よん
不死川邸には物がない。他の柱の邸がどうであるのかナマエはそう詳しく知らないが、蟲柱の蝶屋敷は傷病人の息遣いが満ち薬のにおいが漂う。恋柱の邸は門前まで砂糖を焦がしたようなにおいがした。炎柱の道場ではいつも気合に満ちた声が響いている。
不死川は先代の風柱が使っていた家屋にそのまま住んでいる。ナマエは先代の風柱に直接面識がないが、田舎風の茅葺の木造家屋は質素で古びているがきちんと手入れがなされていて、なんとなく穏やかで優しい為人を思わせた。
その家の手入れをするのがナマエは好きだった。それは不死川を薄汚れた家で休ませたくないということと、来客があった際に不死川が恥をかかない見栄えにしたいということと、何よりこのあたたかな庵を大切にした先代風柱と、それを受け継ごうとした不死川の意を汲みたいと思ったからだ。
自分の家などなかったナマエは不死川邸を自分の家のように大切にした。拭き掃除の仕方もまともに知らなかったのを、蝶屋敷の少女たちに厳しく指導されながら一つずつ覚えていった。不死川には屋根の葺き替えの方法を教えてもらった。
梁や柱を磨き上げても、塵を払っても、花の一つなど見よう見真似で飾ってみても、家の中はどこか寂しく、何もないような感じがした。
きっとそれはこの家の主にとって一番家に欠かせないものが足りていないからだ。
不死川の姿が見えない。最近は暇さえあれば刀を握っている不死川の姿を探して中庭を覗くが、そこには誰もいなかった。そこには撫で切りにされた青竹だけが転がっている。
中庭の竹林は最近みるみる勢いを失っている。不死川が稽古か手慰みか片端から斬り飛ばしてしまう。放っておけば次々と増えるのでありがたいといえばありがたい。
見慣れた風景に違和を感じて、裸足のまま濡れ縁から中庭に下りた。目の細かい乾いた砂が足の裏に少しだけ貼りつく。小さいが旺盛な竹林に飲み込まれた庭石に寄り掛かるようにして、不死川が寝ていた。
ナマエが近寄ると不死川はふと目蓋を開け、眠たげな半眼でナマエをちらとだけ見るとすぐに顔を背けて目を閉じた。
ナマエは不死川の傍らに屈みこむ。目の上を横切る大きな傷が、笹の葉を透かして青みを帯びた光を受けて白くてらてらと目立っていた。
この傷に憧れて、ナマエは己の身体に傷を付けようとしたことがある。小さな剃刀で頬に傷を付けようとし、薄皮を切って血が滲んだところで恐ろしくなって諦めた。
不死川の胸元に真新しい大きな傷が覗いている。乱雑に縫い合わされただけの傷に指先で触れる。乾いた血が粉になって指先についた。
「実弥さん、こんなとこで寝てちゃ駄目ですよ。それに、傷は胡蝶さんのとこで手当てしてもらわねえと……」
縫い合わされ、引き攣り波打つ皮膚を見ると胸が痛む。どうしてこの人は、こうまで自分を擲ってしまうのだろう。
鬼に引き裂かれた傷はもっと痛々しい。皮膚はずたずたに裂け、糸屑のような肉片が溢れる。それでもナマエには不死川が自ら付けた傷の方が、よほど痛みと熱を帯びて見えた。
薄く鋭い日輪刀で付けた傷ばかりが若く健康な肢体に残り続けているのは、その傷に不死川自身の強い執着が纏わりついているからではないのか。
ナマエは溢れ出る何かを押さえるように、両手を不死川の傷の上に置く。
「なあ、アニキ、俺より先に死なないでくださいね」
不死川も、その弟も、二人はよく似ていた。鬼を殺すために躊躇なく己の身を刻み、鬼の躯を口にする二人は、いくら不死川が拒絶したところで紛うことなく兄弟であった。体に揃いの傷だけを求め、それすら怖気付いた己とは違う。
大きな厚い手に、己の手を払いのけられる。
「バカ言うんじゃねえよ」
それが「死ぬわけない」という意味なのか「そんな約束できるはずがない」という意味なのか、ナマエには分からなかった。追究も出来なかった。
羽虫を振り払うように差し出された手の指先を咄嗟に握る。かさりとした指先は、ナマエの手の内に納まった。薄い皮膚の下に、柔らかく脆弱な肉と稀なる血潮が流れている。どうしようもなく、我々は人間だった。いくら呼吸を極め剣技を磨こうと、その身はあまりにひ弱い。
「頼むよぉ……」
情けない泣き声に似た懇願が口から漏れ、ナマエは鼻を啜った。
どうか己を、玄弥を置いていかないでくれ。不死川が玄弥を拒絶したことを、喜ぶべきであったのかもしれない。不死川の弟分は己のみだと胸を張ればよかったのかもしれない。
ナマエは兄も弟もおらず、兄弟の絆になど欠片も縁がなく、それでも偽物のそれに縋っている。そういうナマエにとって本物の兄弟の絆は、固く尊くあってほしかった。
不死川にとって己は何者であったろうか、とナマエは思う。ナマエは玄弥が不死川に拒絶されたことを知ってから、不死川が己を連れ立ち、玄弥を置いて戦っていたことの意味を、ずっと考えている。