遺賢らよ、灰燼に帰す
※札幌さんが書いてくれた
※札幌さんの伊之助夢主愛がスゴい
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かつて誰かに言われたことがある。
水面にそっと手を沈めると、淑子は痛みに軽く眉を潜ませた。潰れた複数の肉刺から溢れていた鮮血が、水流に従って漂っていった。かつて白魚のようだった手は、日に焼けて黒くなり、厚い皮膚になり、乾燥して、所々肉刺のある手になった。以前よりも刀に馴染む皮膚に近づいている。そう思うと淑子は嬉しくなった。あの暗紅に照り返す甲冑を忘れた日はない。脳裏に浮かぶたび、身体中の血が騒ぎ滾り、曩祖等が父母兄弟の恨み果たせと囁くのだ。淑子自身、その会稽を遂げることこそ、この濁世に生まれ落ちた意味だと固く信じていた。
そうして柄を握り込むと、切っ先から血が滴り落ちていた。肉刺から流れる血が刀身を伝ったのだろうと一瞬思ったが、この僅かな出血量で刀身まで血が垂れるはずがない。
不可解な表情をして刀身を眺めると、そこに反射して映ったのは自身の顔と、かつて肉親を食い殺した鬼の相貌だった。淑子ははすぐさま振り返り刀を振るったが、斬ったのは虚空だった。高まる心臓の鼓動を呼吸で落ち着かせながら辺りを見回すと、何かが蹲っていた。刀を構えながら近づくと、亡骸の前で子供が蹲っていた。子供は淑子で、亡骸は父母兄弟のものだった。淑子はただ黙って俯瞰していた。父と兄は遺体の損傷が激しく、白い骨とそこにこびりつく肉片だけで、母は上顎の断面から血を流し、綺麗な歯列に伸びきった舌が力なく垂れていた。しかしおかしなことに気づいた。肉親を失った日よりも自身がかなり幼い。時代が交錯している。
「おかあさま、」
淑子は幼い自身の嘆く声に、緩慢に視線を下に落とすと、鈍色の刀が目に入った。
「どうして」
続きを紡ごうとしたその首を、淑子は躊躇なく刎ねた。
横たわる死骸の首の断面から鮮血が吹き出して足元に血が広がる。地面に落ちた暗く虚ろな目が淑子を捉えて離さない。
淑子の意思とは裏腹に、その刀は赤茶けて錆びて崩れていった。しかし尚、恨みを果たせと声がする。淑子はたまらず耳を塞いで身体をくの字に曲げて跪く。血の海の底から茨が生えて、その身体を蔦のように這うときつく縛り付けた。茨は淑子の肌に棘を突き刺しながら、そのまま刺青のように皮膚の中に入り込んだ。
淑子は全身から血を流したまま、動けない。そうしていると、次第に、あの頃よりも手のひらの皮膚の質が変わってしまった。代わりにあかぎれなどの湿疹が出るようになる。このままでは、ただの女の手になってしまう、刀を握れる手ではなくなってしまう。
淑子の自室の机の奥、そこにかつて蝶屋敷から処方してもらった軟膏がある。いつごろ貰ったか忘れてしまったくらい昔のものだ。気性も似ていて、歳の違いしのぶと意気投合したことをきっかけにして、貰ったものであったが、淑子はそれを一度も使用していない。
そうしているうちに、姉のカナエが死んで、かつてのしのぶも死んだ。姉の模範をしているしのぶに、淑子は何も言わなかった。淑子は死を見送ることしかできない。"鬼殺隊"という組織にいる意味を見失わないため、そして鬼の討伐に出来る限り加勢するために、淑子は形骸化しきっている食堂を復興させた。鬼殺隊を、鬼の凶鳥となるように育てあげなければならない――……淑子は執念を胸に二年の歳月を経て、鬼殺隊本部業務部糧食斑班長の座を襲名する。
