遠雷遥・陰(獪岳)



 強いことは正しいことだ。少なくとも獪岳の知り得る範囲ではそうであった。強ければ舐められない。強い者は弱い者から奪うことが許される。弱ければ舐められ奪われる。弱いことは惨めだった。強ければ何もかも手に入ると、幼く弱い獪岳は信じていた。信仰といってもよかった。
 雷の呼吸の使い手となり後継者の有力候補と囁かれる獪岳に、手に入らないものが二つあった。壱ノ型とナマエである。
 もとは桑島の門下にあったナマエは修行中の事故で跛足となり最終選別への道を断たれた。桑島は剣士として――特に強烈な踏み込みと神速の初太刀を旨とする雷の呼吸の使い手として、何の役にも立たないナマエを手元に置いた。
 桑島にどのような意図があったものであろうか。己の修行中の不慮の事故での不具に責任を感じたものか、己と同じ側の脚の機能を損ねたナマエを相憐れんだものか、獪岳には分からない。獪岳は桑島もナマエの顔が美しいから愛でているのかと邪推さえした。獪岳はナマエの顔が美しいから、だから好きだった。ああいう女を連れて歩きたいと思った。
 そのかわり性格はあまり良くなかった。男のように本を読み、体も効かぬくせに剣士にもずけずけと物を言う。

「お前は可愛げがない」

 修行あがりにナマエの差し出す手拭いを乱暴に受け取りながら、獪岳はそうぼやいた。ナマエの梔子色の着物の懐には、分厚い綴じ本が捩じ込まれている。それは学のない獪岳には表紙の題字すら読めぬ代物であった。
 ナマエは片眉を上げて何も言わず、他の門下にも手拭いを渡して歩いた。

「口は悪いし、愛想はねえし、口開けてぎゃはぎゃは笑いやがる」

 うるさそうにナマエは獪岳を睨んだ。険のある風の眉根に比べて、目元は面白そうに笑みを滲ませている。

「それでも、この男所帯じゃ十分持て囃される」

 それだけ言うと、ふふんと鼻で笑われた。獪岳は言葉に詰まり、悔し紛れに鼻を鳴らす。

「テメエなんか顔が綺麗なことしか価値がねえんだ」

 最大の侮辱のつもりで言った言葉は、ナマエに笑っていなされた。

「そうかい、ありがとうよ」




 門下の誰より強く、誰より桑島に目をかけられていた獪岳はナマエを独占できた。修行終わりには一番初めに己に手拭いが手渡された。飯をよそうのも桑島に続いて己が二番目であった。ナマエの座るのはいつでも己の隣であった。
 それが覆されたのは泣き虫で鼻水だらけの小汚い餓鬼を桑島が連れて来てからである。名前を我妻善逸といった。

「ああ、ほら、顔をお拭きよ。そんなに泣かないの」

 ナマエの手が善逸の涙でふやけた頬をぬぐうのを獪岳は見ていた。その手拭いはいの一番に己に手渡されていたはずではなかったか。

「うう、ぐすっ、ナマエちゃんは優しい……結婚して……」
「うん、うん、善逸が強くなったら」
「無理だよぉ、俺強くなんかなれないよぉ」

 まためそめそと泣く善逸に、獪岳は聞こえるように鼻を鳴らした。善逸はびくりと震えて肩をすくませる。ナマエは浅く溜息をついて横目で獪岳を睨んだ。
 獪岳はそれを無視して言葉を放つ。

「壱ノ型しか使えねえ出来損ないが、身の程をよくよく弁えている」

 嘲るように言えば、善逸は嗚咽さえ漏らすことなく土で汚れた膝にじっと視線を落とした。惨めったらしい仕草だった。見ているだけで苛々した。

「獪岳、言い過ぎ」

 ナマエは眉をひそめて獪岳を責めた。獪岳はまさかナマエにそんなことを言われるとは思ってもみなかった。頭にカッと血が上り耳鳴りがした。
 善逸に感じていた苛つきとは比べ物にならない怒りが獪岳の中で渦巻く。怒りのままに獪岳はナマエの胸倉を掴み上げた。

「誰に向かって物言ってんだ」
「君だよばかやろう、同門いがみ合ってどうする」

 一本足しか利かぬナマエは獪岳の暴力に足下をよろめかせたが、きりと獪岳を睨みつけた。

「同門? その小便垂れか? それとも片輪の役立たずか?」
「どちらもだよ、たとえ君が私たちをそう思っていなくても」

 獪岳は理由の知れない激情に支配され、足萎えのナマエを突き飛ばした。当然ナマエの体は投げ出され、体を支えられずに地面に叩きつけられそうになる。そのナマエの体を抱き止めたのは善逸であった。

