火のないところで芋は焼けぬ



「話をしましょう」

 人の少ない時間帯の食堂で、淑子は静かにそう言った。
 伊之助が何かを言う前にその口に大粒のキャラメルを数個放り込む。「あまい!」と伊之助は大声を上げると、もちゃもちゃと無心で咀嚼を始めた。全て食べ切るには時間がかかるだろう。
 淑子はてきぱきと茶を淹れ、高級カステラの封を切った。

「伊之助が本気であることは分かりました」

 カステラを切り分け皿に取り、伊之助の前に置く。己の前にも。

「好意は有り難く受け取っておきます」

 むぐう! と伊之助が呻いた。何事か言いたいらしいが、奥歯がキャラメルでくっつき合って話すことが出来ないでいる。淑子は茶を口に含み、ほうと溜息をつく。

「何から話しましょう。そうですね、私、とても弱いのです。あなたの言葉を借りれば弱味噌です。……どんな味噌なのでしょうね。一度味を見てみたいものですが」

 淑子は目を伏せる。

「家族の仇を討ちたいという強い志があり、良き師に教えを受けました。死に物狂いで努力もいたしました。それでも私には絶望的なほど剣の才が無かった。気持ちと努力に体がついて来ない。伊之助にはきっと分からない感覚でしょう」

 淑子はカステラを菓子楊枝で切り、口に入れる。甘くて柔らかい。上品な卵と和三盆の香りがする。

「私ね、弱いのですよ」

 淑子は唇を噛む。淑子にしてみれば己の力で家族の仇もとれないというのは、人生最初で最大の挫折といってよかった。そこには努力や鍛錬では埋められない才能という高い壁があった。才能がない、というのは言い訳がきかない。誰を責めることも出来ない。ただ自責の念に押し潰されるしかない。

「でも飯がウマイ!」

 キャラメルを溶かしきった伊之助がそう声を上げる。その大音声に淑子は目を丸くした。

「……伊之助、私の話を聞いていましたか?」
「はァ!? おまえこそ俺の話を聞いてんのか! おまえは飯がウマイだろーが!!」

 淑子は頭を抱えて項垂れる。

「産まれる子供も弱くなってしまいますよ」
「ハァー!? 俺の強さがそんなんで薄まるかよ! 強くて飯がウマイ最強の生物が産まれるに決まってんだろ!」
「伊之助……弱い私はあなたに相応しくないという話をしているのです」
「だからおまえは飯がウマイだろって!!!」

 伊之助はバンバンと長机を叩く。

「俺は強い! そして更なる高みを目指す! コロッケ女は飯がウマイ! じゃ飯界で最強を目指せばいいだろうが!」
「め、飯界……?」

 どんな世界だそれは。淑子は思わず目をぱちくりさせる。伊之助は机を叩きながら喚く。

「あのなあ、俺は強くて、そんで山の主だ! で、おまえは飯がウマイ。すげえ。食堂の主だな! どっちが凄いとかどうでもいいだろ! まあ喧嘩したら俺が勝つけどながははははは!!!」

 はあ、と淑子は勢いに押されて思わず頷きかけ、それから勢いよく首を横に振った。

「何を馬鹿なことを!」
「馬鹿言ってんのはおまえだろ!!!」
「こ、これだから才能のある人は……!」

 凡才の気持ちなど分かりはしないのだ。

「家族の仇も討てぬ私の気持ちは、ただ己の欲を満たすためだけに強さを求めるあなたには分からない!」
「ハァ!? 誰かのために強くなるのは、自分のために強くなるより偉いのか?」
「そ、――」

 それは、
 それは、どうなのだろうか。
 淑子は目の前の黄金色の水面をまじまじと見つめる。俯いた淑子の顎を、伊之助の無骨な手が乱暴に掴んで上向かせる。ぎょろぎょろとした獣眼が淑子を見下ろす。

