を輝かせた。普段は一筋の乱れのないひっつめ髪に割烹着姿の淑子である。銀座を歩くにふさわしい出で立ちの淑子を、善逸は一目見てみたいと思った。

「きっと素敵なんだろうなあ、華やかなお着物なんか着てるんだろうな……よし、銀座に行くぞ」
「確かにここからは遠くないけど……俺たちが押しかけたら迷惑だろう」

 炭治郎が諫めると、善逸は真面目な顔で炭治郎に詰め寄った。

「女性の好みを知るには、その人の持ち物を見るのが一番だろ? 伊之助がいい贈り物を思いつくかもしれないじゃないか!」
「善逸! 嘘とごまかしのにおいがするぞ!」
「わああああ淑子さんの休日銀ブラ姿が見たい! 見たいったら見たい!!!」

 床に引っくり返って足をばたばたさせる善逸に、炭治郎は呆れて溜息をつく。

「善逸、仮にも、ほとんど騙し討ちみたいな形でも、みんな無茶だと思っていても、淑子さんは伊之助の婚約者なんだから、そんなことを言っちゃだめだ」
「十人が十人すぐにご破算になると思っていてもか!?」
「それでもだ!」

 二人のやりとりを黙って聞いていた伊之助が「今俺を馬鹿にしたか!?」と怒鳴った。

「おい! 黙って聞いてれば随分な言いようだな! 見てろ! 俺が淑子をぎゃふんと言わせるような貢ぎ物を選んでやるからな!」


******

 嗅覚の炭治郎、聴覚の善逸、野生の勘の伊之助がいれば、往来の多い銀座の街といえど人探しは難しくない。すぐにモダンなレンガ作りの洋食屋から出てきた淑子を見つけた。若い男の休養員と休養員見習いの少女を連れている。
 淑子は休養員にやや興奮気味に捲し立てていた。

「あのシチーという料理はぜひ食堂でも取り入れるべきですね。きっとライスカレーに並ぶ人気献立になります。大鍋で一度に作られるというのも非常によろしい。鍋と火の番を見習いにさせておけばいいのですからね」
「ですけど、淑子さん、牛乳とバターの仕入れが安定しないうちには……」
「どちらも日持ちがしませんものね。やはり鬼殺隊本部では乳牛を飼うべきです。出納係に意見書を書きましょう」
「あの店のシチーを食べさせてやれば出納係も無下には出来ないですよ」
「そうでしょう!」

 洋食屋からは美味しそうなかおりが漂ってくる。炭治郎の隣で善逸の腹がきゅうと鳴った。炭治郎も心の中で「がんばれ、淑子さん!」と淑子を拝み倒す。いったいどんな料理なのだろうか。

「へえ! また美味そうなものを作ろうとしてるんだな!」

 伊之助が感心したように腰に手を当てる。炭治郎は「しい!」と唇にぴんと立てた人差し指を当てると、伊之助を物陰に引っ張り込む。

「上衣くらい着ろ伊之助! 銀座だぞ!」
「だからなんだ」
「上半身裸じゃ目立つだろう!」

 道行く紳士淑女は皆上等な着物を着こんでいる。中には背広姿に丸眼鏡の男の姿もあった。善良な紳士淑女たちは、上半身裸に猪の被り物の伊之助の姿を見るとぎょっとしたように顔を引き攣らせ、ぐるりと伊之助の周囲を迂回する。

「ほら、淑子さんだっておしゃれしてるじゃないか」

 炭治郎は道端で何か帳面に書きつけながらシチーについて熱い議論を交わしている淑子を指差した。
 常のひっつめ髪は今風の束髪にまとめられ、飾りも挿してある。糊のきいた割烹着のかわりに、明るい縹色の着物を着ていた。
 淑子の姿をまじまじと見ていた善逸が「はぁー」と長く深い溜息をつく。どうしたんだ、と炭治郎が尋ねると、善逸はにこにこと笑って伊之助を見た。

「諦めろ、伊之助」
「何がだよ」

 善逸の言葉に伊之助はむっとして食って掛かった。善逸が目を剥いて伊之助の眉間を指で突く。

「淑子さんの御姿を見ろよ!!! 何も思わないのか!? そのデッケエ目玉は飾りか!? アン!? 見ろあの華麗な立ち姿。束髪に挿している櫛は鼈甲、しかもあれ白甲の最高級品。着物は、ありゃ多分京友禅だな。相当高価だぞ。柄に綺麗にぼかしが入ってて奥行きがある。上掛けは舶来の銀狐。履物もそんじょそこらの下駄屋のものじゃないって分かるだろ!? 帯どころか帯締め、半襟、足袋だって俺らが店にあほ面下げて行っても「お断り」されるような店の品なの!! そして一流の品物を嫌味でなく身に付ける淑子さんの教養と美意識!! 淑子さん、良いとこのお嬢様なんだろうなとは思ってたけど、これマジでガチのやつだぞ! 伊之助! 悪いことは言わないから、贈り物をしようだなんて無茶はよせ! 財布を渡したほうがまだマシだ! もしくは淑子さんのことは諦めろ!」
「裸じゃねえなら同じだろ」
「は、はだっ、ばか! ばかー! 淑子さんにそんなこと言うのはヤメロ! 伊之助じゃないんだぞ!」

 いっきに叫んで酸欠気味の善逸の背中を炭治郎はどうどうと撫でてやる。善逸は炭治郎もぎっと睨んだ。

「そうだよ! 女の子に貢いで得た知識だよ! ちくしょー! まさかこんなところで役に立つとはな!」
「そんな善逸……まだ何も言ってない……」
「思っただろ!」
「…………ごめん」
「きいっ!」

