その人が己の向こうに誰かを見ていることを、ナマエはなんとなく感じていた。恐ろしい、厳しい、冷酷、無情と評される不死川は、確かに一面を取ればそうであったかもしれない。しかしナマエにとっては優しくて頼れる兄貴分であった。
 不死川はナマエに対しては他の者に対してより寛容であった。拾って面倒を見たという愛着があったのかもしれないし、もしかするとナマエの与太郎ぶりにほとほと呆れかえっていたのかもしれない。もっと強くなってしっかりして不死川に頼られる男にならねばという気持ちと、不死川に弟分として可愛がられるのが心地良い気持ちと、ナマエにはそれぞれ半分ずつあった。自分は駄目な隊士だ、とナマエは思う。
 そもそもナマエは最終選別まで鬼を見たことがなかった。故に恨みもなければ怒りもなく、人が人を喰らう化物になることはただ悲しくて恐ろしいと思った。お館様と呼び慕われる産屋敷に恩義があるわけでもなく、ナマエはただ不死川と一緒にいたかった。
 物心つく頃には家族のいなかったナマエには、不死川は兄そのものであった。不死川は路傍の石コロ同然であった己に役目を与えてくれた。女子供や弱い者に向けられたであろう暴力を、鬼を殺し他人を守るために使う方法を教えてくれた。
 ナマエは兄を知らない。家族がいないからだ。だが兄というものは、きっと己にとっての不死川のようなものなのだろう。ナマエは漠然とそう思っていた。
 不死川は自分のことをほとんど語らなかった。だから、ナマエは不死川が誰の幻影を己の影に見ているのか分からない。大切な誰かを亡くしたのだろうか。鬼殺隊にはそういう者が多かった。最初から何も持っていないのはナマエくらいのものであった。
 不死川もきっとそうで、盆と彼岸は不死川邸には線香の香りが満ちた。詳しく聞いたことはない。鬼殺隊の中では、そういったことを聞くのは暗黙のうちに避けられていた。
 ただ、なんとなくナマエはぼんやりと、弟を亡くしたのではないかと思っていた。或いは願望であったのかもしれない。
 誰かの代替であったとしてさえ、ナマエは不死川が自分を弟のように思ってくれるならそれで良かった。
 

 耳元で鎹烏が鳴くのを、ナマエは片手で振り払う。

「かあかあうるせえな、ほーほけきょとでも鳴きやがれ、風情のねえ」

 ぶつぶつ言いながら当たりの気配を探る。肉の腐ったような嫌なにおいがした。暗い空には細い下弦の月が浮いていた。あたりは暗く、視界は悪い。
 どこかで何かが破裂するような音がし、一斉に鳥が羽ばたいて暗い空へと逃げていく。銃声であった。ナマエは眉をひそめる。
 鬼殺隊士ならば扱うのは日輪刀だ。形状には種々あるとはいえ刃物であることには変わらない。ならば猟師でもうろついているのであろうか。猟師と自身が鉢合わせることも、猟師と鬼が鉢合わせることも避けたい。
 風上から火薬のにおいが流れてくる。ナマエは鯉口を切り、日輪刀を抜く。黝の刀身が月の光を吸う。
 息を整え耳を澄ます。この暗闇では目はさして役に立ちそうもなかった。今年の新人隊士には優れて耳のいい者がいたらしい。いや、鼻であったか。そいつが鬼を連れていたとかで、不死川がひどく腹を立てていたことを思い出す。
 そのせいであろうか、新人が入隊してからこちら、不死川の様子がおかしいとナマエは感じていた。しばらく物思いに沈んだかと思えば、無茶な稽古に打ち込む。
 心には掛けていた。だがそれを不死川には悟られたくはない。なぜならきっと不死川は、ナマエに悟られたくないと思っているであろうから。
 ふ、と短く息を吐く。先の方に二つ、生き物の気配があった。一つは鬼で、一つは人だった。身のこなしから人はおそらくは隊士である。ひとまず胸を撫で下ろす。
 隊士は追い詰められているというほどではないが防戦一方で旗色がいいとは言えない。鬼は狂乱の最中にあり、闇雲に隊士の頸を裂き血を啜ろうとしていた。
 好機であると判断し、ナマエは風下から鬼の背後に躍りかかる。間合いは四歩、弾みを付けた大股で、丁度物打ちが鬼の首にかかる――はずであった。振り上げられた鬼の前腕が剣を遮る。
 弧を描いて鬼の腕が飛んでいく。このまま頸まで落とせるか、と背中のあたりに力を込めたが勢いを殺された刃は頸椎で軋んで止まった。
 刀を圧し折られる前に刃を抜き構え直す。こちらを振り向いた鬼の胸を前蹴りして距離を取った。蹴り飛ばされた犬のような声を上げて、鬼は地面に転がる。