「おまえが弱いなら、俺がおまえの仇を討ってやる」

 なぜなら俺は強いからだ!! と伊之助は胸を張った。

「だからおまえは俺に飯を作ればいい」

 なぜならおまえは飯がウマイ!! 猪頭の隙間から唾が飛んでくるほどの勢いで伊之助は言い切った。
 淑子はしばらく獣頭を呆然と見上げていた。子供だ子供だと思っていたが――と淑子は思う。まさか教えられるとは思いもしなかった。
 淑子は顎にかけられたままのごつごつした手を振り払う。

「少し考える時間を頂けますか」

 淑子が言うと、伊之助は猪頭の上からでも分かるくらい不機嫌になった。

「家族は助け合うんだろ、そんな難しい話かよ。おまえ、実は馬鹿なのか」
「わ、私を馬鹿と呼ばわりましたか……!」

 淑子は目を剥く。まさか伊之助に馬鹿だと思われる日が来ようとは思いもしなかった。これでも高等女学校では才女で鳴らしていたのだ。
 だが、まあ、馬鹿なのかもしれない、と淑子はふと思う。

「……とりあえず、カステラでもお食べなさい。私秘蔵の高級品ですから。皆には内緒ですよ」

 淑子が勧めると、伊之助は添えられた楊枝を無視して手掴みでカステラを口に放り込んだ。噛んでいるのか噛んでいないのか、味わっているか味わっていないかも分からないくらい適当に飲み込む。
 淑子は唖然としてそれを見ていた。

「伊之助、もう少し味わいなさい!」
「これ、おまえが作ったんじゃねえだろ! 分かるぞ!」
「松月庵の高級カステラですよ! ああ、なんてもったいない食べ方を……!」
「お前が作ったんじゃなきゃみんな同じだ」
「あなたは製作者と製作物に対する感謝と敬意が足りないのです! 鉄穴森殿の件もそうですが――!」
「あああ!? 今それ関係ねぇだろうが!!!」


******


 夜半、明日の仕込みも湯浴みも終え、日誌を記入し、さて今日は休むかと思っているとどうにも外が騒がしい。はて今宵は夜鍛錬の予定があったか、はたまた喧嘩かとぼんやりと考えていると、その喧騒がどんどん近付いてくる。
 何事かと身構えた瞬間に、私室の障子戸が蹴破られた。淑子は声もなくその場に立ち尽くす。障子戸を木っ端に変える勢いで飛び込んできたのは、手足に数人の休養員をぶら下げた伊之助であった。
 どこにぶつけたものか鼻血を流す力自慢の若い男の休養員が「淑子さん逃げて!」と悲鳴を上げる。

「なんですか、いったい! 伊之助、説明なさい!」

 叱りつけられた伊之助は不愉快そうに鼻を鳴らす。

「おまえに会いたいって言うのに、この雑魚どもがおまえに会わせてくれない!」
「ここは休養員の女性宿舎です! 男子禁制の文字が見えませんでしたか!」
「俺は字が読めねえ!!」

 そうであった、と淑子は思わずこめかみを押さえる。猪進入禁止の絵札でも立てるか。

「今でなければならない用事ですか」
「そうだ」
「では守衛に言いつければよかったでしょう」

 今夜の守衛であった隊士も伊之助に引き摺られてここまで来ていた。彼は額の血を拭いながら肩を竦める。伊之助は傲然と守衛を睨んだ。

「言っても聞かねえ!」
「あ、あんたが勝手に入ろうとするからだろ!」
「なんだとこの野郎! 今言ったのは誰だコラ!」
「ああ、うるさい、喧嘩をするんじゃありません!」

 伊之助と休養員でやいのやいのと始まった言い争いを淑子は一喝する。淑子の仕事ぶりを敬愛している部下たちはぴたりと口を噤んだが、伊之助は意に介した風もなく、ふてぶてしく淑子の方に近付く。
 浴衣一枚の薄着である淑子をじろじろ見ると、おもむろに淑子の胸を鷲掴みにした。

