迷ったらぐーで行け



※捏造捏造&捏造
※伊之助が出ない
※アオイちゃんメインです。アオイちゃん可愛くない?




 蝶屋敷の朝は早く、繁忙である。朝一番から傷病人の検診と必要な手当てを、それから慌ただしく朝食の準備になる。しかしその日は常の緊張感とは異なる張りつめた雰囲気が邸の中に満ちていた。
 栗花落カナヲが蝶屋敷の主である胡蝶しのぶの目を盗み、神崎アオイの日輪刀を持ち出して、最終選別に乗り込んだためである。
 胡蝶しのぶは青褪めた唇をくっと噛み、こめかみにほっそりとした指をやった。桜色の丸い爪が淡く光るのを、アオイはぼんやりと眺めていた。アオイの胸の内を輪郭の定まらない様々な思いが往来する。胡蝶しのぶに心配をかけていることへの怒り、カナヲの心身への憂慮、姉妹同然の己に何も相談せずに最終選別に行ってしまったことへの寂しさ、己が未練がましく日輪刀をしまいこんでいたためにという後悔――
 ふわふわとしたそれらの中に、胸の内を引っ掻くようなひりひりとした感情があることをアオイは認める。胡蝶姉妹に格別の愛情を注がれ、鬼狩りになどなるものではないと庇護され、それでも胡蝶姉妹の剣技を見るだけで己の物にする、傲慢なまでの才覚への羨望と嫉妬だ。
 アオイは平静を装うしのぶの震える睫毛を見た。カナエを喪った蝶屋敷の悲嘆を知って、カナヲはどうして鬼狩りを志したのだろう。生きて共にしのぶを支えることを、どうして選んではくれなかったのだろう。
 どうして、どうして、と胸の内で繰り返されるそれを飲み下し、アオイはしのぶの白い頬に向かって笑う。

「平気ですよ、カナヲは強いですから」

 私より。
 それを口にはしなかった。だがしのぶは全てを見透かしたような目で、ぱっくりと開いた傷を見るように眉をひそめてアオイを見つめた。アオイは叱責されるより慰められるより、しのぶのその目で見られたことが、何より惨めで恥ずかしかった。

「ええ……ええ、そうね。ありがとう、アオイ」
「カナヲがいなくたって患者さんはお腹を空かせます。私、配膳をしてきますね」

 逃げるようにアオイは勝手口の方へ向かう。ちょうど台車に載せられた療養食が運ばれてきたところであった。少女たちに指示を出しながら、アオイはカナヲのことを考えていた。カナヲが選別に飛び出していったことをまだ知らない少女たちは、いつもと変わらず朗らかに配膳を始めていた。
 慌ただしい朝食の時間を終えたあと、アオイは病室の脇机に空の茶碗が一つ置き去りにされているのを見つけた。食事の時間の終わった蝶屋敷にぽつりと取り残された茶碗を拾い上げる。昼食の時間に来る糧食班員に預けてもよかった。だが、なんとなくここにいては息が詰まるような気がして、空っぽの茶碗を片手に歩いて食堂まで向かった。朝食の始末を終えた厨房にはほとんど人がおらず、数人の調理番が昼食の下拵えをしながらアオイに会釈した。

「あら、アオイ、どうしました。空腹ですか」

 厨房の奥からほとんど小走りに近い素早い歩様で近付いてきた厨房の主に、アオイは苦笑いを返す。

「淑子さん、そんな子供じゃないんですから……」

 育ち盛りの蝶屋敷の少女達に淑子がおやつを振舞っていることをしのぶもアオイも黙認していた。砂糖や卵や乳酪といった高価な材料を使った贅沢なお菓子は、本来であれば見習いたちの口に入るような代物ではない。だが、その手のひらほどの小さなお菓子が過酷な看護に従事する幼い少女たちの柔く脆い心を支えていることを、皆承知していた。
 しのぶとは違う鋭い双眸が、食材の目利きをするような目でアオイを見た。アオイはどきりとして一歩後ずさる。