「斬れ!」

 ナマエが声を上げると、隊士ははっとしたように一歩前に出た。耳が張り裂けそうな轟音と、目の眩む閃光がナマエの耳目を劈く。ナマエは咄嗟に目を瞑り手で耳を塞いだが、それでもひどい耳鳴りがして頭がくらくらした。
 その手の血鬼術かと鬼のいるであろう方向に目星をつけ、刀を上段に構える。ゆらりと動いた人影に切りかかろうとすると、それが隊士のものであったので慌てて上体を捻って事故を回避する。
 何かに躓いて地面に転げた。頭部を吹き飛ばされた鬼の体であった。今まさにぼろぼろと崩れていくところである。

「あっぶねえ! おいおい怪我ねえか!」

 尻餅をついた痛みに呻きながら隊士に声をかけると、彼は困惑気に答えた。

「……あんたの方が大丈夫かよ」

 うるせえ、と毒づきながらナマエは立ち上がる。隊服に纏わりついた赤黒い灰のようなものを払いながら、隊士に視線をやった。
 見ない顔である。上背はナマエより遥かに高く体格もいい。だが年の頃はせいぜい十五か十六だろう。奇抜に刈り上げた髪をしている。

「いい髪形だな」
「へ?」
「なかなか歌舞いてる」
「……ども」

 その短い返答に、ナマエは高い位置にある頭を平手で殴った。

「あ、り、が、と、う、ご、ざ、い、ま、す! だろうが!」
「あっ、ありがとうございます!」

 わけもわからぬまま反射的に口にする少年に、ナマエは鼻を鳴らす。

「鬼相手に鉄砲を使う奴なんか初めてだ。見ない顔だな。新入りか? 俺は――」

 名乗ろうとすると少年は「知ってます」と答えた。

「ナマエさん、――風柱のところにいた……」

 ナマエは眉をひそめて首を傾げる。記憶を手繰ろうとし、どうせ己の記憶力など破れ鍋ほども役に立たないことに思い至る。

「あ? なんでおめえが実弥さんのこと知ってんのよ。まあいいか、新入りのくせにアニキのことを知ってるたあ心得てる。柱の中でいっとう強くて格好いいのはアニキだぜ、なあ?」

 ナマエがばしばしと広い背中を叩くと、少年は肩を竦めて気まずそうな顔をした。

「ナマエさんは風柱の継子なんですか?」

 痛いところをついてくる。ナマエはむうと唸って言葉を濁す。

「まあ、舎弟みたいなもんだよ」

 はあ、と少年は分かったのか分かっていないのかよく分からない返事をする。
 ナマエはふと少年の顔を見上げた。

「名前も聞いていなかったな」

 そう言うと、少年はどこかあどけなさの残る顔に苦いものを浮かべた。迷うように唇を噛み、まるで何かを恐れているかのようにぽつりぽつりとそれを口にする。

「玄弥です。――不死川玄弥。風柱、不死川実弥は、俺の兄貴です」

 ナマエは決して頭の回転の速い男ではなかった。繊細でもなかった。だが、不幸なことに自分が不死川にとって誰の代替であったのかが分からないほど鈍くも馬鹿でもなかった。