ほぼ毎日のように来ていた剣士達の姿を見なくなること、いまだに色の変わらない刀を所持していること、親の仇を討てないということ。それらが長い年月をかけて、淑子を途方もない闇に導いている。それでもわずかに、幸せを感じることがある。多分、伊之助のおかげだった。
「許さない」
突然耳元で囁かれた声に、淑子は顔を上げた。暗澹とした、恐ろしい静けさの海のような目をした女がいる。
「貴女がのうのうと生きることを、私は許しはしない」
そうだったわ、と淑子は思った。生ぬるい湯に浸かってしまいそうになった自分に恥を感じた。幸せを手に入れるには身の程を知らなすぎる。
「淑子」
すると、誰かが自分の名前を呼んでいるのがわかった。暗闇のなか、ひとすじの光が見えるのがわかる。しかし淑子は見ないふりをして目を閉じる。そうして以前耳を塞いだまま、動かないまま、蹲ったままやり過ごそうとしたとき、塞いでいた手を強い力で引っ掴まれた。
「淑子!」
伊之助の声に、淑子は弾かれたように顔を上げた。目を見開いて、伊之助に腕を掴まれたまま強引に引っ張られた。
「伊之助、待ちなさい!……お願い、待って!」
振り解こうとする力が無に帰るほど力強い。わかる、伊之助が自分をどこに連れて行こうとしているか。知っている、伊之助が自分とどうなろうとしているのか。伊之助の片手に海軍剣帯と淑子の刀がある。
「待たねえ!」
崩れ落ちた刀は再び、今、伊之助の力によって蘇った。かつて自分自身で取り返そうとしていたもの、やり遂げようとしていたことが、この男にされてしまったことがひどく悔しくて仕方ない。
――なんて男なの……
しかし、目の際から溢れはじめている涙は、悔しさの涙じゃなかった。
かつて誰かに言われたことがある、お前の目は夜の海に似ていると。しかしそれは嫌味で言われたわけではないことを淑子は知っていた。信じきれなかっただけだ。けれどこの先、月のひかりで輝く海のように綺麗に見えるとするのなら、この奇妙な巡り合わせのせいに違いないのだ。
淑子は振り向いた。もう自分自身を縛り付けていた場所は、すこしだけ面影を残して、もう遠い場所にある。
お母様、お母様があの日、お父様を追って死んだあの瞬間、たしかに私はお母様のご覚悟を目の当たりにし、軍人の妻になると言うことはこういうことなのだと、最期まで私に身をもって教えてくださいました。しかし私は、胸の内にずっと秘めていたことがございます。そしてようやく今、それを受け入れることができました。ひとり娘の可愛らしい最後のわがまま、どうかお許しくださいませ。
――私は貴女と共に、生きたかったのです。
「……」
淑子はふと目が覚めた。長い夢を見ていたような気がする。時計を見ると時刻は午前4時に差し掛かるところだった。少し寝過ぎてしまったようだ。
素早く身支度を済ませた淑子はふと手の乾燥が気になった。しばらく何か考えるように立ち止まった後、机の引手に手をかけて、奥にしまってあった軟膏を取り出した。
すると自室に飾ってある百合の花がふと目に入って、淑子はうっすらと口元を緩めた。
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百合の花の香りがする。
「淑子」
寝起きの皺の寄った声に欠伸を含ませつつ、伊之助は鏡台の前で身支度をしている淑子を呼んだ。
「商談に行くのか」
「……昨晩話したことをもうお忘れですか?」
そう言われた伊之助は記憶を辿るように視線を泳がせる。淑子が髪を梳かしながら黙っていると「……お前が体力どうのこうの言って」と伊之助が指折りをしながら言い出したので、淑子は思わず口を挟んだ。
「伊之助、余計なことは口にせずともよろしい」
「あ? なんも余計なこと言ってねえだろ。お前が体力がねえっつうから早く終わら……っぶね」