「ナマエちゃん! 大丈夫!?」

 気遣わし気な善逸に、ナマエは眉尻を下げて微笑んだ。ありがとう、と囁くナマエの唇は、やはり腹立たしいほど形良かった。

「何すんだ、獪岳! ナマエちゃんは脚が――!」

 脚が悪い。だからなんだというのだ。相手の弱いところを突くのは常道である。
 獪岳は善逸に支えられるナマエを一瞥すると唇を歪ませた。

「ふうん、そのヘタレが好きなのか」
「――そうだね、我々は仲間だから」
「誤魔化すんじゃねえよ。お前、そいつに惚れてんだな」
「君はそう思うのか」

 獪岳の予想に反してナマエは顔を赤らめるでも激昂するでもなく、まっすぐ獪岳を見つめた。真夏の夜の雷光に似た目だった。獪岳はすいと目を逸らす。
 善逸が本当に箸にも棒にもかからない無能であったら、きっとこれほど焦り惑うことはなかった。獪岳は己の強さと他人からの評価だけがナマエを繋ぎ止めていると信じていた。
 善逸が桑島に目をかけられ、同門にも一目置かれていることを獪岳は妬ましく思っていた。うっすらと、己の捉え得ないところで、善逸の力量を認めていたのかもしれない。そうでなければこの激情の説明がつかなかった。

「強い方強い方になびきやがって、この売女」
「君は信じたいものしか信じないし、君が何を信じようと私はどうだっていいのだけれど、自分の首を絞める信仰なんて捨ててしまえばいいんだ」

 その言葉の意味が、獪岳は昔も今も分からない。それきり、ナマエと言葉を交わすことはなかった。
 鬼と化すまでは。


 獪岳は熱いナマエの体を揺すり上げる。鬼と成り体温を失った獪岳の体は殊更に熱を求めた。生殖を行わない鬼の体は、精は漏らさずとも勃起はした。
 鬼舞辻の血を受け入れた獪岳が、弛んだ理性と撓んだ自我のまま一番最初に行ったのは、ナマエを攫うことだった。桑島の壮絶な最期を見届けていたナマエは、変わり果てた獪岳の姿を見ても泣きもせず怒りもしなかった。
 主を失った桑島の庵で脚を投げ出し縁側に座っていたナマエは、異形と成り果てた獪岳にふと目をやり眉をひそめると「君って奴は、」と言った。それ以外のことはあやふやでおぼろで、よく覚えていない。
 獪岳はナマエを食わず、塒に連れて帰った。しばらくはナマエを塒に転がしたままにしていたが、鬼としての自我が確立し頭がはっきりしたところで気の向くままにナマエを犯した。身の回りの世話をさせようにも、鬼と成った体は食事も必要とせず着物も汚れない。それくらいしかやらせることがなかった。そして所詮それも人間の真似事だった。
 鬼となってからは体に力が漲り、何でも叶う気がした。壱ノ型などもうどうでもよかった。そんなものが無くても強くなったのだから。
 善逸など歯牙にも掛からぬ。だから、自分はナマエを好きなように出来るのだと思った。事実そうした。
 獪岳はナマエをなるべく乱暴に犯した。だがナマエは嫌悪に顔を歪ませるでも恍惚に溺れるのでもなく、ただ淡々と獪岳を相手にした。乱暴に帯を毟られれば諾々と自ら着物を脱ぎ、丁寧に衣紋掛に掛けた。血を流しても声一つ漏らさず、体に傷を残しても何も言わない。冷ややかな目で獪岳を見た。
 冷たい視線に込められていたのは、怒りではなかった。侮蔑でもなかった。それは哀れみであったが、獪岳は鬼となった己がまさかそんな淡くやわい感情を向けられるなど思いもしていなかった。だから分からなかった。

「いずれお前も鬼にしてやる」

 獪岳はナマエの動かぬ脚を撫でる。そうすればこの脚も動くようになるであろうか。
 ナマエは目を剥き歯をかちかちと鳴らし、恐怖で顔を引き攣らせる、と、獪岳は思っていた。ナマエは昼寝を邪魔された猫のようにちらりと獪岳に目を向けただけであった。

「君が寂しいというなら、そうすればいい」

 ナマエはそう言うと、獪岳に背を向けてしまった。さびしい、という言葉の意味がつかえて飲み込めず、獪岳はナマエの大小の爪痕の残る背中をぼんやりと眺めた。

「さびしい?」

 阿呆のように言葉を繰り返し、それからふつふつと怒りが湧き上がる。獪岳はナマエを蹴り転がし上向かせた。細い頸に指をかけ、指先にちょいと力を入れる。それだけでナマエは息を詰まらせ、四肢を強張らせた。悲しいほどに弱く脆かった。

「そんなわけあるか、訂正しろ、訂正しろ、俺は――」

 ナマエの震える指先が、獪岳の血の気を失った頬に触れる。鬼の痣をくすぐるように、頬を撫でられた。
 獪岳は己の指先一つで簡単に肉塊になってしまう脆いナマエにあの雷光のような目で見つめられて、何か思い出しそうになった。何も思い出せなかった。
 ナマエは以前と変わらず可愛げなく唇の端を上げ、獪岳を嘲笑った。

「馬鹿だな君は。でも私はどうしようもない馬鹿な人間の君が、結構好きだったんだ」