いち
※男主
おおよそ分別のあるとは言い難い乱れた隊服。そこからこれ見よがしに晒される大きく無数の傷跡。攻撃的な四白眼で他者の顔を遠慮無く睨み付け、粗暴な口調で物を言う。
風柱への人言は、常に畏怖と尊敬に恐怖と敬遠が入り混じる。不死川実弥はそれを気に留めたことはなかった。いつからか他人に距離を置くことを覚え、他人に距離を置かれることに慣れていた。
己は鬼を斬る装置でいい。そうありたいと願っていた。無私に似た祈りではあったが、それは不死川が抱えるたった一つきりの欲望に起因していた。
不死川が望むのは、ただ弟の幸福と安寧だった。それさえ守られれば、世界が滅ぼうと構わなかった。まして己の心身や評判などは、物の数にも入らない些末な事であった。
ぱん、ぱん、と小気味よく薪の割れる音がする。中庭でナマエが薪割りをしていた。隊服は脱ぎ捨てられ、刀を振るうための背中の筋肉が鉈を振り上げるたびに隆起した。
汗の滲む日に焼けた背中を、不死川は眩しいものを見るように眺めた。痩せて小さな傷だらけの背中が、いつの間にか大きく逞しく変わっていた。
ただ弟の平穏だけを切望して生きていた不死川が、過去に一度だけ純粋に利己的に行動をしたことがある。家族のいない少年を、拾って行動を共にした。
それは決して慈善でも、彼に特別の才能を見出したのでもない。不死川は子供を育手に預けることを好まなかった。弟と変わぬ年延えの幼い子供が、憎しみの剣を振るうことには耐え難い思いを抱えていたからだ。
ナマエを拾ったことに、意味らしい意味を、理由らしい理由を、いまだに理屈付けられないでいる。その面差しが記憶の中の弟に似ていただろうか。花柱が孤児を養育していたからであろうか。行き場のない寂寥のためであろうか。
かつて仔犬のように己を慕い、飛んで跳ねてどこにでも付いてきた少年は、逞しい青年になっていた。上背こそ不死川に及ばなかったが、厚い胸と肩は風の呼吸を扱うには十分であった。
継子になるほどの才覚はなく、だが弱くもない。長年不死川が連れ回したせいか、それとも持って生まれた性質であるのか、誰かを援け護ることに長けていた。軽薄で放逸な外見からは想像のつかぬ、マメで気の付く男である。今も頼まれもせぬというのに、心許無くなっていた薪をせっせと割っては裏口の脇に積んでいる。
「人ん家の庭で勝手に何やっていやがる」
日に焼けた背中に溜息交じりに声をかけると、ナマエはぱっと顔を上げてにかっと笑った。
「あ、実弥さん、薪割っときました」
そう、屈託のない笑顔で言う。不死川はちょっと顔をしかめた。
「俺がそんなこと頼んだかよ。そんなことする暇があるなら素振りの一つもしておけ」
「薪がねえと冷えますよ、風邪でもひいたらどうするんすか。風柱が風邪柱ってね、あ、もちろんそんなふざけた事言うやつは俺がのしてやりますけどね」
「そうかい、まずはテメエの頭をカチ割ってろ、このタコ助ェ」
踵を返す不死川に、ナマエは中庭を小走りになりながらついてくる。縁側を歩く不死川には、低い位置にあるナマエの頭が昔のようにちょこまかとして見えた。
「実弥さん、蛇柱に鴨を頂いたんですよ。今晩は鴨鍋でもどうすか」
鴨鍋で一献、とは、ナマエは絶対に言わなかった。不死川が酒の類を好まぬのを承知して、ナマエは自身も酒と名のつくものは一切口にしない。不死川が求められれば固辞はしない一方で、ナマエは叱責されてもおだてられても梃子でも口にしなかった。
馬鹿な奴め、と思う。陽気で誰かとの歓談を楽しめるナマエは酒の席を好んだ。酒の席を好んでも、少なくとも不死川の前ではたとえお神酒であろうと口を付ける素振りさえ控える。愚かしいほどの健気さであった。