「意外といい乳出しそうだな」

 休養員たちがどよめき、淑子は青褪める。伊之助はわしわしと淑子の乳房を揉みしだく。

「あらそう、夜中に守衛を押し切ってまで褒めに来てくださってどうもありがとうございます! まったく! 誰か、柱を呼びなさい! あなたは誰の配下でもないのでしたね、面倒見のいい音柱がいいでしょう。しのぶを呼ばないのはせめてもの情けだとお思いなさいね!」
「はァ!? そんな理由で来るわけねえだろ!」

 皮肉に逆ギレという大技をきめた伊之助は、電光石火の速さで淑子を担ぎ上げた。俵のように担がれた淑子は寸でのところで悲鳴を飲み込む。

「こら、伊之助、下ろしなさい!」
「あとでな!」

 そのまま壊れた障子戸を乗り越え夜闇に消えていく獣のような後姿を成すすべなく見送った休養員たちが「班長が攫われた!」と大きな悲鳴を上げた。


 しばらく俵抱きにされ、散々振り回された淑子はぐったりとされるがままにされていた。伊之助は上衣を着ていないので掴むところもない。ややもすれば吹き飛ばされそうになり、淑子は体をひねって伊之助の首に腕を回す。硬い毛皮にしがみついた。

「伊之助、いったいどこに……!」
「黙ってろ、舌噛むぞ」

 ばしん、と尻を叩かれた。

「いいケツしてんな。一人ずつでも十二人いけるだろ」
「婦女子の体に無闇に触れてはいけないとあれほど教えたでしょう!」
「ハァ!? ケツも駄目なのかよ!」
「ケツも駄目です!」

 あ、ケツって言っちゃった、と淑子は内心で少し反省する。

「じゃあどこ触ればいいんだよ!」
「触るな、と言っているんです!」

 べしゃり、と地面に落とされ淑子は今度こそ悲鳴をあげた。

「伊之助! 触るなとは言いましたが落とせとは言っておりません! 下ろすにしてもやりようがあるでしょう!」
「ちげえよ、着いた」

 淑子はぐらぐらする頭を持ち上げる。山の中腹の拓けた場所で、暗い空が藍色に淡く輝いて見えるほど大粒の星が降り注ぐようにきらめいている。
 淑子は感嘆の息を吐いてぼんやりと空を見上げた。

「そんな大口開けて空を見てっと虫が入るぞ」
「お、大口なんて! なんて趣の無い!」

 淑子は慌てて口を閉ざす。伊之助は淑子の傍らに屈みこんだ。

「おまえ、俺がいなかったらここに来れなかったぞ」

 伊之助が言わんとするところはよく分からないが、言う通りではあるので淑子は首肯する。

「ここで星みてえな甘いのが食いたい。作ってくれ」
「……はい?」

 星みたいな甘いの、と淑子は考え、「金平糖ですか?」と伊之助に尋ねた。それ、と伊之助はぶっきらぼうに答える。

「俺はここで金平糖が食いたいけど、金平糖が作れないし、おまえはここまで自分じゃ来られない。分かるか?」

 ふと昼日中の言い合いを思い出す。淑子は瞠目し、次いでふと笑った。

「そう……そうね、分かりますよ」
「そうか! 思ったほど馬鹿じゃなかった!」
「でも、私、金平糖は作れません」
「…………えっ?」

 伊之助は全ての動きを停止してしまう。言わないほうがよかったか、と淑子は一瞬思ったが、こちらは職務でもあるのだ。いい加減なことは言えない。

「あれは特殊な機械が必要ですし、職人技ですから。厨房で簡単に作れるものではありません」
「……マジかよ!!!」

 伊之助はその場で崩れ落ちてしまう。

「ただの甘いののきらきらじゃねーの!? 今から練習しろよ! 機械も買えよ!」
「無茶を言わないでください」

 金平糖を作るためだけに設備を購入する許可を取るくらいなら、本部に養鶏場でも作りたいくらいだ。

「だいなしじゃねえか!」
「それはすみませんね!」

 淑子は笑い、地べたに手をつく伊之助の頭を撫でた。猪頭の毛はごわごわと硬い。

「でも、ありがとう」

 伊之助は獣のように唸り、その場でうつ伏せに寝転がってしまった。呻きながら手足をばたつかせる姿を見下ろしてから、淑子は「私はいったいどうすればいいのか」と美しい空を見上げる。

