月の夜に汝を殺すこと(鬼舞辻無惨)



 嫋、と遠くで淡く琵琶が鳴った。管弦狂いの右大臣の邸で楽合わせが催されていることを、ふと思い出した。人一倍管弦を愛したというのに、病で指の動かなくなった右大臣は暇さえあれば――なくとも――ああして楽合わせを主催した。憐れなものだ。当代一と称され、その美しい音色を帝にさえ愛された男が、今は己の足元にも及ばぬ弦のわななきを耳に入れては、過去を懐かしみ己が境遇に空涙を流す。
 だが劇場的で虚飾に満ち虚ろで暇を持て余した公卿共にしてみれば、その憐れさえ紋切型の日々の運行への些細な彩りにすぎないのであった。歌へと書き立てられる右大臣の露骨で品の無い己が身を食むような自己憐憫は、もっぱら女房たちの物笑いの種であった。
 どこかの弦の震えがぬるい空気を掻き乱す。男は手の内の血肉を啜った。濃い臭気が肺腑に染み渡り、口中に唾液が溢れる。
 ここ数日は甘葛の汁さえ受け付けなかった体が、吸い尽くすように血を欲した。赤く、ぬめり、生臭い。
 薬師の持ち込む生薬は愚にもつかぬまじないめいたものでしかなかったが、皮肉なことに薬師の血肉はかつえた体によく効いた。惜しむらくは老いて弛み萎びた肉であったことだろうか。
 鼻先を鮮やかな香りが掠める。病魔調伏の護摩を焚く焦げ臭いにおいの向こうに、若く滾るような血の匂いがした。先頃買い入れた雑人の気配がする。教養はなく頭の回転もよろしからぬ男であるが、若く手足は伸びやかで隆々として逞しく、いかにも食い手がありそうであった。
 病みやつれた己には相手にもならぬ丈夫である。だが今ならばどうにでもなる気がした。寝間着のまま階を飛び降りる。透垣の上にぽっかりと新円の月が浮いている。鵺の鳴くような夜であった。
 ざ、ざ、ざ、と茂みが鳴る。風の音であった。雑人はしきりにそちらを気にしながら松明の用意をしていた。背後から駆け寄り、音もなくその喉元に食らいつく。牙に穿たれた厚く弾力のある皮膚はぷつんと弾けるように穴が開いた。張りのある皮膚は塩はゆく、垢でざらついていた。口内に熱く脈打つ血が溢れる。それを端から飲み干していく。
 雑人は悲鳴を上げ、太い手足を滅茶苦茶に振り回した。短い指の先の厚い爪が頬を引っ掻く。ちりりとした痛みと血の流れる気配がした。
 雑人の手を取り、肘の関節を反対方向に曲げる。ぼくん、と間の抜けた音がした。これ以上悲鳴を上げられる前に、雑人の頸を引き千切った。泣き別れた頭と体を、茫然と見下ろす。喫食の喜びと、力への渇望が腹の底で渦を巻く。産まれて初めて生きている気分であった。昨日までの病身は仮の姿であった。これこそが己の追い求めた完璧な心身であり、己のあるべき姿であった。
 いまだ血を流す躯を拾い上げ、一片の肉も骨も落とさぬように口に押し込んでいく。噛み締めた肉から血が滲み、骨は濃厚な髄を孕む。血の染み込んだ土の上に粗末な水干だけがぺろりと落ちているのを見下ろし、やっと人心地つく。ほ、と血生臭い息を吐くと、耳元で女の笑い声がした。
 はっとして顔を向ければ、額がぶつかりそうなほど間近に女のかんばせがあった。白い直垂に立烏帽子のすんなりとした立ち姿である。

「無惨よな、無惨よな、見ろ、中庭の土が汚れてしまった。買い入れた雑人がぱあだ」

 女はそう言って手にした檜扇で血生臭い凝りを指すところころと笑った。誰だ、と眉を顰めると、女は朱唇を綻ばせる。

「家族を皆殺しにしようとしているな。いいな、いいぞ、やってしまえよ。みな、食ってしまえ。お前に家族はいらぬよ、親を慈しみ兄弟を懐かしむ化物がいるものか」
「お前は――」
「私か。私はお前だ。分かるだろう」

 そう囁かれ、弾かれるように主殿に走る。母を引き裂き、父を縊り、兄を、姉を、幼い弟妹を啜ったところで、女がそろりと肩に手を置いてきた。甘い息が耳元にかかる。

「見給えよ、美しいな。やっと全うされたのだよ。血と肉の詰まった革袋だ。生きるだけの獣だ。生きて、殖えて、死に、それだけだ。つまらぬ生き物め、お前の血肉となりやっと成ったのだよ。お前は達成したよ、不死の血肉を得たのだ。かつて遠国の帝王さえ渇望した完全なる美だ。欠けない望月だ。気分はどうだ」

