兎にも角にも手を洗え!



 鬼殺隊本部業務部糧食班班長の淑子は剣の才こそないものの、厨房における適切な采配と出納係との苛烈なやり合いにおいては隊士はおろか柱にさえ一目置かれている。
 特に糧食班長が彼女に変わる前の厨房が出していた飯の不味さを知っている者は、彼女を下にも置かぬ扱いである。彼女の絵姿を持ち歩いていれば食うに困ることはないなどと言う出処の分からない噂がまことしやかに人口に膾炙し、それを実践する者までいるほどだ。
 火熨斗を当てた割烹着に一筋の乱れもないきりりとした結い髪。姿勢よく胸を張り、よく通る声でてきぱきと指示を出し、必要があればお館様にも物を言う姿は、剣士になることが叶わなかった隠や業務部員の憧れの的でもある。

「おや、後藤殿。お久しぶりではありませんか。長らく姿をお見掛けいたしませんでしたね」

 名を呼ばれ、後藤は目を丸くして顔を上げた。
 淑子のことを後藤はよく知っていた。鬼殺隊に所属している年数の長い後藤は、かつての糧食班の無様も記憶に根深い。隊士ほど金銭的に恵まれていない隠の身の上では、ロハであることだけが利点の糠臭い米を茶で流し込んだことも一度や二度ではなかった。
 何より彼女が前任の糧食班長をその包丁捌きで追い出し――包丁をどのように使ったかは後藤の口からは言えない――その足でお館様に糧食班の体制変革と予算の増額を要求した光景を目の当たりにしている。
 すごすごと荷物を纏める前糧食班長の姿を一体何事だと眺めていると、ちょっとよろしいですかと声をかけられ大量の本を差し出された。
 「これを持ってくださいますかしら」と丁重な割に威圧感のある物言いと立ち居振る舞いに後藤は何一つ言い返せず訳も分からぬまま唯々諾々と野戦糧食や栄養学に関する資料の荷物持ちに勤しんだ記憶がある。
 そのときのことはあまり覚えていない。正確には、覚えてはいるがよく分からなかった。どこかのお偉い軍医の書いた本や、英語の論文や、時には古代中国軍師の言葉まで流暢に引用して、如何に糧食が軍隊の士気に関わり兵士の質を左右し予算をかけるべき項目であるかをお館様に滔々と説く様を見ながら「これは大変なことになりそうだ」と思った。
 そしてその予感は見事に的中した。

「後藤殿が気に入ってくださっていた鳥牛蒡がございますよ。お出しいたしましょう」

 そんなことを言っただろうか。言ったかもしれない。淑子が厨房の方に合図すると賄い方が小鉢を後藤の膳に置いた。

「あんたに名前を覚えられているとは思わなかった」
「あら、どうしてです。私、そんな薄情ではありません」
「俺は顔を隠しているしな」

 ふふ、と淑子は笑う。後藤は小鉢に手を付ける。相変わらず美味い。それを見た淑子は片眉を上げた。

「ミサが作ったのですよ」

 数年前に鬼に襲撃された村の跡から後藤が救った少女の名である。そうか、と後藤は呟く。

「元気にやっているか」
「ええ、呼びましょうか」
「いいよ、悪いから」

 そうですか、と淑子は微笑む。気の利くというか何というか、万事そつがなさすぎて恐ろしくなるほどだ。
 この人は剣さえ扱えたならば相当いい線を行っていたのではないか、とは思うのだが、聞いた話では笑ってしまうほどに剣の才能が皆無であるらしい。育手が早々に匙を投げ、殺すつもりで最終選別に送り出したというのであるから余程である。
 後藤はふとしばらく前に耳に入れた噂話を思い出す。

「そういや、あの猪頭と婚約したんだって?」

 そう尋ねると淑子は一瞬顔を引き攣らせ、それからちょっと嘘っぽい笑みを唇の端に浮かべた。

「そういうことなのですよ」

 どういうことなのだろう。なんとなく突っ込んで聞いてはいけないような気がして「おめでとう」と流しておく。噂は本当ではあったらしい。
 若くして糧食班を纏め上げ上からも下からも信頼の篤い才媛と、入隊以降なんだかんだと騒ぎの渦中にあり蝶屋敷の面々には目を付けられている問題児に、いったいどういう接点があってそうなったのであろう。文字通り美女と野獣である。

