いいから黙って飯を食え!



 ほとんど風呂釜のような巨大な鍋に一抱え程の削り節を放り込んだ淑子は額の汗を拭う。息を吸っても吐いても魚の香りが鼻に纏わりついた。頃合いを見て削り節を引き上げるように指示を出し、早足で厨房を回る。
 竈では三分搗き玄米、白米、おこわがそれぞれ炊き上がり時間帯ごとに分けて準備されている。淑子は己の食堂で隊士が冷や飯を食うなどあってはならないと考えている。もちろん必要なだけ飯が食べられないことなど以ての外である。加えて残渣は最小限に抑えなければならない。炊飯の量は糧食班の経験と勘が物を言う。
 野菜の下拵え良し、練り物、豆腐の用意良し、乾物も今日使う分が戻されていることを確認する。伊井田屋の干し椎茸は最近値上げしたのに品質が下がった。仕入れ先を見直さねばなるまい。
 鯵の干物を焼く準備をする班をちらと見て行き過ぎる。ここは当番長が古株で炭火の扱いに長けた男である。任せておけば間違いはない。
 大量の肉が傷んでいないかにおいを確かめるために鼻先を近付けると、当番長がおずおずと声をかけてきた。

「班長、次の卵の配達が遅れるそうです」
「なんてこと、備蓄は?」

 蛋白質に優れ滋養満点の鶏卵は隊士の食事には欠かせない。だから本部敷地内に本格的な養鶏採卵場を作れと言うのだ。淑子は舌打ちしそうになる。

「三日分ほど」
「三日分を五日に分配し直しましょう。魚と大豆の割合を増やせぬか検討いたします。……最悪山狩りですね」
「ひえっ、それは勘弁してください……」
「今回は誰か機能回復訓練中の隊士をけしかけて獣でも獲らせます」
「あっ、それはいい考えですね!」

 鹿かな、猪かな、穴熊かな、と涎を垂らしそうな当番長の肩を「あとはよろしく」と叩き、作業台を後にする。
 勝手口の前で粥、重湯が病症者の人数だけ用意され、蝶屋敷への出発を待つばかりになっていた。なぜここに置かれたままになっているのか、と淑子は眉をひそめた。
 今日の蝶屋敷への当番は誰であったかと淑子は近くにいた糧食班員に声をかけると、班員は申し訳なさそうに眉を下げながら、ちょっと意地悪く笑った。

「漬物の用意が間に合っていないのです」
「何か問題が? 壺から出して切るだけでしょう」
「正太郎が……」

 新人の名を挙げた班員を淑子はぎらりと睨んだ。

「あの不器用者に任せる方が悪い! あの子はぼうとしていますが力持ちで思いやりがあるから蝶屋敷の担当に呼び寄せたのです。上手く使えぬというなら結構! あなたを蝶屋敷の担当から外します! ですがどこにあっても新人いじめは許しませんよ!」
「い、いじめだなんてそんな、滅相もない!」
「塩と砂糖の区別もつかぬあなたに根気強く指導した私の時間は無駄でしたか!」
「心得違いでした! 正太郎を手伝ってきます!」

 慌てふためき駆けていく班員の背中を見送る。はたと厨房から食堂室の方を見ると旅装も解かぬままの無一郎が立っていて、淑子は目を丸くした。

「無一郎殿!」

 淑子は食堂室の方に小走りに向かうと、無一郎の姿を抱き締めた。

「上弦の鬼の襲撃があったと、私はあなたのことが心配で心配で……便りすらないものだから……」
「うう、苦しい、あと魚臭い。ねえ淑子さん恥ずかしいよ、はなして……」

 淑子ははっとして腕をほどくと、三歩下がった。最後に会ったのは柱合会議の頃か。記憶が空ろのためか年齢よりもどこか幼く、ぼうとした子であった。まさか彼から恥ずかしいなどという言葉が出るとは思いもしなかった。
 見れば顔つきも幾分か晴れ晴れとし、宙を眺めていた双眸はまっすぐに前を見ている。淑子は思わず目頭を押さえた。

「男子三日会わざればと言いますが、全く、ご立派になられました。私は嬉しい限りです」
「へへ、淑子さん、お姉ちゃんみたい」
「何をおっしゃいますか。無一郎殿がお嫌でなければ私は母のようにあなたを心に掛けておりますよ」

 襤褸切れのようになっていた無一郎に三度の食事を作り、「死ななければ何でもいい」とうるさがる彼にいちいち献立の説明をし、快復と成長を見守ってきたのだ。感激もひとしおである。

