(終)肉を切らせて焼いて食う
伊之助に糧食班長による食堂使用禁止令が下されてから二週間、淑子は蝶屋敷で手の傷の抜糸を受けていた。皮膚の下をずるずると糸が這う感触に顔を顰めながら、淑子は己の手としのぶのつむじを眺めていた。
伊之助の硬い皮の猪頭を一切の手加減なく殴った淑子の拳はざっくりと裂けた。その時点こそ怒りで頭が真っ白になっていた淑子は痛みも感じなかったが、厨房で己の拳が血だらけであることに気が付き、布巾で押さえるだけではどうにもならず、蝶屋敷の世話になる羽目になった。
水仕事も出来ず、上手く包丁も扱えないというのは想像以上に淑子をくさくささせた。傷が治るにつれ、怒りも風化したようになって、どうしてあそこまで激昂してしまったのだろうかと溜息をつきたくなる。
「まさか淑子が食事抜きを言い渡すなんて。食べたい者には食べさせるが信条だったのに」
みな、あなたは鬼にも飯を食わせると言うのですよ、としのぶは笑った。糸を抜かれ、軟膏を塗られる。淑子は恥じ入って肩をすくめた。
「ついカッとなってしまいました。大人げない」
「淑子は大人じゃないですから」
言われ、淑子は眉を上げる。しのぶはにこにこと笑った。
彼女は意図して亡き姉君を真似ている。その笑顔を見るたび、淑子は少し胸が痛くなる。淑子は今のしのぶの穏やかな微笑より、怒りに引き絞られていた眦がふと弛み弧を描く瞬間の方が好きだった。
「私も、淑子も、全然大人になれないのですね」
「時が止まってしまったかのようね」
淑子は苦笑した。いつからだろうか。家族を失ったときか、刀の色が変わらなかったときか。しのぶは――姉君を喪った頃からだ。
「駄目ですね、私達は後ろを見てばかりです」
「そうね、そうかもしれない」
ふう、と淑子は息を吐いた。
「でも、後悔はしています。私はいくらなんでも怒りすぎました。挙句、職務を放棄し喫食を禁ずるなんて……次に伊之助が帰ってきたら、よくよく謝って美味しいものを食べさせねばなりませんね」
うふふふ、としのぶが意味深に笑う。淑子が眉をひそめると、しのぶは楽しそうに口元に手をやる。
「その様子だと知らないのですね」
「何がです」
しのぶはずいと身を乗り出した。
「血の甲冑を着込み、血の槍を操る鬼の討伐に、伊之助が名乗りを上げたのですよ」
淑子はぎょっとして身を引く。心臓がどくどくと脈打ち、脳が熱くなる。
「まさか、そんな――私は伊之助にそれを教えていませんよ!」
だから、ああ言ったところで相手も見定められないと高を括っていたのだ。しのぶは軟膏を片付けながら事も無げに「私が口を滑らせてしまって、つい」と微笑む。
淑子は口をぱくぱくさせる。
「あ、あな、あなたは……あなたって人は! この裏切り者……!」
「淑子、あなた、仇が討てたら結婚でも何でもしてやると啖呵を切ったのでしょう、これは楽しいことになりそうですねえ」
「しのぶ、いったい何を考えて……!」
「伊之助ならあなたの横面を張り飛ばして前を向かせてくれるかと思って」
淑子は言葉に詰まる。怒りでも焦りでもない感情で頬が赤く熱くなる。
「なんてことを!」
色々なことがいっぺんに起こりすぎて目を回す淑子に、しのぶはからからと口を開けて笑った。淑子はそれを少し昔の笑い方に似ていると思った。
「往生なさいな、淑子」
しのぶが言うのと同時に、蝶屋敷の表がやにわに騒がしくなる。戸が開けられる――というよりも完全に破壊するような激しい音がした。何事かとしのぶと淑子が顔を見合わせていると、けたたましい足音とともに隠と蝶屋敷の少女たちを引きずる満身創痍の伊之助が障子戸を蹴破って入ってきた。
強烈な既視感に淑子は頭がくらくらしてくる。
「伊之助さん、治療が先です!」
「おい、いい加減にしろ! 戻れ!」
そう騒ぎ立てる声が聞こえていないのか、伊之助は血まみれでおかしな方向に曲がった指を真っ直ぐ淑子の方に向ける。淑子は唖然とし、しのぶはくすくすと笑った。
「おい――」
潰れた喉で声を掛けられ、淑子はいてもたってもいられず伊之助に駆け寄る。その手を取り体を支えてやると、伊之助は淑子の手を折れそうなほど強く握った。
「勝ったぞ」
「ああ、ああ、それがなんだというのです、早く治療を――!」
血が出ている。骨もあちこち折れているだろう。淑子は「早く処置室へ!」と隠を呼ばう。
ぎょろぎょろとした獣眼の向こうで、造り物のそれより余程獣じみた双眸が淑子を見る。
「勝ち取ったぞ」
「いいから早く――」
伊之助は血で汚れた金色の金具を淑子に握らせる。錨に五三の桐が刻まれた剣帯章だ。――父のものだ。亡骸から奪われていた。
淑子は溢れそうになる涙を押し止める。
「あなたは、世迷言を真に受けて……」