 建物の影でくんずほぐれつ言い合いをする三人を後目に、淑子と休養員、見習いは連れ立って通りを歩きだす。
 見習いがにこりと笑って淑子と休養員を見上げる。

「こうして歩いていると、まるでおっとうとおっかあのようですね」

 それに淑子は穏やかに微笑んだ。

「あら、光栄です。では、おっとうとおっかあではなく、父さまと母さまと呼んでくださるかしら」

 聞いていた休養員の男が、気まずそうに肩を竦める。

「よしてくださいよ、あの猪隊員に聞かれたら壁にめり込むくらい頭突きされっちまいます」
「壁の修理はご自分でお願いしますよ」
「そんな班長、殺生な」

 そんなことを笑いながら歩いている。炭治郎はそのやりとりを聞いて、伊之助が気分を害して激昂し飛び出していくのではないかと身構えた。
 だが伊之助は、意外なほどに平気な顔をしていた。炭治郎の視線に気が付いた伊之助は、訝し気に「なんだよ」と言う。

「伊之助はああいう冗談を気にしないんだな、えらい!」
「はあ!? だってあんな奴、俺の小指より弱ェだろ!」

 つまりは歯牙にもかけていないらしい。炭治郎は伊之助の意外な度量の広さを見せつけられた気がした。
 きゃあ、と小さな悲鳴が上がる。慣れない履物のせいか、見習いが往来の真ん中で躓いてしまった。その拍子に見習いは道行く洋装の紳士にぶつかってしまう。
 紳士は見習いを助け起こすでもなく脚のあたりに縋る少女を足で除けるように振り払った。今日のために手入れをしたであろう一張羅が、砂埃で汚れてしまう。

「君、舶来の背広だよ。汚い手で触れてもらっちゃ困る」

 紳士は鼻越しに見習いを見下ろすとそう言った。なんだと、と休養員が一歩前に出るのを淑子が制した。

「これは、うちの者が失礼いたしました。お怪我はありませんでしたか。ミサ、お立ちなさい。いつまでも惨めったらしく地面を見ているものではありませんよ」

 淑子にそう言われ、見習いははっとして立ち上がると膝の砂埃を払い、真正面から紳士を睨みつけた。

「粗相をおゆるしくださいませ、お着物は汚れておりませんか」

 見習いははっきりした口調でそう言う。尊大に見習いを見下ろしていた紳士の方が、たじろいだように顎を上げた。
 淑子は紳士に向かって穏やかに笑った。

「何事もないようで、安心いたしましたわ。ところで、ひとつだけ、うちの者には手洗いを徹底させておりま――」
「おうおうおうテメエコラ誰の番に喧嘩売ってんだ!? 俺が相手になってやろうかかかってこい!!!」

 炭治郎が止める間もなく飛び出していった伊之助が、紳士自慢の背広の胸倉を掴み上げた。真っ白いワイシャツに土か垢か何かよく分からないような手形がべったりと付く。淑子は束髪が乱れるのも構わず頭を抱えた。

「伊之助!?」
「なんだこいつ、立派なのは着てるモンだけじゃねえか! 布が分厚いだけで中身ひょろひょろのぷうだぜ! がはは!」

 伊之助は哄笑しながら紳士の上衣を引き毟っていく。ワイシャツも奪おうとしたところで淑子は鋭い声を上げる。

「およしなさい、もう十分です!」
「スカッとしたかよ」
「……まあ、多少はね」

 淑子が答えると、伊之助は紳士の胸倉から手を離した。放心した紳士の尻を伊之助が蹴りあげると、紳士は鵞鳥のような声を上げて走り去っていった。慌てふためいていても自慢の背広だけは忘れずに抱えて行ったことに淑子は感心する。

「さて、伊之助――それに、炭治郎、善逸、事の次第を報告してもらいましょうね」

 見事に言い当てられた二人は、すごすごと物陰から姿を現す。淑子は腰に手を当て厳しい顔で三人の顔を順に見たが、見終えたところでふっと笑った。

「それに、そうね――アイスクリームはいかが?」


******


 鬼殺隊本部業務部糧食班班長の淑子はすこぶる機嫌がよかった。先日から取引を始めた乾物屋から仕入れた品物の質が期待した以上によかったことと、乳牛の飼育は認められなかったものの安定した牛乳の仕入れ先が見つけられたことが理由である。
 牛乳のにおいが嫌いだという隊士は多いが、滋養のある食材である。活用しない手はない。
 うきうきと先日の洋食店視察に持って行った帳面を繰っていると、厨房の勝手口を乱暴に開ける音がした。
 その音だけで誰が開けたか淑子には分かってしまう。音の主が厨房に入り込んでくる前に、淑子は勝手口に小走りで向かった。そして今まさに厨房に進入しようとしていた伊之助を両手を広げて阻止する。

「伊之助、手は洗いましたか、着物は替えましたか、風呂には入っているのですか、不衛生なものを中には入れられません」

 そう一息で言う淑子に、伊之助は黙って大きな山百合の花を差し出す。淑子の鼻先を黄金色の花粉の甘い香りが掠める。
 ぽってりとした純白の花びらの、見事な大輪の百合だった。

「あら、すごい。立派な百合ですね。どうしました?」
「やる」
「でも、百合は食べられませんよ」

 淑子は強く握られていたせいかくったりとなってしまった茎をそっと摘まむ。

「やるよ、おまえみたいにきれいだった」

 伊之助はそれだけ言うとさっさと踵を返してしまう。淑子は「お礼も言わせてくれないのね」と笑うと、花瓶を探しはじめた。