LA MORT(煉獄千寿郎)



 あれほど大柄で力強く頼もしかった体が、ナマエの膝の上に乗る白い壺に納まってしまった。今は地の下でひんやりと眠っている。

 煉獄杏寿郎討死の報せを受けたのは、妻である煉獄ナマエであった。ナマエはそのあとのことをよく覚えていない。己は何を感じていたのか、何を思って葬儀を手配しただろう。
 杏寿郎の訃報を受けくだらぬと一蹴しながら酒量の増えた義父と、いまだ幼い義弟と、膨れた腹を抱えて、ナマエは昼も夜もなく奔走した。
 杏寿郎はまさしく柱であった。鬼殺隊にあっても、家にあっても。杏寿郎という柱を失った煉獄家には寒風が吹き抜けていく。
 ナマエははち切れそうな腹に手を置き、小さく細く息をつく。もとより多忙で不在がちな夫であった。だが、その姿が、張りのある大音声が、溌剌とした笑顔が、もうこの世のどこにもないのだと思うと半身を失ったようである。赤子が詰まっているはずの身の内がすうすうとした。
 縁側に腰掛け、手入れの行き届かない中庭を眺める。
 産まれてこなければいいのに、とナマエは腹をさする。杏寿郎を失ったナマエの内から赤子まで排出されたら、中身がぐずぐずで立っていられないような気がした。

「ナマエさん、ごめんなさい、僕、何も手助けが出来ずに……」

 いつの間にか背後にいた千寿郎が消え入りそうな声で言った。ナマエは千寿郎を招き寄せ、杏寿郎によく似た硬い髪を撫でる。

「いいの、いいのよ、人にはそれぞれ領分があるのだから。あなたは心から杏寿郎さんの死を悲しんでくれればそれでいいの」

 きっと杏寿郎さんも報われる、とナマエは微笑んだ。千寿郎は涙を溜めた大きな瞳をナマエに向ける。

「でも、ナマエさんは――」

 頼りなく途切れた言葉が背中に投げかけられる。ナマエは膝を見つめた。

「覚悟はしていたのよ」

 祝言の日に、この人は長生きの出来ぬ人だと思った。
 鬼と人との圧倒的な彼我の力の差に、一粒の怖気も見せない人であった。きっと彼は誰かを盾に狡辛く生き延びることなど思いもつかない男だった。炎の呼吸の正当な後継でそして強力な使い手である杏寿郎は、時には仲間の命でもって己の心身と技を贖うことを要求されたかもしれない。彼はそれを潔しとしなかった。きっと彼は己の成すべきことを全うし、生を全うできないのだとうっすらと予感があった。それは現実になった。
 ナマエの父も、兄も、そうして死んでいった。鬼殺の家に産まれた者の宿命なのだ。ナマエは心身薄弱ゆえにそれを免れた。それでも並みの隊士と同じように柱の露払いは出来たであろうか。だがナマエに流れる血にはそれ以上の価値があった。それだけのことだった。
 この子はどうだろう。まだ見ぬ愛し子、父親の顔も知らぬ哀れな子。どうか父に似ないではくれないか。剣の才などなくていい、勇猛果敢でなくていい。ただ、健やかで、心優しく、幸福でさえあればいい。それが何より難しいと知って尚、願わずにいられない。

「ナマエさん」

 ぽつり、と千寿郎が呟く。畳の目に染み込んで消えそうな声だった。

「僕は弱くて、兄上の敵討ちなんて出来ません」
「やめて、そんなことを考えないで」

 これ以上、家族が欠けることには耐えられない。

「でも、僕は兄上を大切に思っていました。誰より強く、優しく、尊敬する兄でした」
「それは杏寿郎さんも心から痛感していることでしょう」
「兄上を敬愛しておりました。敬愛する兄上が誰より愛したナマエさんも、僕は大切に思っておりました」

 千寿郎のいまだ幼さの残る声が大人びて震えた。彼の声変りが始まったのはいつの頃であったろう。千寿郎は裸足のまま庭に下りるとナマエの足下に膝をついた。

「四十九日も空けたばかりで、何を言うかと思われるかもしれません。でも、どうしても、ナマエさんがどこかへ行ってしまう前に、お願いしたいことがありました」
「千寿郎……」
「ナマエさん、どうか私と夫婦になってはいただけませぬでしょうか」
「千寿郎、何を……」
「私には力がない。兄の仇を討つことも、あなたの憂いを拭うことも出来ない。ですがどうか、お願いだから、兄上の大切なナマエさんを、私に大切にさせていただけませんでしょうか」
「やめて、そんな――」

 そんなことを。
 きっと彼は罪悪感と焦燥感と義務感でそれを言っているに過ぎない。気持ちは痛いほどに分かった。彼も己も出来損ないだった。それが鬼殺の家でどれほどの苦渋を伴うものか、余所の者には分かるまい。
 剣に秀で、勇猛な者から順に死んでいく。鬼殺とは濁流に人で橋をかけるようなものだ。いくら優秀な剣士であっても、そのほとんどは彼岸に触れることさえ叶わず流されていく。それを指をくわえてみている事しか出来ない者の懊悩は、そうなった者にしか分からない。

「義父上にそうするよう命じられましたか」
「いいえ、違います。父には――私からお願いしました」
「義父上はなんと」
「好きにしろ、と」

 そうですか、とナマエは千寿郎の旋毛を眺めた。どうして馬鹿なことを言うなと諫めてくれなかったのだろう。
 煉獄家と、己と、己の実家と、鬼殺のことを思えば、最善の手は産まれた子を槇寿郎の養子とし、ナマエは他の家に再嫁することだ。周囲はすぐにでもそう動くだろう。千寿郎は長じれば相応しい娘と結婚し、或いは杏寿郎の子を養育することになるかもしれない。

「ばかなことを言わないで。あなたがそこまで何もかもを背負うことはないでしょう」
「本気で言っています。本気です、私は――」
「それ以上は――」
「あなたが煉獄以外を名乗るなんて、私には耐えられないのです。私のことを好いてくれなくていい、ナマエさんの夫は兄上一人でいい。どうか、私からこれ以上一人も家族を奪わないでほしいのです」

 ひゅう、とナマエは引き攣る息を吐く。

「今は千寿郎が嫡男よ。義父上が判断をあなたに任せた以上、あなたがそれを望めば私に断る術はないの。それでも、そんなことを言うの?」
「無理強いはしたくありません。私は、ナマエさんに幸せになってほしい。あなたは幸せにならなければいけない人だ」

 訃報から一度も泣いていない双眸からつるつると涙が零れ落ちる。喜びのためか、悲しみのためか、幼い千寿郎にそこまで言わせてしまった不甲斐なさゆえか、分からない。もしかすると淡い恐怖かも知れなかった。
 千寿郎はナマエの手を両手でまるで壊れ物のように握ると、己の口元に押し当てた。

「約束させてください、私があなたを幸せにします。兄上の分まで」

 震える吐息が手の甲にかかった。瞼が引き攣り、胸が痛む。彼の決意にかけてやる言葉が、ナマエの内からはどうしても出て来なかった。





企画「鬼も寝る間に」提出
お題「約束のキス」