「あら、私もこちらの腕はまだ落ちてませんね」
飛んできた櫛を間一髪のところで受け止めた伊之助は含み笑いをする淑子に顔が引きつった。
「……あ、墓参りか」
「ええ、ですからあなたには子供たちの……」
淑子が言葉を続けようとしたとき、遠くでサイレンの音が鳴り始めた。
「……子供たちの面倒をお願いします」
「面倒は上に任せりゃいいだろ」
「では正直に言いましょう、あなたを連れて歩くと警察に目をつけられて厄介です。何度捕まりかけました? その度に私が……」
このご時世、昔とは違って、猪頭に上半身裸の男が街を闊歩したら色々と面倒なことになってしまっている。布団から伊之助が這い出てきたと思えば、そのまま正座をしている淑子の、腰のくびれに腕を回して、柔い腿を枕にする。
「あんまひとりで外に出歩くんじゃねえよ、なんかあったとき助けてやれねえだろうが」
「……あら白髪」
「嘘だろ」
「嘘ですよ」
「おい」
「第一あなたまだ三十路半ばでしょう」
「お前ももうババアだな」
「伊之助」
「けど昔と変わんねえ、百合の花みてえに綺麗だ」
「……」
百合の花の香りがほのかに香る寝屋にあてられた、というわけではない。昔からこうもこの男はなんとも素直に感情を伝えてくる。本当に、率直すぎて頭を悩ますこともあるけれど、淑子は伊之助のそういうところに救われてきたし、気に入っていた。
「……馬鹿」
顔を逸らす淑子の頬がほんのりと染まっていることを、伊之助はわかっている。
「なにを笑っているのです」
「なんもねえよ」
「そう」
「おう。目もツヤツヤのどんぐりみてえだしな」
「……今、なんと?」
「は? ツヤツヤのどんぐり」
「……ふふ」
「なんだよ」
「あら」
「あ?」
「警報の音が……」
「ん」
「止んでよかった」
淑子は手早く髪を整えると、そのまま立ち上がった。膝から滑り落ちるようにごとりと落ちた伊之助はのそのそと立ち上がる。
「あいつらももう起きてるだろ」
伊之助がそう言ったとき、遠くから子供たちの賑やかな声が聞こえてきた。
「ええ、そのようですね」
ふと、私たちはいつもそうね、と淑子は思った。いつだって薄暗い時代の蜷局に巻かれていつも苛まれている。自分の手からこぼれ落ちていった命、そしてこれからも損なわれるであろう多くの命の尊さに傷つけられながら、追憶に慰められながら、再び己の無力さに嘆くことがあっても、もう、あのときのようにはならないだろう。
(遺賢らよ、灰燼に帰す)
男は幼い娘を片腕で抱き上げながら、静かに波打つ大海を俯瞰していた。海防艦から見る海とは一味違うが、どちらも大変いいものだと、男は目を細めて感慨に耽った。
横須賀の佐島にある別宅に足を運ぶのも久方ぶりであったので、年甲斐にもなく浮き足立つのを妻には悟られないようにひた隠していたが、夜も更けたとき、男は唐突に海を見に行きたいと思った。常日頃海にいるというのに、陸にいても海が見たいとなると最早病気であると思ったが、しかし海を見ないではいられなかった。そうして男は妻に、それとなく夜の海の良さを滔々と開陳ところ、ようは皆で海を見に行きたいのですね、こんな夜も更けたときに、と辟易とした顔をして言われた。しかしこうして家族揃って、別宅の南西に位置する高台で海を眺めているのは妻の承諾あってこそだと男は思った。
眼下に広がっている暗い海と、日中に白波を立てて海上を前進する戦艦を思い浮かべたとき、不意に娘が自分の襟を強く握りしめてきたのがわかった。
「淑子、怖いか?」