 女は微笑んだ。それに低く掠れる声で応える。

「お前は誰だ」
「私はお前だ」

 女はそれだけ言って夜の闇に溶けるように姿を消した。


******


 人間の血肉を喰らい人知の及びもつかぬ力を持つ己を、矮小な人々は鬼だと呼ばわった。まさかそのようなはずがなかった。源氏の小倅が仲間とつるんで討伐出来るような眇たる存在と同一視されては堪らない。
 玉桂の三位を几帳の向こうに受け入れた女御はその月の光が人の形になったかのような匂わしく端正な立ち姿にうっとりと目を細めた。

「月やあらぬ――」

 何かまじないめいた言葉を口にするので素性が明るみになったものかとさっくりと女の喉を裂いた。女は悲鳴を上げる間もなく、床に倒れ伏す。声も上がらぬ唇の代わりに、喉の傷がぱくぱくと物言いたげに開いたり閉じたりする。そこからは泡立つ血しか吐き出されない。
 女御の口にしかけた言葉が昨日の和歌への返歌であったのかと思い至り、ふと唇を緩める。最後まで聞くべきであった。貴い身の上の姫君である割に、歌の下手な女であった。
 浅縹の袿が掻練よりも赤くなる。焚き染められた薫物の香りが血の匂いで上書きされる。血で染まった袿を、ほっそりとした手が拾い上げた。

「よう、兵部卿宮、今宵の手管も華麗なものだ。光の君もお前には諸手を挙げて降伏するだろうな」

 ぞろりとそれを羽織りながら、女は言った。白い直垂に血が染みていく。

「玉桂の三位だ」

 答えると、女は麗しい細面を歪めた。

「仮初の名に何の意味がある」
「少なくとも食べる物には困らない」

 目を上げ、女の姿をまじまじと眺めた。人の姿をしていながら不思議と食欲のそそられぬ女である。化生の類か、己の同類か。その美しい面差しは、どこか母に似ている気がした。
 女は視線に気が付いたものか、ついと顎を上げた。

「お前、名前は」

 何の気なしに言うと、女は笑い声をあげた。

「当ててみ給えよ」
「くだらぬ謎かけはやめろ」
「私はお前だ。名などない。無惨にもお前に名がないように」
「無惨なものか」

 ぶりぶりとした腎臓を掴み上げながら応える。女は高く描かれ感情の読み取れぬ眉のあたりをするりと撫でながらこちらに視線を呉れた。

「お前が好きに名付けろ。得意だろう、そういうのは」

 妙な口振りであった。何かに名前を付けたことなどそうはない。

「ナマエ」
「悪くない」

 ナマエと名付けられた女は存外素直に頷いた。文句の一つも垂れるものかとも思っていたが、そういうわけでもないらしい。
 ナマエはほっそりとした指で頬に触れてきた。ぞっとするほどひんやりとした温度が頬を撫でる。口元についた血を拭われたのだと気が付いたときには、ナマエは血濡れた指を口に含んでいた。紅を点した唇が弧を描く。

「食えたもんじゃない」

 それだけ言うと、なだらかな肩から袿を落とす。湿り気のある音がした。
 ナマエは血の匂いのする場所に必ず現れた。どこから出で来てどこへ消えていくのかは分からない。夜明けの霧が凝ったような女であった。
 ナマエはどこからともなく現れると、染み一つない白の直垂をひらひらとさせて微笑む。そして必ず欲している言葉をかけてくる。

「人を食わねばならぬのにはうんざりだ」
「お前にその程度の良心が残っているものか。残らず捨て置いてしまったろうよ」
「違う。そうではない。己が人間の血肉に欲望を掻き立てられることが気に入らない」
「なんだ、そんなことか」

 ナマエはことりと首を傾げた。背に垂らされた髪がするすると白い練り絹の上を滑る。

「ひとつの熱狂も持たぬ男など魅力的ではないだろう」
「詭弁を弄すな」
「詭弁なものか、事実だよ」

 ふふ、と紅唇が笑声を漏らした。

「それに、多少の不便があったほうが、心は潤うというものだ」
「お前にも不便があるのか」
「あるぞ」

 夜闇に溶け、霞のように漂うこの女に何の不便があるというのだろう。黒髪を一房摘まみ上げると、それはしっとりと指先に絡みついた。
 美しい女だった。鈴のような声が心の輪郭に爪を立てなぞる。陽光から逃げ惑い夜光虫のように夜を這う生活も、この女と共であれば悪くはないと思いはじめていた。
 素性の知れぬ、正体も分からぬ、妖しい女である。人でないことは確かであった。