「なんつーか、物好きな」

 後藤が言うと、淑子は肩を竦めた。

「そうおっしゃらないでください。重々承知です」

 そのとき、けたたましい足音とどよめきと悲鳴が聞こえる。後藤がぎょっとして廊下の方に目を向けるのと、淑子が額に手をやり天井を仰ぐのが同時だった。

「淑子、いるか、いるな!!!」

 壁が割れるかというほどの大音声で、食堂の入り口の前で叫ぶ。淑子は指の間から溜息交じりに「はいはい、ここにおりますよ」と答えた。
 伊之助は常と変わらず猪頭を被り、その上に猪を担ぎ上げていた。血走った眼をぎょろりと剥き、牙からたらたらと血の滴る大猪である。

「これやる!」

 猪の死骸をか。唖然とする後藤を尻目に淑子は厨房の方に向かって人を呼んだ。若い男手が何人か出てきて、伊之助から猪の死骸を受け取る。淑子のもと統率のとれた賄い衆も、さすがに困惑した様子で猪を引きずっていく。
 鼻を掠める獣臭が遠ざかっていく。伊之助、と淑子が諭すように名前を呼んだ。苦言を呈するのかと思えば「厨房に獣の死骸を持ち込むのはいけないという私の言いつけを守りましたね」と言う。後藤は椅子からずり落ちそうになった。
 伊之助は後藤を気にも留めずがははと笑う。

「まあな! どうだ、嬉しいか!」
「ええ、そうですね、嬉しいですよ」
「ぐわははは! そうか、そうか!」

 伊之助は武骨な掌でばしばしと淑子の肩を叩く。淑子の真っ白の割烹着が血と泥となんだかよく分からないものの手形で汚れていく。

「ところで伊之助」
「なんだよ」
「あなたは猪肉を口にするのですか」

 それは後藤も気になるところである。伊之助は全く気にした風もなく、むしろ「なんでそんなことを聞くんだ」という様子で「美味いよな!」と言った。

「……合理的ですね!」

 淑子はしばらく考えた後そう答える。なるほど、合理的と言えば合理的である。――合理的か?

「なんだか最近、色々頂いてばかりです。いったいどういう風の吹き回しですか」

 山葡萄、茸、山菜、鹿、魚、と淑子は指を折りながら数える。伊之助はつまらないことを聞くなとばかりに鼻を鳴らした。

「貢ぎ物だよ」
「み、みつぎもの……?」
「発情期だから」
「はい?」
「発情期の雌には貢ぎ物が必要だろ」
「は、はつ、なに? え? 誰がです? 私?」
「そうだよ」
「えっ?」
「俺と交尾する気になったか」

 言葉を失う後藤に、淑子は能面のような無表情を向けた。

「後藤殿、少し――少し席を外して頂けますか」

 後藤は跳ねるように椅子から立ち上がると、食べかけの膳を残して「分かった、美味かった、またな」とだけ言い残しそそくさと食堂を後にする。背後から鋭い打擲音と「伊之助!」と悲鳴じみた淑子の叱責する声と伊之助が「いてえ!」と喚く声がした。

******

 伊之助は本部に用事があると必ず厨房を覗く。何をこそこそと覗く必要があるのかと思われるかもしれないが、伊之助は淑子が厨房を小走りに動き回りながら大勢の人間に指示を出す様を見るのが好きなのだ。
 自分より一回りも二回りも大きいような男にさえ檄を飛ばし、厨房全体を手足のように操る淑子の姿は清々しい。夏場の暑い厨房で率先して竈の前に立ち、だらだらと汗を流しながら喉を反らして水筒の水を仰ぐ様子などを見ていると「いいぞそうだそれでこそ山の王の選んだ女だ!」と小躍りしそうになる。
 そしてそれを――実のところ淑子は知っていた。物陰から猪の耳が飛び出し、しばらく己を観察した後珍妙な動きをし、どこかへ消える。そうして何食わぬ顔で再び現れる。そして山から採取したであろう旬の食材を置いていく。なんだろうとは思うのであるが、害はないので放っておいていた。

 放っておくべきではなかった。淑子は額に手をやり深く沈痛な溜息をつく。とりあえず茶を淹れる準備をする。怒りと羞恥で手が震え、茶葉を入れすぎた上に湯を溢した。踏んだり蹴ったりだ。
 裸の胸に張り手を喰らった伊之助は、胸の真ん中に真っ赤な手形をつけている。そこしか狙うべきところがなかったからだ。
 伊之助は猪頭の上からでも分かる不満そうな様子で淑子を睨んだ。

