不死川実弥にとってナマエは、出来の悪い弟子以上の意味があった。
 もとは家無しで札付きの悪餓鬼であったナマエである。それを面と向かって殴り倒し、引き摺り回し、それでどういうことか――懐かれた。
 子分にしてくれアニキと呼ばせてくれと拝むようにされ、否とも応とも言っていないのに無理矢理についてきた。何度怒鳴り、邪険にし、蹴っ飛ばしても、飯だ風呂だ露払いだ随伴だと付いて回る。根負けして何も言わずそれを受け入れるようになったのはいつの頃からであっただろうか。
 はじめのうち、少し痛い目を見ればいいという気持ちが露ともなかったと言えば嘘になる。このしつこい男も、呼吸を身に付ける過酷な訓練を受ければ、きっと恐れをなして逃げ出すだろうと思っていた。
 それがずるずると、最終選別で鬼の恐ろしさを目の当たりにすれば、鬼殺の任務に就けば、強い鬼に行き当たれば、と先延ばし先延ばしになって今に至る。
 可愛気のある男である。顔いっぱいに喜びを滲ませて笑い、悲しいときは人目も憚らずにおいおいと泣いた。まるで子供のように表情が豊かで、それは幼くして生き別れたたった一人の弟を不死川に思わせた。
 ナマエが年齢をひとつ、またひとつ、と数えるのを見て、どこかで幸せに生きている弟もこうであるだろうかとぼんやり思った。
 実際に玄弥と再会したときに、その表情に滲む焦燥と悲愴と痛みを見て、不死川ははっきりと「こんなはずではなかった」と思った。
 玄弥を突き放し、寂しい思いをさせ、離れた身を案じ、そうまでしたのは玄弥にそんな顔をさせたくなかったからではなかったか。不死川に出来るのは、今までと変わらず弟を遠ざけ続けることだけだった。鬼から。不幸から。己から。
 それが正しいかなど、もう分からない。だが己にはそうするしかなかった。

「実弥さん、俺、実弥さんに付いてきてよかった」

 小さな菜園の茄子を収穫しながら、ナマエはぽつりと呟いた。頭に巻いた手拭いの下、日に焼けた肌を玉の汗が流れていく。目が筆でちょいと描いた線のようになるまで笑って、ナマエは不死川を見上げる。不死川は冷茶を口に含みながら縁側に腰掛けてそれを見下ろした。

「なんだよ、藪から棒に」
「へへ、なんとなく」
「気味が悪ィな」

 笊に放り込まれた茄子が縁側に置かれる。濃い紫に艶めく茄子を見て、不死川は鼻を鳴らした。

「天ぷらだな」

 と、不死川が言うと、ナマエは「味噌汁にしようと思ってたんすけど」と不平を溢した。

「茄子は天ぷらだろ」
「煮びたしじゃ駄目っすかね」

 だめだ、と短く答えると、ナマエは露骨に面倒くさそうな顔をする。不死川はその鼻を指で摘まみ上げる。ふが、とナマエは短く滑稽な呼吸をした。

「テメエはあからさまに厭そうな顔をしやがって」
「だって、てんぷら、あとかたづけが、たいへんなんすよ」

 ふがふが言いながらナマエは素直すぎるほど素直にそう答えた。不死川は鼻を摘まんでいた手を離す。いてえ、とナマエは赤くなった鼻をさすった。

「剣士なら表情を偽るくらいしろォ」
「だって実弥さんが泣きも怒りもしないから、俺がかわりに泣いたり怒ったりするんですよ」
「屁理屈ばかりこねやがる」

 鼻先を指ではじくと、ナマエは大袈裟に鼻を押さえて呻いた。
 涙の滲んだ目が、ふと不死川を見た。

「ねえ、実弥さん、お願いがあるんです」

 珍しくかしこまった様子でナマエは言う。語尾が震えて、茄子の灰汁で汚れた指先がふわふわと宙を彷徨っていた。頭から手拭いを外し、それを所在なさげに抓んだり絞ったりしている。

「――なんだよ」

 いい予感はしなかった。ナマエがそういう物言いをするのは、たいていがもうどうにもならない話ばかりであった。

「俺が、――俺が口出すような話じゃねえって分かってます。俺のこと、殴ってもいいし、どこかに放りだしてもいい。だから、後生ですから、ひとつだけ……」
「さっさと言え、まどろっこしい」

 青褪めた顔が、不死川を見上げる。再会した時の玄弥の顔が幻影のように重なって見えた。

「玄弥と――弟さんと、どうか話してやってくれませんか」

 そう頭を下げるナマエは、もうぼろぼろと泣いていた。

「ああ? テメエにゃ関係ねえだろうが」

 顔を背けて吐き捨てる。ナマエは洟をすすり上げ、顔を何度も擦りながらさらに深く頭を下げる。膝に鼻面が付きそうなほど、体を折り曲げていた。

「頼むよ、頼む、この通りだから――」
「テメエの軽い頭に何の価値があんだよ、勘違いも大概にしろ」
「実弥さん……」
「俺に弟はいねえ」
「実弥さん、頼むから……」
「出来の悪い弟分で手いっぱいだ」
「違う、そうじゃない、そうじゃないんです。……おれは、おれは」

 不死川はナマエの胸倉を掴み上げる。ナマエは息を詰まらせ、それでも不死川をきっと睨んだ。後から後から溢れる涙で濡れて揺らめく目の玉に、己の姿が映っていた。

「テメエにゃ分からねえだろ」

 低く唸ると、ナマエはひどく傷付いたような顔をし、それから凍えたように笑った。

「分かりませんよ。俺には兄弟いねえから。だから、玄弥に――」

 その先は嗚咽で聞こえなくなる。他人の事でよくもまるで自分事のように泣けるものだ、と不死川はふと冷静にそう思った。

「泣くんじゃねえよォ、いい大人が。みっともねえったら」

 不死川が言うと、ナマエはスミマセンと湿った袖に向かって何度も呟く。

「今度、一緒に任務を終えたら連れてこい。話すとは決めてねえ、話したとしてもテメエの望むような御伽噺みたいな展開にはならねえ」

 それでもいいか、と言うと、ナマエは目を丸くし、それから何度もぺこぺこと頭を下げた。雨の晴れ間のように笑っている。
 己はぬるい男である。顔を見合わせれば情がわく。言葉を交わせばきっと絆されてしまう。
 不死川はナマエを鬼殺に引き込んだことを後悔していた。いつの間にかナマエに死んでほしくないと願うようになっていた。