「何者だ、ナマエ」
「私はお前だ。仮初の名には縛られんよ」


******


 涼し気な笹を描いた壁代に、ぽつ、ぽつ、と血の跡が花のように散っていた。頭骨から長い髪を引き剥がしながら、部屋の隅で脇息に凭れ掛かるナマエに視線をやった。
 ナマエは墨痕も鮮やかな死人の日記に視線を落としていた。月より白い横顔を、滝のように黒い髪が覆い隠していた。その髪を血で汚れた手で払いのける。端正な横顔に赤い真一文字がひかれた。

「つまらぬ女の日記がそれほど面白いか」

 ふ、とナマエは笑う。頬が持ち上がり、赤い跡がぬらぬらと灯を反射する。

「面白い日記があるものか」

 しどけなく崩された足下に転がる肘から先を、ナマエは厭そうに爪先で押しのけた。助けを求めるように虚空へと伸ばされた左手がごろりごろりと板の間を転がっていく。
 それを拾い上げ、齧り付く。ごり、と骨が砕けた。

「――だが、他人の自己愛ほどそそられるものはない」
「悪趣味な」
「儚く、虚無に似て、哀しく、甘美で、醜悪だ。憂鬱と言ってもいい――お前そのものだ」

 顎を血が伝って落ちていく。それを指先で拭った。

「己を愛さぬ理由がどこにある」

 ナマエは昏い瞳をゆるりと細めた。目の端に血が滲んでいるように見えた。

「そうだ、そうでなければならぬ。傲慢であれよ、魑魅の王、饕餮の如き貪る者、驕慢なナルシシズムより他に己が身を助くるものなどないのだから」
「―――なんだ」

 聞き慣れぬ言葉であった。ナマエはしばしば耳に覚えのない不可思議な言葉を口にした。全てを知っているとでも言いたげな澄ました横顔は憎らしくも蠱惑的で、日が昇るまで見つめていたくなる。
 眉をひそめて問い返せば、ナマエは小馬鹿にしたように冷たく唇の端を引き上げた。

「いや、いい、今のお前が知らぬことだ」

 睨みつけても物ともせず、ナマエは笑みを深くする。

「私はお前だ」
「それはもういい」
「お前が知っていることは私も知っている」
「なんの話だ」
「死の話をしている」

 ほろほろとナマエは笑声を上げた。赤い唇の間から真珠のような歯が覗く。繊細な指先が床に投げ出された箏の琴に触れる。きい、と耳障りな音がした。
 ナマエの青白い指が紙魚のように紙の上を這う。

「日々の記録は多少の粉飾を差し引けばときに有益だ。この日記から分かることをお前に教え授けて進ぜようか」
「なんだ」
「この尚侍は随分多情であったようだなあ。今宵は――」

 高い足音が壁代の向こうに迫る。沓を履いた足が笹を描いた布を踏み破った。大きな音を立てて壁代が血溜まりに倒れた。踏み込んできた狩衣の男は、血走った目を床に散らばる女の残骸に、次いでそれを喰らう男に向けた。
 獣のように唸った男は腰の太刀に手を伸ばす。

「鬼め――」

 此頃都に流行る巷説そのものの鬼の姿を目にした男は、泡を食って太刀を抜いた。よろめく太刀の切っ先が腕を切り飛ばす。前腕がどさりと床に落ち、女の血肉と混ざり合って不明となる。
 残った手で男の腹を裂く。男は臓腑を勢い良く溢しながら床に膝をついた。腕から噴き出す血はとうに止まり、生白い腕に骨の通うところであった。

「ははは、死に損なったな」

 ナマエは愛した女のはらわたに埋もれて藻掻く男をちらと見て哂う。

「こんな鈍らで私が死ぬものか」
「――うん? いや、……そうさな」

 ナマエの言葉を遮り、痙攣のように蠢くばかりであった男が叫び声をあげた。腹の傷がぶくぶくと肉の泡をたたせ、血管が音を立てながら皮膚を隆起させる。
 ぎょっとしてその姿を見ていると、男は理性を失った目を女の亡骸に向け涎を垂らし、屁と小便を漏らしながらそれに喰らいついた。
 そのあまりの浅ましさに眉を顰め顔を背ける。背けた先にナマエがいて、ナマエはひどく無感情な瞳で爛々とこちらを見つめていた。

「こいつも、私と同じようになったのか」
「そうだ」
「なぜ」
「お前がそう望んだから。お前の血がお前の肉体を変質させたように、お前の肉体がお前の血を変質させた」
「私が望んだ――」
「そうだ、惨めで愚かな孤独者め。なぜ孤高でいられなかった。だからお前は臆病だというのだ。無惨、無惨なこと」

