左の頬を殴られたら、口に握り飯を詰め込んで殴れ
善逸の膳の牛しぐれ煮に、伊之助は敏く目を付けた。
「食わねえのか、じゃあ俺が食う」
鬼殺隊本部の兵舎には大きくはないが食堂がある。本部滞在中の鬼殺隊士の給食、蝶屋敷の患者の病人食、長期戦略的野戦の野戦糧食、そういったものを一手に賄っている。
これが実に味がいい、量がある、無料であるというので、かつては本部への帰還を面倒臭がった隊士でさえ、飯食いたさにまめに足を運んでいるという噂さえある。
鬼殺の隊士は出自が様々である。食い詰めた暮らしをしていた者にしてみれば、食堂に行けば温かい飯が食えるというのは極楽のようであった。
「伊之助、善逸のおかずを取っちゃ駄目だ」
炭治郎が言えば、善逸は苦笑いを返した。
「いいよ炭治郎、俺牛肉はちょっと……」
善逸が言い終える前に伊之助はしぐれ煮の小鉢を取り上げ己の丼飯の上にぶちまけた。噛んでいるのいないのか分からないほどの勢いで飯と肉を掻き込み「うまいぞ!」と叫ぶ。飯粒がぶばばと善逸の顔にかかった。
きたねえ! と善逸が仰け反る。
「牛肉が嫌いですか」
通りかかった休養員に急に声をかけられ、三人は手を止める。他の休養員と同じように白い割烹着を身に着けた女である。
善逸はぎょっとしたように身を竦ませた。
「あっ、いえっ、俺別に残そうとしたわけじゃなくて! こいつが勝手に食っただけで!」
善逸がきょどきょどと言い訳を重ねるのに、淑子は笑って首を振った。
「私がお残しにやたら厳しいと脅されましたか? からかわれましたね」
おのこしはゆるしまへんで、と淑子は片眉を上げる。善逸は青褪めていた顔をほっと弛ませた。
淑子は手掴みで飯を食う伊之助に箸を握らせながら善逸に視線を向ける。
「食えぬというなら、それは賄い方の責任です」
「あ、いや、そういうのでは……」
「今日の調理番には厳しく言って聞かせましょう」
「牛肉は、その、ちょっと……においが苦手で」
善逸がぼそぼそと言うと、淑子は肩を竦めた。
「そのような方は多いですね。あまり馴染みのない食材ではありますし、でも栄養豊富で滋養がありますのでぜひ召し上がっていただきたい。牛肉は多く鉄分、亜鉛を含み、蛋白質の摂取に最適!」
「……はあ」
「食べるとモテます!」
善逸の目が一瞬輝き、ふいと逸らされる。
「ま、……またまたぁ」
「蛋白質は厚い体を作るのに必須! 筋骨たくましい丈夫を嫌いな女がおりましょうか! 血の気の多い男って素敵! それに亜鉛は男性機能に……これ以上は私の口からはとてもととても!」
「淑子さん、自分おかわりいいっすか!!!」
「もちろんです」
淑子が合図をすると賄い方がばたばたと小鉢を用意する。善逸は箸を取るとおそるおそるといった風にしぐれ煮を口にし、咀嚼する。むぐ、と呻いた。
「くさくない」
「当然です。今日の調理番は優秀ですので」
「え、いったい誰が?」
「私です」
「あ、はい」
淑子はにこにこと笑うと小鉢の中を覗く。
「どうにも皆さん白米ばかりを好まれるのですが、もっと動物性蛋白質を取らねばなりませんよ」
伊之助が「どーぶつせーたんぱくしつ?」と首を傾げた。持たせられるたびに投げ出す箸を、淑子は根気強く持たせ直している。
「牛豚鶏卵魚蛙、そういったものを積極的に摂りましょうね! 皆さん育ち盛り、体を作る時期ですから」
「俺、肉好きだ!」
「伊之助は好き嫌いがなくて大変よろしい。食べ方がもう少しきれいならもっと良いのですが」
手掴みでものを食べるのはやめなさい、と淑子は溜息混じりに伊之助を諭す。
「そんな棒じゃ食った気しねえ!」
「手が汚れるでしょう」
「拭きゃあいいだろ」
伊之助はそう言って淑子の割烹着を掴み、手を拭った。炭治郎と善逸が同時に悲鳴を上げる。
「うわ、おい、伊之助!」
「わあああ、すみません、淑子さん!」
「いえ、いいのです。汚れるための割烹着ですから……」
言いながら淑子の表情は引き攣っていた。しばらく何か思案げにした後、割烹着の物入れに手を入れる。
そこからからりと揚がったたわしほどの大きさの揚げ物を取り出した。炭治郎は目を丸くする。今、ポケットからそれを出したか?