「約定違うなよ、結婚するっつっただろうが」
「ばかなことを……!」
いや、馬鹿なのは己だ。淑子は袖で目を拭う。深く呼吸をする。
「……あなたの執念には負けました」
「結婚するか?」
「しますから、お願いだから治療を受けてちょうだい!」
淑子が悲痛な声でそう言うと、手の骨が軋むほど力強く握られていた伊之助の手がふっと弛む。悲鳴を上げかけた淑子に、伊之助は「腹減った」と言い残して昏倒した。
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それから三日間、伊之助は眠り続けた。
淑子はといえば、淡々と常の業務をしながら伊之助が目を覚ますのを待っていた。
どこから漏れたものか淑子が伊之助との結婚を承諾したということは、あっという間に知れ渡っていた。まさか鎹烏を使っていないだろうなと疑いたくなるほどの速度で、伊之助が目覚めるより早く全ての隊士が知っているのではないかというほどの広がり方であった。
「班長、結婚しちゃうんですか」
幼い見習いにそう問われ、淑子は苦笑いを返す。
「どうでしょうね」
「あたし、班長をおかあさんみたいに思っていました」
「ふふ、ありがとう」
「そうすると、あのいのししの人がおとうさんになりますか?」
「それは……それはどうでしょう」
「ちょっといやです」
「なぜ」
「こわい……」
淑子は笑って少女の頭を撫でた。
蝶屋敷から療養食の指示書が届いているので、それを確認する。その中に「嘴平伊之助 重湯 薄い具無し味噌汁 茶」という一行を見つけて、淑子はふうと息を吐いた。
全く粋な伝え方をしてくれる。
指示書通りに揃えた食事を荷車に載せ、運んでいくのを見送ると、淑子は「さて」と割烹着を脱いだ。
何から話したものかと考えながら蝶屋敷の敷居を跨ぐと、大騒ぎする声が聞こえる。もうすっかり聞き覚えのある声に淑子は額に手をやる。ぎゃあぎゃあと喚き声の聞こえる病室の扉を勢いよく開けた。
「食事中に騒いではなりません!」
病室内には回復食の盆をひっくり返さんばかりに暴れる伊之助と、それを必死で止める炭治郎と善逸、蝶屋敷の少女達がいた。伊之助は淑子の方を睨むと「全部汁じゃねえか!」と怒り狂う。
少女たちは口々に伊之助に苦言を呈した。
「三日も寝ていたんだからまずは重湯からですよお!」
「しのぶ様が決めたのに!」
うるせえ!! と今にも牙をむきそうに少女たちに食って掛かる伊之助を、炭治郎が寝台に押し戻す。
「おまえ、こんな、こんなシャバシャバなの飯と認めねえぞ!」
「そうですか、観念なさい」
淑子は溜息をつき、匙を取ると重湯を掬って伊之助の口元に運ぶ。伊之助は途端にしおしおと大人しくなり、運ばれるまま重湯を口にした。小奇麗な顔も相まって、そういう人形のようだ。
完食したあとに、伊之助はおずおずと淑子を見上げる。
「おまえに謝らなくちゃなんねえことがある」
「なんでしょう、刀の件でしたら――」
伊之助は気まずそうに寝台の下から刀を取り出した。己の日輪刀だった。鞘から抜き放った藍鼠色の刀身は、途中でぽきりと折れている。
「……折れた」
淑子は目を丸くし、次いであははははと笑った。伊之助は目をぱちくりさせる。
「まあ、……まあいいでしょう! 今回は私からは不問といたしましょうね!」
「おまえからは?」
「これに関しては私より余程怒る男がおりますので」
淑子が言うと、どうやら勘付いたらしい炭治郎が「ヒェ」と小さく声を漏らした。
淑子は伊之助の包帯だらけの手を包むように握り、納刀させる。
「刀が何ほどでしょうか。伊之助が無事でよかった」
淑子が言うと、伊之助はぐうと呻いた。傍で見ていた善逸がしくしくと啜り泣き始める。
「俺……俺……伊之助にだけは先を越されないと思っていたのに……」
「はァ!? 何がだよ!」
「ギャアアアアァッス!!!! 結婚だよ!!!!」
ああ、そうだ。と伊之助は淑子の鼻先に指を突き付けた。
「結婚するんだな」
「ええ」
「よっしゃァ!」
寝台の上で拳を握る淑子はにこりと笑った。
「伊之助、結婚の仕方はご存知?」
伊之助はぴたりと動きを止める。
「……えっ?」
ふふふ、と淑子は笑みを深くした。
「ええ、結婚しましょう。あとは伊之助にお任せいたします。それでよろしいですね」
「お、おい、ちょっと待て!!」
「待ちますよ、でも私がおばあちゃんになる前に片を付けていただきたい」
「紋逸! 結婚ってどうすんだ!」
「紋逸じゃないしこの世で伊之助にだけは絶対教えねえ!」
言い合いをする二人を後目に淑子は空の食器を片付ける。
「伊之助は元気になったら、何が食べたいですか」
「なんでもいい」
「なんでもいいが一番困るのです」
「お前の作ったものならなんでもいい」