「カスタ・ポッディングはいかがかしら」

 淑子は何の前触れもなくそう言った。

「か、かすた……ぽ……?」

 聞き慣れない言葉にアオイは呆気に取られる。アオイの返事を待たずに淑子は出納係を脅し賺し言い負かして購入させた最新式の巨大な冷蔵箱の中から硝子の容器を一つ取り出す。冷蔵箱から漏れ出た冷気がアオイの頬を撫でる。

「カスタ・ポッディング。カスタは牛乳と砂糖の入った卵液のことで、ポッディングは蒸し物のことです。日本では牛乳卵砂糖寄などと呼ばれておりますが、あまりにも説明的過ぎて趣がありませんね。甘味茶碗蒸しとでも呼びましょうか。つるつるふわふわとして口当たりがよく、栄養価も高いので新しい療養食にどうかと思ったのですが……試作品はもっぱら恋柱のおやつになっておりますよ。彼女はこれが大層気に入っていて、寸胴鍋で私に作らせるのです」

 アオイに遠慮する暇を与えず、てきぱきと茶の用意をしながら淑子は厨房の一抱えはある寸胴鍋を指で示す。小柄なアオイがすっぽりと収まってしまいそうな大きな鍋を見て、アオイは「ほわあ」と気の抜けた声を上げた。

「あ、あれにいっぱい……?」
「いいえ、三杯は召し上がります。だからあなたも遠慮なさらずに」

 卵色の菓子が載った脚付きの白い陶器を押し付けられる。そちらに、と指差されたのは淑子の控室であった。アオイも入るのは初めてだ。アオイが一歩踏み出すと器の中のお菓子はぷるぷると頼りなく揺れる。アオイはそっと足を運び、淑子の部屋の机に陶器を置いた。続いて入ってきた淑子はティーポットとカップを携えていた。白い小さな壺も。
 アオイがあたりをぐるりと見渡すと、壁いっぱいの書架には分厚く難しそうな本が棚が崩れ落ちそうなほど詰められている。わずかに空いた壁や書架の縁には淑子の手書きの書きつけがいくつも貼り付けられていた。端正な文字の中には、外国語の書き付けもある。

「紅茶を淹れましょう」

 私がやります、と身を乗り出すアオイを押し止めて淑子は陶器のティーカップに紅茶を注いだ。華やかな紅い液体がティーカップを満たす。白い湯気とともにいい香りが鼻腔をくすぐる。

「砂糖はどのくらい?」

 淑子が抱えていた小さな壺は砂糖壺であったらしい。白くきらめく砂糖を見て、アオイは思わず淑子が頭を抱えて帳簿とにらめっこする姿を思い出した。

「い、いえ……結構です……」
「あら、そう」

 淑子は片眉を上げるとアオイのカップに銀色のスプーンで三杯砂糖を放り込んだ。きらきらと朝の光を反射する砂糖の粒が、紅い水面に触れて溶けていく。

「カナヲのことが心配ね」

 今日の献立の話をするように淑子は言った。少し荒れた指先に、透き通るような美しいカップが不思議としっくりと見えた。

「……さすが、お耳の早い」

 アオイが水面に向かって呟くと、淑子はふと微笑む。アオイはその瓜実顔をちらと見上げた。

「――心配です。心配ですよ。あの子、私の日輪刀を持って行ったんです」

 あんなもの、取っておかなければよかった。カナヲもまさか徒手で最終選別に向かうようなことはなかっただろう。使い道のない道具のはずであった。未練がましく手元に置いていたために、カナヲを危険に曝してしまった。しのぶは決してアオイを責めないだろう。だが、ちらともそれを思わなかっただろうか。それを考えるとアオイの心臓ははくはくと静かに拍動を早める。
 気丈に唇を噛みながら青褪めるアオイに、淑子はふと眉を下げた。

「そうね、そう……持っている人間というものは、ときにどうしても無神経なものね」

 アオイは肩を震わせる。引き攣るように息を吐く。

「淑子さん、違うんです、私が……私が弱いのは仕方がないんです。私、日輪刀なんか何の役にもたてられないのに――」

 息が詰まり、アオイは黙り込む。額に冷たい汗が噴き出す。淑子は少し顔を伏せると「ちょっとごめんなさいね」と囁いて席を立った。アオイはその後姿を見送り、次いで揺れる紅茶の水面を見た。
 アオイはカナヲを責めたいわけではなかった。心から心配しているし、案じている。だがほんのひとかけらカナヲの行動に憤りを感じている自分がいて、そのために「心配している」と言うたび心の内側を引っ掻かれるような気がした。
 やがて戻った淑子は一振りの日輪刀を携えていた。アオイのものではない。しのぶのものでもなかった。