飯盛家の娘の名を淑子という。淑子は妻の教育の賜物か品行方正だが、ときおり泥だらけや傷だらけになって帰ってくるので何事かと思えば、見たこともない大きな松ぼっくりがあったのでそれを取ったりして遊んだりしたというのだ。
「いいえ、怖くありません」
男の問いに淑子はかぶりをふってそう言ったが、襟を握り締める手は強いままだ。
すると妻の足元にいた息子が「淑子はこわがりだもんな」とからかい始めた。海を見飽きて関心が淑子に向いたのだろう。すると淑子は「しゅくこはこわがりではありません、お兄さまのほうがこわがりです。しゅくこはお兄さまが夜におびえながらかんじょにいくことをしっています」と口達者に言い返すので、息子は悔しそうに「僕はこわがりじゃないっ」と顔を赤くして反抗するが、淑子は余裕綽々といった面持ちで「じょちゅうの方と手をつないでいっしょにかんじょにいくところをしゅくこは見ました、この目でしかと」と言い返したとき、妻が軽くため息をついて言った。
「よしなさいふたりとも、こんなときまで口喧嘩なんてみっともないことを。それに淑子、兄を相手に揚げ足をとる真似はやめなさいと前言ったはずです」
「でもおかあさま、さきにおにいさまが」
「淑子」
妻が淑子を見据えると、なぜか男も内心、心臓をちくりと針で刺されたような痛みがあった。
「兄には敬意を払いなさい、わかりましたか」
すると淑子は目を伏せて「はい、おかあさま」と返事をすると、妻は足元にいた息子にも「そしてあなたもあなたです、敬意を払ってもらえる兄になりなさい」と叱責をした。
目を伏せて気落ちしている淑子に、男は言った。
「淑子の目は夜の海がくれたんだ」
暗い海面に、一筋の月のひかりがきらめいて揺らいでいる。力強さは損なわれず嫋やかな美しさが波立っていた。すると淑子は怪訝な声色で言った。
「ちがいます、このしゅくこのめは、おかあさまがくれたものです」
すると男は予想外の返答に一瞬瞠目したのち、吹き出して「たしかに淑子の言う通りだ、すまなんだ」と笑いをかみ殺すように言った。
すると淑子はそれを馬鹿にされたのだと思って「ほんとうにしゅくこの目はおかあさまがくれたものなのです、おかあさまにうかがってみてくださいなっ」と必死になって言うものだから、男はそれがまた可笑しくなった。すると見兼ねた妻がいい加減にしなさい、とたしなめたが、男は淑子を抱きかかえたまま喉を鳴らして静かに笑った。
「淑子は面白いな」
「面白いものですか、この子は兄よりも粗暴なところがありますから」
「なんだ、そんなところも受け入れてくれるやつと結婚すればいい」
「……貴方という人は」
「淑子は将来どんな男と結婚したい?」
すると淑子はにんまりと笑って言った。
「大きな松ぼっくりのようなとのがたです、そしてわたしはそれに似合うツヤツヤのどんぐりになります」
意気揚々と話し、胸を張る淑子に、妻はきりりとして言った。
「では淑子」
「はい、おかあさま」
「艶々とした団栗のような女性になるのなら、しかと母の言うことを聞き、母の姿を真似なければなりません」
「……もしやおとうさまも大きな松ぼっくりで、おかあさまもツヤツヤのどんぐりなのですか?」
「ええ、勿論」
揶揄っている様子もなく、真面目な表情でそう告げる妻に、男はどこか堅実な妻の、可愛らしい一面を見たような気がする。将来、大きな松ぼっくりのような男に淑子が嫁ぐとき、妻のような美しい、いわゆる艶々の団栗になっているのかと思うと嬉しさと期待が込み上げる。
妻の足元にいる息子が「じゃあぼくは松ぼっくりなんだ」と言うから、男はこくりとうなずいて、その頭を撫でてやった。家族とこうしていられたらいい、何十年先も。
風が吹いて潮の香りがする。幸せは確かにここにあった。
了