前門のおはぎ、後門のぼたもち
鬼殺隊士は鬼が出るままに全国を巡る。立て続けに鬼の出現があれば三月、四月と本部に帰ることも出来ず藤の紋の家や宿場を転々とすることはままある。伊之助がしばらく帰還していない本部の厨房は静かで安らかで仕事が捗っていた。
淑子は常と変わらず最後になるかもしれない食事を作り、隊士の胃を満たす。苦しい暮らしぶりで痩せていた新人に温かい食事を提供し、作法を知らない子供には背筋を伸ばして食事をすることを教える。時には献立研究と称して部下を連れて街の洋食屋などに出かけることもあった。
数回の恋柱の襲来をやり過ごし、出納係を捻じ伏せ、びしびしと働く淑子はいつも通りで、だがどこか寂しそうに休養員たちには見えた。
やっぱり淑子さんは伊之助に。いや身持ちの固い淑子さんがそんな。と、休養員たちがひそひそと話しているのを、淑子は笑って「あなたたちが心配するようなことはありませんよ」と一蹴した。厨房で淑子に秘密にできることなど何一つない。
「でも、班長さびしそう……」
一番歳の若い休養員見習いが、恐れ知らずにもそう言う。淑子はちょっと笑って見習いの頭を撫でた。
「寂しいですよ、だってあれほど騒がしかったのに急に静かになってしまって」
「ごぶじに帰ってくるといいですね」
「そうですね、こればかりは祈るしかないのが歯痒いですが」
淑子は眉尻を下げた。
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私室で使えもしない日輪刀の手入れをしていた淑子は、一度も使われないまま美しいばかりの刃を眺めて溜息をつく。己にとって無用の長物であることは分かっている。だが返還して誰かのものにしてしまうことも、いっそ鋳潰して包丁にしてしまうことも思いきれないでいる。その方が余程有益だと分かっていても。
淑子は己の仕事に誇りを持っている。明日をも知れぬ剣士にひとときの憩いを提供し、その血肉を育む。部下たちにも「己は剣士の成り損ない」だなどと思ってほしくはない。人にはそれぞれ出来ることと出来ないことがある。出来ぬものを惜しむばかりでは不毛だ。
頭で理解していても、心が付いてこない。
刀の手入れを終えた淑子がふと目を上げると、開け放していた雨戸の外に獣眼をぎょろぎょろとさせた伊之助が立っていた。
「ケッコンする気になったか!」
開口一番それである。淑子は額に手をやった。
「伊之助、もっと他に言うことがあるでしょう」
「いなり寿司食いてえ!」
「それも違いますね」
淑子は伊之助を手招き寄せる。うかうかと近寄ってくる伊之助にデコピンを当てる。避けられたくせに、と淑子は思った。
「お帰りなさい、無事な姿を見て安心しました」
伊之助はしばらく黙ったまま宙を見ていたが、急に唸り声を上げると地団駄を踏んで大騒ぎをし始める。
「俺がやられるわけねえだろ!!!」
「こういうときは「ただいま帰りました」と言うものですよ」
淑子は立ち上がり、戸棚を開ける。伊之助にやれるような菓子はない。戸棚を閉めた。
「それに、入り口の猪進入禁止の絵札を見なかったのですか。せっかく用具係に作らせたのに」
「入り口から入ってねえから関係ねえ!」
「一休宗純ですか、あなたは」
おい! と伊之助が土足で縁側を踏む。履物を脱ぎなさい! と一喝すると、伊之助は威勢を挫かれたように縁側から足を下ろした。
それでも傲然と低いところから見下ろさんばかりに睨みつけてくる。
「考える時間はあっただろ」
伊之助はそう言った。何の話かと淑子は一瞬困惑する。彼が任務に発つ前に、自分がそう言っていたことを思い出した。
「ええ、そうね。たくさんありました」
「ケッコンする気になったかって!」
ほう、と淑子は息をつく。
「いいえ、伊之助。私はあなたとは結婚いたしません」
きっぱりと言われ、伊之助は急に静まり返った。思えば今まで「馬鹿なことを」とあしらったことはあっても、拒否したことはなかったような気がする。
「なんでだよ!」