「なんで殴るんだよ!」
「分かりませんか!」
「わっかんねえよ! すぐ殴るなおまえ!」
「伊之助が悪さばかりするからでしょう!」

 悪さ、と言われたその理由が分からず伊之助はますます混乱して苛々した。

「なんだよ、俺はおまえが触るなって言うから触らねえし、動物を持ち込むなって言うからそうしたぞ!」
「ええ、そうですね、そして言うに事欠いて私が、は、は、発情期ですって!? なんという侮辱! こんな辱めを受けたのは初めてです!」
「なんでそんなに怒るんだよ!」
「その場で喉を突いてしまおうかと思いました!」
「うおお!? それはヤメロ!」

 伊之助は淑子を怒らせてばかりであるが、こうまで激昂されたのは淑子の日輪刀を勝手に色変わりさせて以来である。今回は拳ではなく平手であったのであのときほど怒髪天を衝いてはいないようであるが、それでも相当に腹を立てていることは確かだ。
 淑子が怒るとどれほど頑固であるかを重々承知している伊之助は淑子の周りをおろおろうろうろする。淑子が喉を突くと言ったらそれは決して脅しではない。本当に突く。

「……茶でも飲むか?」

 なんとか取りなそうなどと慣れぬことをしようとし、最大限気を遣って出た台詞がそれだった。淑子は伊之助を般若よりも恐ろしい表情で睨みつける。

「飲みますよ! 飲みますとも! あなたのために淹れた茶だとでも思いましたか!」

 そう言うと立ったまま湯呑を取り上げ一息で飲み干す。伊之助はその様子を茫然と眺めているしかなかった。
 ぜえ、と淑子は震える息を吐く。

「私がそんなに難しいことを要求しておりますか!」
「難しいんだよおまえが言うことは!」
「そうですか! 人間には発情期などないということから教えるべきでしたか! しのぶに頼んでおきましょう!」
「あるだろ! 俺は分かるぞ!」
「なんですって!?」

 伊之助は淑子の首筋に鼻面を近付ける。

「体温が上がって、なんか、こう、酸っぱいにおいがする」
「す―――」

 ばちぃん、と先程殴られた位置と寸分たがわぬ場所を思い切り張り飛ばされる。伊之助は息を詰まらせる。

「ろくに風呂にも入らぬ伊之助と一緒にしないでいただきたい!」
「いってえ! ――おい! 風呂には入るぞ! たまに!」
「あなたはそうやって交尾だ発情期だとまるで動物のように! 人間として恥ずかしくないのですか!」
「はァ!? 人間だって動物だろうが!」
「そ――」

 淑子はぴたりと動きを止めた。何か考えるように顎に手をやる。

「それは――」

 好機とばかりに伊之助は畳みかける。

「強い雄は雌と番って、雌は強い雄を選んで子供を産むんだろ!」
「その前に人間には婚姻という文化的慣習があるのですよ!」
「だからなんだ! 俺はおまえを選んだんだ! おまえも俺を選べよ!」

 淑子は深く長い溜息をついた。伊之助は淑子の鼻先に指を突き付ける。

「あのなあ! そんなうだうだやってて俺が死んだらどうすんだ!」

 強い子供が遺せないではないか、と言おうとすると、淑子は三度伊之助の胸に張り手を喰らわせた。

「うぐぉ!?」
「私を未婚の母にした挙句、子まで父無し子にするつもりですか! なんと責任感のない!」
「ああああああそうじゃねえ!」
「そんなことを二度と言わないで! 必ず生きて帰ると約束なさい!」

 伊之助は殴られたときと同じくらい衝撃を受けた。そうか、己はこの女に生きて帰ってほしいと願われているのかと唐突に思い至る。

「死ぬわけねーだろ! 俺様は強い! まあ、絶対の約束は出来ねえけどな!がはは!」

 そう言うと、物入から大切に取っておいたどんぐりを取り出し、無理矢理淑子の手に握らせる。

「やる! いいか、俺は死なねえ! そして交尾もする!」

 淑子はふっと笑って目を細め、どんぐりを握りしめる。それから大きく振りかぶって伊之助にどんぐりの散弾を至近距離で浴びせかけた。小さなどんぐりがばちばちと凄まじい音をたてた。

「俺のつやつやどんぐりがっ!」
「一昨日来なさい」