不死川はそれを褒めたことも、諫めたこともない。
「俺、鴨大好きなんすよ。あんな美味い物はこの世に二つとねえ。そう思いません?」
「知るか」
すでに馳走を目の前にしたような顔をして、ナマエは笑った。
「なあ、アニキは好きな食べ物ってあります?」
そう呼ばれ、不死川はぎゅっと眉間にしわを寄せる。
「そう呼ぶなって言ってんだろォ」
「あ、スミマセン。へへ、つい」
ナマエは舌を出して頭を掻く。厳しく言う気力も失せて不死川は鼻を鳴らした。
年嵩の人間を義兄弟のように慕うのは、彼らの習性に近いものなのかもしれない。ナマエもご多分に漏れずそうだった。他意のないありふれた二人称と分かっていても、そう呼ばれるたびに胸の奥が軋んだ。
怒りではない。悲しみでもない。強いて言うなら罪悪感に似ていた。誰に対しての――? それは判然としなかった。
「晩は鴨鍋で構いやしませんか」
「勝手にしろ、厨を汚すなよ」
そう言うとナマエは諸手を上げて大袈裟に喜んだ。
こういう素直な性質であるから、人好きのしない不死川への言伝をよく頼まれる。それをナマエはいやな顔一つせず受け入れた。「アニキんとこ行く理由になるだろ」と笑った。ナマエはそういう男であった。
やがて邸内に鴨の脂と葱の焼ける匂いが立ち込めたとき、不死川は手入れをしていた日輪刀からふと顔を上げた。
そういえば腹が減ったと思い、いつの間にか西日の入り込む室内で伸びをする。凝り固まった体をほぐし、明障子を開ける。目を刺すような橙の光が脂の香りとともに室内に侵入した。
あ、と小さな声がする。前掛けをしたナマエが廊下の中ほどに立っていた。
「実弥さん、飯どうします?」
「食う」
短くそうだけ言えば、万事心得ているナマエは膳の準備を始める。打粉と丁子油を片付けている間に、ぐらぐらと煮立つ鉄鍋が鍋敷きの上に据えられた。
一番分厚く脂の乗った部分を、ナマエは何も言わずによそって不死川に差し出す。不死川はそれを黙って受けとり、汁の表面に浮かぶ黄金色の脂を眺めた。
「今年の選別には蟲柱のとこのお嬢さんが出るらしいっすよ」
櫃から飯をよそいながらナマエが言った。遅ェくらいだ、と不死川は茶碗を受け取りながら応える。
「あんなちみっこいのに継子候補ですもんね、俺ァ頭が上がりませんよ」
「情けねえこと言ってねえで精進しろォ」
「へえ、スミマセン」
精進したところでナマエにその器がないことは不死川自身が一番よく知っていた。
鬼殺隊士になるべき男ではなかった。家族を鬼に奪われたわけでもなく、鬼に恨みもない。馬鹿だが愛嬌があり如才ないナマエは己に付き従いさえしなければ、碌でもないが過酷でもなく死んでいったはずではなかったか。
ナマエは肩を竦ませ自身の分の鴨汁と飯をつぐ。互いに教養のあるとは言えぬ出自の二人きりでとる食事は、不死川にとっては気安くて心休まるときだった。不格好に箸を持ちながらも心底美味そうに飯を掻き込むナマエの姿を見ると、なんとなくほっとする。
不死川は己の汁椀とナマエの汁椀を取り替える。ナマエは不死川の意図が読めずに怪訝そうな顔をした。
「ごみでも入ってました?」
「ちげえよ」
「そうっすか?」
「好物くらいテメエにいいとこ取り分けろ」
不死川が言うと、ナマエは恥じ入ったように顔を赤くした。
「あ、でも、俺は実弥さんにいいとこ食ってもらいたくて……」
「余計なお世話だ」
ナマエはへどもどしながら不器用に礼を言い、素朴な木の椀を傾けて鴨汁を口にした。真っ赤な顔がいっそう紅潮し、表情は喜色に満ちる。
「美味いっす。こんなに美味いもん、この世に二つとありませんよ」
「昼間聞いた」
不死川が言うと、ナマエはいっそう恐縮して縮こまった。