 ナマエは鼻を鳴らすと、倒された壁代の向こうの月を見た。つられてそちらを見、ナマエに視線を戻すも、ナマエの姿は露と消えていた。
 産まれて初めて口にした血肉に狂奔する男の首を落とす。見苦しかったからだ。男は首だけになってもしばらく床の血を舐めていたが、頭蓋を踏み砕くとようやく静かになった。


******


 あれから、人の肉を喰らうよりもその肉体をどう変質せしめるかに行動の重点を置いた。分かったことは、なんらかの開口部に己の血が触れると人間は正気を失い膂力を得ること。変質した肉体には心身への干渉が可能であること。そして、その変容を徐々に高度なものへと練り上げられていること。
 頭を垂れる女の肉体を見下ろす。ざんばらの髪が地面を蛇のようにのたうっている。はじめのうちは理性の欠落した、瘧を起こすよりも賤しく浅ましい振る舞いしか出来ぬ畜生以下しか作ることが出来ずにいたが、その精度は日々向上している。
 だが、少々やりすぎた。都では殿上人が急に獣のようになり人を襲い喰らう病が大流行し、その発生源である悪鬼討伐への気運が業火のように燃え上がっていた。
 多少腕に自信のある者は鬼退治に名乗りを上げ、空を見てばかりの卜筮屋共が悪鬼封じの札を作り配り歩く。宮中では季節外れの追儺が行われ、毎夜毎夜鬼やらいの声が響き渡る。
 一度、戯れに方相氏に血を与えた。鬼を睨めつけるとされる四ツ目で人を襲う様は見物ではあった。
 そろそろ潮時か、と考える。少しばかり殺しすぎた。気にも留められぬような有象無象の下々の者共を使っても良かったが、不潔で病を持ち痩せさらばえた下人に口をつける気にはそうならなかった。それに、どうせ同類にするならば多少は教養のある者の方が好ましい。どうせ畜生同然になり果てるのであっても。

「須磨に行く」

 言うと、屏風の裏からナマエがそろりと横顔を現した。金泥で描かれた瑞雲から現れる様子は、そういう仙女と見まごう程に優婉であった。

「おい、今紫史は何帖まで出ているのであったか」

 ナマエはそう言って頬のあたりに冷ややかな笑みを浮かべた。
 それを黙殺し、先を続ける。

「お前も来るか」
「お前の行くところにならばどこへでも」

 情熱的に聞こえる言葉は、無味乾燥な口振りで吐き出された。日が東から昇るというようなことを言うのと変わらぬ声音であった。

「私の血は、人の儚い体に永久の命と尋常ならざる力を与える」
「そしてお前はそれに怯え続けることになる」

 ナマエの頬にそっと触れる。ひんやりとして滑らかであった。いつまでも触れていられる。いつまでも触れていたかった。
 己の手の平を裂く。ぽたぽたと滴る血が、ナマエの純白の直垂に染みを作る。ナマエはその様子をちらと見ただけで、つまらなそうに目を細めた。

「私と共にあるか」
「私を切り捨てたのはお前の方だ」
「私と共に永久を生きてはくれぬか」
「場合によってはそういうこともあっただろう」

 傷口に唇を当て、己の血を啜る。美味くはないが、悪くもなかった。血を塗ったように赤く艶めくナマエの唇に己の唇を押し当てる。含んだ血が、唾液と混ざり合ってナマエの口内に流れていく。こく、とナマエの喉が上下し、それを飲み込んだ。
 ナマエは目を見開き哄笑する。爛々とした双眸がこちらを睨み付ける。

「良心を凌辱するに至る狂悖を、慚愧と孤独と絶望で贖えよ」

 呆気に取られる己の腕の中で、ナマエの目は落ち窪み、皮膚は水分を失ってかさかさとし、艶やかな黒髪が白に変わっていく。柔らかな体が木の枝のように痩せていく。咄嗟にその体をかき抱くと、手の内でぽきぽきと骨が砕ける気配がした。

「呪われろ、呪われろ、自身を殺し自身に殺される無惨よ。死を待つ生の無為を憎み、死を待つ生の無為に憎まれろ」

 一際高い笑い声が嗄れ、ふつりと途切れる。かき抱いていた体はさらさらと美しい白砂になり、金泥の屏風の上に零れた。
 空の手の内をぼんやりと見下ろした。そこには恰もはじめからそうであったかのように何もない。これが女の望んだ結末であった。そして己の望んだ先行きでもある。
 鬼舞辻無惨はそうして唐突に女が己自身であったことを理解した。




企画「鬼も寝る間に」提出
お題「もう一度キスを」