「淑子さん、僕、物も少しずつ覚えていられるようになったよ。だからさ、淑子さんの作ったものをたくさん食べて、知って、覚えたいんだ」
「なんて喜ばしい事でしょう! ええ、ええ、なんでも作ります……と言いたいところですが」

 淑子はちらと背後の厨房の惨状を振り返った。淑子の視線を追った無一郎も「ああ、恋柱……」と呟く。そうだ。そのとおりである。今は賄い方全員と厨房の鍋という鍋を総動員している。とてもではないが無一郎のために班長である淑子が別の食事を作る余裕はない。

「いいよ、別に。献立をたてて味付けを決めてるのは淑子さんなんだし」

 淑子は無一郎の手を握る。小さく、痩せて、頼りなかった手が今では自分より一回りは大きい。また涙がこみ上げそうになるのを、淑子は押し込んだ。

「いつまでの滞在になりますか。必ず一度は食事をお持ちしましょうね。ああ、そう、到着したばかりでした、お腹が空いてはおりませんか。食事まではまだ時間がありますが、何か軽食なら……そうだ、ワッフルはいかがですか」

 そのとき食堂の床が軋むほどの足音とともにどこからともなく現れた伊之助が、無一郎と淑子の間に割り込むと繋がれた手を手刀で叩き切った。
 驚いた淑子が何かを言う前に、伊之助は雄叫びを上げる。

「ハァ゛ーーーン!?!? てめっ、俺には「婦女子の体にみだりに触れるな」とうるせえくせに、こいつには触らせるのかよ!!!!!」

 淑子は溜息をつき、割烹着のポケットからワッフルを取り出した。

「無一郎殿、どうぞ」
「わー、ありがとう」
「聞けよ!」

 無一郎に差し出されたワッフルを伊之助は奪い取り一口で平らげる。あ、うま、と伊之助は呟き、それからぶんぶんと首を横に振った。

「そうじゃねえ! なんでそいつは触ってもいいんだよ!」
「そいつとは何事ですか、彼は霞柱ですよ」
「あ゛ァん!? 柱ならいいのか! 柱になりゃ文句ねえんだな!」

 淑子は反対側のポケットからあんぱんとみかんを取り出すと無一郎に握らせる。無一郎はそれらを受け取りながら「誰、そいつ」と怪訝そうな顔をした。

「彼は嘴平伊之助です。竈門炭治郎と同期ですよ。話くらいは聞いたことがありませんか」
「ない、知らない」

 険のある目で無一郎は伊之助を眺めた。伊之助がそれを睨み返す。

「そうかい、嘴平伊之助、階級は丙、山の王、そして淑子の……なんだっけ、こん、こん、……こんにゃくだ!」
「ぷるぷるで食物繊維豊富?」
「あァ!? 馬鹿にしてんのかテメエ!!」

 馬鹿にしているというか、馬鹿なんだなとは思っている。それは口には出さずただ「べえ」と舌を出す無一郎に、伊之助はいとも簡単に激高した。

「伊之助、こんにゃくではありません、婚約者です」
「そう、それだ! おい、参ったか!」

 胸を張る伊之助に、無一郎はわずかに眉を上げて驚いた。

「婚約者!?」

 淑子は肩を竦める。

「そうですね、積もる話もあるのですが、それは後で――」
「え、何、婚約者? 淑子さんの? この半裸の猪が? どうしたの淑子さん、山の妖怪の逆鱗にでも触れたの? だからあれほど山の奥に分け入って茸とか山菜とか集めるのやめなよって言ったのに」
「おい、なんでそいつは触っていいんだよ、俺にはさんざ怒るくせに――」

 二人に詰め寄られ、背後からは「は、はんちょーう!!!」と切羽詰まった声がかかる。淑子は息を吐くと厨房の方へ踵を返した。

「後で聞いてあげるから喧嘩をせずに待っていなさい!」

 置いて行かれた二人はちょっと横目で睨みあうと、すぐにふんと鼻を鳴らして背を向け合った。


******


 伊之助は粗野で野卑ではあるが決して約束を違えるような男ではない。淑子が伊之助と婚約するにあたり、出した条件は三つだ。一つ、食事の前と後には手を合わせて挨拶をすること。二つ、食事は特別な場合を除いて箸を使って行うこと。三つ、正式に結婚するまでみだりに体に触れてはならないこと。
 伊之助はそれを愚直なまでに遵守した。はじめは茶碗を受け取るときにさえ指がぶつからないようにおそるおそるといった有様で、少し指が触れるくらいは「みだりに」に該当しないと言って聞かせる必要があった。
 確かに、そうやって伊之助に我慢を強いながら自身は無一郎を抱き締め手を握るというのでは道理が立たない。そこは反省せねばなるまい。
 昼時の大戦争が一時収束し、班員同士で苦労をねぎらい合う。淑子は割烹着を脱ぐと食堂の方に足を向けた。人のいなくなった食堂室の不自然に離れた長机に伊之助と無一郎が背を向け合って座っていた。

