おわり



 死はもっと劇的なのだと夢想していた。走馬灯が駆け巡り、大切な人の顔を思い浮かべ、そして己は己の死を受け入れて、誰かに静かに辞世の言葉を述べる。
 実際のところ、死には何の装飾も施されていなかった。荒巻鮭のようにぱっくりと開いた己の胸を見下ろし、反射的に呼吸で血流を絞ろうとし、吸った息がぶくぶくと胸の穴から漏れ出したのを見て「あ、」と思った。それだけだった。
 誰かを、何かを思い出すことさえなかった。瞬く間に体中から力が抜け、頭がぼんやりした。焼けつくような痛みと、ぶるぶると震える手足と、意思に反して不様に痙攣し跳ねる体と、それしかなかった。死にたくない、と必死に縋った手は、ただ土を掴むだけだった。
 言いたいことがたくさんあった。生き延びろ、兄と話せ、短い付き合いだがおまえのことは好きだった、それら全てが血の泡にしかならなかった。痺れた唇は上手く動かなかった。
 上等とは言えぬ人生であった。それでも少しはマシだった。半端者の己は、生まれは選べずとも死に方は選べた。泣くなよと奇抜なあたまに手を置こうとする自分の腕がおもくて持ちあがらないそんな顔をするなよおまえのあにがしたようにおまえがしたように望んでそうしたのだからどうかおれのいのちをむだにしてくれるなよきょうだいがわかたれたままだなんてそんなかなし



 不死川玄弥は指示された土地でナマエの姿を見て「またあんたかよ」と小さく溢した。ナマエは鼻を鳴らして「うるせえ」と高い位置にある玄弥の頭を小突き、笑った。
 腰に提げた日輪刀の鍔が音を立てる。玄弥はそれを羨望の入り混じった目で一瞬だけ見た。
 陽気で剽軽な持ち主に反して端正で沈着な黝の刀身が玄弥は好きだった。限りなく黒に近い刀身は誰かに「出世できない」と揶揄されることもあったが、それにナマエはけらけらと笑って「アニキより出世するわけにいくめえ」と応じた。
 鬼殺の任務は全容の知れないことがほとんどである。ぽつりぽつりと人間がいなくなるので、様子を見に新人を行かせたところ強大な鬼が巣食っていた、ということがままある。その逆もある。
 たとえ相手が下位の弱い鬼であろうと、それでも人間よりは遥かに強いことは確かだ。呼吸を修め日輪刀を携えた剣士であっても、油断と慢心がなくとも、時にあっさりと命を奪われる。
 それを――それを玄弥は忘れていた。忘れていたわけではない。だが、なんとなく身に染みていなかった。それは鬼殺の任務について半年ほど経った慣れのせいかも知れず、ただびとより丈夫な己の特異体質のためかも知れない。
 腕や脚の一本や二本、飛んだところで支障がない。鬼の体を喰らえば傷は癒える。その慢心が、己に一欠片もなかったと、胸を張っては答えられない。
 鬼の痕跡を探して肩を並べている間に、ナマエは思い出したように「玄弥、死ぬなよ」と言った。どうしたのだろうと思ってナマエの顔を見ると、ナマエも不思議そうな顔をして玄弥を見返した。

「あ、ああ? なんだろうな、死なない方がいいのは、いつもの話だもんな」
「なんだよ、びっくりした」
「びっくりすんな。だいたいオメエは能力に頼り過ぎなんだ、あちこちザクザクやられやがって。肝を冷やすこっちの身にもなれ」

 ナマエが説教じみた口振りになるので、玄弥は足取りを早めた。町外れの廃寺の周辺で失踪や変死が相次いでいる。鬼の仕業だと目され、二人が派遣された。
 丸く大きな月が空にぽかりと浮いていた。夜だというのに互いの顔がはっきりと見えた。ナマエは廃寺に近付くにつれ、神妙な顔付きになっていく。そういうところは、剽軽な男とはいえ、やはり鬼殺隊士なのだと思わされる。
 日に焼けた首筋に伸びかけの髪がかかっているのを、玄弥はちらと見た。