「もし箸を使って食べるなら、これをあげましょう」
ころり、とそれを伊之助の空いた皿に置く。伊之助は猪頭の鼻をひくひくさせた。
「なんだこれ!」
「コロッケです。伊之助は天ぷらが好きでしたね。ヨーロッパ風の天ぷらです」
コロッケを手で掴みかけた伊之助を、淑子は手で制する。
「箸を使うなら、食べてもよろしい」
伊之助はしばらく獣のように唸っていたが、乱暴に箸を握りしめてコロッケに突き刺した。そのまま一口で口に押し込む。
「箸を使えば手も汚れないでしょう」
言いながら淑子は炭治郎と善逸の皿にもコロッケを置いた。経木で包んでいるとはいえ手掴みであるが、それはいいのだろうか。
「淑子さん、美味しいです!」
さくさくに揚がったコロッケを食べながら炭治郎が言うと、淑子は「それは良かった」と微笑む。
「淑子さん、今、コロッケを直接ポケットから出しましたか?」
「それがどうかしましたか?」
「……油染みません?」
「そんなことはどうでもいいじゃないですか」
どうでもいいだろうか。
淑子は立ち上がると善逸に向かって「どうしても牛肉が苦手な場合は声をかけてください。別のおかずを用意しましょう」と言って厨房に戻っていった。
善逸はしばらくぽーっとその後ろ姿を眺め「結婚しよ……」と呟く。またか、と炭治郎は呆れて窘めた。
「善逸、またすぐそうやって……」
「俺淑子さんの味噌汁を毎日飲みたーい! 淑子さんの手料理毎日食べられるならもっと頑張れる!」
善逸がそう言った途端、ぼんやりとしていた伊之助が勢い良く顔を上げた。
「味噌汁? ケッコンすると毎日味噌汁食べられるのか?」
あれ、これはまずいやつでは、と炭治郎が止める前に善逸が「そうだよ!!!」と怒鳴った。
「ケッコンしたら毎日メシが食える!!!」
伊之助はそう叫ぶと立ち上がり、猪突猛進とばかりに厨房の方に走っていく。二人が止める隙もない。
「おい、コロッケ女! 俺とケッコンしろ! ケッコン!」
食堂中に響き渡る大声で伊之助が叫んだ。
******
鬼殺隊本部業務部糧食斑班長の淑子は、休養員となりニ年で親ほど歳の離れた前班長を包丁で追い払った――包丁をどう使ったかは想像にお任せする――烈女である。
下克上さながらに班長となった淑子はその足で出納所に殴り込み、どこから入手したものか英語の文献まで持ち出して、ヴァイタミンが、蛋白質が、戦時における糧食とは、で大演説をぶちかまし、出納係が目を回したところでお館様まで引っ張り出して予算の大幅増額と人員の確保に判を捺させた。
それまでは出納係に配分されるがまま糠臭い米と沢庵ばかり出していた休養員は文字通り飯炊き係と蔑まれていたが、以降一変、鬼殺の屋台骨とまで呼ばれるようになる。
今日にいたるまで、日夜出納係とは「牛を飼育したいから土地と金と人を寄越しなさい」「そんなこと出来るかバカヤロウ」と喧々諤々の争いを繰り広げながら、鬼殺隊士には大正のナイチンゲヰル、鬼殺隊の御台所、食柱、と畏怖と尊敬と親しみを込めて呼ばれている。
座右の銘は「デカくなりたきゃ肉を食え、米で筋肉が付くものか」であり、特に若い隊士達に執拗に肉を食わせようとすることは肉嫌いの隊士からは辟易とされているが、それでも彼女の人気は揺るがない。何しろ全員、胃袋を掴まれている。
そんな淑子が最近頭を悩ませているのが――
「コロッケ女、ケッコンだ! ケッコンしろ!」
新人隊士の嘴平伊之助である。
淑子は献立作りをしていた手を止めた。猪頭の下でいったいどういう表情をしているのかは知れないが、本気であれ揶揄であれ迷惑なことには変わらない。
食堂で食事をしていた隊士達は「あれが噂の」と好奇の目を向け、厨房の休養員達は心配そうにこちらを覗いている。
「伊之助、私は淑子です。淑子、業務部糧食班長、筆頭賄い方、どう呼んでも構いませんが、コロッケ女ではありません」
「お、コロッケ女、今日の晩飯はなんだ?」
「三分搗き米飯、根菜汁、山菜、野菜と鶏肉の煮物、茹で卵、焼き魚――そういえば伊之助は今夜夜間訓練でしたか。カアボハイドレヱトが必要ですね。十分搗きのいなり寿司を持たせましょうか」
「いなり寿司!」
伊之助は持っていた日輪刀の柄で食堂の長机をガンガンと叩く。淑子は耳を押さえて伊之助を睨む。
「静かになさい、皆食事中です」
「俺はあれが好きだ! 甘いの!」
「きつく油抜きをした揚げに出汁で味をつけます。寝る前に味の濃いものの摂取はすすめられません」
「甘いのが、好きだ!」
淑子はひとつ、溜息をついた。
「ひとつだけ甘くしたものにさせましょう」
「ひとつか……」
伊之助は猪頭の中で何かぶつぶつと呟きながら、何かを考えているようであった。嫌な予感しかしない。仕事が進まない。
「いなり寿司甘くなくていいからケッコンしてくれ! ケッコンしたら甘いいなり寿司も食えるだろ!」
「……伊之助、結婚の意味を知っているのですか?」
「毎日メシが食える!」
淑子は頭を抱えて天井を仰いだ。幼い頃から獣に育てられ、人間の文化教育など一つも受けていないという話を俄には信じられないと思っていたが、これでは信じざるを得ない。
「違います、ご友人に聞いてみなさい」
「友人じゃねえ、手下だ」
「そんなことを言うものではありません」
淑子は机の上の紙類をまとめ、席を立つ。ケッコンシロ! と喚く伊之助の猪頭を紙束で一度張り倒した。
「年上をからかうんじゃない!」
ぽかんとして立ち尽くす伊之助を置いて、淑子はすたすたと他所へ向かう。
なおも追いすがってくる伊之助に、淑子は呆れて足を止めた。
「伊之助、手を出しなさい」
素直に差し出された手に、割烹着のポケットから出したチョコレートを落とす。
「なんだこれ」
「しよくらあとです」
伊之助が手の上の見慣れぬ菓子に興味を惹かれているうちに、淑子は走って逃げ出す。背後から「ウメェ!」と叫ぶ声が聞こえた。
ああ、私の秘蔵のしよくらあとが……と淑子は心の中で涙を拭った。