「何をどうしてそんな離れたところで。こちらにいらっしゃいな、お茶を淹れましたよ」

 淑子が言うと二人は渋々といった様子で席を立つ。三席ほど離れて斜めに座り合う二人に、淑子は苦笑した。

「待ち時間に親睦を深めるというわけにはいかなかったようですね」
「だって俺は会議でお館様のところに行っていたから、そいつと話す時間なんて無いよ」

 むくれる二人の前に湯呑を置く。口火を切ったのは無一郎の方であった。

「淑子さん、こいつと結婚するの」
「そうですね、心変わりがなければ」
「なんで。こんな奴全然、淑子さんに相応しくない。馬鹿だし、野蛮だし、裸だし、馬鹿だし」
「なんだと!」

 いきり立つ伊之助を淑子は手で制する。

「いけませんよ無一郎殿、そうだとしても私の婚約者なのですから。私を尊重するなら、伊之助を悪し様に言うのはよしてくださいな」

 優しく諭され、無一郎は唇を尖らせた。

「分かった。言わない。でも、そう思ってはいるからね」
「……それは、まあ、内心は自由ですからね」

 オイ! と伊之助が牙を剥く。無一郎は伊之助からぷいと顔を背けた。

「俺のことを母みたいに心に掛けてくれてるって言ったのに、結婚することは教えてくれなかったんだ」
「どうにも私も混乱しておりまして」 

 あの嵐のような日々を思い返し、淑子は溜息をつく。とにかく何もかもが突然で、無一郎に知らせる余裕もなかった。というよりも、あれほどの速度で広まっていたのだから無一郎も当然知っているものとばかり思っていた。もしかすると知らされてはいたが忘れてしまったのかもしれない。

「遅くなってはしまいましたが、そういうことになったのです。無一郎殿は、喜んでくださいますか」
「喜びはしないけど……お祝いはしとく」
「そうですか、ふふ、ありがとう」

 淑子が微笑むと、無一郎は手の中で弄んでいた湯呑を長机に戻した。

「でも、やっぱり納得いかない。淑子さんはそいつのどこが良かったんだよ」
「んだとコラやんのか!!」

 立ち上がる伊之助の口にキャラメルを放り込んで座らせる。何か言いたげだがキャラメルの甘味にうっとりとなりながら咀嚼に気を取られる伊之助に、無一郎は呆れたような目を向けた。
 どこ、と言われて淑子はしばらく天井を仰いだ。

「ね、熱意におされて……?」
「ねえそれ大丈夫?」

 自信なさそうに首を傾げながらそう言う淑子に無一郎は露骨に不安そうな顔をした。

「大丈夫……なのですかねえ」

 眉を顰める淑子に、無一郎はますます胡乱げな顔になる。やっとキャラメルを飲み込んだ伊之助が、無一郎にびしりと指先を突き付ける。

「文句があるなら俺と戦って勝つんだな!」

 無一郎の凪いだ瞳が一瞬不穏な光を帯びる。ほっそりとした手がゆるりと腰の物に掛かった。

「へえ、本気で言ってる?」

 伊之助が口を開く前に、淑子が伊之助の頬を張り飛ばした。猪頭が勢い余ってぐるりと後ろを向く。

「霞柱に向かってなんという口の聞き方ですか! 弁えなさい!」

 後ろを向いてしまった猪頭をごそごそと前向きに戻しながら、伊之助は不満げな声を返す。

「だってこいつが――」
「言い訳無用! 隊の規律を乱すような発言は看過できませんよ!」

 叱りつける淑子と叱られて子供のように不貞腐れる伊之助を見て、無一郎は溜息をつく。

「淑子さん、本当にどこがよかったの? 本心では嫌なら俺がお館様に口をきいてあげるよ」
「えっ、いいえ、そんな、嫌というわけでは……」
「ふうん、じゃあ、好きなの、そいつ」