「もしあなたに本当に日輪刀が必要なら、差し上げます」

 淑子はそう言って日輪刀をアオイに差し出した。アオイは咄嗟にその刀を受け取った。桜と錨をあしらった珍しい形の鍔が嵌められている。何の気なしに鞘から刀を引き抜こうとし、はばきと鯉口から覗く刀身が打ったままの鋼の色をしていたので、慌てて鞘に刀を戻した。

「これは――」
「私の日輪刀です」

 アオイははっとして手の内の刀を見下ろす。淑子は眉根を寄せて微笑んだ。

「あなたと同じよ。私もね、何の役にも立てられぬ道具を、未練がましく後生大事に飾っているのです」
「あ、私……そんなつもりでは……」

 淑子はアオイの手からそっと日輪刀を取ると、鞘を払い刀身を陽光に翳した。白い光を反射してきらめく刃は、残酷なまでにぴかぴかと光り続ける。色はちらとも変わらなかった。それを見つめる淑子の横顔は、常からは考えられぬほど力のない笑みを浮かべていた。
 慣れた動作で彼女は刀を鞘にしまった。アオイの胸が詰まる。きっと彼女は刀の色を変えられぬことを知ってから、幾度となくその動作をしたのだ。薄紅色に変わった刀身を見つめて何もできずにいた己と同じように。
 アオイにとって淑子は完璧な女性だった。頭の回転が速く、立ち居振る舞いは美しく、部下に慕われ、上には一目置かれている。必要であれば柱にでもお館様にでも堂々と進言する。アオイは淑子が糧食班班長を務めるために鬼殺隊にいて、それを誇っているのだと信じていた。
 それはアオイの知らない彼女の痛みだった。

「……淑子さんも、もとは隊士だったのですね」
「隊士になることすら出来なかった。私は日輪刀の色を変えられませんでしたから」

 短く切られた爪で、淑子はこつこつと刀の鍔を叩く。

「何度しのぶを張り倒してやろうと思ったか分からないわ。彼女は己に才能が無いと信じているけれど、でも私から見れば十分すぎるほど資質に恵まれていますから。彼女は私の身の丈を羨むけれど、でも……そうね、この世は不公平ね」

 でもきっと、悪気はないのです、と淑子は囁く。アオイは淑子の言ったことの意味をぼんやりと考えていた。カナヲは、とアオイは呟く。あとは堰を切ったように口から言葉が溢れ出た。

「カナヲは強い子です。剣士としての才能がある。心配はしているけど……きっと無事に帰ってきます」
「きっとそうでしょう」
「でも、私、カナヲが私の日輪刀を持って行ったのがどうしても許せなくて……」
「ええ、とてもよく分かりますよ」
「なんで、なんでそんなひどいこと、したんだろうって、……だって私、私、そんなことしてほしくなかった」
「そう感じるのは当然です」

 淑子は包むようにアオイの手を握った。どちらの手も水仕事と薬で荒れていた。アオイはその手のあかぎれた皮膚ごしに体温を感じた途端、両の瞳からぽろぽろと涙を溢した。
 慌てて涙を拭おうとした手が淑子に力強く握られたままであったので、涙は頬を伝って卓上に落ちていく。

「カナヲが帰ってきて――帰ってきてほしいのに、帰ってきたときどんな顔をしたらいいか分からないんです……」
「そうね」
「ひどいこと、言っちゃうかも……」
「言えたらいいのですけどね。言わないでしょう、アオイは」