「髪、切ったほうがいいんじゃねえの」
「あ、おまえみたいな髪にするかな」
「やめろよ」

 揃いだなんて嫌だ。玄弥が言うと、ナマエは前を見たままふと笑った。

「この任務の後に、おまえに来てほしいんだ」
「どこにだよ?」

 ナマエは珍しく真面目くさった顔で玄弥の方に目を向け――愛嬌のある細い目を殺気立たせて見開いた。
 玄弥の視界の隅に青白い爪がぬらぬらと光る。とっさに腕で首を庇うが、己の前腕が月の光を浴びながら弧を描いて飛んでいく。頚と青白い爪の間に、黝の刃がこじるように捩じ込まれた。玄弥の頬が裂け、血が首に落ちてくる。それが鬼の爪のためであったのか、ナマエの刀のためであったのか、玄弥には捉えることが出来なかった。
 空間を裂くように現れた鬼の鋭い爪を、ナマエが刀の先で引っ掛け反らす。二の太刀を放つ前に、ナマエの胸を鬼の爪が裂いた。豆腐を崩すより呆気なかった。ナマエの胸から血が溢れ、ナマエの体は地面で土と血にまみれて痙攣する。焦点の合わぬ目が、ずるりと鬼の方を見た。
 玄弥はその視線を追い、暖簾を分けるように現れた鬼の頭部に銃口を向けた。引き金を引くと轟音とともに腕全体が痺れた。こちらもまた呆気なく頚を吹き飛ばされた鬼が、地面に転げ切り株のような頚からぼろぼろと崩れていく。
 玄弥は這うようにナマエの体に近寄る。土に汚れた頬に一筋涙の跡があった。光を失った目が一瞬だけ玄弥を見た気がした。噴き出した血が大きく丸く地面を濃い色にしていた。月の影のようだった。

「――ナマエさん、」

 血の巡らぬ手を握る。まだあたたかいのに、ぴくりとも動かなかった。力無い手がするりと玄弥の手を滑り落ちる。
 何の根拠もなくナマエは死なないと思っていた。明るく、剽軽で、ばかで、愛嬌のあるこの男が、こんな簡単に此岸との絆を切られてしまうのだと、玄弥は知らなかった。
 そして玄弥は、兄があれほど己を邪険にする理由がうっすらと分かったような気がした。だがそれはただ悲しみと怒りと無力感に押しつぶされて、輪郭を捉える前に心のどこかに行ってしまった。


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 ふできな でしで ござリました さいごまで 実弥サンには ごめいわく かけました でしょうか
 わたしは 鬼がこわくつて わたしは あまりによわいのだから いつも 実弥サンには あきれられて おリました
 しぬならば あにと あヲぐ 実弥サンを おまもりシて そうだって ほしい とおもいまする
 わたしが ねカうこと は それきりてす
 それきり かなえば わたしは ぢゆうぶんてす

 どうか げんやを ゆるしてやって くたされ あにと おとウと と なかよくして くたされ


 鬼殺隊士は誰もが遺書を遺す。それは字の読み書きが不得手なナマエも例外ではなかった。筆圧の一定しないがたがたの字が、傾いたりねじ曲がったりしながら、それでも懸命に綴られている。最後の一行だけが、後から書き足されていた。急いで走り書きされたそのたどたどしい字を、ナマエはいったいどういう思いで書いたものであろうか。
 不死川は真新しい墓石に小さな握り飯が供えられているのを見下ろした。己より先にナマエの死を知り、先に墓参りに来た者がいたようであった。誰かは予想がついた。
 不死川は墓の前に膝をつき、ひんやりとした墓石の表面に手の平を置く。

「さいごまでばかなやつ」

 ただ一言そう呟く。涙は出なかった。訃報が届いたとき、またか、と思った。
 幾多の仲間を失ってきた。ナマエだけを失わない道理はなかった。分かっていても、胸のあたりがむかむかした。ナマエを鬼殺に引き込んだのは己だった。さっさと尻でも蹴飛ばしてどこへでも追い出せばよかった。
 不死川は両手で顔を覆う。ふう、と短く息を吐く。
 ナマエの願いは、叶えてやれそうになかった。