 無一郎が伊之助を指差すと、淑子はちょっと顔を赤くし、観念したように項垂れた。

「そうなのですよ、困ったことに」
「じゃあしょうがないか、ご愁傷様」

 無一郎は湯呑を淑子に返すと「ごちそうさまでした」と律義に言った。記憶がおぼろな頃から、無一郎はそれだけは忘れることはなかった。

「柱稽古が始まるからしばらく滞在の予定なんだ。淑子さん、僕オムレツライスが食べたい」

 そう言われ、淑子は卵の在庫が心許無いことを思い出す。久しぶりに顔を合わせた無一郎に贔屓して卵を回すべきか。そもそも無一郎は柱であるから優先して卵を確保してもいいものか。
 少し考え、淑子は「まずはビーフシチューではいけませんか」と尋ねた。無一郎はちょっと笑って「いいよ、楽しみ」と言って食堂を後にした。
 さて一人片付いたと胸を撫で下ろした淑子は、次いで伊之助に向き合う。余程カッカしているかと思えば、無感情に見える獣眼を淑子の方に向けていた。

「えっ、お前、俺のこと好きなのか!」
「…………はい?」
「さっきそう言ったじゃねえか!」
「ああ、伊之助……私、頭が痛くなってきました」
「風邪か? 腹出して寝てたのか?」
「そうかもしれませんね」

 返答が投げやりなものになる。

「へえ、そうか、お前、俺のことが、ふうん」

 猪頭の下で伊之助がにやにやする気配がした。さすがに気恥ずかしくて猪頭の長い鼻面を指先で小突いた。

「そうでなければ誰が猪なんかと」

 そう憎まれ口を叩くも伊之助はたいして意に介した風もなくそれを黙殺し、跳ね上がるように椅子から立ち上がった。淑子の胸元を指差し詰め寄る。

「おっと、話はまだ終わってねえぞ! お前、俺にはみだりに触れるなと言っておいて、あのチビに許すとはどういう了見だ!」

 話題の転換が暴風雨のようだ。もう少し筋道立てて話してはくれないものか。淑子はこめかみを押さえる。

「そうですね、それに関しては私の間違いでした。子供子供と思っておりましたが無一郎殿も今年で立志、すでに柱の肩書を持つ立派な男性ですものね。今後そのようなことはないようにいたします。申し訳ございません」

 淑子が一息にそう言うと、伊之助は気圧されたように「お、おう……」と言った。間違ったことを言ったつもりはない。その奥歯に物の挟まったような返答は何だろう。

「なんです、まだ納得していただけませんか」
「いや納得というか、なあ」

 この男にしては歯切れが悪い。淑子は溜息をつき、両手を広げた。

「はい、どうぞ」
「な、なんだよ」

 狼狽える伊之助に淑子は眉を上げる。

「無一郎殿にしたことをあなたにも許せというのでしょう。どうぞ、一度だけですよ」
「……手を握っただけじゃなかったのか」
「あら、墓穴を掘りました」

 笑いながら淑子は伊之助の背中に腕を回す。己より少し高い位置にあるそれは、これからずっともっと上の方になるのだろう。そうなる前にこう出来てよかった、と淑子はふと思う。

「お前、魚臭いな」
「あなたは獣臭いですよ。きちんとお風呂に入っているのですか」

 色気も素っ気もない台詞に淑子は噴き出して笑う。抱き締め返すでもなく、伊之助は真っ直ぐ突っ立ったままであった。意表を突かれたせいか、そもそも抱き締め返すという発想がなかったのか。

「これでいいですか」

 三歩離れてそう言うと、伊之助はぶっきらぼうに手を差し出した。淑子が苦笑しながらその手を取ると、伊之助はぎゅうと一度淑子の手を握って、離した。ものすごく痛かった。

「よし!」

 伊之助は満足げだが、淑子は痛む手を数度握ったり開いたりする。この忙しいのに怪我でもしたらどうしてくれる。

「これは「みだりに」に入るのか?」
「時と場合によりますね」
「難しい!」
「行動を起こす前に許しを得ればいいのですよ。あなたは直情過ぎるのです」
「その手があったか! 先に言えよ!」

 伊之助は淑子が三歩空けた距離を一歩で詰め、ずいと身を乗り出した。

「交尾していいか」

 一瞬言われた意味が分からず淑子は目を丸くし、次いで青褪め、蒼白な顔で引き攣った笑みを浮かべた。

「いいわけないでしょう」