遠雷遥・陽(獪岳)



 そもそも鬼殺隊士になろうなどと思う人間はどこか超越した者が多い。何が理由であろうと己の命を賭しても殺したい相手がいる。それも、大勢。まみえたこともない相手を、ただ仇と同種であるというだけで殲滅せんとする。
 生命の保証と安寧を擲つ様は精神的超人といえるかもしれないし、或いはただの狂人だ。
 ナマエもそうありたいとは願っていたはずだが、心のどこかで超えきれていなかっただろうか。心が体に制動をかけたのかもしれない。ナマエの左脚はささいな怪我で動かなくなった。十三で杖の手放せぬ体になった。剣など握るべくもなかった。そうなったナマエに、師である桑島はどこか安堵したような素振りを見せた。
 己が弱いから、きっとすぐに死んでしまうから、不具となり復讐の道を取り上げることができてほっとしたのかとナマエは悔しさに唇を噛んだ。そうではないと知ったのは数年後で、桑島が獪岳という少年を連れてきたときだ。
 獪岳は剣を修められなかったナマエが見てさえ才能があった。家族を鬼に殺されたというのでもなく、復讐に燃えるのでもなく、獪岳の剣は恬として鋭かった。次に来た善逸という少年もそうだった。
 足を引きずりながら二人に手拭いを渡し飯をよそい、裏で泣くナマエの頭を桑島はごつごつとした節くれだった手で撫でた。
 あの二人は鬼に恨みがなく、鬼殺そのものに入れ込まず、だから強かった。そんなものどうにもならなかった。
 獪岳は卑屈で、自己評価が低く、そのくせ歪んだ自己愛を後生大事に抱えていて、およそ剣士に向いた性格とは言い難かった。少なくともナマエにはそう見えた。それでも才に恵まれていることは確かで、その上で桑島は獪岳の剣技と鬼殺との距離の取り方を見込んでいたようにナマエは思う。それも最早、枕に「今となっては」という詞がつくようになってしまった。
 ナマエは獪岳が――嫌いではなかった。性根の捻じ曲がり方はともかくとして、剣に対しては真面目で熱心で真摯だった。



「ナマエ……、ナマエ……」

 庵のどこかに何かが現れる気配がした。低くたどたどしい声で名前が呼ばれるので、ナマエは庭の砂粒に注いでいた視線をふと上げた。
 ナマエが獪岳に拐かされ軟禁されたのは鄙びた庵で、桑島の持っていた庵に少し似ている。裏庭の竹林からうるさいばかりに蝉の鳴く声がし、夜は鈴虫や蟋蟀が鳴いた。それなのに姿を見たことは一度もなく、己の呼吸以外に生き物の気配もしなかった。
 ナマエの手ではどうしてかぴくりとも動かない襖が、敷居に蝋を塗ったばかりのように淀みなく開かれる。
 獪岳は親を見失った子のようないかにも頼りない目つきでぼんやりと室内を見渡した。狭い部屋の中にむっと血のにおいが充満する。
 血だらけの鋭い爪が生え揃った手が、縋るようにナマエの胸元を掴む。梔子色の着物に赤く手型がついた。

「……ナマエ、」
「うん」

 低く答えて獪岳の冷たい背中に腕を回す。ナマエの首筋に血液まじりの唾液がぽつぽつと落ちてきた。 

「ナマエ、ナマエ」

 自我と理性を失った獪岳は、ナマエを喰らいはしなかった。ナマエの前に現れた時点で見境なく肉を食い散らかさない程度にはすでに人間を喰らっていた。化生の者として再構築されつつある自我の中で、獪岳は血より肉よりナマエの中の何かを求めていた。それはおそらく愛情であるとか承認であるとかそういった類のもので、ナマエはそれを獪岳の求めるまま与えてやりたいとは思うのだが、心の底から獪岳のことを思えずにいた。
 それは彼の手酷い裏切りに拠るものでもあり、彼を誰より愛し気にかけた桑島の最期と善逸の顔が脳裏にふと過ぎるからであった。きっとどのような形であれ獪岳が満ち足りることはないであろうことも分かっていた。
 すり、と胸元に頬を寄せられる。ナマエは血でばりばりと固まった獪岳の髪を撫でた。

「ナマエ、」
「……うん」

 獪岳は事あるごとにナマエにつっかかった。ほとんど因縁に近いこともあれば、時には他の奴には絶対に言うなとナマエを睨みながら甘い柿のなる木を教えてくれることもあった。足のきかないナマエを鼻で笑い、するすると柿の木を登る姿を、ナマエは地で杖をつきながら見上げていた。
 黒い着物の裾を翻しながら身軽に木を登る姿を見上げているのが、ナマエは好きだった。
 ぽいぽいと一見乱雑に投げ落とされる柿は、ナマエが足を踏み出さずとも受け取れる位置に寸分違わず落ちてきた。それを片手で受け取りながら、ナマエは樹上の獪岳に「さすが」と言った。
 獪岳は顔をしかめて「馬鹿にしてんのか」と答えた。

「そんなことない」

 笑うナマエの横に獪岳は下りると、ナマエの手から柿をもぎ取った。

「お前は可愛げがない」
「聞き飽きた」

 柿を皮を剥きさえせず齧れば、獪岳は顔を顰めてそう言う。

「小難しい本ばかり読んで、気もきかねえし、柿だって丸のまま食うし、この間は躓いて屑籠を蹴散らしてた」

 獪岳はつらつらといくらでも欠点を並べ立てる。ナマエはふと「こいつ、いつも私のことを見ているんだな」と思った。

「でも、見栄えがするから、鳴柱の嫁御にするためだけにここにいるんだ」

 獪岳はぎらぎらとした目でナマエを睨んだ。それを獪岳は侮蔑の言葉のつもりで口にした。剣も振るえぬ役立たず。いずれの鳴柱の添え物として見栄えするから置かれているにすぎない。お前は真に誰からも愛されていないし、誰からも必要とされていない。己と同じように。
 しかしナマエは桑島にそのような気がないことも、桑島が志半ばに不具となったナマエの行く末を心から案じていることも分かっていた。そのうえで桑島を愛し、感謝もしていた。だから獪岳のその言葉を、いつも獪岳の期待と異なって感じていた。
 ナマエは自身の顔を人並みだと捉えている。それはおおよそ過不足なく客観的事実であり、つまり獪岳がナマエに憎らしさを抱くほどに抗いがたい魔性じみた魅力を感じているのだとしたら、きっとそれは恋と呼ばれるようなものではなかっただろうか。
 ナマエはいかにも腹立たしげに獪岳が「お前は顔だけだ」と言うたびに、おかしくってしかたがなかった。何度「君、それは恋だよ」と言ってやろうと思ったことか。
 でも言えなかった。ナマエは人より本を読み、大人びた考え方は出来たが、それでも獪岳と変わらぬ程度には子供だった。

 ――言ってやればよかった。

 ナマエは獪岳の冷たい背中を優しく撫でる。獪岳は濁った白目に赤い涙を浮かべて、不安に駆られた表情でナマエを見下ろした。ぱくぱくと開いたり閉じたりする唇から、喃語じみたうめき声が漏れた。
 ナマエは雷一門の現状に、獪岳の有様に、ほんの少しの責任を感じてはいた。それはある種傲慢な当事者意識ではあった。
 せめて、言葉が通じるうちに言ってやればよかった。きっと獪岳は顔を真っ赤にして怒り狂っただろう。激昂する獪岳に「私も君が好きだよ」と言ってやればよかった。それは全て叶わぬ夢だけれど。