「――伊之助、」
「淑子!」

 跳ね起きた伊之助が淑子の肩を掴む。力が強すぎて少し痛い。

「俺は、おまえと家族になれるぞ!」
「伊之助、その話は――」
「おまえは、どんぐりをいっぱい食べた雌猪みたいだ!」
「えっ、わたし、どんぐりをいっぱいたべためすいのししみたいなの……?」

 なんだろうそれは。あんまりと言えばあんまりな伊之助の発言に、淑子は思わず日本語が不自由になる。抑揚なく鸚鵡返しする淑子に伊之助は力強く頷いた。

「よ、よく分かりませんが賛辞なのでしょう。ありがとうございます」

 淑子が言うと伊之助はばしばしと淑子の肩を叩いた。淑子はふと変わった匂いを感じて、勢いよく振り返る、伊之助の手が肩をすっぽ抜けた。

「この香り……!」

 淑子は暗がりで四つん這いになって香りの発生源を探す。切り株の根本に目当てのものを見つけ、淑子は歓声を上げた。淑子の手元を見た伊之助が鼻を鳴らした。

「なんだよ、ただの茸じゃねえか」
「そうですよ! 茸です! コウタケですよ、とっても香りがよくて美味しいんです! ああ、こんなに! すごい!」
「そんな茸、このへんにはいくらでも生えてるぞ。ほら、あっちにも」
「茸探しは豚に限る! 焼き物、お吸い物、炊き込みご飯、伊之助の好きな天ぷらにもしましょうね!」
「美味いのか?」
「お約束します!」
「こっちにも生えてるぞ」
「とても二人では取り切れませんね! 明日、休養員で取りに来ましょう!」
「それは駄目だ」

 拗ねたように伊之助に言われ、淑子は苦笑する。淑子は唇の前に人差し指を立てた。

「ええ、では、ここは二人の秘密です」
「いつでも連れてきてや――」

 伊之助!! と大声で呼ばれ、伊之助は言葉を切った。炭治郎と善逸が息を切らしながら駆けてきた。乱れた浴衣姿で足下は裸足、高揚した様子で四つん這いになっている淑子を見て善逸がこの世の物とも思えない悲鳴を上げた。

「お、おまっ、い、いの、いの、いのすけっ!!! 淑子さんになんてことを!!!」

 ぎゃあああああ、と泣き崩れる善逸に淑子は「私は無事ですよ」と言う。聞いてはいないようだった。
 炭治郎がぽかりと伊之助を殴る。

「伊之助! 本部はもう大騒ぎだぞ! 淑子さんが伊之助に攫われたって、休養員の人たちが淑子さんが無事じゃなかったらもう隊士の飯は作らないって大激怒だ!」
「胡蝶さんなんか笑顔で去勢手術の準備してるぞ!!!」
「攫ってねえよ!!」

 言い返す伊之助に淑子は「いえ、攫われましたよ」と溜息をついた。それから立ち上がり、手と膝の土を払う。
 薄着の淑子に炭治郎が慌てて己の羽織を差し出した。善逸もわたわたと羽織を差し出すので、淑子は浴衣の上に二枚の羽織を重ねて着る。

「さて、ではコウタケを取れるだけ取って帰ることにしましょうか。炭治郎は鼻がいいのでしたね、この香りの茸を探してください」

 不服そうな伊之助に、淑子は笑った。

「このまま手ぶらでは帰れませんよ。土産があれば皆さん怒りもおさまるでしょうし、それに茸の乾燥作業で大忙しになれば怒る暇もない!」

 深夜、大量の茸と淑子とともに山を下りた三人はそのまま夜通し茸の天日干しの用意を手伝わされる羽目になり、善逸は一晩中「なんで俺まで」と呪詛を唱え続けた。