 淑子は指の背でアオイの涙を拭った。

「お茶を召し上がってちょうだい。冷めてしまう前に」

 促され、アオイはカップの取っ手に指を掛ける。熱く甘い液体が舌の上を滑り、喉を落ちていった。鼻の奥からふわっといい香りがする。

「ひどいことを言っちゃうかもだなんて、アオイは優しすぎるのです。私ならきっとぶってしまいます」

 淑子は常と変わらずはきはきとそう言って、耳のあたりで握り拳をぶんと振った。アオイは目を丸くする」

「拳ですか!」
「当然です!」

 からからと淑子は笑い、カスタ・ポッディングの乗った器をアオイの方に押した。カスタ・ポッディングはぷるんと揺れる。

「淑子さん、私、どうすれば……」
「私はしのぶの無神経な発言を五回に一回は怒ると決めているのです。逆に言えば五回に四回は許しているのですよ。あなたが今回のことでカナヲを許すかどうかは、あなたが決めることです」

 アオイは匙を取り、柔らかなそれを掬い上げる。口に含むと優しい卵の香りがした。

「許せないとき、淑子さんはどうするんですか?」
「献立に生姜の佃煮を入れます。でもしのぶの膳にはうっかり小鉢を付け忘れてしまうのです、不思議なことがあるものね」

 アオイは肩を震わせて笑った。淑子は手拭いに水を含ませると、アオイの頬をそっと撫でる。

「どうして私達には欲しい能力が備わらなかったのかしら。彼女達の半分……いえ、四分の一でもあればと、思わない日はありません」

 アオイは浅く頷いた。熱くなってひりひりする目元に冷たい手拭いが心地良かった。

「でも、アオイ、忘れずにおいでなさい。私達は自分の望む能力は得られなかったけれど、他人に必要とされる能力は与えられているのです」

 アオイは首を竦める。

「私も淑子さんみたいなら良かった」
「何を言うのですか。私は以前、乞われて蝶屋敷の手伝いをしたことがありますが、三日で追い出されましたよ」
「え……どうして……」
「私がいると気が休まらぬと。まるで軍隊のようで落ち着かぬと患者からの苦情が相次ぎました」

 とうとうアオイが声を上げて笑うと、淑子はほっとしたように表情を緩めた。アオイはそのときはじめて淑子が強く己を案じてくれていたことを察した。
 アオイは顔を伏せ、菓子を匙で掬い、口に運ぶ。強い甘みが舌の上でとろけた。

「ありがとうございます」

 アオイが俯いたままそう言うと、淑子はついと顎を上げた。

「お礼は結構。質問調査に協力してくださればね」

 淑子はアオイに紙片を差し出す。この食べ物を好ましく感じますか、甘味を感じますか、食べ応えを感じますか、といった質問項目がずらりと並んでいる。その質問事項のあまりの膨大さにアオイは目を丸くする。

「……これ、全部書かなくてはいけませんか?」
「食べたものは吐き出せませんよ」


******


 七日後、蝶屋敷に帰ってきたカナヲをアオイは門前で出迎えた。カナヲは多少疲弊した様子は見せていたが、怪我一つない。
 アオイは七日間、カナヲが帰ってきたときに何を言うか迷った。迷い続けて、結局この日を迎えてしまった。
 カナヲはアオイの姿を見るなりアオイに走り寄ると、日輪刀を差し出した。手入れだけされていた真っ新な日輪刀の柄巻は擦り切れ、鞘は大小の傷がついていた。アオイは眉を寄せる。

「黙って持ち出してごめんなさい……でも……、でも、私、アオイの日輪刀で選別に出たかったの」
「…………ばか」
「ごめんなさい」
「ばか! おおばかよカナヲは! どれだけみんなが心配したと……! ばか! ばかばか!」
「…………ごめんなさい」

 アオイはカナヲを日輪刀ごと強く抱きしめる。

「無事でよかった! どうしてこんなこと……!」

 アオイの腕の中でカナヲは身を縮こまらせた。消え入るような声が漏れる。

「私……アオイみたいにみんなを元気づけてあげられない。上手に看病してあげることも、薬を作ってあげることも……」

 だから、と呟くカナヲを突き放すと、アオイは土埃で汚れたその頬を手でぺちりと叩く。カナヲは目を丸くして頬を押さえた。

「な、なんでカナヲはいつも……! ―― もう! ほら、一緒にしのぶさんに謝りに行くよ!」
「一人で行――」
「いいから!」

 アオイはカナヲの手を引いてずんずんと蝶屋敷に向かう。カナヲの顔を見ればつまらぬ葛藤などいつの間にかどこかへ飛んでいた。