「あなたは強い剣士ですから」
「そうだ! だからなんだ!」
「ゆくゆくは柱にも成り得るでしょう」
「当然だ、俺が最強だ!」
「そうなればいくらでも縁談があるのですよ」
「―――は?」
伊之助は深々と淑子を睨む。淑子はそれを正面から睨み返した。
いつ死ぬともしれぬ鬼殺の隊士だ。慰みに恋人の真似事をしたいというのなら、それには応じたかもしれない。飯が食いたいというのなら、いくらでも食わせてやる。だが結婚となれば話は別だ。それは淑子には荷が重すぎる。
「鬼殺の名門がこぞって娘を差し出すでしょう。剣の才のある娘も、器量に恵まれた娘も、もちろん料理の達者な娘もいるでしょう。それらすべてを兼ね備えた子もいるかもしれない」
「何言ってんだテメエは」
「伊之助、結婚は家族を持つことです。家族は助け合うものです。あなたの言う通りですよ。だから、助け合うに値する相手をお探しなさい」
「親の仇ってやつを気にしてんなら――」
「伊之助はそんなことを気にしなくてよろしい。あなたはあなたの成すべきことをなさい」
伊之助は雄叫びを上げた。雨戸が外れるのではないかという大音声で、淑子はとっさに耳を覆う。伊之助は土足でずかずかと淑子の前まで来ると、耳から手を無理矢理引っぺがす。
「テメエは何も分かってねえ!」
鼓膜が破れるのではないかというほどの大声が耳にぶち込まれ、淑子はあたまがぐらぐらした。
「何も分かっていないのは――」
「俺は、おまえがどうしたいかを聞いてるんだ!!! 考える考えるっておまえは何を考えてんだ!!! 脳みそ入ってんのか!!!」
淑子が言い返す前に、伊之助が畳みかける。
「おまえはケッコンしたいのか!? おまえは親の仇を俺に討ってほしいのか!? それ以外に何を考える必要があるんだ!?!?」
伊之助は散々に喚き散らす。獣眼の向こうで血走った伊之助の瞳が爛々と淑子を見た。伊之助は獣のように荒い息を吐くと、己の足下にある淑子の日輪刀を足先に引っ掛け手に取る。
「クソッ、クソクソ、ケッコンなんかやめだ!! まどろっこしい!!! 」
伊之助が何をしようとしているのか勘付いた淑子は懇願のように悲鳴を上げる。
「伊之助、やめて!」
がらん、と傷一つない鞘が床に投げ落とされる。伊之助の手の内にあるといかにも品行方正で面白みなく見えるすらりとした直刃が、墨をこぼしたように藍鼠色に染まっていく。
ぐわははは、と伊之助は哄笑した。
「やっぱり雄が雌を手に入れるにはこれだろ、戦って勝つ!」
伊之助は日輪刀を担ぎ上げる。
「おまえの親の仇なんか、俺が一瞬で塵にしてやる!」
淑子は拳を固めると、伊之助の頬を思い切り殴った。先ほどまで景気よく笑っていた伊之助の体がふわりと浮き、床に叩きつけられる。殴られてから床に転がるまでの短い間に、伊之助は「え、こいつ弱いんじゃないの」とふと思った。すぐに床に叩きつけられる激痛と頬の鈍い痛みでどうでもよくなる。
「ごえ……」
「なんということを……なんということを……こればかりは悪戯では済みませんよ……!」
握りしめられた両の拳が怒りでわなわなと震えている。青褪めた淑子に睨まれ、伊之助はさすがに「まずいことをした」と思う。悲しいかな、この怒りをおさめるだけの言い分も口の上手さも伊之助にはない。
色の変わった淑子の日輪刀を持ったまま床に座り込んでいる伊之助を、淑子は邪鬼を足下に踏む広目天のような形相で見下ろした。血の気を失い震える唇が非情な言葉を口にする。
「よろしい、あなたがそうしたいというなら、好きに私の仇を討ってきなさい。そうすれば結婚でもなんでもしてさしあげます。ただしそれまであなたには食堂の使用を禁ずる!」
「は、ハァ!? おい待て、せめて今日の晩飯――!」
「なりません」
「グアアアア!」
「食堂では私が法です! 砂糖の一粒までが私に従うのですよ!」
淑子はそれだけ言うと割烹着をとり私室を後にした。部屋には日輪刀と「これは本当にまずい」と野生の本能が警鐘を鳴らしまくっている伊之助だけが残された。